夢の中で君と共にいなくても








カナ、カナカナ、と遠慮がちな蝉の声が剣心の耳に届いた。
瞼を開けたのはそのせいだけではない。
朝の訪れとともに暑さが忍び寄り、それによって現実世界に引き戻されたのだ。



少し早いが起きてしまおうか。



時間が経てば更に暑さが増す。
ならば今の涼しい時間帯から仕事を始めれば後が楽になろう。
頭では分かっていることなのにその通りにしないのは腕にかかる心地良い重さのためか。
暑さのためお互いの肌がしっとりと汗ばむ。
剣心はそのせいで目がさめたのだが、薫は夢の世界に留まることを選んだらしい。










      夢の中までは共にゆけぬ、か。










こればかりはどうしようもないことなのだが、些(いささ)か面白くない。
小さく吐き出した息が拗ねたようになっていることを自覚しながら、湿気を含んだ彼女の髪をそっと払ってやる。
その拍子にひくりと薫の瞼が震えた。
起きたのか、と期待に近い感情を抱いて見守っていたが、彼女は僅かに身じろぎしただけでその黒瞳(こくどう)に剣心の姿が映し出されることはなかった。
腕をくすぐる長い髪のさらさらとした感触にうっとりしつつも、明らかに落胆している自分がいる。

いっそのこと彼女を起こしてしまおうか。

まるで置いてきぼりにされた子供のような気持ちだった。
剣心の唇が動く。
が、声が発せられることはなかった。
眠っている薫が嬉しそうに微笑んだのを認めたからだ。
そのまま注意深く見守っていると。










「・・・・・コレ、おいし〜・・・」










少し掠れた声が彼女の口からこぼれ出た。
一瞬何のことか分からず、唇を中途半端に開いたまま剣心は固まった。
だが、薫の口がもごもごと動いているのを見て合点がいった。

どうやら彼女は何か食べている夢を見ているらしい。

状況を把握すると、ふ、と剣心の頬が緩み、
「薫殿、薫殿」
彼女の耳元でそっと囁く。



「甘いものはいかがでござる?もし食べたいのなら水羊羹でも買ってこようか?」



そう問えば何か返してくれるかもしれないと軽い気持ちで出た言葉だった。










予想通り、彼女は応えてくれた。
だが薫の返答は剣心が考えていたどれでもなかった。










「いらない・・・・・けんしんがつくってくれたもののほうがいいのぉ〜」










笑みを深くする薫とは対照的に剣心の瞳が見開かれる。
当の薫がそれに気付くはずもなく、再び幸せそうに口をもぐもぐし始めた。
そして食べ終わったのか、満足しきった表情でほぅ、と吐息を漏らす。
危うく吹き出しそうになるのを何とかこらえ、剣心は薫の寝顔を見つめ一人つぶやいた。

「・・・・目がさめたときにも薫殿にそう言ってもらえる様に、拙者も頑張らねばなるまいな」

安らかな寝息をたてる少女の顔にしばらく見入っていたが、彼女の額に口付けを落とすと名残惜しそうにそっと腕を引き抜いた。
音を立てずに着替えを済ませ、部屋を滑り出るとまず庭に出て顔を洗った。
冷たい井戸水が気持ちいい。



「さて、と」



顔を上げると真っ青な空が頭上に広がっていた。
青の眩しさに目を細め、彼は朝餉を作り始めるために厨に向かった。










新しい一日が始まろうとしていた。










【終】

客室