蜩(ひぐらし)の鳴き声が聞こえたような気がして、床磨きの手を止めた。










だがすぐに自分の空耳だということに気付き、巴は雑巾をゆすぐため、水の中に手を入れる。
その水に触れた瞬間、痛みにも似た冷たさが己の手に走る。



当然だ。
薄く氷の張った井戸から汲みだしてきた水なのだから。



暦は十二月。
そろそろ雪も降ろうかというこの時期の水仕事は、大の大人ですら音(ね)をあげる。
冷たい水に触れ、巴の白い手が朱に染まる。
しかし巴は、表情を変えずに雑巾を固く絞り、床磨きを再開した。










なぜ蜩の声など。










巴の脳裏に、先ほど聞こえた蜩の声がこだまする。
この時期に蜩などいるはずもないのに。















蜩は七日しか生きられない。
生まれてから数年の年月を暗い土の中で生き、太陽の下に出たと思ったら、その命はたった数日。



そう教えてくれたのは、この地に来て笑顔を見せることが多くなった夫・緋村剣心。
見た目はそこらにいる十代の若者と大差ないのに、ひとたび刀を抜けば人斬り抜刀斎としてその手を血に染める。










冷酷な人殺し        そのはずであった。










しかし巴は剣心の心に触れ、抜刀斎ではなく緋村剣心という人間を知るうちに、一人の男として彼を愛し始めたのだ。










言葉で愛を語れたら。

手紙に愛を綴れたら。



そして        全てを打ち明けることが出来たなら。










だが出来ない。



巴の許婚(いいなずけ)である清里明良は、剣心に殺された。
その事実を伏せたまま剣心に近づき、やがて二人は夫婦となった。

いわば、偽りの夫婦なのだ。

そんなことは夢にも思っていない剣心は、不器用ながらも巴を想っている。
巴もまた、表に出さないものの、剣心を心から愛していた。



だが、剣心が巴の仇であることには変わりない。










なぜ清里は剣心に殺されたのか。
なぜ剣心は清里を殺したのか。



清里を愛していたから剣心を殺そうとしたのも真実。
剣心を愛しているから死なせたくないのも真実。











こんなにも愛しているのに。
運命の垣根が越えられない。










見つめることも叶わぬ恋ですか。
忘れることが真実の愛ですか。










どうしたらいい?
どうすればいい?















がたん、とひときわ大きな音が響いて巴の思考はそこで中断された。



時折吹く風が小さな家を揺らす。
この家に住み始めた当時は隙間風が入り込んで、火を熾(おこ)しても熱が奪われ、なかなか家の中が暖まらなかった。



さすがにこれでは冬を越せないと感じたのか、剣心がどこかから木材を調達してきて隙間風が入り込む箇所を補修した。
おかげで、来た当初よりはかなりましな状態になった。
がたがたと嫌な音を立てるのは、ここ二・三日の強風で補修した箇所が緩んでいるせいだろう。



彼女の夫である剣心は、薬を売るために外出している。
ついでに、必要なものを町で買い揃えてくると言っていたから、帰りは遅いのだろう。



それまで家にいるのは巴一人だけだ。
家の補修は明日にでも夫に頼もうかと考えていたが、この分だと明日まで持ちそうにない。
大工仕事に経験はないが、それでも何とかせねば、と巴は身を切るような寒さの中にその身を投じた。















外にまわって音の原因を確かめると、巴が推測したとおり、補修部分の釘が緩んでいる。
巴はひとまず釘を打ち直そうと、ずしりとした金槌を持ち上げた。
剣心が軽々と金槌を使いこなしているのを見て、巴でも簡単に出来そうに見えたのだが、実際の重さに危うく落としそうになる。
金槌が重い上に、折からの強風が吹き荒(すさ)び、巴の華奢な体がよろめいた。
それでも何とか金槌を持ち上げ、ぎこちない手つきで釘を打ち付ける。
釘ではなく、自身の指を打ちつけてしまわないように、巴は金槌をしっかり持って注意しながら作業を続けた。



とん、とん、とん、とん、とん。



単調な音は、やがて聞こえないはずの蜩の声と重なった。



とん、とん、とん、とん、とん。
みん、みん、みん、みん、みん。



とーん、とーん、とーん。
みーん、みーん、みーん。



巴の金槌の音に合わせて、蜩の声も同じようにこだまする。















『江戸も暑いが、京都の夏は纏わりつくような暑さらしいよ』
『蜩は、地上に出てから七日しか生きられないんだ』



巴が愛した二人の男の声。















とん、とん、とん。



金槌で釘を打ちつける音。















『巴』



幼い頃とは随分声音が変わってしまったが、それでも耳に馴染んで離れない声。















みーん、みーん、みーん。



人恋しさに、焦がれ鳴きするような蜩の声。















『巴』



最初は憎むべき仇だったけど、今は生きて己のそばにいて欲しいと願う男。















        どん。



巴の足元に金槌が落ちた。
彼女の手はそれを拾おうとせず、自分の耳を塞いでいる。










「・・・・・やめて・・・やめてちょうだい」










掠れた声が巴の耳に届く。
それは紛れもなく、自分自身の声。
もう、蜩の声も二人の男の声も聞こえない。
聞こえるは、ごうごうと吹き付ける風の音のみ。



つと、足元に視線を落とす。
巴は自分の足元に転がっている金槌を見た。










蜩など居はしない。
清里はもうこの世の人ではない。
剣心はまだ帰らない。










聞こえるのは、風と金槌の音だけ。










そう自分に言い聞かせて、のろのろと金槌に手を伸ばした。
ずしりとした重さは、まるで今の自分の心のようだ。



そんなことを考えながら持ち上げようとした時、巴の手にあった重さが消えた。
はっとして首を回すと、そこには彼女の夫が立っている。
彼の手には先ほどまで巴が持っていた金槌があった。










「あなた、今日は遅くなるのでは        

迎えの挨拶も忘れ、目を丸くしている妻に、剣心は答えた。
「そのつもりだったが、この風で家のことが心配になって早めに町を出てきた。何かあっても、巴一人ではどうしようも出来ないと思って」
剣心は、今まで巴が補修していた部分を見て、
「これじゃ今夜が限界だな。早く帰ってきてよかった」
と言って、手にした金槌で釘を打つ。










がん、がん、がん。










おそるおそる釘を打つ巴とは違い、的確に同じ部分を打ち続ける。
巴との力の差を証明するようなその音には何の声も重ならない。
その事実に気付いて、声を発することも出来ずにただその場に立っているだけの巴に気付き、剣心が怪訝そうな視線を投げる。



「どうした?」
その声に巴は我に返り、慌てて首を振ってみせる。
「いえ、何でも・・・・」
普段あまり表情を変えない妻が珍しく驚いた顔をしていたので、剣心の片眉が上がったが、それから特に変わった様子は見られないため、剣心の視線は補修部分に注がれる。



「念のため、補強しておいたほうがいいな        巴、釘を」
「はい」











巴から手渡された釘を手にして、剣心は次々と釘を打ち込んでいく。
同じように、他の部分も釘を打ち込んで補強した。










「こんなもんでいいだろう。あとはまた別の日にでも見ておくよ」
「お疲れのところ、ありがとうございました。今、熱いお茶でも」
「あ、巴」



身を翻(ひるがえ)した巴の手を剣心が掴んだ。
夫に突然手を掴まれ、巴は驚いて声を出すことも出来ない。



        手が冷たいままじゃ、すぐに動かせないだろう。一体、いつから外にいたんだ?」



そう言って、両手で妻の手を包み込んで自分の息を吹きかける。
しかし、剣心の手も冷たい上に、息を吹きかけてもすぐに冷気が吹き付けるため、巴の体温はなかなか戻らない。



「一旦中に入ろう。これじゃまるで死人だ」



そう言って巴を促すが、剣心の言葉で彼女の顔が伏せられる。
「・・・・巴?」
剣心の呼びかけにも答えない。
不審に思い、妻の顔を覗き込もうとしたとき、視線を上げぬまま巴が言った。
「あなた・・・」
「ん?」










「もし・・・もし、私が死んだら、あなたは涙を流してくれますか?」










瞬間、剣心の表情が凍った。
巴は顔を上げ、いつもと変わらぬ淡々とした口調で言葉を重ねる。










「私の冷たくなった体を、あなたは抱きしめてくれますか?」










何も答えぬ剣心の代わりに、冷気を乗せた風が鳴いた。
巴はそんな夫をじっと見つめている。










        残酷なことを聞いてしまった。










この人のやさしさは誰よりも知っているはずなのに。
この人のやさしさで私は救われたのに。



夫の瞳に痛みにも似た色を認めると、巴の胸に後悔の波が押し寄せてきた。
戯言(ざれごと)を申しました、と口を開く前に、おもむろに剣心が着物を片方だけはだけて、自身の肌を露(あらわ)にした。



「あなた?」



突然の行為に戸惑う妻の声に耳を貸さず、剣心は巴の手を自分の左胸に押し当てた。
夫の体温と共に、とく、とく、と剣心の心臓の音が巴の手に伝わってくる。










それは、剣心が生きているという確かな証(あかし)。



骨となって江戸に帰ってきたあの人とは違う。










「巴、ほら」
夫の声に顔を上げると、彼は少年特有の澄んだ瞳で自分を見つめている。
「これで温かくなった」
にこりと笑って、剣心は巴の手を解放した。
その手を胸元に持っていくと、確かな温もりがそこにあった。
その温もりは巴の体を包み込み、寒い空気にさらされた体がほんわかと温かくなっていくようだ。

「・・・・温かい・・・」

思わず声に出すと、剣心が嬉しそうに微笑んだ。
「よかった・・・・俺も冷たい巴を抱きたいとは思わないからな」
僅かに低くなった声音に気付き剣心を見ると、先ほどの笑顔が消え、真剣な眼差しが己に向けられている。



「巴の手が冷たくなったら、俺が温める。手だけじゃない、巴の体も、巴の心も、凍えそうになったら今みたいに俺が温もりを取り戻してみせる」



確固たる口調で剣心は言葉を紡ぐ。



「だから、巴の体が冷たくなるなんてことは、ない」










否、させない。










剣心の瞳が、そう語りかける。



「あなた        



巴が何か言おうとして口を開いた。
だが、思い直したように口をつぐみ、一文字の傷が走る夫の頬に細い指を滑らせた。



「巴?」



温かな手が触れ、剣心はやや困惑したように妻を見やる。
剣心の頬から手を離すことなく、躊躇いがちに巴が言った。



「・・・私も、冷たくなったあなたは嫌です」



巴の瞳が切なげに揺れる。



「だから、生きてください」
「巴        



剣心が声を発すると同時に、巴の手が離れた。



「・・・・そろそろ中に入りましょうか」



そう言って、くるりと背を向けた巴の姿をしばし無言で見ていたが、剣心はその背中に向かって声をかけた。










「それは約束できない」










夫の声に巴は足を止めた。




「前も言ったと思うが、俺は剣を振るい続けなければならない。たとえ、この命を落とすことになろうとも        



巴は振り向くことなく夫の言葉を聞いていた。
彼の言葉は、巴が予想していたとおりのものだった。










彼もまた・・・・私を置いて逝ってしまうの?










予想していたとはいえ、巴は絶望的な気持ちになった。
だが、そんな妻の胸中を察したように剣心が更に言葉を紡ぐ。










「約束は出来ないが、善処はするよ」
「え?」










聞き違えたのかと思い、体ごと夫に向けると、見覚えのある表情をしている。



「俺も、君と共に生きていきたい。それが実現できるように努力するよ」



少し照れ臭そうな笑みを浮かべる剣心の顔を見て、巴はそれをどこで見たか思い出した。










あれは確か、「一緒に暮らそう」と言われた時        










一人感慨に耽っていたのだが、剣心はそれを違う意味で取ったのか、
「冷えてきたな。茶をもらおうか」
と巴を気遣うような口調で言った。
「あ、はい」
夫の言葉に短く答えて、巴は一足先に家の中に入った。










その巴の口元に、小さな笑みが浮かんでいたことを剣心は知らない。















いつか、隠していた真実を彼に話す時が来る。
そして時代が変わり、人斬りを必要としなくなった時代が来たら、その時はあなたと共に生きていきましょう。










二人で夢を探せたら。
心に夢を描けたら         ・・・






【終】

企画室



歌で小説を作ろうのコーナー(笑)第二弾。
長山洋子「蜩(ひぐらし)」です。
たまに演歌も歌うので・・・・というか、物心ついたときにはもう演歌を聴いていたんですよ。
両親揃って昔から演歌を聴いていたらしく・・・車の中で流れる音楽はポップスの類ではなく、演歌でしたからねぇ
そのせいか、かなり渋めに育ちましたよ。
いいんだか悪いんだか・・・( ̄▽ ̄;)ははは

時期的には縁が登場する前かと。
剣心との穏やかな暮らしの中で、巴はこのまま二人で生きていけたら、って思ったんじゃないのかな?
剣心も巴も戦いから離れて、お互い気持ちにゆとりを持った時期なのではないでしょうか。
だから人並みの幸せを夢見ることも出来る。
そんなわけで、作品中の二人は結構前向きです。
そんな歌じゃないんだけどさ(笑)

剣心が左胸に巴の手を押し付けたのは、単純に人間の体の中で一番体温が高いのが心臓部分だから。
心臓が弱い人は絶対に真似しないように!