若木焦心



太陽が山にかかると沈むのは早い。
が、完全にその姿を隠しても空は橙色で染められている。
障子を開け放した剣路の部屋も同じ色に侵食されていた。
子供のときは両親と川の字になって寝ていたものだが、さすがに十二にもなればそんなことはしない。
十を過ぎた頃からなんとなく両親と一緒ということに疑問を抱き、「一人で寝る」と言い出した頃から、自分の部屋も出来た。
畳の上にごろりと寝転ぶ。

剣路の脳裏に、先ほど見た母親の戸惑う顔が浮かんだ。




















幼い頃から母の匂いが好きだった。
稽古後に風呂に入ったこともあり、そばにいるだけで湯上り後の匂いをより強く感じることが出来る。
そのせいもあって普段ならさっさと自室にこもるところだが、今日の剣路は母親と一緒いたいがために居間に留まり洗濯物をたたんでいた。
そんな理由とは露ほどにも思っていない薫は、率先して手伝う息子を珍しいと思うだけだ。
それを口に出さないのは、言えば途端に不機嫌になることを知っていたからだ。

最近の剣路はたまに扱いにくいときがある。

子供の頃は薫の言うことなら大概のことは素直に聞いてくれたし、目が合うとかわいらしく笑い返してくれた。
だが、今の剣路は目が合っても先に逸らすし、共に笑い合うこともなくなった。
口の悪い兄弟子の影響かしらね、と一番弟子の顔を思い浮かべるくらいで、それ以上のことは考えなかった。
黙々と作業を進めている剣路を盗み見て、薫は「あ」と声を上げた。
剣路が顔を上げて、目だけで問いかける。



「思い出した。ちょうどあんたの着物が出来たものだから・・・」
出稽古先の息子さんのお下がりなんだけど、と言われてもあまり気にはならなかった。
物心ついてから誰かのお下がりを仕立て直したものを着るのは当たり前のことだった。
新しいものを泣いて欲しがるような年ではないし、それに段々と我が家の経済状況も分かってきていた。



だが、薫の手にした着物を目にした瞬間、剣路の顔が思い切りしかめられた。
「ほら、ちょっと袖に手を通してみなさいよ」
母親の笑顔を見るのは嬉しかったはずなのに、今はただの無神経であるとしか思えない。

「・・・何だよその着物の柄。俺にそれを着ろっていうの?」
「柄?」

きょとんとして薫も着物を見直してみる。
若葉色の布地の上には、愛嬌のある蛙が散りばめられていた。
特に目立った染みがあるわけでもなく、逆に状態はいいくらいだ。
「別におかしくないでしょ?色だっていいし柄だってかわいいじゃない」
「あのさ、男が『柄がかわいい』着物をもらって嬉しいと思う?」
「だってあんた、こういう生き物の好きでしょ」
確かに昔は好んでいた柄だ。
だが、今は違う。

「それは子供のときの話だろ?今こんなの着たら笑われるし」

少なくとも友人の中で生き物の柄のものを着ている者はいない。
剣路とて、こんな子供っぽく見えるような着物はごめんだ。
いつまでも子ども扱いする母親に腹が立ち、次第に声が刺々しくなる。
だがここで怒ってもただの八つ当たりだ。
そう思ってこらえていたのに、次の提案に我慢も吹っ飛んだ。



「あら、柄がなければいいの?それならお父さんの無地の着物を直せば着られるわよ」
「クソ親父のお下がりは絶対嫌だ!!!」
「んまっ、自分の父親に向かってなんてこと言うの!!」



即答した声は怒鳴り声に近く、それに呼応するかのように薫もすぐさま眉を吊り上げた。
「じゃあどうしたいの?あれも嫌、これも嫌じゃあんたの着物なんて何も用意できないじゃない」
「別に頼んだわけじゃないっ」
言ってから怒らせたかも、と危機感を感じたがもう遅い。
案の定、青筋を立てた母親から雷が落ちた。
「生意気言ってるんじゃないわよ!そういうことは大人になってから言いなさいッ」

師範という立場から稽古中は滅多にお目にかかれないが、もともと頭に血が上りやすい性質だ。
一度怒り出すと鎮火させるのは難しい。

しかし剣路も黙っていない。
「いつまでも子供扱いすんなよな!」
言われたら言い返す直情的なところは母親からの遺伝らしい。
頭ごなしに怒鳴られ、剣路の怒りは沸点に達した。
「俺のことなんて分かってないくせにッ」
「え?あんた、何言ってるの?」



困惑した表情を見て、一気に後悔が押し寄せた。



「もういい!」
居たたまれなくなった。
自分の洗濯物を引っつかむと、逃げるように居間を出て行った。
障子は庭に対して開け放してある。
そのまま縁側に出ると大股で歩き出した。
「待ちなさい!まだ話は終わってないわよ!」
薫の声が追いかけてくるが、実際に剣路を追いかけてくる気配はない。
それを背中に聞きながら、何も答えず縁側に沿って自室に向かう。
「何だよ、くそっ」
母親に対してだけではなく、自分自身に対しても苛々が募る。
着物のことは確かに頭にきたが、それ以上のことを言うつもりはなかった。










『ありがとう母さん。だけどれからは別の柄にしてもらっていいかな?友達も着てないし、俺もちょっと恥ずかしくなっちゃって』










最初からそう言えばよかったのに、あの時は分かってくれない薫に怒りしか湧いて来なかった。
忙しい中剣路のために仕立て直してくれたのに、感謝するどころか自分の苛立ちをぶちまけてしまった。
ぶちまけてすっきりしたかと言われればその逆で、今度は自己嫌悪も加わった。

     最悪だ。

剣路は自室に入ると洗濯物を投げつけ、スパンッと障子を締め切った。




















「待ちなさい!まだ話は終わってないわよ!」
すぐ後を追おうとする薫を押さえるように、肩に手を置かれた。
反射的に振り向くと、台所にいるはずの夫がすぐ後ろにいた。
「剣心、いつの間に     
気配を消して近づくことが容易に出来る人だと分かっているが、やはり驚く。
そんな薫に剣心は首を横に振り、
「今は行かぬほうがよい。剣路も薫殿とは顔を合わせづらいだろうし」
「それって・・・私、剣路に嫌われちゃったってこと?」

薫の顔が情けなく歪んだ。
剣心は苦笑しながらも補足する。

「剣路が薫殿を嫌うはずがござらんよ。あれはずっと薫殿の後にくっついていたゆえ」
「じゃあなんで今行っちゃいけないの?私、まだあの子の話を全部聞いていないわ」
「薫殿が話を聞きたいように、ちゃんと話をしたいのは剣路とて同じこと。だが、今の剣路には時間が必要でござる」
剣心の言葉に眉をひそめる。
「話をしたいけど、時間が必要って・・・一体どういうこと?」
薫に気づかれないようある一点を見つめると、障子が僅かに開いている部屋があった。
そこが誰の部屋かは言うまでもなく。



「まだ剣路には言うべき言葉を見つけてもそれをすぐ口には出来ぬのであろうよ。己の気持ちを正直に伝えることが出来、なおかつ薫殿にも理解してもらうような言葉が胸のうちにあっても感情が先走りして逆のことを言ってしまう」



よく通る父の声は、部屋にこもっている剣路の耳にもしっかりと届いた。
(親父は絶対母さんの味方につくと思ったのに)
だが剣路のことも分かってくれている。
顔を合わせればとことん無視するか憎まれ口を叩くかのどちらかなのに、そんな息子のことを見守っていてくれたのだ。
「薫殿も言いたいことがあるのは分かる。だが剣路は今、子供から大人になろうとしてもがいている     拙者らに出来るのは、剣路を信じて見守ることでござるよ」

あれもちゃんと成長しているのだ、と。
毛嫌いしていた父親から認められたのが、自分でも意外なほど嬉しかった。

「大人になっちゃうのね、剣路も」
夫の話を聞くうちに薫も落ち着いてきたようだ。
ぽつりと呟く声には寂しさが滲んでいた。
「あーあ、昔はかわいかったのにな〜。いつだって『お母さん、お母さん』ってまとわりついてきて」
「拙者が近づくといつも嫌そうな顔をするのは昔も今も同じでござるが」
だが、と付け加える。
「これから先も、拙者らの子であることには変わらぬよ」



そう言って剣心と薫は、剣路がいるであろう部屋を見つめた。
そこから自分の姿は見えるはずもないが、なんとなく見られている気がして気恥ずかしくなった。



そっか、と何かを吹っ切るように前を向く薫の表情は明るい。
「剣路が大人になるのは寂しいけど、悪いことばかりじゃないかもしれないわ」
「おろ?それは何ゆえ」
「だってその分剣心と一緒の時間が多くなるってことでしょ?」
剣心に向けられた笑顔が眩しい。
妻の笑みに応えるように、剣心もまた口元を綻ばせた。
「はは、確かにそうでござるな」
「だから明日は二人で出かけましょうか」

『二人で』という単語に、忘れかけていた苛立ちが剣路の胸に蘇ってきた。
むくりと起き上がり、ぴたりと障子のそばに張り付く。

「それはいい考えでござるな」
心なしか高くなった父親の声も神経を逆撫でする。
子供のままなら「一緒に行きたい」と素直に言い出せるのに、と大人の階段を上り始めた己自身を恨み、父親に対しては敵対心がより強くなった。
「ちょうど新しく出来た甘味処に行ってみたかったのよね〜。あ、小物屋なんかも覗いてみたいわ。ついでに買い物も済ませたいから、味噌と醤油とお塩も買っていかないと」

嬉しそうに次々と希望を並べているが、そのどれもが剣路にとっては嬉しくないものばかりだ。
さすがにこれは諌めろよ、と心の中で呟くが。

「おお、では明日は朝から出かけたほうがよいでござるな」
男には居心地の悪い小物屋で延々付き合わされることや、重い荷物を担ぐことも全く意にも介さない。
むしろ、薫と二人でいることが重要であって、それ以外のことは例え苦痛なことでも全く気にしないのか。










ああどこまで自分の嫁に甘々なんだ、この親父は。
せめて味噌と醤油と塩はまとめ買いするなくらい言えないのか。










先ほどは少し父親を見直しかけた自分を記憶から抹消した。
(俺は親父みたいな甘々な大人には絶っっっ対ならないからな!)
心の中で固く己に誓う。
『あんな無邪気すぎる母親のような嫁はもらわない』と考えない辺りが、すでに父親の甘さを引き継いでいると思われるが、本人に自覚は全くないようだ。
剣路がその事実に気づくのはあと十年先・・・いや、一生気づかないかもしれない。






【終】

感謝処



朱華(はねず)様よりキリリクいただきました!

ちょうど反抗期まっさかりの息子さんがいらっしゃる朱華様からのリクエストは「思春期の剣路から見た剣薫」。
思春期という難しい年頃のせいか、剣路がなかなか動いてくれなくて・・・
なおかつ、σ(^◇^;)にはそんな年頃の息子はいないのでどんなもんかさっぱり分からないんですよね。
そこで思春期息子の成長過程を見てきたカテキン王国の某お方に泣きつき、どうにかイメージを膨らませることができました。
これで書ける!と安堵したのも束の間、剣路視点の剣薫というよりは「思春期の剣路」を書いた部分が多すぎることに気付くorz
そんなリク内容から外れてしまった駄文ですが、朱華様から「手直しなんて、全くもって無いです!!!」というやさしいお言葉をいただきましたので、無事UPの運びとなりました。

なおタイトルの「若木」は剣路をたとえてあります。
成木になる前の若木(剣路)が、悩み、焦り、もがいていく・・・というイメージ。
じゃあ「剣路焦心」でもいいじゃんと思われるかもしれませんが、そこはホラ、σ(^◇^;)の書くものだから(笑)



朱華様、二十二万打申告&リクエストいただき、ありがとうございました!