晩夏光 (ばんかこう)



暑い、というのが燕の感想だった。
手拭いを取り出し、額に浮かんだ汗を拭う。
この動作も京都に着いてから何度となく繰り返したことだった。
しかし、目の前に広がる鴨川は穏やかに流れ行き、その流れにたゆたう一片の緑の葉が涼しげな風情を生み出す。
この地では体だけでなく、心をも涼しくさせるようにしているのだろうか。



「燕ちゃん、疲れてない?東京とはまた違う暑さだからこたえるでしょ?」



隣にいる薫が心配そうに声をかけると、燕は首を横に振って、
「大丈夫です。確かに暑いけど、京都の風景を見ているうちにそんなこと忘れちゃいますから」
燕の答えにそう、と微笑んだ。
そして、視線を戻した先には川の浅瀬で戯れる剣路と弥彦。
さすがに小さい剣路にはまだ京都の風情と言うものが理解できないのかもしれない。










あまりに暑がる剣路を川に誘い、水遊びをさせているのは弥彦だ。
そして、剣心は岸辺で二人が水遊びに興じる様子をやさしい微笑をたたえながら見守っていた。










燕と薫は少し離れた日陰で座り込んでいる。
剣路がちらと母親の方を見れば、薫も小さく手を振って応える。
そうするとにっこり笑って、また弥彦と川の涼を楽しんでいた。

さっきから何度同じことを繰り返したのか。

その様子を見ていた燕の頬が知らずに緩んだ。
「剣路くん、やっぱりお母さんのことが気になるんですね」
「何かに夢中になっていれば大丈夫かと思ってちょっとそばを離れるとすぐ泣き出すのよ。『かーちゃ、どこ〜?』って」
困ったように言いながらも、視線は息子から外されることはない。
「そういえば、さっきのお宅でも剣路と同じくらいの男の子がいたわね」










さっきのお宅、というのはこの川原に来る前に立ち寄った燕の親戚の家だ。
今回、京都にいる燕の親戚から「一度遊びに来なさい」と誘われ、両親ともどもこの地を訪れる予定であった。
しかし、突然燕の両親が出かけることが出来なくなり、かわりに剣心と薫が同行することになったのだ。










「ええ、私の又従兄弟にあたるみたいです。でも、私よりも剣路君と仲良くなっちゃって・・・」
年が離れているからしょうがないですね、と笑って言った。
「でも、剣路は燕ちゃんのこと好きみたいよ?だって、お暇(いとま)するとき・・・」
薫が何を言わんとしているか気付き、二人で同時に吹き出した。



「楽しそうでござるな。一体何の話をしていたのでござる?」



いつの間にか剣心がそばに来ていた。
日陰で涼んでいた女二人と違い、太陽が照りつける岸辺でただ息子を見ていただけの剣心の額には大粒の汗が光っていた。
「さっきお邪魔したお宅で剣路が何をしたか思い出していたのよ」
薫が立ち上がり、取り出した手拭いで夫の汗を丁寧に拭き取る。
それはとても自然な動作で、隣で見ていた燕は羨望の眼差しでこの夫婦を見つめていた。










やっぱり憧れちゃうな。










いつか自分もこの二人のような素敵な夫婦になれるだろうか、と無意識に視線を向けた先には剣路に負けず劣らず水を掛け合ってはしゃいでいる一人の青年。



「おい剣路!びしょぬれになって母ちゃんに怒られても知らねえぞ!」
「やひにぃ、もっともっと〜・・・わぁッ!?」



剣路が足を滑らし、後方にのけぞる。
何気なく見ていた燕は、あ、と短い悲鳴を上げ、その声に剣心と薫も川に意識を向けた。
あわや剣路の体はそのまま川に・・・・・と思われたが、すんでのところで弥彦が剣路の小さな手を掴んだ。
「あっぶねえなぁ・・・気をつけろよ?」
ほ、と胸を撫で下ろす燕と対照的に、剣心はこうなることが分かっていたかのようにその表情は穏やかだ。

それだけ、弥彦のことを信用しているということだろうか。

不思議そうに剣心を見上げると、その視線に気付いた剣心が見慣れた微笑を返した。
「・・・で、さっきの話の続きでござるが。剣路がどうかしたのでござるか?」
「え・・・?あ、えと・・・」
剣心の声で我に返るが、うまく言葉が出てこない。
「さっきのお宅のご主人がおっしゃっていたじゃない。燕ちゃんにいい人を紹介するとかって」
燕の代わりに薫がそう言うと、剣心も思い出したようだ。
「ああ、そういえばそう言っていたでござるな」
「その場限りの冗談ですよ、きっと。でも、剣路君は本気にしちゃって」
「弥彦も本気にしていたようでござったよ」
おかしそうに苦笑し、ちらと弥彦に視線を投げる。





















辞去する際、何気なく家主が言った一言。
「燕ちゃんもそろそろ結婚を考える年頃やな。その時は叔父さんが誰ぞ探したろか?」

冗談と分かっていながらも頬を赤らめた燕。
半ば本気に受け取って目を剥いた弥彦。

対照的な二人の顔を見比べていると、自分達のすぐ下の方から可愛らしい抗議が上がった。
「めっ!つばめちゃんはぼくとけっこんしゅるのッ」
家主の言葉を本気に取った者がここにもいた。
その場にいた一同はしばらく唖然として剣路を凝視していたが、やがて声を上げて笑い出したのだ。




















「ねえ?あの時は一瞬何が起きたのかと思ったわ」
くすくすと笑う妻につられたように、剣心も破顔する。
「剣路は本当に燕殿のことが好きなのでござるなぁ」
「あら、私だって剣路君のこと好きですよ?」



その時、弥彦の大声が燕達の耳に届いた。
何やら燕に来いと言っているらしい。



「燕ちゃん、今の話は弥彦に聞かせない方がいいわよ」
立ち上がり、着物に付いた草を軽く払っていると薫が忠告した。
怪訝な表情で薫に先を促すと、
「余計不機嫌になるから」
これまたよく分からない回答が返ってきた。
さっぱり理解できないままでいると、
「燕ーッ」
再び弥彦の怒鳴り声が響き、燕は慌てて川に駆け出した。

「・・・・・弥彦の前でそう言ったら、確かに不機嫌になりそうでござるな」

つぶやくように言った剣心の声は燕の耳には届かない。
「あの子も素直になればいいのに。燕ちゃんも苦労するわね」
「全くでござるな」
そう言って、夫婦は笑い合った。










燕の親戚から送られてきた手紙には、彼女を含めた家族全員分の旅費が同封してあった。
今回燕に同行するにあたり、剣心と薫の旅費は燕の両親が使うはずだったものを使わせてもらうことになった。
剣路一人くらいの旅費なら何とかなる。
かくして、燕と剣心一家の京都行きが決定した。



だが燕が京都に行くと聞いた途端、弥彦が「俺も行く」と言い出したのだ。



当然の如く、同封されていた旅費の中に弥彦の分は含まれてはいない。
「あんたねぇ、自分までタダで京都に行けると思ったら大間違いよ!燕ちゃんのことは私達に任せて、おとなしく留守番してなさい」
呆れ果てた様子で薫が諭(さと)したが、
「誰もそんなみみっちいこと考えてねえよ!心配しなくても自分の旅費くらい自分で稼いでやらぁッ」
と言い放って、その言葉通り日雇いの仕事の掛け持ちをして今回の旅費を稼いだのだ。










「私達が一緒に行くって言っても、やっぱり心配だったのかしら?」
びしょ濡れになった剣路を燕が手拭いで拭いてやっているのが遠目にも分かった。
剣路を拭き終わると、手拭いを持ったままの手を弥彦に差し伸べる。
次は弥彦も拭いてやろうという燕の親切心らしいが、当の弥彦は腕を組んで頑(かたく)なに拒んでいる。
顔が赤く染まっているのは夏の太陽のせいだけではあるまい。
「それもあるでござろうな」

剣路が口を開き、それを聞くために燕が腰をかがめた。
燕の袖をぐいぐい引っ張っているところを見ると、どうやら一緒に川遊びをしようと誘っているらしい。

「何だか他にも理由があるような言い方ね?」
今まで川の方を見ていた薫が夫に顔を向ける。
「おろ、そう聞こえたでござるか?」
「もったいぶってないで教えてよ」
頬を膨らませた薫に、剣心は困ったような笑顔を見せた。
「はは、大した理由ではござらんよ。ただ・・・」
ここでまた剣心は視線を川に戻した。
裸足になった燕が着物の裾を持ち上げて川に足を踏み入れるところだった。
おっかなびっくりといった体(てい)でゆっくり歩を進める。
それをもどかしそうに見ていた弥彦がぶっきらぼうに手を差し伸べると、燕は顔を輝かせ、その手に掴まった。
その様子をじっと見ていた剣心の瞳に温かな光が宿る。

「ただ、一緒にいたかっただけでござろう」




















離れていても生きていける。
君がいなくても普通に生活できる。

それでも君のいない日常はそこだけぽっかり穴が空いたかのように何か物足りない。




















「同じね、皆」
ぽつりと漏らした薫の一言を剣心は聞き逃さなかった。
「薫殿?」
睫毛を伏せた妻の表情は少し寂しげだ。



「私も、剣心と一緒にいたいもの。剣心だけじゃない。剣路も、弥彦も、燕ちゃんも・・・私の周りにいる大切な人といつまでも一緒にいたい。別れの時は必ず来るって分かっていても」



私もまだまだ子供かもしれないわね、と小さく笑ったが、剣心は笑うことをせず、
「別れの時は確かに来る。だが、今まで共に過ごした月日はいつでも心の中に残っている。それはお互い離れ離れになっても消えることはないでござるよ」
まっすぐ薫の瞳を見てそう告げた。
「そう・・・そうね」
剣心の言葉を噛み締めるように、薫は瞳を閉じる。
「それに、子供は時が来れば親の元から巣立ってしまうが、夫婦は最後の時が来るまで共にある」
ぱちりと目を開けると、そこには静かに微笑む夫がいた。
「拙者とて薫殿と一緒にいたいのでござるよ。出来ることなら一日中薫殿と過ごしていたい」










真摯な瞳が嘘偽りないことを物語っている。
普段滅多に愛の言葉など囁かないくせに、何気ない時にさらりと言ってのけるから言われる方はすぐに返事が出来ようはずもない。










かぁ、と頬が染まるのが自分でも分かった。
それを隠すために何とか声を絞り出す。
「で、出来ることならって・・・!今だって一日中一緒にいるじゃないッ」
思わず声が上擦ってしまった薫に、剣心は落ち着き払ってこう答える。

「いや、一緒じゃないでござるよ」
「そ、そりゃ私が稽古に出ていれば一日中一緒ってわけにはいかないけど・・・」
「・・・そうじゃなくて」

ここにきて剣心の肩ががっくりと落とされた。
「剣心?」
何が起こったのかよく分からず、薫は眉をひそめて夫の言葉を待つ。










「・・・家にいても、剣路に薫殿を取られてしまうゆえ」










言いにくそうに小さく言った言葉の意味が飲み込めず、目が点になる。
が、すぐにその真意に気付くと、薫はおかしそうに笑い出した。
「ふ・・・ふふふっ、剣心てば、剣路にヤキモチ妬いているの?」
そんな薫から顔を背ける剣心の表情は憮然としている。
何とか笑いを引っ込め、薫はそっと剣心の手に触れた。
驚いたように剣心が顔を向ける。
それを認めると、薫はにっこりと笑ってみせた。
「言ったでしょ、子供はいつか巣立っていくって。でも、それからはずっと私と剣心だけなのよ?」
「・・・では、その時まで薫殿は剣路に貸し出しということでござるな」
ははは、と力なく笑う剣心に、



「どうする?剣路にたまには返してもらうように頼む?」
「いや」



薫が意地の悪い笑みを向ければ、夫から短い返事が返ってきた。
重ねた手に力を込め、薫の耳元に唇を寄せる。
「薫殿は拙者の妻。剣路の許可など必要ないでござろう」
「けん    










何か言いかけようとした薫の唇に自分の指を押し当て、そのまま顔を近づける       











・・・・・が、あと少しで唇に触れる、というときにお馴染みのあの台詞が聞こえてきた。



「かーちゃーッ!!」



ぎし、と二人の体が硬直する。
先に素早い反応を見せたのは薫の方だった。
「な、なぁに〜?」
慌てて剣心の顔を押し戻すと「ぐきっ」という首の筋が違えるような音がしたが、動揺している薫はそれに気付くはずもなく。
剣心の顔をどけたことで視界が広がると、その先で剣路が手招きしている。
「かーちゃもこっちきてぇ〜!!」
大好きな母親が父親と二人きりになっているのを見て何か感じるものがあったのか。
剣路の表情が心なしか不機嫌に見える。
東京にいるときもそうだが、剣路はどうしても両親を二人きりにさせたくないらしい。










いや、母親にそばにいてほしいと単純に願っているだけなのか。
それともいつかは親から離れ、一人未来へ旅立つ日を心のどこかで感じ、恐れているのか。










必要以上に力強く手招きしているその姿は、何となく後者であるような気がしないでもない。
いいところで剣路に邪魔され、息子同様不機嫌になりかけていたのだが、剣路の真剣とも言えるその姿に、

「まぁ・・・薫殿を独り占めできるのも剣路の場合は期間限定でござるから、大目に見てやるか」

寛容な心を持ってそうつぶやくと、今の言葉を聞き取れなかった薫が怪訝そうにこちらを見ていた。
「何でもないでござるよ。ほら、早く剣路のところに行ってやらんとまた機嫌が悪くなる」
夫の言葉にそうね、と頷き、
「今、そっちに行くから待っててー」
と叫び、川原に走り出す。
が、数歩行ったところで足を止め、振り返って手を差し伸べた。



「ほら、剣心も」



剣心の視界には手を差し伸べる妻の姿と、その向こうでこちらを見ている息子達が映った。
少しだけ頬を膨らませながらも、視線を剣心とまっすぐ合わせている剣路がいる。
母親同様自分を待っていてくれる息子の天邪鬼な表情に、剣心は苦笑せざるを得なかった。










日が傾き始めてきた。
そろそろ葵屋に戻らないと操にどやされるかもしれない。










分かってはいるが、もう少しだけ愛すべき者達と共にいたい。
別れの時が来るのなら、楽しい思い出をたくさん作っておきたい。



ぎらぎら照りつける太陽の光が夏の終わりになると和(やわ)らぐように、この先離れ離れになっても晩夏光のようなやさしい太陽を心の中で輝かせていたいのだ。











きっと皆同じ気持ちなのかもしれない。

そんな想いを胸に、剣心は薫と共に剣路達のもとへ歩いていった。










【終】

感謝処



五千打という初キリ番を踏んでいただいた方のサイトが閉鎖してしまったため、こちらに再掲載させていただきました。
リクエスト内容は「原作の後のお話で、京都旅行の剣心たち(可能ならば弥彦や燕も含め)御一行様、逗留先は葵屋、ほのぼの話」。

何とかリク条件は満たすことが出来ましたが(まぁ中にはただかすっただけってのもあるけど;)ほ・・・ほのぼの・・・・・ほのぼのしてる?←誰に聞いている

最初書いたものはちょっと複雑なもので、しかも行き着く先は「弥×燕」という、絶対にほのぼのじゃないという話でして。
「これはキリ番ゲッター様の求める話ではないッ」と速攻手直し。
で、出来上がったものがコレ。
「晩夏光」というのはその名の通り、夏の終わりの太陽の陽射しのこと。
俳句でも使われる、夏の季語です。

じりじりと焼け付くような陽射しが、夏の衰えと共に穏やかなものに変わっていく。
眩しいくらいの思い出達。
その輝きはいつになっても変わらないけど、その光はやさしく、心をも穏やかにさせる。

そんなちょいとおセンチな感じで仕上がったブツですが、ちょびっと加筆修正させてもらいました。
さすがに恥ずかしくて////