やさしい風
十畳の部屋の一番奥には、白い花嫁衣裳が来るべき「その日」を静かに待っていた。今は亡き母が、父・越次郎との婚礼の時に着たその衣装を前にして、朝からずっと足を崩して座り、薫は今日何度目かの大きなため息を漏らした。
明日、この花嫁衣裳に袖を通す。準備は全て整った。
この日を、どれだけ待ちわびたことだろう。相手の気持ちがなかなかわからず、一人涙する夜もあった。金屏風の前に座る花嫁衣裳の自分の姿を、何度想像した事だろう。それほどまでに待ち焦がれた「佳き日」が、いよいよ明日に迫っているのだ。
それなのに…本当は嬉しいはずなのに、なぜこんなにも不安なのだろうか。
崩した足を、今度は逆側に向きを変えて、再び視線を花嫁衣裳に向ける。指を口に当て、人差し指の背中を軽く噛んだ。心が揺れているときの、薫の癖だ。
「私…どうしちゃったんだろう」
別に夫となる剣心を嫌いになったわけではない。それどころか、日一日ごとに思いはどんどん増していく。剣心の全てが好きで、それが例えどんな仕草であっても愛しくて。なのに…こんなに不安なのは、なぜなのか。薫は自分自身の心に、戸惑っていた。
いや…本当は戸惑う理由を知っていた。知っていたが、それを自分の中で認める事が、怖かった。
「薫ちゃん?いてはるの?」
廊下から妙が薫を呼んだ。薫は障子越しに「うん」とつれない返事を返した。
「なんや、元気ないなぁ?どないしたん?お腹でも痛いんか?」
障子を後ろ手に閉め、妙が心配そうな顔つきで尋ねた。
薫は表情のない顔で「ううん」と小さく呟き、首を横に振った。それと同時に朱のリボンが揺れる。
妙は少し考える仕草をした後、小さなため息をつきながら薫の横に座った。
「ほんま、綺麗やなぁ。明日、薫ちゃんがこれ着たら、剣心はん、さぞかしびっくりするやろうなぁ。」
花嫁衣裳と薫の顔を、交互に見ながら妙は明るく言ったが、薫は微かに笑っただけで、また大きなため息をついた。
「薫ちゃん。また、どうしようもないこと、考えているのと違う?」
「えっ?」
「祝言を明日に控えて、そんなん暗い顔しとったらあかんやないの。花嫁はんは、主役なんやで?ほんま、どないしたん?」
妙の優しい口調に、薫の不安な心が再び震えた。
「妙さん。わたし…あのひとみたいに、立派な奥さんになれないわ」
薫はすがる様な目で、妙を見た。大きな瞳から涙がポロリとこぼれた。
「あのひとって…まさか…」
「巴さんは、剣心にとって無くてはならない存在で、それはそれはとっても出来た女性で…私みたいに剣術ばかりやっている女とは、全然違う女性の鏡みたいな人で…考えたらやっぱり剣心と私みたいな女、合うわけないわ…だって、あのひとは日本を救った人なのよ。そんなすごい人を、私なんかが支えられるはずないと思うの…きっと剣心も後悔していると思うわ…やっぱり彼を支えられるのは、巴さん以外にないのよ」
今まで心の中で溜まっていた不安が、堰をきったように流れ出した。薫は妙の膝に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。妙の着物に、薫の涙の染みができる。
「あらあら…薫ちゃん。何を言い出すかと思えば…アホやなぁ。剣心はんがそないなこと思うわけないやろ?」
妙は震えて泣く薫の肩を、優しく撫でた。
「そりゃ、聞くところによると、その巴はんっていう女性は、ずいぶん出来たお方と聞いているけど。でも、その巴はんは、もうこの世の人と違うんやし、何も心配せんでええと思うよ?」
それは充分わかっている。だが、この世に既にいないからこそ、剣心の心に残る巴は、いまだに鮮やかに生きているのだ、と薫は思う。
ただ、巴と自分を今更比較しても、詮無いこと。自分は自分、と己の中で割り切ってきたつもりなのだが…
薫は妙の膝に顔を埋めたままで、自分の目の前で見た「あの日」のことを思い出していた。
それは今から二週間ほど前の出来事。
神谷道場の庭の片隅に、小さな梅の木が植わっている。この梅は、薫が自ら買い求め、剣心に贈った梅である。剣心のかつての妻・巴の弟との、悲しい戦いの後、改めて薫は巴のことを思った。自分と剣心をめぐり合わせてくれたのは、もしかしたら巴なのかもしれない。そして、同じ男を愛した女として、心底巴のことを大切な存在と思った。巴のことを決して忘れないためにも、彼女が愛した梅の木を買って、二人で育てようと申し出たのだ。
桜が終わりかけたある日、いつものように道場から出てきた薫は、梅の木の前に立つ剣心の姿を見つけた。声をかけようとした瞬間、薫は思わず息を呑んだ。
…せつない目をしていた。
愛しそうに梅の木を何度も何度も撫で、時折「ともえ」と名を呼びながら…
薫は剣心の横顔を見た瞬間、決して自分には越える事の出来ぬ、大きな壁を感じたのだ。
あのひとは、まだ、巴さんのことを愛している…だったらなぜ、私を選んだのだろう。私と所帯を持つ、と決めたのだろう。
「なあ、薫ちゃん」
涙を流す薫に、妙が優しく諭すように言った。
「薫ちゃんは、いい奥さんになろうなろう、と頑張りすぎるんと違う?うちはまだ所帯ももってないさかい、あんまり偉そうなこと言われへんのやけど、完璧な夫婦ってないように思うよ。互いに悪いところも、ええところも認め合って、かばいあって、そうやって夫婦って形を作っていくんやないやろうか?」
いつも明るい妙の言葉が、今日は重みを持って薫の耳に入っていく。
「うちのお父ちゃんとお母ちゃんも、普段は喧嘩ばかりしてんねん。せやけど、いざとなったら、二人ですごい力を発揮するねん。ほら、いつだったか、赤べこが、変な輩に襲われてぺしゃんこになったやろ?あんときも周りがびっくりするくらい、心がピターってなってな。せやから無事予定よりも早う店が再開できたと思うねん。」
薫はゆっくりと体を起こした。涙のせいで、目が真っ赤に腫れていた。
「さあ、もう泣かんと。涙拭いて。」
「…うん」
「せや、薫ちゃん、お昼までにまだ間があるし、気分直しに散歩でもしてきたらどう?今日はお稽古ないんやろ?」
薫は妙の言葉に頷きながら、庭をみやった。あたたかな陽射しが、庭を包んでいる。
「ゆっくり風にあたって、心を落ち着けてきたらええわ。お昼の用意はしとくさかい。その代わり、気ぃつけてな。」
妙の言葉に追い立てられるように、薫は道場を後にした。妙は「くれぐれもコケたり、怪我などせえへんようにな、明日は大事な日なんやさかい」と、何度も念を押した。
「でも…」
道場を背に歩きながら、薫はさてどうしたものか、と考えた。
ゆっくり風に当たって、などと言っても、どこに行けばいいのか思い当たらなかった。
「そういえば、私、普通の女の子がするような暮らし、してないのかもしれないわ」
陽射しが薫の真上から、照り付けていた。この時期になると、夏ほどではないにしろ、じりじりと肌に差し込むのがわかる。薫は妙が持たせてくれた日傘を開いた。薫の黄色い着物に合わせたような、同じ色の日傘が、太陽の光から薫を守った。
思えば、父の遺した道場を守る事に必死だった。門下生がたった一人だけの貧乏道場を守るために、時に悔しい思いをして、影で一人涙を流した事もあった。出稽古への行き帰り、すれ違う同じ年頃の娘は華やかな着物で着飾り、楽しそうに出掛けた。その姿を横目でみながら、自分とは目指す道が違う、と己に言い聞かせながらも、心のどこかで羨ましいと思う気持ちもあった。
もう少し、女としての心の余裕があったなら、私はもっと巴さんに近づけただろうか…薫の頭に、再び巴の名を呼ぶ剣心の横顔が浮かんだ。
しばらく歩いたところで、ふと薫の足が止まる。
「ここは…」
薫にとっては、忘れられない場所だ。
桜並木のこの道は、二人にとって一度別れた思い出のある、悲しい場所だ。しかし、今年の春、桜吹雪の舞い散るあの日、この場所は薫にとって、喜びの場所に変わった。薫は既に花が散り、若い葉をたずさえている桜の木を見上げ、その日のことを思い出していた。
「ずっと…命ある限り…拙者の傍にいてくれないか」
その瞬間、風が桜を散らし、二人の髪や肩に舞い落ちた。
この言葉を薫はどれほど待ち焦がれたであろうか。
そして「はい」と返事をするまでに、一体どれほどの時間がかかっただろう。薫の脳裏に、今目の前で真剣な眼差しを向ける剣心との思い出が、走馬灯のように浮かんだ。
父親を亡くして、天涯孤独になった少女が、伝説の人斬りであるこの男と出会えた「偶然」。その偶然が愛を生み、育て、時に涙し、今ここに「必然」という形で薫の目の前に存在している。これを「奇跡」と呼ばずして、なんと呼ぼうか…返事をするまでのわずかな時間の中で、薫はそんなことを考えていた。
「薫殿…」
ただ黙って、驚いたような目で自分を見ている薫に、剣心が再び声をかける。薫が返事に困っている、と勘違いしたのだ。
「…うん」
薫は驚いたような表情を変えず、ようやくの思いで返事をした。
「あの…私…すぐ怒るわ」
「え?」
「料理下手よ。裁縫だって得意じゃないわ。泣き虫だし。焼きもち、焼くわ。ちっとも美人じゃないし。歳をとったら、シワシワのおばあちゃんになって、あなたをがっかりさせるかもしれないわ。」
剣心の口元が、かすかに笑っていた。
「きっときっと、あなた、私に愛想をつかすわ。」
「薫殿…」
「それでも、私でいいの?私を、お嫁さんに貰ってくれるの?」
「薫殿でいい、のではなく、薫殿がいい、でござる。生涯かけて、緋村剣心の妻は、神谷薫ただひとりでござるよ」
大粒の涙がポロリと頬を伝った。
「…手を…手を握って、剣心。何だか驚いちゃって、立っていられそうもない」
薫はそう言って、白く細い腕を出した。剣心は腕ではなく、体ごと薫を自分の腕の中におさめた。
「もう一度、聞くでござるよ。拙者の傍にいてくれるか?」
その声は、今まで聞いた剣心のどの声よりも、優しくて、甘くて。
「はい」
薫は小さく、しかし、はっきりと答えた。
剣心から安堵のため息が洩れた。
「良かった。断られたらどうしようかと思ったでござる。」
剣心は照れたような目で薫を見たが、やがて二人の視線は絡み合い、二つの影が一つに重なった。
思い出は、そこで途切れた。風がざわざわと音をたて、薫を現実の世界へと引き戻した。持っていた日傘が風にさらわれそうになるのを、ギュッと強く掴んで持ち直す。風の音に驚いたのか、つがいのヒヨドリが桜の木から同時に飛び立った。それを目で追いながら、「つがいか…」と呟くと、薫は再び歩き出した。
どれほど歩いただろう。陽射しは相変わらず薫を照らしている。少し汗をかいた。持っていた巾着の中から、小さな手拭を出して首筋を拭いた。
そういえば…いつだったか、庭で素振りをした後。汗まみれの額を、笑いながら拭いてくれた事があった。まるで子供をあつかうように、優しい目で自分を見つめていた。あの優しい瞳に、どれほど心がときめいたことだろう。
ふと幸せな気持ちになった。額に触られた剣心の手のぬくもりが、蘇る。額に手をあてると、うっすら汗をかいていた。
「やあね。私ったら…」
思い出し笑いをした後、ふと前を見ると、少し丘を登ったところに大きな桜の木が一本立っているのが見えた。神谷道場から少し離れた場所にあるそこは、薫が小さい頃よく来た場所で、昔はこの木に登って父親に叱られたものだ。
「ああ、こんなところまで来ちゃったんだ。」
薫は懐かしい人に出会ったような気持ちで、桜の木に近づいた。
足元を確かめながら、木の下に腰をおろす。木にもたれかかり、上を見上げた。ざわざわと音をたてながら、桜の葉が揺れている。その音は決して早くなく、風の思うままに揺れていた。
目を閉じてみる。風に体をあずけていると、まるで体が宙に浮いているような不思議な気分になった。
私は、あのひとと本当に歩いていけるのだろうか。
ことあるごとに、巴さんと自分を比べられやしないだろうか。
こんなに悩むのなら…風よ…いっそこのまま私をどこかへ飛ばして。そうしたら、こんな不安から逃れられるのに。
でも…やっぱりあのひとがそばにいないと、私は壊れてしまうかもしれない。
ふと何かを感じて、目を開けた。太陽の光が、葉と葉の間から差している。
刹那、風になびいて一筋の緋色の髪が、薫の瞳に映った。
それは、自分の命よりも大切で、今までに一番愛したひとの髪。
「ようやく、みつけたでござる」
一瞬、今、自分が置かれている状況が、わからなかった。薫は、不思議そうな表情で、剣心を見た。
「剣心…?」
木にもたれていた体を起こし、薫は驚いた声をあげた。
「こんなところで、うたた寝でござるか?明日は大事な日だというのに。風邪でもひいたらどうするでござるか?」
笑いながらそういうと、剣心は薫の隣りに腰をおろした。
その言葉で、ようやく我に戻った薫は、何も言えずに、黙って俯いた。
「ここは、いい眺めでござるなぁ」
あたりをぐるりと見回して、剣心が驚いたように言った。薫は「うん…」と言っただけで、再び黙り込んだ。
「妙殿に、叱られたでござるよ。」
「えっ?」
「拙者が薫殿を泣かせた、って。それはすごい剣幕でござった。」
剣心はすまなそうに、頭に手をやった。薫の脳裏に妙の怒った顔が浮かぶ。おそらくいつもの調子で、剣心の姿をみるや捲くし立てたのだろう。稀代の剣客も、牛鍋屋の女将にはかなわないらしい。
「不安にさせて、すまなかった。男と言うものは、どうも女子(おなご)の微妙な気持ちに鈍感で…」
「そんな…私が勝手に…剣心が謝ることじゃないわ」
掠れた声で、薫が言った。
「なあ、薫殿。これだけは信じてもらいたいのだが…拙者は今までに一度たりとも巴と薫殿を比べた事はないでござるよ。」
薫の肩がピクリと揺れた。膝においた手がぎゅっと着物を掴んだ。
「拙者は、巴を忘れようとは思わない。忘れてはいけないと心で思っている。だが、それと、薫殿を思う気持ちとは別物でござるよ。」
「でも、私、自信がないわ。巴さんみたいにあなたを支えていくほど、立派な人間じゃない。欠点ばかりで、ちっともいいところなんかないわ。」
薫はすがるような目で、剣心を見た。
「立派な人間など、この世にはおらんよ。誰でも何かしら欠点はある。欠点など互いが補えばいい。それよりも、拙者にいつでも笑いかけ、心を癒してくれる女性(ひと)は、この世にどれだけ探しても薫殿しかおらぬ。それとも、もう、拙者には笑いかけてはくれぬのか?」
剣心は、寂しそうに薫に尋ねた。その表情が切なくて、薫は思い切り首を横に振った。
「何日か前…拙者はあの梅の木に誓った。薫殿を決して離しはしない、必ず幸せにする、だから、どうか拙者たちを見守って欲しいと。」
薫の脳裏に、梅の木の前で佇む剣心の姿が浮かんだ。
「そう願った後、やわらかな風が吹いて、拙者を取り巻いた気がした。おそらく巴の魂が、拙者と薫殿のことを祝福してくれたのだ、と思ったでござる。」
…ああ、そうか。だから、「ともえ」と剣心は言ったのだ。何度も梅の木を撫でたのは、剣心の巴に対する感謝の表れだったのかもしれない。
「ごめんなさい…剣心…」
自分の勝手な思いが、剣心と巴を傷つけてしまったようで、薫は目にいっぱい涙を浮かべて、何度も詫びた。
「薫殿。拙者が悪かったでござる。もっと女心を学ばねばなぁ…」
剣心はそう言って笑った。そして大きく伸びをすると、そのまま薫の膝を枕にして、寝転んだ。剣心は手を伸ばし、自分を見下ろす薫の頬に、そっと触れた。
「花嫁に逃げられたら、どうしようかと思ったでござる。世界一の果報者が、世界一の不幸な男になってしまうところだった。」
薫は剣心の手を、愛しそうに自分の頬にあてた。確かなぬくもりが、触れたところから伝わってくる。今まで悩んでいたことが、このぬくもりで全て消えていくような気がした。
「わたし、あなたのそばを決して離れないわ。そして、あなたをもっともっと幸せにするわ。」
「ああ…二人で、幸せになるでござるよ」
剣心が、体を起こした。頬に当てた手は、そのまま優しく薫の黒髪を梳いた。
「決して、離さぬよ…」
見詰め合った二人の唇が、静かに重なり合った。
その時、風がザザザーっと音をたてて、二人を取り巻いた。その風は、温かで、やわらかく、人の心を癒すようなやさしい風だった。
きっと、巴さんが、励ましてくれたんだわ…薫は宙を見つめて「ありがとう」とちいさく呟いた。
「さあ、そろそろ帰ろう。あまり遅くなると、また妙殿に叱られてしまう」
剣心は、立ち上がって軽く袴の裾をはらった。
「そうね、妙さん、お昼ご飯を用意してくれるって。」
「そうでござるか。ならば、拙者も今日は楽ができるでござるな」
手と手をしっかりつないで、二人は歩いた。
薫の顔から、先ほどまでの悲しそうな表情は消えていた。
二人が去ったあとも、大きな桜の木は、風にその身をあずけ、ゆらゆらと揺らいでいた。まるで、ふたりの将来を祝福するような、五月の優しい風だった。