ようこそおいでくださいました。
当宿ではお客様の望むままに、夢のような一時(ひととき)をご提供させていただきます。
願わくば、当宿滞在中にお客様の中にある憂(うれ)いも晴れますよう・・・・・
introduction
冬、と呼ぶにはさほど寒くも無く、かといって春、と呼ぶには気が引けるようなそんな季節。
とある山に雨が降った。
山の地表に溜まった熱が、雨という栄養を得てその姿を変化させる。
暗い土の中から逃れるように水蒸気となって宙に浮かび、己の前に立ちはだかるものが無いと分かると、自由に森の中を彷徨(さまよ)う。
やがて、その様(さま)を真似るかのようにして、地表から無限の水蒸気が立ち上り、自分と同じ姿のものを見つけ肩を寄せ合うと、辺り一面真っ白な霧に包まれた。
霧が山全体を支配する。
そんな錯覚すら覚えさせた。
山で生きる獣達も自分達の巣穴でじっとしており、かすかな息遣いさえ霧にかき消された。
風すら恐れをなしたかのように、遥か上空で白く染まった山をじっと見ている。
風が無ければ、森に息づく木々もその身を揺らすことが出来ず、その静寂に身を任せた。
静寂まさに今の状況を指し示すのにふさわしい言葉だ。
霧は山の中を縦横無尽に駆け巡る。
だが、その白い世界に色が現われた。
緑と茶色の山の中に不釣合いな赤。
そのまま視線を下に向ければ黒くて細長い線があるのが分かる。
こんな色は知らない。
こんなものは知らない。
恐れをなした霧が逃れるようにして左右に散り、その色に道を譲った。
それでも、その色の正体を確かめんとして霧は遠巻きにして見つめている。
やがて、その色の形が段々はっきりしてくると、それは人間であるということが霧にも分かった。
赤い長髪に、それよりも濃い緋色の着物を身に纏った人間はやや小柄な体格をしていた。
その容姿に最初は女かとも思ったが、腰に差した一振りの刀と、油断無く辺りを窺うその鋭い眼光に、その考えは一瞬で消えた。
何より、左頬の十字傷が印象的であった。
霧も人間は何度も見ているが、彼のような人間は初めてであった。
好奇心も手伝って先程よりも距離を縮めてみると、荒い息遣いが聞こえる。
どうやら随分長いこと、山の中を彷徨っていたらしい。
「完全に迷ったようでござるな」
独り言のようにその男緋村剣心がつぶやいた。
ちゃんとした街道があるのになぜこのような山道を選ぶのか。
その理由はこうであった。
明治というこのご時世に刀を帯びていると、警官達に「廃刀令違反!」と追いかけられることもしばしば。
捕まることは無いが、それでも街道を歩くたびにいちいち追いかけられるのも面倒なので、途中で山に入った。
その日に寄った茶屋で、街道が出来る前は山道を抜けて次の町まで出かけたのだ、という主の言葉を思い出したからだった。
街道が出来てから誰も使わなくなったのか、獣道はほとんど雑草に隠され、なんとか見分けることが出来る程度だった。
まあ何とかなるだろうとたかをくくって歩き始めてみれば、雨には降られるわ、山の中腹辺りで道が完全に途切れるわ、更に引き返そうとしても霧が立ち込めて身動きできなくなるわで散々な目に遭った・・・・・いや、今も『散々』な状況なのだが。
「もう少し登ってみるか」
霧が出て、視界が利かない今、闇雲に山の中を歩くのは危険だと分かっている。
それでも、この真っ白な世界の中にいると、思い出したくもない過去が幻となって現われてきそうで怖かった。
こんな白い中に、彼女の赤い血が飛び散って。
無意識のうちに思い出しかけた過去を振り払うかのように、ふるる、と頭を振った。
よそう。今はただ歩き続ければいい。
彼の足が一歩一歩土を踏みしめ、前に歩いていく。
もう誰も愛さない。
誰とも深く関わらない。
それが一番いい。
そして出来るだけ多くの人のために剣を振るい、誰も傷つけることなく己の人生を終わらせることが出来れば。
「無理に決まってんじゃん、そんなもん」
ぴたりと剣心の足が止まった。
後ろを振り向いてみるが、誰もいない。
誰かの声がしたような気がしたのだが・・・・・
どこか呆れたようなその声は、低くはあるが間違いなく女の声。
一瞬巴の幻聴が聞こえたのかとも思ったが、彼女の声はあんなに低くないし、何より口調が全く違う。
「空耳か」
気を取り直して一歩踏み出すと、ずるり、と足が滑った。
「おろ?」
滑った、というより滑らされた、と言ったほうが正しいか。
まるで座布団を踏んだら、それを引っこ抜かれたような・・・・・そんな意図的なものを感じた。
しかし、剣心の足が滑ったのは事実なわけで。
ただでさえ足場の悪い山の中で足を滑らすということは、つまり。
「お、ろ、ろ!?」
剣心の体が後方にのけぞる。
そしてそのまま彼の体は斜面を転がり落ちた!
「おろぉぉぉッ!!」
何とか止まろうとするも、加速のついた体はそう簡単には止まらない。
彼の体はごろごろと回転しながら落ちていく。
だが、終着点にはすぐに着いた。
ダンッ!
「おろっ!」
自分の体が何か硬いものにぶつかって止まったのは分かるが、ずっと回転していたせいで頭がよく働かない。
「うー・・・今日は厄日でござるなぁ・・・」
ずきずき痛む体をさすりながら、よっこらせ、と自分の体を止めてくれた木に縋(すが)って立ち上がった。
「ふぅ・・・」
その木に体を預けて一息ついたが・・・・はたと何かに気付いて顔を上げた。
「これは柱・・・いや、門でござるな」
山に生い茂る木だとばかり思っていたそれは、木と呼ぶには表面が滑(なめ)らか過ぎる。
数歩下がって、やっと自分がどこにいるかを把握した。
剣心がいるのは大きな門の前。
本来ならばこの門には石段を登ってくるのだろうが、剣心は山から転がってきたので中途半端な所に辿り着いたというわけだ。
中を覗き込むと、その奥には建物でもあるのだろうか。
霧に包まれてぼんやりとしか見えないが、剣心の優れた視力がそれらしきものを認めていた。
「この山の中にこんな建物があったとは・・・」
門構えだけ見ると、かなり年季が入っている。
茶屋の主も、この建物のことは何も言っていなかったから、今は誰もいないのだろうか。
それなら、今夜はここで野宿しようか。
もうすぐ日が暮れる。
霧だけでなく、闇に包まれたら、もう身動きできない。
そう思って、剣心が門をくぐろうとした時、ふと門に掛けられた看板に気付いた。
こちらもかなり古びていて、黒く変色している。
それでも、文字のほうは何とか読めた。
「ええと・・・『流浪人旅荘(りょそう)・・・ゆうせい』?」
最後の漢字の読み方がよく分からない。
しかし剣心は、その宿の名前が気に入った。
「流浪人の宿とは・・・まさに拙者にうってつけの場所でござるな」
「それはお褒め頂いたと受け取ってよろしいのでしょうか?」
いきなり自分の近くで声が聞こえて、思わず腰の刀に手をかけた。
が、すぐに手を離す。
そこにいたのは一人の女だったからだ。
年は自分より年上だろうか。
落ち着いた鶯(うぐいす)色の着物を着ているので実年齢が計れない。
女は、剣心の手が刀にかけられたことに驚いたのか、僅かに体を強張らせた。
「すまぬ、突然声をかけられたので驚いて・・・」
彼女の警戒を解くために、剣心は笑って両手をだらりと垂らした。
「いえ、こちらもご無礼をいたしました」
剣心の気遣いに気付いたのか、女は肩の力を抜いた後、礼儀正しくお辞儀をする。
「失礼だが、こちらの宿の方で?」
「はい。私は当宿の女将(おかみ)を務めております」
「え、女将!?」
思わず声が高くなった。
人がいただけでも驚いたのに、まさか目の前にいる女がこの宿の女将とは。
てっきりこの宿の娘か、仲居かと思っていたのに。
そんな剣心の心を読んだのか、
「意外でしたか?」
とにっこり笑って言った。
「いや、そんなことは・・・」
「いいんですよ。どうも貫禄がないように見えるらしくて、皆さん同じことを考えていらっしゃるようで・・・」
ほっほっほっと笑ってはいるが、どこか言葉に棘がある。
剣心は弁解しようにももう遅いことを本能的に悟った。
何だか居心地が悪くなって、
「じゃ、じゃあ拙者はこれにて・・・」
と早々に辞去しようとすれば、女将に引き止められた。
「あら、折角いらしたんですから、ゆっくりしていってくださいな」
「いや、拙者は先を・・・」
「見たところ、お客様は旅慣れている方のようですが・・・それならば、暗くなった山の中を歩き回ることほど危険なことはないということも、熟知していらっしゃいますよね?」
ずばり鋭いところをつかれて、剣心はすぐに返答できなかった。
そんな剣心を見て、女将は勝利を確信したかのようにこう続けた。
「ここでお客様をお帰しして、万が一お怪我をされたら当宿の手落ちということになります。見ての通りのボロ宿ですが、どうか人助けと思って一晩お泊まりいただけませんか?」
とどめの言葉は『人助け』だった。
そういわれては、剣心も折れるしかない。
諦めたように小さく笑い、
「では、お世話になるでござるよ」
というと、女将は満足そうな笑顔を見せた。
「それではお客様、どうぞ中へ・・・」
女将に続いて剣心も門をくぐろうとしたが、ふと疑問を口にした。
「女将。この宿の名前でござるが・・・この字はなんと読むのでござろう?」
剣心が指差した先には先ほどの黒ずんだ看板。
「ああ、それは『憂晴(ゆうばれ)』とお読みください」
「ゆうばれ?ほぅ、この字はそう読むのでござるな」
剣心の言葉に女将は小さく首を振る。
「私が勝手にそう読むようにしたんです。お客様の中にある憂いが晴れるようにだから憂晴。ゆうせいのほうが読みやすいのは承知しているんですけどね」
「いや、本来の意味を考えれば『ゆうばれ』のほうが拙者は好きでござるよ」
剣心がそう告げると、女将は何か言いたそうに口を開いたが、思い直したように、
「ありがとうございます」
と言って、そのまま歩き出した。
剣心も、数歩遅れて女将の後に続いた。
『流浪人旅荘 憂晴』と書かれた看板をもう一度視界に納めてから。
剣心が通された客室は質素な造りではあるが、それでも入ると自然と肩の力が抜け、ほっと寛(くつろ)げるような空気があった。
部屋の中心に置かれた机に色とりどりの飴玉が置いてあるのが微笑ましい。
これも、女将による旅人への心配りだろうか。
「いい部屋でござるな」
それは本当だった。
女将はボロ宿、と評していたが、剣心から見ればただ豪勢な宿より十分落ち着ける。
「ありがとうございます。でも、造りが古いですからねぇ。さきほどの雨で雨漏りしたところがいくつか・・・」
「もしよければ宿賃代わりに拙者が修繕を引き受けるが」
一晩泊まることにしたのはいいが、あまり持ち合わせが無いと言うと、
「お願いしたのはこちらですから、御代を頂くなんてとんでもない」
と、少しでも払おうとする剣心の申し出を女将は頑(がん)として聞き入れなかった。
修繕を引き受ける、という剣心の申し出に、女将はやんわりとこう返した。
「ご心配には及びませんよ。今回は人手が足りてますから」
「今回は?」
「ええ、お客様のお陰で」
女将の言葉に不可解なものを感じたが、剣心に気を使っているわけではないらしい。
すると、人手があるのは確かということか。
しかし、この宿に入ってから女将以外の人間を見ていない。
そんなことを考えていると、またもや剣心の心を読んだのか、
「それでは、すぐに係の者がお茶をお持ちいたしますので少々お待ちください」
と言って、女将は部屋を出て行った。
「・・・あの御仁は人の心が読めるのでござろうか・・・?」
だとしたら、滅多なことは考えないようにしよう、と剣心は考えたが、それが一番難しいことも分かっていた・・・・・
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
襖の向こうから若い女性の声がして、剣心はちょっと姿勢を正した。
いくらこの部屋が落ち着ける、と言っても、こういった環境にあまり慣れていないのだ。
誰かが来るとどうしても身構えてしまう。
「どうぞ」
剣心の声が聞こえたのか、静かに襖が開けられた。
そこにいたのは桜色の着物を着た、まだ少女と呼ぶにふさわしい年齢の娘。
仲居としての立ち居振る舞いを教え込まれたのか、彼女の一挙一動が実に優雅で、剣心は心の中で感嘆のため息を漏らす。
楚々とした動作に見とれるような形で少女の行動を見守っていると、
「長旅でお疲れでしょう?」
という彼女の言葉を危うく聞き逃すところだった。
「確かに長旅でござるが・・・もう慣れてしまったでござるよ」
「まあ・・・それでは、随分長いこと旅を続けていらっしゃるのですね」
剣心の言葉に興味を引かれた少女が顔を上げると、高く結い上げた黒髪がさらりと揺れた。
「目的はあるんですか?」
「いや、当てのない旅でござるよ」
「ずっと一人で?」
興味津々と言った顔で剣心に先を促す。
もう自分が仲居であることを忘れているのかもしれない。
仲居としてちゃんと教育されていても、やはり年頃の娘だな、と剣心は無意識のうちに頬を緩め、くるくると変化する彼女の表情を楽しんでいた。
反面、これ以上関わりを持たぬ娘にどこまで話していいものやら思案に暮れていた。
「ずっと一人で旅を続けているでござるよ・・・たぶん、これからも」
適当なところで話を切り上げよう、と考えながら剣心は湯飲みに手をつけた。
「・・・ずっと一人で?」
彼女の言葉で剣心の手が止まった。
質問の内容は先ほどと同じだが、意味は全く違う。
それだけではない。
一人で旅を続けると言った本人よりも辛そうな顔をして剣心を凝視している。
「生きていく以上、誰とも関わらずにいるなんて・・・無理よ」
その言葉に先ほど山の中で聞いた女の声が重なった。
だが、すぐに違うと否定する。
目の前にいる少女とは全く違う声質だった。
澄んだ瞳で、剣心の顔を食い入るように見つめる彼女から目をそらしたのは剣心の方。
曇り一つないその瞳に見つめられると、何もかも見透かされそうで怖かった。
「・・・頂くでござるよ」
逃げるようにそう言って、湯飲みに口をつけ、一口飲んだ。
ブッ!
茶とは違う、変な味を舌に感じて、剣心は思いっきり吹き出した。
「げほ、げほっ!」
「きゃあ、お客様!?」
いきなり吹き出してむせている剣心に慌てた少女が、彼の背中をさすっている。
そんな中、剣心の耳がどたどたと慌ただしく走ってくる足音を拾った。
それが部屋の前まで響くと、勢いよく襖(ふすま)が開かれ、女将が飛び込んできた。
よほど慌てたのだろう、裾をからげて走ってきた女将は、湯飲みを手にしたままむせている剣心を見て、
「遅かった・・・・・」
はぁ〜っと大きく息を吐き出して、その後に「チッ」という小さな音が聞こえた。
舌打ちしたように聞こえたのだが・・・気のせいだろうか?
それを確認する間もなく、女将は顔を上げると、
「お客様、大変失礼いたしました。どうもお出しするお茶の種類を間違えたようでして・・・すぐ代わりのお茶をお持ちしますので、少々お待ちいただけますか?」
笑顔で愛想を振りまくが、その笑顔が何だか怖い。
むせているせいもあるが、何も返答できない剣心に構わず、仲居の少女に視線を投げ、
「・・・ちょっと手伝ってもらっていい?」
と言って彼女を連れて部屋を出て行ってしまった。
さすがに気になって剣心はこっそり部屋を出て二人を追った。
出入り口近くまで来たところで、剣心は身を潜めた。
二人の足が止まったからだ。
剣心は、受付に置いてある「千客万来」と書かれた対(つい)の招き猫を見ているふりをしながら、耳をそばだてた。
「あのさ・・・あなたが淹れたお茶なんだけど、アレ、お茶じゃないから」
「え?でも、確かにいつも置いてある棚から出しましたよ」
「・・・で、中身もちゃんと確認した?」
「・・・・・」
黙ってしまった少女を見て、困ったようにため息をつく。
「アレさ、私が使っている茶香炉用の茶葉なんだよね。だから、飲めないんだわ」
「ええ!?でも、お茶って書いてあったし、だから飲めると思って・・・」
びっくりして声を上げた少女に、女将は宥(なだ)めるようにして言葉を紡ぐ。
「もちろん、普通に飲んでも大丈夫なものもあるよ?ただ、今回はちょっと種類がまずかった・・・いつもは違うところに置いてあるんだけどさ」
女将の口調が変わったことにも驚きはしたが、自分は一体何を飲まされたのかということのほうが重大だった。
聞きたいような、聞きたくないような・・・
「実はさ、もともと『飲用不可』って書いてある茶葉を・・・」
女将は少女の耳に顔を寄せて何事か囁く。
それを聞いた少女の顔が見る見るうちに真っ青になっていく。
二人の会話は聞こえないが、少女の顔をみると剣心の胸に否応無く不安が広がっていく。
「更に、ごにょごにょ・・・」
「お、女将!それってかなりまずいんじゃ・・・」
「あ、やっぱり?えへっ」
青くなる少女に、女将は誤魔化すように悪戯っぽく小首を傾(かし)げた。
わざとらしいその仕草が却って不気味だ。
「えへっ」じゃないでござるよ〜!
拙者は一体何を飲まされたのでござるか〜!?
はっ、まさか副作用で明日の朝には体が冷たくなっているとか・・・・・
剣心の背中に嫌な汗が流れたが、
「ま、死にゃしないよ」
あっけらかんと言う女将にほっと一息。
「・・・たぶん、ね・・・」
ふっと視線をはずし、遠くを見つめる女将に少女だけでなく、剣心の顔からも血の気が引いた。
もう出て行きたい・・・
いや、いっそのこと今から逃げ出すか、などと半ば本気で考えていると、
「おう、ちょっとどいてくんな」
いきなり背中を押され、剣心はもろに頭を壁にぶつけることとなる。
「・・・もう出て行きたいでござる・・・・」
たんこぶの出来た頭をさすりながら心のうちを吐き出した。
そんな剣心に全く気付かない様子で、今ぶつかった男が大股で女将と少女の下に歩いていく。
「おい、雨漏りの修繕終わったぜ」
女性二人が剣心と背丈がさほど変わらないのに対し、男のほうはかなり背が高い。
「はい、ご苦労様」
女将も男と話す時は見上げる形になる。
あの男と長時間話すと、首が痛みそうだ。
「補修用の木材足りた?結構雨漏りしていたでしょ」
「ああ、それもあるが予想以上に破損が酷くてよ、しょうがねえから他から調達して直しといてやったぜ」
この宿に雇われているのに、言葉使いがかなり荒い。
雇い主である女将に対してもチンピラのような口をきく。
だが、女将は全く気にする様子を見せず、会話を続けている。
「じゃあ、山から調達してきてくれたんだ?大変だったでしょ、雨でぬかるんで」
「ああ?誰がそんな面倒なことするかよ」
「え?だって他から調達してきたって・・・」
「ちょうどいいのが下にあったからな。それを使わせてもらったんだ」
ここで女将の顔色が変わる。
「・・・ひょっとして、濡れないように壁に立てかけておいた板のこと?」
「おう、よく分かったな」
すぅ、と女将が息を吸い込んだ。
「なんつーことしてくれんだ、このバカッ!」
女将の怒号に、びりびりと周囲の空気が震えた。
あまりの大声に剣心ですら耳を塞いだくらいだ。
怒りの表情を露(あらわ)にして、女将はぐい、と男の胸倉を掴んだ。
それに引っ張られるようにして、男の目線が女将と同じ位置になる。
「あれは・・・・あれはねぇ、古くなってきた看板を新しくしようと思って、業者の人に書いてもらった新しい看板なのッ」
「はぁ?文字なんて書いてなかったぞ」
「濡れたら困ると思って、裏返して立てかけといたの!つーか、普通気付け!!」
自分より背の高い、しかも見ようによってはかなりガラの悪い男に対してここまで言えるとは度胸があるというべきか。
いや、ガラの悪さなら女将も負けてはいない。
出会ったばかりの時は落ち着いた印象を受けたのに、ここまで態度が豹変するとは・・・・・もしかしたら、こちらが素なのか?
「ま、まあ客商売しているのなら、多少違ってもおかしくはないでござるな」
何だかどっと疲れが押し寄せてきた。
長いため息を吐きつつ部屋に戻ろうと踵(きびす)を返せば、今度は幼い少年が正面に立ちはだかっている。
見れば、少年の手には箒と塵取りが握られている。
こんな子供まで働いているのか、とさすがに驚きを隠せなかった。
「童(わっぱ)、お主もこの宿に雇われているのでござるか?」
思わず心に思ったことを口にすると、童は明らかにムッとした顔になり、持っていた箒で剣心の足を叩いた。
「おろッ」
思いっきり脛を叩かれ、強烈な痛みを感じ思わずその場に膝をつくと、
「俺は童じゃねえ!」
憤然とした声が返ってきた。
そしてそのまま剣心の脇をすり抜けようとする少年に、慌てて声をかけた。
「あ、ちょっと」
痛みに顔をしかめながらも呼び止めると、その声に反応したかのように少年の足がピタリと止まった。
ムスッとした声をしてはいるが、それでも剣心に呼び止められたことで渋々といった形で振り向く。
嫌々ながらもちゃんと他人の話を聞く姿勢を見せる少年に、将来大物になるやもしれんな、と剣心は思った。
「・・・何だよ」
「すまぬ、ちょっと尋ねたいのだが。この宿に雇われている人間は何人ほどいるのでござるか?」
「さぁな、俺もあまり詳しくねぇけど・・・あそこで喚(わめ)いている奴らのほかにも何人か見かけたぜ」
くい、と顎で示した先には、まだぎゃあぎゃあ言い合っている女将と男がいる。
先ほどと違うのは、いつの間にやらその中にあの少女が混ざった点か。
「皆、昔からここに?」
「昔からいるのは女将だけだって聞いたことがあるぜ。あとは皆、俺と似たような時期に来たんじゃねぇの」
「同じ時期・・・」
お客様のお陰で、今回は人手が足りてます。
女将の言った言葉が蘇る。
「童、お主は一体いつからここに?」
「童じゃねえって言ってんだろ!もういいだろ、俺は行くぜ!」
もう我慢ならない、といった様子で剣心に背を向ける。
が、数歩行ったところでくるりと向き直り、更に剣心が混乱する言葉を残す。
「女将が言うには、この宿に客としてきた人間が望む夢を見せるんだと。俺達がこんなにこき使われてんのも、あんたのせいだからな!」
そう言って、今度こそ少年は剣心から離れていった。
ますます分からない。
あの子がこの宿で働かされていることが、何故拙者のせいになるのでござろう?
この宿は腑(ふ)に落ちないことが多すぎる。
何気なく少年の走り去る方向を見ていると、彼はまだ言い合いを続けている人間達に声をかけた。
「そいや、女将の部屋を掃除した時に見つけた茶葉、厨房に戻しといたからなー」
「「余計なことしたのは、アンタかーッ!」」
少女と女将の声が見事にハモった。
「何だよ、人が親切でやってやったのによぉ」
「全くだ。力仕事を引き受けてやったじゃねえか」
「威張るな!そして恩着せがましく言ってんじゃない!あんたら二人とも、夕飯抜きッ」
・・・・・仲がいいのか、悪いのか・・・・・
しかし、その光景の中に己がいないことに一抹の寂しさを感じるのはなぜだろう?
何を考えているんだか、と剣心は一瞬浮かんだ感傷を捨て去り、彼もまたあてがわれた客室に戻っていった。
そのため、彼が去った後に、
「だー!あのお客のまわりはこんなんばっかかよ〜・・・」
という女将のぼやきはついぞ聞くことはなかった。
その日の夕飯は専任の料理人が作ったということで剣心は安心して箸を進めることが出来た。
だからというわけではないが、なかなか美味(うま)い。
しかし、どこかで舌に馴染んだこの味わい。
どこかで食したことがあるのだろうか・・・
「いかがですか、お味のほうは」
接客用の顔に戻った女将が、鍋物の中身を取り分けて剣心の前に置いた。
鍋の内容は猪肉を使ったぼたん鍋。
脂の乗った猪肉は臭みもなく、しっかり煮込んであるようで味がよく、肉も柔らかかった。
「味が染み込んで、美味でござるよ。もしかして、この猪を捕らえたのは女将でござるか?」
冗談のつもりで言ったのだが、先ほど見た女将の姿に、ありえない話じゃないなと思った。
「いやですわ、私が猪を捕らえるなんて出来っこないじゃありませんか」
上品そうに口を押さえて笑い、
「猪が勝手に木の根っこに躓(つまづ)いて、のびてしまっただけです」
・・・嘘みたいな話だが、それは口に出さずに、
「ははは・・・」
乾いた笑い声で返した。
ただ、口の端が少しひくついてしまったが。
おかわり盛りますね、と剣心の手から椀を受け取る。
「ときに女将」
「はい?」
「この宿には色んな人間が働いているのでござるな。まだ年端もいかぬ童もいるようでござるし」
女将は表情を見せぬようにして、剣心の前におかわりを盛った椀を置いた。
「今のご時世、あのくらいの子供でも働くことはありますわ」
女将の言うとおりだ。
しかし、剣心は己の中にある疑問を払拭(ふっしょく)することが出来ない。
「誰かとは申せぬが・・・この宿で働く人間から少々気になることを聞いたのでござるが」
かたり、と剣心は箸を置いた。
女将もただならぬ雰囲気を察知したのか、居住まいを正した。
「なんでも、この宿は客としてきた人間が望む夢を見せるとか。そして、拙者がここにきたことによって働かなくてはならなくなった人間がいるらしい・・・それは一体どういうことでござるか?」
ふ、と女将は口角を上げた。
「夢、ですか・・・いらしたお客様に日常から離れ、夢のような一時(ひととき)をご提供することが当宿のおもてなしの形です。ですが、それは他のお宿でも同じことと思いますが?」
正論だ。
女将が誤魔化している様子はない。
先ほどは言葉遣いや態度を豹変させた女将を見て、あれが素か、と思ったが、今向かい合っている女将を見るとこちらが本当の姿ではないかと惑ってしまう。
「・・・興味がおありで?」
剣心の中にある葛藤など知らぬ様子で逆に女将が聞いてきた。
「いや、興味というか・・・女将と雇われている者との間には隔(へだ)たりがないな、と」
「は?」
今度は女将が訝しげに剣心を見る。
「昼間、賑やかだったのでつい気になって・・・」
「昼間・・・?」
「ほら、拙者に茶を運んできてくれた女子(おなご)と、雨漏りの修繕としたという若者と一緒だったでござろう?」
剣心の言葉に女将も思い当たったようだ。
「あ、あら、ご覧になっていた、いらしたんですね」
その時、自分がどうだったかしっかり覚えているらしい。
ほほほ、とわざとらしく笑顔を作る女将の頬に、僅かばかり朱が差す。
ここにきて初めて動揺している女将を見た。
普通の人間らしい反応を見て、剣心は何となくほっとした。
「女将もその若さで宿を切り盛りするとは・・・」
完全に警戒心を解いたわけではないが、少し肩の力を抜いて話しかける。
「あら、お上手ですのね。とても嬉しいのですけど、私、もう若いといわれる年ではありませんの」
照れくさそうに笑う女将にちょっと親近感が湧いてきて、
「おろ、失礼だがおいくつで?」
などと、不覚にも普段なら絶対に聞かぬことまで聞いてしまう。
「私、二十八ですよ」
「え!?拙者と同い年でござるか?」
「・・・その驚きはどういう意味でしょう?」
女将の目がすっと細められたのを認め、剣心は慌てて弁解の言葉を口にする。
「いや、申し訳ない。女将という職業柄、落ち着いて見えたのでもう少し年上かと・・・」
「年中無休で若作りなアンタに言われても全然嬉しかない」
ぼそ、と小声で紡がれた悪態に剣心の耳が敏感に反応する。
「・・・女将?」
「はい?」
にっこりと微笑む女将から、今の言葉が吐き出されたとは到底信じられない。
見ようによっては悪魔のような微笑で、次の言葉を封じられた剣心は仕方なしに再び箸を取り、
「・・・ぼたん鍋、美味いでござるな・・・」
と、黙々と箸を進めたのだった・・・・・
それからは特に何事もなく食事が終わり、女将が食後の茶を淹れてくれた。
昼間の一件があるため、最初は舐めるようにして味を確かめたが、今度はちゃんとした煎茶のようだ。
「まだお床の準備には早いですね・・・もしよろしければ温泉に入ってきては?」
女将の話では、この宿から少し離れたところに温泉が湧き出ているらしい。
「険しい道ではございませんから、足元を照らす灯りだけ持っていけば大丈夫ですよ」
「温泉とは風流でござるな」
先ほど食したぼたん鍋で体は温まっているが、温泉があるのなら、それにつかってみるのもいいかもしれない。
「あまりお客様を楽しませるおもてなしが出来なくて恐縮ですが」
「もてなし?いや、もう十分満足しているでござるよ」
お世辞ではなく、本心からそう答えた。
当たり障りのない言葉でその場を済ませるこの男にしては珍しい。
やや問題はあるものの、この宿で働く者は皆明るくまっすぐな人間ばかりだし、食事は美味かったし・・・他に何を望むというのだろう?
剣心の疑問を予想していたかのように、女将の口から淀みなく答えが紡がれる。
「いえ、そういった楽しみではなく・・・例えば、夜の蝶とか」
ブッ!
剣心はまたもや口に入れた茶を吹き出した。
「それとも夜の華のほうが・・・」
何事もなかったかのようにさらりと言い放つ女将に対し、剣心の方が慌ててしまう。
「言葉を変えても同じ意味ではござらんか・・・って、そうではなく!」
「当宿でも、そういうのは必要かと・・・どう思います?」
真面目な顔をしているが、目は楽しそうに光っている。
剣心の反応を見て楽しんでいるようだった。
「女将・・・勘弁して欲しいでござるよ・・・」
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「女将ッ」
頬が熱い。
自分でも顔が赤くなっているのが分かる。
ふと女将を見れば、してやったり顔で己を見ている。
からかわれた、と理解するのに時間は必要なかった。
「・・・温泉、入らせていただくでござるよ・・・」
「受付に行ってもらえば、ろうそくの準備をしてくれるはずですから」
もはや返事をする気力すらない。
「あ、お客様」
部屋を出る直前に声をかけられて、重い頭を無理矢理動かした。
「・・・『憂晴』とは、憂いが晴れるようにと願いを込めて私が名づけました。それは昼間、お話しましたよね」
先ほどの茶化すような光は消え、女将の視線はまっすぐに剣心を射抜いている。
「私は、お客様にも同じことを願っているのですよ」
女将の口調は真剣そのものだ。
今の女将になら、己の中にある疑問をぶつければ答えてくれそうな気がした。
だが、剣心が口を開くより先に、
「それでは、ごゆるりと」
ときちんと頭を下げ、すでに見慣れた笑顔で剣心を見送った。
それに背中を押されるようにして、剣心は部屋を出るしかなかった。
温泉から部屋に帰ってくると、既に床の用意がされていた。
ふかふかした布団に、剣心の体は落ち着かず、
これでは眠れんかもしれん・・・
そう思って身を起こそうとしたが、なぜか体が布団から出ることを拒否するように動かない。
馴染まない、と思っていた布団は二・三度寝返りをうっているうちに剣心の体をやさしく包み込む。
夕餉と温泉によって得た体内の熱を逃さぬように、それでいて圧(の)し掛かるわけでもないほどよい重さの布団が、剣心にはだんだんと心地よく感じてくる。
眠れない、と思ったのは最初のうちだけだった。
普段なら眠りの浅い剣心が、体の力を抜いてぐっすりと深い眠りについたのはそれからすぐのことであった。
夢を見た。
自分はどこか広い家にいる。
近くに剣術道場でもあるのか、時折竹刀の打ち合う音が聞こえた。
その音がやけに心地よく響いて。
そうかと思えば、今度は何やら言い合っている声。
自分は料理の手を止めて、困ったような笑みを浮かべて道場に向かう。
道場に行けば、自分もその口論に巻き込まれるのは分かっているのに。
でも、それが何だか無性に嬉しい。
「一体何事でござるか」
言いながら、道場の戸を開けた。
瞬間、眩(まばゆ)い光が全てを覆い隠す。
剣心はいとも自然に覚醒した。
何だかよく分からない夢ではあったが、それでも、そこで目が覚めるのが至極当然であるような・・・そんな感じだった。
むくりと起き上がり、身支度を整えて部屋を出た。
宿内はしんと静まり返っており、人の気配が感じられない。
まだ早い時間だから皆寝静まっているのか。
この宿には時計がない。
外に出て時間を推し測ろうとしても、昨日に引き続き濃い霧がたちこめているため、太陽が見えない。
「おはようございます、お早いですね」
霧の中から声がして、女将が姿を現した。
すぐそばまで来ていたはずなのに、昨日同様、女将の気配を察知することが出来なかった。
掴めぬ御仁だ・・・・・
今朝の女将の着物は、濃い桃色に小さな花が散りばめられている小紋だった。
昨日とはうって変わり、華やかな印象を受ける。
もしや、拙者が年上に見えたと言ったから今日は若々しくしているのでござろうか?
考えまいとしてもついそんなことを思ってしまう。
「昨日と違う感じにしてみたんですけど・・・別にお客様に年上呼ばわりされたからこの着物を選んだわけじゃありませんから」
こちらは何も口にしていないのに、それが聞こえたかのように女将が答えた。
営業用の微笑を浮かべているが、目が笑っていない。
・・・まさかまた心の中を読まれたのでござろうか?
「そ、そんなことは思っていないでござるよ。そう、その着物に描かれている花は何かと思って・・・」
咄嗟にそんな言葉が口から出た。
女将はさきほどと表情を変えずに、黙って着物の袖をちょっと掲げて見せた。
何とか誤魔化せたか、と安堵の息を吐き、着物の花に目を凝らし言葉を失った。
そこには、着物一面に描かれた梅の花。
「・・・見事な梅でござるな」
それだけ言うのがやっとだった。
「それ、本心からおっしゃってます?」
「もちろんでござるよ」
だが、僅かに視線が泳いでしまった。
つと、女将は剣心から視線を外し、ぐるりと周りを見渡した。
相変わらず霧が辺りを白く染めている。
「・・・霧が晴れませんね」
「?そうでござるな」
「ところで、昨日お茶をお運びした子のこと、覚えていらっしゃいます?」
「え・・・?」
突然話題が変わり、さすがに戸惑った。
しかし、女将に質問されると同時に、剣心の脳裏に昨日の少女が現われる。
「彼女のこと、どう思います?」
「どう、とは」
女将の真意は分からないが、剣心の頭に一つの想いがよぎった。
昨日の少女にまた会いたい、と。
すると、霧の中から少女の姿が現われた。
剣心をまっすぐ見つめ、嬉しそうに微笑んでいた。
少女の手が、剣心を招くように差し伸べられる。
それにつられるようにして一歩踏み出すと。
「・・・梅はお嫌いですか?」
女将の言葉にはっとして動きを止める。
それと同時に、少女の姿も霧にかき消された。
「梅にはあまりいい思い出がないようですね」
女将の視線は白い霧に注がれている。
ただ、少し寂しげなその表情に巴の面影を見た。
思わず目をこすり、女将と少女のいた方を見比べる。
「これは一体・・・・・いや」
今、己の目の前で起こったことが信じられず、声が掠れた。
ごくり、と生唾を飲み込んで何とか落ち着きを取り戻す。
「どうやら、ここはただの宿とは違うようでござるな」
剣心は女将と向き合った。
だが、その眼光は鋭く女将を射抜いている。
「教えていただきたい。ここはどこで、あなたは何者なのか」
剣心の強い視線を受け、女将がたじろくことはなかったが、それでも少し緊張した面持ちで彼と対峙している。
「・・・当宿は、お客様が望む夢をお見せ出来るんです」
「望む夢?」
眉をひそめる剣心に、女将は無言で頷く。
「お客様は、あの少女とお会いになりましたよね。彼女は、あなた様の望む未来に存在する人間です」
「拙者の望む未来って・・・」
言っていることが全く理解できず、言葉を失った剣心に畳み掛けるようにして、女将は続けた。
「そして、昨日口論していた場面もまた、お客様の望む未来」
昨日の昼間に見た罵り合い・・・あれが拙者の望む未来だというのか?
さすがにそれはないだろう。
剣心は、そのことを正直に女将に告げた。
しかし女将は首を振り、こう言った。
「あの時のことを『賑やかだった』と評されていましたよね。私には、お客様が羨(うらや)んでいるように聞こえましたが?」
そんなことはない、と答えようとしたが、今朝方見た夢を思い出し、すぐに返答できなかった。
「それと、お客様は昨日の少女にまた会いたいと願っただから先ほど、お客様の前に現われたんですよ」
否定する言葉が見つからなかった。
またあの少女に会いたいと思ったのは事実だったから。
「お蔭様で、今回は人手が多くて助かりました」
黙り込んだ剣心に、女将はにこりと笑ってみせた。
その言葉に、あることに思い当たった。
「まさか、この宿で働いているのは、拙者の望んだ未来にいる人間でござるか」
「まあ、そのようなものですね。今はもういませんけど」
「いない?」
先ほどの少女がいなくなったと知ってかなり落胆した自分に気付いた。
「彼らはお客様がこの宿にいる間だけ存在する幻のようなもの。そしてこれから先、お客様は彼らを必要としていない」
ずばり断言する女将に思わず食い下がった。
「なぜ、そう言いきれる?」
剣心の言葉に、女将は間髪いれずに答えた。
「だって、お客様は一人で旅を続けるおつもりでしょう?昔も、今も、これからもずっと一人で生きてそして一人で死んでいく」
ざばりと頭から冷水を浴びせられたようだった。
誰も愛さず、誰とも深く関わらない。
そうすれば、誰も傷つけずに済む。
自分も傷つかずに済む。
そう思って己で決めたことではなかったのか。
「無理に決まってんじゃん、そんなもん」
また幻聴か、と思ったが、その声は自分の正面から聞こえた。
剣心の正面それはもちろん。
「まったく・・・どちらが本当の女将の姿でござろうな」
僅かばかり首を傾げ、口元に笑みを浮かべている女将を見ると、先ほどの声の主と同一人物とは思えない。
だが、自分が聞いた声の主は間違いなく、この宿の女将。
彼女は客である剣心に対して悪びれた様子を見せず、表情を変えずに彼を見返している。
「そういえば、なぜ無理なのかその理由を聞いていなかったでござるな」
「だって、生きていく中で誰とも関わりを持たないなんて無理に決まっているじゃないですか」
ふと、女将の姿とあの少女の姿が重なった。
「そうすれば傷つくことも、傷つけることだってある大体、あなたが誰とも関わろうとしなくても、あなたと深い関わり合いを持ちたい願う人間が近づくことだってあるんですよ」
「・・・まあ、それは確かでござるな」
「言っておきますが人斬り抜刀斎としてのあなたや、飛天御剣流の力が欲しくて近づく人間のことじゃありませんよ」
もっと別の・・・と言いかけて、女将の言葉が途切れた。
剣心の表情が冷たいものに変わったからだ。
女将の背中に、ぞくりとした悪寒が走る。
それでも、その場から動こうとしない。
いや、動こうとしないのではなく、動けないのだ。
「女将・・・お主は拙者のことをどこまで知っているのでござる?」
「ど、どこまで・・・って」
幕末最強と恐れられた剣客の刺すような鬼気に気圧され、さすがに女将の表情が強張った。
通常であれば剣心も女相手にここまで剣気を叩きつけることはしないのだが、今回は別だ。
何せ、常識では考えられない場所に放り込まれ、女将の正体も定かではない。
敵か、味方か。
その実力さえも。
「拙者とて、手荒な真似はしたくない。だから答えてくれんか、女将の目的を」
「だから目的とか、そんなんじゃ」
ひゅ、と空気を切る音が剣心の耳に届いた。
それと同時に反射的に抜刀し、飛んで来た何かを叩き落す。
からん・・・
乾いた音と共に地に転がったそれは。
「日本刀?」
しかも、鞘に納められたままの状態で飛んで来た。
つまり、自分に危害を加えるつもりはないということか。
ゆらり、と白い霧が剣心の足元に絡みつく。
その霧は、剣心の体を覆い尽くすようにゆっくりと上昇してきた。
「な!?これは」
慌てて辺りを見渡せば、女将の姿がない。
逃げられ・・・いや、消えたのか?
「お客様、私はこの宿の女将として当たり前のことをしたまでです」
どこからともなく女将の声が響く。
「お客様の望む夢をお見せして、憂いを晴らすそういう宿なんですよ、ここは」
その間にも、霧が剣心の体を包み込む。
手ごたえのない相手に、剣心がいくらもがいても無駄だった。
「でも、私どもではお客様の憂いを晴らすことは出来ませんでした。だからせめて、憂いを晴らしてくれる人のもとにお客様をお送りいたします」
剣心の体を、そして彼の意識をも、白い霧が覆い隠した。
もう、真っ白な世界しか認識できない。
「もし・・・もし・・・」
誰かに肩を揺さぶられ、剣心は目が覚めた。
目の前で己の顔を覗き込んでいるのは、鍬を担いだ老人だった。
「あんた、ここで寝ていると警察にとっ捕まるよ」
「・・・・・ここは・・・」
まだぼんやりする頭を押さえ周りを見渡せば、そこは昨日通ったばかりの街道。
「山に入る前まで歩いた街道・・・」
口に出してみて、やっと自分の居場所を把握する。
と、同時に一晩世話になった不思議な宿のことを思い出した。
「!!」
いきなり立ち上がった剣心を見て、老人が驚いて一歩下がる。
「だ、大丈夫かね・・・」
「あ、申し訳ない。どうやら、拙者は眠りこけていたようでござるな」
「ひょっとしたら、昨日の夜からここにいたんか?・・・まあ、この山に入るよりはましだが・・・」
そう言って、気味悪げに山を見上げる。
「何かあるのでござるか?」
老人の様子に引っかかるものを感じ、剣心が聞いた。
「昔からの言い伝えだよ。この山のどこかに古びた宿があって、その宿に泊まったものには一時の夢を見させるっていう・・・その後には魂抜かれて取り殺されるとか色々噂が飛び交っているが、ま、ただの迷信だでな」
「少なくとも、半分は当たっているでござるよ」
どことなく楽しげな口調の剣心に対して、
「あ?」
と老人はあんぐりと口を開けている。
「や、何でもないでござるよ」
剣心も、山を見上げた。
面妖な宿ではあったが・・・なかなか、面白い体験をさせてもらったような・・・
宿に一泊したことは覚えているのだが、その中でどんな体験をしたのか、さっぱり思い出せない。
思い浮かぶのは言葉遣いの荒い女と、春の訪れを感じさせる笑みを浮かべた少女。
「そうだ、あんたもこんなところにいつまでもいないでさっさと進んだほうがいい」
何か思い出したのか、老人が慌てた様子で剣心の袖を引っ張り、歩かせようとする。
「何かあったのでござるか?」
「いや、これから起こるかも・・・」
何が起きるのか問いただそうとした時、ピーピーという甲高い音が聞こえた。
「ああ、遅かった・・・」
「やれやれ、またでござるか・・・」
老人と顔を見合わせ、盛大なため息をつく。
「そこの若造!廃刀令違反で逮捕するーッ」
呼子を口から離した警官が、警棒を片手にこちらに駆けてくる。
「ほれ、早く行かんかい」
「忝(かたじけな)い」
ぺこりと老人に頭を下げた後、剣心は地面を蹴り、街道を走っていく。
その後を警官が懸命に追うが、勝負がつくのも時間の問題だろう。
この道をまっすぐ行けば確か東京に出るはず。
明治政府の中心地である東京。
そこには剣心の知り合いも数多く存在する。
出来れば会いたくない輩(やから)もいる。
ひょっとしたら、彼らは剣心の・・・いや、『人斬り抜刀斎』の力を欲して近づいてくるかもしれない。
そういった事態を危惧して、以前の彼であれば東京は避けて通ったはずなのだが。
「まぁ、そういう輩ばかりとも限らんし」
彼にしては楽観的な考えである。
その楽観的な考えこそが、彼の未来を大きく変えることになろうとは、この時の剣心は知る由もなかった。
「女相手にあそこまで凄(すご)むかね、普通・・・つか、絶対私のこと、女だと認識してないとみたね」
そう言いながら、女将は地面に落ちた刀を手に取った。
「あの時は、女将の正体が計り知れなかったゆえ・・・こちらとしても油断できなかったのでござるよ」
嘘つけ、と言いたげな視線をその先の建物に向けると、そこから困ったように眉尻を下げた一人の男が出てきた。
先ほど日本刀を投げたのはこの男の仕業らしい。
この場にいた剣客と同じように髪の色が赤いが、こちらの男は髪を短く刈っており、左頬の十字傷がかなり薄くなっている。
「話には聞いていたけど、さすがに迫力あるな〜」
「はは、照れ臭いでござるな」
「いや、褒めてないから」
ぴしゃりと返され、男は肩をすくめる。
その様子を一瞥した後、女将は悔しそうに唇を尖らせた。
「結局、何も出来なかった・・・私じゃ駄目ってことは最初から分かっていたけどさ」
はぁ、とため息をつきながら宿内に入る。
「あーあ・・・やっぱりお客様全員の憂いを晴らすなんて私には無理なんかなー・・・」
首を回すと、コキコキと音が鳴った。
「でも、拙者はここに来たことで憂いを晴らすきっかけを掴むことが出来たでござるよ」
振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた男と目が合った。
「憂いを晴らすことは出来ずとも、この宿で何かを得ることが出来る少なくとも、拙者がそうだった」
「・・・あのさ、私がおだてに弱いの知っててそういうこと言う?」
男の言葉に少し照れたのか、それを隠すかのようにわざと不機嫌に問うと、滅相もない、と男が慌てて否定する。
しばらく疑わしそうに見ていたが、もう一度はぁ、とため息をつき、
「・・・そういうこと言われたら、頑張るしかないじゃん!」
よし、と自分に言い聞かせるようにして背筋を伸ばすと、そのまま歩き出した。
そんな女将の後姿を見て男も満足げに頷き、後に続いた。
着いた先は『小説置場』と小さく書かれた一室。
戸を開けて真っ先に飛び込んでくるのは一振りの長刀。
女将は迷わずそちらに歩み寄り、長刀が納められている台座に刀を置いた。
「・・・さて、しばらくお客様は来そうにないからもう帰っていいよ。あとは私一人で大丈夫だし」
「・・・また女将一人になるのでござるな」
男の言葉に目をぱちくりさせたが、やがてけらけらと笑い出した。
「あのね、本人よりも沈んでどーすんの!私の心配するくらいなら自分の心配でもしなよ」
「・・・女将、言葉遣い荒いでござるよ」
「いーのさ、お客様の前ではちゃんと猫かぶってるし。ほれほれ、かわいい奥さんが待ってるんだから、早く帰んな」
『奥さん』という単語が出た瞬間、男の頬がだらしなく緩んだ。
「からかわないでほしいでござるよ〜。確かに妻はかわいいし、よく気がつくし・・・そうそう、こないだも拙者の着物がほつれているのを・・・」
「・・・鼻の下伸びてんぞ」
げんなりとしつつ、今すぐ帰れ、と冷たくあしらっても、でれでれしている男はそれに気付かない。
「では、お言葉に甘えてお先に失礼するでござるよ」
「ほい、お疲れ」
部屋から男が出て行くと、ふと思い出したように女将も部屋を出て男の背中に声をかけた。
「いつも来てもらって悪いね!お陰で助かった」
いきなり礼を言われてびっくりしたようだが、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「礼を言うのはこっちのほうでござるよ。先ほども言ったが、この宿に来たことがきっかけで今の拙者がいる。せめてこのくらいはさせてもらわんと」
この男がまた宿に姿を見せるようになったのは奇跡に近い。
普通の人間ですら、この宿に足を踏み入れることなどないというのに。
「・・・初めて来た時のことを思い出したってことにも驚いたけど、ここで何か手伝わせて欲しい、って言われた時はもっと驚いた。私も変わり者だけど、あんたも相当な変わり者だよね」
その時のことを思い出しながら言うと、男の苦笑する声が返ってきた。
「ま、手伝ってもらって助かっているのは事実だかんね。頼りにしてまっせ、料理長」
「任せるでござるよ、女将」
にっと女将が笑ったのを見届けてから、今度こそ本当に男は去って行った。
男が去った後には、女将である私だけ残された。
別に感傷に浸るタイプではないが、誰もいなくなった宿はがらんとしていて、なんだか物悲しい。
人がいないだけで、こんなにも雰囲気が違うとは・・・
『また女将一人になるのでござるな』
料理長の言葉が耳の奥から聞こえる。
否定はしない。
客のいない宿なんて、ただのボロ屋敷に過ぎないのだから。
でもま、私なりにのんびりやっていけばいい。
料理長は私が一人になるって決め付けているけど、実はそうじゃないんだな、これが。
そりゃ、大勢ってわけじゃないけど、この宿を訪ねてみたいって言ってくれる人もちゃんといるんだから。
それにまだ会ったことはないけど、いつも応援してくれる人もいる。
そういうお客様がいる限り、頑張ってみるさッ!
ほぅら。
言っているそばから誰か来たみたいだし。
本日のお客様はどなた?
そう。
本日のお客様はあなたかもしれません。
ようこそおいでくださいました。
当宿ではお客様の望むままに、夢のような一時をご提供させていただきます。
願わくば、当宿滞在中にお客様の中にある憂いも晴れますよう。
ここは『流浪人旅荘 憂晴』。
皆様のお越しを、 心よりお待ち申し上げております・・・
【終】
この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
・・・ですが、当宿内におきましてはその限りではございません。
真実は、お客様の中に。
※別窓です。閉じてお戻りください。