小春日和の長い一日






「もう、すっかり秋ね・・・。」
薫は、高く澄んだ青空を見上げていた。


秋空に、ポッカリと浮ぶいわし雲が、風に流されていく。


「いけない、早くしなければ!」
薫は探し物を思い出し、蔵の扉を開けた。




ギィ〜・・・。




暗い土蔵の中に、秋の日差しが差し込んでいく。


「うわっ、埃っぽい・・・。え〜と、どこだったかしら・・・?」
薫は、光の中に舞う埃を払い、蔵の中へと入っていく。







「あら、これはお父さんの行李だわ。」
 
薫はふと、扉の近くに置かれた行李に目を留めた。そこには、亡き父神谷越次郎の形見の品が入っている。
「すっかり忘れていたわ・・・。」
彼女は、行李の蓋に手を掛けた。


行李を開ける薫の鼻腔を、父の匂いが掠めていった。


「あっ、これ、お父さんのお気に入りだった帽子・・・。そうそう、よくこの着物に合わせていたなぁ・・・。」
思い出深い品々は、彼女の心に、亡き父を甦らせる。
「あら、これは何かしら?」
懐かしさに胸を震わせる薫の目に、見覚えのない物が飛び込んできた。



それは、深い色合いをした、結城紬の反物であった。落ち着いた褐色のそれは、彼女に父の温もりを感じさせた。



「お父さんは、仕立てる事が出来なかったのね・・・。」
薫は結城紬を抱き締めた。
「そうだ、これで剣心の着物を仕立ててあげよう!結婚記念日とやらの、贈り物にちょうどいいわ。」



すっかり探し物を忘れた薫は、反物を抱えて蔵を飛び出した。





(西洋では、結婚記念日とやらのお祝いをするそうえ。薫ちゃんも剣心さんと祝言を挙げて、もうすぐ一年になるのやろ?初めての記念日やさかい、しっかりお気張りやす。)





薫の耳の奥に、関原妙の明るい声が響いていた。









その日から、薫は昼夜を問わず剣心の留守を見つけては、こっそりと縫い物を始めた。















深まる秋の昼下がり、買出し帰りの剣心はふと、足を止めた。


「まだ、紅葉が終わっておらぬな・・・。」



ドシン!



名残の紅葉を見上げる剣心に、子供がぶつかってきた。


「おろっ?」


弾き飛ばされた少年が、尻餅をついていた。


「勝ちゃん、大丈夫?」
連れの少年が、彼を助け起こそうとする。
「童、大丈夫でござるか?」
剣心は、尻餅をつく少年に手を差し伸べる。
「おじちゃん、おいらは大丈夫だよ。ごめんよ、急いでいたんだ。」

少年は、自分で立ち上がった。

「怪我はないでござるか?」
「おいらは平気だよ。それよりおじちゃんは、どこも痛くない?」



剣心の問いに、七〜八才の少年が首を振る。日に焼けた少年の角ばった顔には、意志の強そうな瞳が輝いてる。剣心はふと、目の前の少年に興味を覚えた。



「拙者も大事ないでござるよ。ところで童、お主は良い面構えをしておるな。名は何と申す?」
「おいらは、勝太だ。」

勝太は、真っ直ぐに剣心を見詰めた。

「そうか、勝太と申すか、良い名でござるな。だがな勝太、どんなに急いていても、周りに気を配らねば危ないでござるよ。」
「分かったよ、おじちゃん。おいら、これからは気を付ける。」
素直に頷く勝太に、剣心も目を細める。
「ならば良い。勝太、気を付けて帰るでござるよ。」
勝太の頭を撫ぜ、剣心は踵を返した。



「待って、おじちゃん!ヒロ坊を助けて!」



立ち去りかけた剣心を、勝太が呼び止めた。
「おろっ、助けろとは如何したでござる?」
剣心が問い返す。


「原っぱで陣取りをしていたら、ヒロ坊が穴に落ちてしまったんだよ。だけど穴が深いから、おいら達には助けられないんだ。」


勝太は必死に訴える。
「勝太、案内するでござる。」

剣心は、勝太を促した。

「お前は、ヒロ坊のおじちゃんを呼んで来い!」
「分かった、勝ちゃん。」
勝太は剣心に頷くと、連れの少年に指図を与えた。



少年が駆け去るのを見送り、勝太も走り出す。



「おじちゃん、こっちだ!」




一目散に、元来た道を駆け戻る勝太の後を、剣心が追う。















「お〜い!大人を連れて来たぞ!」


「勝っちゃ〜ん!」
原っぱにいた子供達が、勝太の周りに集まって来た。


「トシ、ヒロ坊はどうしている?」


勝太の呼び声に、穴を覗き込んでいた少年が振向いた。


「さっきから泣き通しだ。暗くて中は見えないし、縄も届かねえ・・・。」
トシと呼ばれる少年は、荒縄を強く握り締めていた。


「お〜い!ヒロ坊!大丈夫かぁ〜?!」


勝太はトシの傍らに座り、ヒロ坊を呼ぶ。
「え〜ん、怖いよぉ〜・・・。足が痛いよぉ〜!」
穴の底から、子供の泣き声が返ってくる。
「ヒロ坊、大人を呼んで来たぞ!今直、助けてやるからな!」
「うえ〜ん・・・。」


泣き声は、更に大きくなった。









「これは涸れ井戸でござるな・・・。」


知らぬ間に、自分達の横に立っている剣心に、トシは不審気な目を向ける。
「誰だ?あんたは。」
涼やかなトシの目は、鋭い光を湛えていた。
「おろっ、そんなに睨まずとも、拙者は怪しい者ではござらんよ。」
剣心は苦笑する。



「井戸の底に、水は残っておるか〜?!」


剣心は、井戸の中へ呼び掛けた。
「葉っぱや草があるだけだよぉ〜。」
泣き声と共に、ヒロ坊の返事が返った。
「よし。」



剣心は、涸れ井戸の淵に立つ。



「おじちゃん、そんな所に立ったら危ないよ。」
勝太とトシが、剣心を見上げている。
「何、心配はいらぬ。友達を連れて参るよ。」




剣心は子供達に笑顔で答え、穴の中へ身を躍らせた。


「おじちゃ〜ん!」





暗い井戸を覗き込み、子供達は口々に騒いでいた。















「ヒロ坊、無事でござるか?」


井戸の底にも、微かな日の光が届いており、壁に凭れて蹲る子供をうっすらと映し出していた。


「足が痛いよ・・・。」
子供は泣き疲れ、声を嗄らしていた。
「どれ・・・。」


剣心はそっと、ヒロ坊の足に触れてみる。


「良かった、骨は折れてはおらぬな。ヒロ坊、ここを出たら手当てをする故、暫し辛抱するでござるよ。」
「上に出られるの?」
心細げなヒロ坊の頭を、剣心は優しく撫ぜた。
「直ぐに出るでござるよ。ヒロ坊、拙者から離れてはならぬぞ。」
「うん・・・。」
剣心は片手で、ヒロ坊をしっかりと抱き締めた。
「さあ、しっかりと、拙者に掴まるでござる。」
ヒロ坊も剣心にしがみ付く。






ヒュッ!






剣心は井戸の底を蹴り、宙に舞い上がる。






ガッ!






トン!






井戸の側面を足場にし、剣心は地上へ飛び出した。







「おじちゃ〜ん!」
「ヒロ坊〜!」


ヒロ坊と共に生還した剣心の元へ、子供達が駆け寄って来た。


「おじちゃん、ありがとう。」
勝太とトシが、剣心に頭を下げた。
「お主達も、偉かったでござるよ。」
剣心は優しく微笑み、二人を労う。





「寛輔!」

井戸の周りには、大勢の人垣が出来ていた。野次馬を掻き分けて、ガッシリとした大柄な男が駆け寄って来た。
「寛輔!無事で、良かった・・・。」
男は剣心から奪う様に、ヒロ坊を抱き締めた。
「父御でござるな、もう心配はいらぬな。」





「緋村先生!」


騒ぎに紛れて、そっと立ち去ろうとした剣心は、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「やあ、これは新市殿。」

剣心が振り返ると、新市小三郎二等巡査が立っていた。


「新市殿、あの子供が落ちたのは、涸れ井戸でござる。おそらく風雨に曝され、蓋が腐っていたのであろう。危ない故、早々に対処して下され。」
「分かりました、直ぐに手配致します!」
新市巡査は、直立不動で頷いた。
「宜しくお願い致す。」



剣心は新市に会釈を返し、静かに立ち去った。















立冬が近付いたある日、神谷道場の門前に人力車が止まった。




「ごめん下さい。」
「はい。」


薫が玄関に出ると、身なりの良い大柄な男性が立っていた。


「突然、お訪ね致します。私は、日本橋で菓子屋を営む、武井浩輔と申す者でございます。緋村剣心様に、お取次ぎを願えませんか?」
応対に出た薫に、男は慇懃に挨拶をした。
「剣心ですか?少々お待ち下さい。」
薫は、縁側へ急いだ。









「剣心、お客さんよ。」


洗濯をしていた剣心は、薫の声に顔を上げる。


「拙者にでござるか?」
「武井さんっていう、見るからにお大尽そうな人よ。」
「はて?誰でござろう?」
剣心は首を捻る。
「知らないの?取りあえず玄関で待って貰っているわ。」
「参ろう。」


剣心は襷掛けの紐を外し、玄関へ向かう。















「私は、日本橋で菓子屋を営む、武井浩輔と申す者でございます。これは、手前共の品でございます。どうぞお納め下さい。」


座敷に通された武井は、縮緬の風呂敷を解き、大きな菓子折りを取り出した。


「おお、これは中々手に入らぬと評判の、武蔵屋の深山でござるな。貴殿は、武蔵屋殿でござったか。ありがたく頂戴致す。」
剣心は菓子折りを受け取り、薫に手渡す。
「この度は、倅寛輔をお救い頂きまして、真にありがとうございました。」
武井は、剣心の前に居住まいを正し、平伏した。
「武井殿、顔を上げて下され。それより、ご子息の怪我は如何でござる?」


剣心は、気懸かりであった、ヒロ坊の容態を尋ねる。


「はい、お陰様で軽い捻挫で済みました。」
武井は、相好を崩して答えた。
「それは良かった。」
剣心も、安堵の笑みを零す。



「ところで、武井殿は如何して、拙者がお分かりになられた?」


人知れず、原っぱを立ち去ったと思いこんでいる剣心には、武井の訪問が解せなかった。      

「それは勿論、巡査さんに伺いました。」
いとも明快な武井の答えに、剣心は即座に納得した。


(新市殿・・・。)


新市二等巡査の無邪気な笑顔が、剣心の目の前に浮んで消えた。





「緋村様、この度のお礼に、是非一席設けさせて下さい。」
「いや、そのようなお気遣いはご無用にして下され。この菓子を頂けただけで、十分でござるよ。」


武井が訪問の目的を切り出すと、剣心は即座に、その申し出を辞退した。


「いいえ、倅の命の恩人に菓子折り一つで済ませたとあっては、武蔵屋は末代までの笑い者でございます。デージョネ(午餐)にお招きするだけでございますれば、お気兼ねなくお越し下さい。」
「デ、ジョネ・・・でござるか・・・?」
「失礼致しました、昼餉にございます。」


首を傾げる剣心に、武井は申し訳なさそうに言い直す。


「何だ、昼餉でござるか。」
苦笑を漏らす剣心に、武井は食い下がった。
「緋村様、御祝言を挙げられて、間もなく一年を迎えられるとお聞きしました。如何でございましょう?私共にも、お祝いのご相伴をさせて頂けませんか?」


思いも掛けぬ武井の言葉に、剣心はハッとした。



「もう一年になるのか・・・、早いものでござるなぁ・・・。」



(剣心・・・、忘れていたの?!)


感慨深げな剣心に、薫はムッとする。



「いや、わざわざ祝う程の事でもあるまい。」
「いえいえ、喜ばしい事でございますよ。どうぞ、奥様とご一緒にお出掛け下さい。」
「薫殿もでござるか?」


剣心は驚きの声を上げる。


(剣心・・・?)


薫は密かに拳を握っていた。


「はい、西洋では常に、夫婦同伴でございますれば。」
「それは尚の事、ご迷惑をお掛けするでござる。」
「剣心、私が一緒だと迷惑なの?」

武井と押し問答を続ける剣心の袖を、薫が引く。

「おろっ、薫殿、如何したでござる?」
「剣心、結婚記念日を忘れていたのね?!」
「いや、そのような事は・・・、ござらんよ。」


ここにきてやっと、薫の怒りに気付いた朴念仁は、俄かに慌てる。


「剣心・・・!」


不穏な空気が漂い出したのを、苦労人の武井は察した。


「緋村様に限って、その様な事はございません。これ程お美しい奥様を娶られた幸せを、お忘れになる筈がございませんよ。」
「あら、お美しいだなんて、そんな・・・!」
武井の助け舟に、薫は機嫌を直す。
「そうよ、剣心。折角のご好意を無にしては、武蔵屋さんに悪いわよ。」


「薫殿!」


「是非、奥様からもお執り成し下さい。お願い致します。」
「剣心、ここまで言って下さるのに、お断りするなんて失礼じゃない。」
すっかり武井に乗せられた薫に、剣心の叫び声は届かなかった。
「おろ・・・。」
「ありがとうございます。それでは、後日お迎えに参ります。」
「武井殿・・・?」




戸惑う剣心を残し、武井は上機嫌で帰って行った。














結婚記念日がやってきた。その日は、小春日和の穏やかな日であった。





「剣心、これを着て。」

薫は、こっそりと仕立上げた褐色の着物を差し出す。

「おろっ、薫殿、これは如何したござる?」
「結婚記念日のお祝いよ、お父さんが残した反物を、私が仕立てたのよ。」
「薫殿・・・、そんな大切な物を拙者の為に・・・。」
「剣心、早く着替えないと、武井さんが来てしまうわよ。」


しみじみと着物を見詰める剣心を、薫が急かす。


「おろ・・・。」




薫は剣心の紅色の着物を剥ぎ取り、褐色の着物を着せた。



「素敵よ、剣心。よく似合うわ。」
新しい着物を身に纏い、照れくさそうに笑う剣心に薫は頷く。
「薫殿、忝いでござる。」
「いいのよ、剣心。」



剣心は両手で、銘仙の小紋を纏う薫の手を取った。











門の前に馬車が止まった。



「おや、馬の蹄でござるな。」


剣心が耳を澄ますと、玄関から武井の声が響く。



「ごめん下さい!武井でございます!」
「これは、武井殿。今日は、お世話になるでござる。」
「お招きありがとうございます。」
剣心と薫は玄関へ急ぎ、客に挨拶をする。
「本日は、おめでとうございます。表に馬車を待たせております、さあ参りましょう。」




武井に誘われ、二人は馬車に乗り込んだ。















馬車は浅草を抜け、上野の森へと進む。







「着きましたよ。」


不忍の池畔の高台に建つ、洋館の正面に馬車は止まる。





「さあ、どうぞ。」
剣心と薫は馬車を降り、眼前に聳えるモダンな洋館を見上げた。
「ねえ、剣心。此処のバルコニー、随分広いわねぇ。」
「これが、噂の精養軒でござるか・・・。」



正面玄関に、洋装の男が立つ壮麗な建物は、築地の精養軒が上野に出した支店である。



「緋村様、奥様、参りましょう。」
政財界御用達の西洋料理店を眺め、気後れしている二人を、武井は促した。






「いらっしゃいませ。」


ドアボーイが開けた扉を潜り、彼らは洋館に足を踏み入れた。
三百人の晩餐が出来るという屋内は広く、天井も見上げる程に高かった。









彼等は、少人数向けの個室に案内された。


薫が壁を背にした椅子に座ると、剣心と武井も其々の席に着いた。



糊の効いた白いテーブルクロスの上には、銀のカトラリーが並んでいる。
剣心と薫も、多少の西洋料理の知識は持ち合わせている。しかし、目の前に並ぶカトラリーの多さに、彼らは戸惑いを隠せなかった。


落ち着かぬ様子で、顔を見合わせる二人に、武井が口を開いた。


「本日は、家内もご相伴させて頂く筈でございました。けれど昨日、風邪を拾いまして、ご無礼させて頂きました。」
「それは、心配でござるな。」
「お加減は如何ですか?」


この時代、風邪で命を落とす事は珍しくはない。二人は、恐縮する武井に、労わりの言葉を掛ける。







やがて、ウエイターが食前酒を運んできた。



「これ、お酒ですか?綺麗・・・。」
薫は、シェリー酒のグラスを手にする。
「それは、シェリー酒でございます。」
「いい香り。」
「薫殿、止すでござる・・・。」


剣心の言葉が聞こえぬかの様に、薫はグラスの酒を飲み干した。


「あら、美味しいわね。」
頬をほんのりと桜色に染めて、薫が笑う。
「薫殿・・・。」
剣心はそっと溜息を吐いたが、直ぐに思い直した様に武井に目を向けた。
「武井殿、拙者達は洋食には不調法故、この様に食器が多くては使い方が解らぬでござる。」
「一つの料理が出てくる度に、外側から一組ずつ使えば良いのですよ。」
武井の答えは、明確であった。






ウエイターが、最初の料理を運んできた。



「これは、肉の薄作りでござるか?」
白磁の皿に、薄くスライスされたハムが、綺麗に盛り付けられていた。
「これは、ハムという肉の燻製でございますよ。」
武井の手元を見ながら、二人もハムなる物を口にした。
「初めての味わいでござる・・・。」




一皿終える毎に、次の料理が運ばれてきた。


「これは、魚でござるな。」


武井を真似ながら、剣心達は平目のムニエルに挑んでいる。しかし、二人の皿の魚は、見るも無残な姿となっていく。




更に料理は続く。



「剣心、今度は食べ易いわね・・・?」
赤ワインで煮込んだ鶏肉を食べながら、剣心に話し掛けた薫は、ウエイターの冷たい視線に口を噤む。
「お口の中を空にされてからの方が、お話しし易うございますよ。」
ウエイターが下がった後に、武井はやんわりと注意する。
「そうですね・・・。」


「武井殿、このパンは、何時食するのでござろう?」


恥ずかしそうに頬を染める薫に、剣心が助け舟を出す。
「食事が終わるまでに、食べれば良いのですよ。」
「そうでござるか、この牛酪(バター)を付けるのでござるな。」


「緋村様、いけません!」


肉用のナイフを牛酪に向けた剣心は、武井の声に動きを止める。
「おろ・・・?」
「備えてある牛酪(バター)ナイフで、必要な分だけをご自分の皿に取って下さい。」
「承知したでござる。」


剣心は、牛酪の大きな塊を皿に取る。








料理は、次々と運ばれてきた。




「骨付き肉でござるな・・・。」


ほぼ満腹になった剣心は、牛のコートレットを眺める。


「剣心、骨を外すのが難しいわね。」
ナイフとフォークを手にした薫は、果敢に骨付き肉に挑んでいる。
「薫殿は元気でござるな。」
「えっ、なあに?」
「美味しいでござるか?」
「とっても美味しいわよ。」
ニッコリ微笑む薫を、剣心は優しく見詰める。






やっとの思いで骨付き牛肉を平らげた剣心の前に、ウエイターがデザートを置いた。



「まだ、あるでござるか・・・。」



剣心の顔から血の気が引いていく。



「わあ、アイスクーム!美味しそう!」
薫が歓声を上げる。
「剣心、食べないの?とっても美味しいわよ。」
薫はキラキラと瞳を輝かせ、剣心にアイスクリームを勧めた。
「そうでござるか・・・。」


剣心は意を決し、銀のスプーンで氷菓を掬う。


「これは美味でござるな。」
アイスクリームは全て、剣心のお腹に収まった。








「もう、食べられないわね・・・。」


流石の薫も、果実とお菓子には、手を出せずにいた。


「残すのは勿体ないし・・・そうだ、弥彦達のお土産に貰って行きましょう。」
ポンと手を打つ薫に、武井は告げる。
「奥様、お持ち帰りは出来ませんよ。」」


武井の言葉に、薫は果実に伸ばした手を止める。


「えっ、どうして?」
思わず返した薫の問いに、武井は一言だけ答えた。





「西洋料理の、マナーに反します。」











そして、午餐は終わる。










「武井殿、本日は忝のうござった。」
「ご馳走様でした。」
剣心と薫は、仲良く武井に礼を述べた。
「緋村様、お送り致しますから、どうぞお乗り下さい。」
「久し振りの遠出でござれば、ゆるりと歩きながら帰るでござる。武井殿、御内儀をお大事にして下され。」



馬車で送ると言う武井の申し出を断り、剣心と薫は精養軒の前で彼と別れた。







二人は、不忍池の畔をそぞろ歩く。



「折角のお招きなのに・・・、疲れちゃった。」
薫は軽く首を回す。
「武井殿には申し訳ないが、拙者も何を食べたのか解らんでござるよ。」
剣心は苦笑する。








戊辰戦争で多大な犠牲を払い、焼け野原となった上野山は、豊かな自然に恵まれた憩いの場所へと生まれ変わった。




「静かでござるな、戊辰の戦いが焼き尽くした場所とは思えぬ・・・。」
剣心は、感慨深気に呟いた。
「ねえ剣心、このお墓の中に、弥彦のお父さんもいるのかしら?」
先を行く剣心を、薫が呼び止める。
「弥彦の父御でござると?」


剣心が振向くと、彰義隊隊士を弔う真新しい墓の前に、薫が佇んでいた。




維新政府の命で、旧幕軍の戦死者達は何年もの間、埋葬すら許されず野晒しになっていた。
そして、彼等の墓の建立が許されたのは、明治七年になってからである。



「静かに、お休み下され。」



剣心と薫は目を閉じ、墓に手を合わせる。















釣瓶落としの秋の日が、西の空に沈む頃、二人は浅草に帰って来た。



「日が落ちると、流石に冷えるでござるな。」
「今日は、暖かい日だったのにね。」


夕闇の迫る町に、提灯やランプの灯が燈り出した。。


「この辺りも、賑やかになってきたでござるな。おや、勝太ではござらぬか?」
剣心はふと、往来を行く少年に目を留めた。


「あっ、おじちゃん。」


笊を抱えた少年が、立ち止まる。
「おじちゃん、結婚記念日おめでとう。」
「か、勝太!如何して知っているでござるか?」


勝太の言葉に、剣心は目を剥いた。


「ヒロ坊が言っていたよ。」
「おろ・・・。」
「剣心、知り合いなの?」
薫が問い掛ける。
「武井殿のご子息の、危難を知らせに来た少年でござる。」
剣心は薫に、勝太を紹介した。
「そう、あなたが勝太君なの。偉かったわねぇ。」
薫は少し腰を屈め、勝太と目線を合わせた。
「私は薫よ、勝太君、よろしくね。」


ニッコリ微笑む薫に、勝太はペコリとお辞儀をする。


「初めまして、宮川勝太です。」
「まあ、礼儀正しいのね。」
「勝太、お使いでござるか?」
「父ちゃんの店に使う、葱を貰って来たんだ。」
勝太は葱を載せた笊を抱えて、ニッコリと笑う。
「父御は、店を出しておられるのか?」
「ここが、父ちゃんの店だよ。」



勝太は、二人の背後を指差した。







剣心と薫が振り返ると、江戸の名残を残す蕎麦屋の暖簾が、手招く様に靡いていた。



「薫殿、夕餉を済ませて行かぬか?」
「そうね。」
二人は暖簾を潜った。







「おじちゃん、こっちへどうぞ。母ちゃん、お客さんだよ。」
勝太は二人を狭い座敷席に案内し、奥へ声を掛けた。
「あいよ。」



勝太が奥へ引っ込むと、粋な風情の女将が現れた。



「いらっしゃいまし、何を誂えましょう?」
勝太によく似た眼差しの女将は、二人の前にお茶を置く。
「そうでござるな・・・、薫殿は何が良いでござるか?・・・拙者は月見蕎麦に致す。」
壁のお品書きを眺めていた剣心は、薫と目が合うなり、月見蕎麦を注文した。
「ちょっと、剣心。私の顔を見て月見蕎麦って、如何いう意味?」


薫のこめかみが、微妙に引き攣っている。


「いや、拙者は月見蕎麦が食べたいだけでござるよ。それより、薫殿は何が良いでござるか?」
「私も同じ物でいいわ。」
「そうでござるか、女将、月見蕎麦を二つ頼む。」









「お待たせしました。」
月見蕎麦は、直ぐに運ばれてきた。
「早いでござるな。」
「のびた蕎麦を、お客さんには出せませんからね。」
江戸っ子気質の女将が笑う。
「おろっ?天婦羅が載っているでござる。」


蕎麦に浮ぶ黄身の横に、大振りの海老天が鎮座ましましていた。


「お客さん、今日は祝言を挙げて、一年目のお祝いでござんしょう?これは、家の人の気持ちですよ。」
「しかし何故、その様なお気遣いを?」
不思議そうに問う剣心に、女将は柔らかな笑みと共に、頭を下げた。
「お客さんは、ヒロ坊の命の恩人だからですよ。ヒロ坊を助けて下さって、本当にありがとうございました。」
「どうぞ、お手を上げて下され。明治の世になっても、江戸の町の人情は変わらぬでござるな。」


剣心は戸惑いながらも、安堵の笑みを浮べた。


「そりゃそうですとも、どんなに世の中が新しくなったって、人情まで変わってなるもんですかね。あらいやだ、お喋りが過ぎちまいましたね。のびない内に、召し上がって下さい。」



女将は下がる。



コシがあり、キリッとした舌触りの蕎麦に、濃い目の汁がえもいえぬ味を出している。
「旨いでござるな。」
「美味しいわ。」
「人心地がついたでござるな・・・。」


二人は、藪蕎麦に舌鼓を打つ。














店を出た二人は、月明かりに照らされた夜道を歩いていた。




「何やら、長い一日でござったな。」
満天の星空を見上げ、剣心が呟く。
「本当ね、でもたくさんの人に、私達の結婚記念日を祝って貰えたわ。」
薫は、剣心の横顔を見詰めて微笑む。
「良い日でござったな・・・、これからも先も、こんな穏やかに今日の日を迎えたいでござるな。」
「うん、剣心。」




甘える様に凭れ掛かる薫の肩を、剣心はそっと抱き寄せた。






【終】



サイト開設一周年のお祝いとして真琴様の小説を頂きました〜!
ありがたくもσ(^^)がリクエストさせていただいた「剣心と薫の結婚記念日」を書いてくださって・・・
そしたら色んなエピソードがぎゅっと詰まった小説がッ

真琴様の小説はほっこりしていて親しみやすいんですよね。
読んでいて共感できる部分がほとんどというか。

剣心と薫が洋食を食べているシーンがあるんですけど、読んでいて「おっしゃれ〜♪」なんてうっとりすると同時に、マナーやら何やらで落ち着いて味わえていない二人を見て、
「この二人・・・食事を楽しめているのかなぁ?」
なんて感じながら読み進めていくと、今度は日本人に馴染みの深いお蕎麦屋さん。
そこでやっと二人は和んだ空気の中で味わうことが出来る。

たまにはおしゃれにきめてみるのもいいけど、やっぱりみんなで楽しくお喋りしながら食べるのが一番おいしい。
剣心と薫にとってはこういった食事の方が親しみやすいですし、σ(^^)も庶民の生活にどっぷりつかっているので(笑)彼らと同じ視点で物語りに入り込むことができました。

また、小説の中でも洋食を食べているときとお蕎麦を食べているときの空気の違いが克明に描かれていて、真琴様の持つ技がキラリと光ってますね!
そしてラストは「剣心と薫の結婚記念日」に相応しく、甘い感じで終わりを告げる。
洋食、お蕎麦と続いたから、ラスト部分は言ってみればデザート!!(違)
大変おいしゅうございました(*´∇`*)


真琴様、本当にありがとうございました!



客室