策略を成功させるには、ことを仕掛けるまで相手にそれと気付かせぬようにすることが重要である。 抜かりはない
空が群青から茜色に変わる頃、規則正しい生活を営む者の常として、神谷家の厨(くりや)でも夕餉の支度を始めた。
主に赤毛の男の仕事であったが、最近では家主の少女も一緒に手を動かす姿が見られるようになった。
普段は道着姿で勇ましい彼女も、やはり年頃の乙女。
料理が不得手であることに幾分の引け目を感じているらしく、剣術の他に家事全般も天才的な腕を持つ剣心に教えを請うてくる。
最初の頃は野菜を切る回数よりも指を切る回数の方が多く、傍らで見守る剣心としてははらはらし通しであったが、同じことを何度も辛抱強く教え続け、薫も失敗を繰り返しながらも素直に聞き入れたのが功を奏したのか。
料理の基礎はしっかり学んだ薫に、剣心も影のようにぴったり寄り添って監視もとい、指導する必要もなくなってきた。
それでもよそ見をして指を切りそうになったり、調味料を間違えることもあるのでいまだ油断はできないが。
「薫殿、腰掛けたほうがいいのではござらんか?」
気遣わしげに見やるその先にいるのは大振りの鉢を抱えている薫。
中には蜆(しじみ)と葱が入っており、薫はそれらを酢味噌であえているところであった。
いかにも重そうな鉢を左手で抱え、箸で混ぜているためそれを見かねてのことだが、
「やあね、このくらいで音を上げるようじゃ師範代はつとまらないわよ」
剣心の杞憂をよそに、からから笑って聞き過ごした。
「それよりも、このくらい混ぜればいいかしら?」
手を休めずに尋ねると、
「どれどれ」
剣心が首を伸ばしたのと、薫が小さな悲鳴を上げたのはほぼ同時。
ぴ、と弾かれるような音がしたかと思うとかき混ぜている拍子に酢味噌がはねて剣心の頬に付いたのだ。
「ご、ごめんっ」
「何、大したことはござらん」
拭おうとして剣心は漬物を切っていた手を止めて包丁を置いた。
が、彼の意識は馴染みのある香りが濃くなるとそちらに向けられた。
「・・・・・!」
酢味噌が飛んだと思われるあたりに、やわらかな何かが押し付けられてすぐ離れる。
己の頬に何が触れたかを瞬時に悟ると、剣心の体が固まった。
唯一動く瞳で薫を見やると、
「この方が早いかと思ってつい・・・剣心、漬物切っていたし」
確かに漬物を切っていた手で拭いたら逆に臭いが付いてしまう。
剣心も同じことを考えて、懐から手ぬぐいを出そうとしていたのだが、それより早く薫に舐め取られた。
「ごめんね、いきなり」
すまなそうに肩をすくめたが、薫からしてみれば肩に付いた糸くずを取るのと同じような感覚なのだろう。
事実、そのまま何事もなかったかのように作業を続けている。
だから薫は気付かなかった。
赤くなった剣心の瞳が忙(せわ)しなく動き、明らかに狼狽していることに。
幸いなことに今の醜態は彼女に見られていない。
本人にその気はないし自覚もなかったと思うが、剣心にしてみれば薫にしてやられた感じだ。
剣心の頬を舐め、分かってやった上で平然としている薫など滅多に見られるものでもないが、その動じていない姿を前に些(いささ)か面白くないのも事実。
本人の意思を無視してまで想い人を己の思うがままにしたいと願うのは男の性(さが)だろうか。
薫の行動は予想外だったが、予定が早まったと思えばいい。
剣心の目が細められた。
再び作業に没頭している薫は接近する剣心に気付かなかった。
僅かに影がさしたところでやっと顔をあげると、そこを狙ったかのようにぺろんと盛大に頬を舐められた。
「ひょぇえぇぇ!??!!」
色気の欠片(かけら)もない悲鳴をあげ、鉢を取り落としそうになったが、自分のそれより大きな手が添えられて事なきを得た。
「いいいいいいいいいきなり何をっ!?」
軽く混乱に陥(おちい)っているのか、声が裏返っている薫を楽しげに見つめ、
「何って、薫殿と同じことをしただけでござるよ」
「お、同じこと・・・?」
きょとんとしたかと思えばすぐ難しい顔になって何やら考え込んでいる。
やがて今自分にされたこととそれに繋がる出来事を思い出すと、面白いくらいに薫の顔が赤く染め上がった。
「何が同じことよ!私のはちょっと舐めただけでしょ!?剣心みたいな舐め方してないものッ」
真っ赤になった薫の抗議に対して、剣心はどこ吹く風。
「そうでござったかな?」
素知らぬ態度が薫の怒りに更に火を注ぐ。
「分かったんならいい加減離してちょうだい。私達、夕飯の支度してるんでしょ!?」
鉢が落ちないように剣心の手が添えられているが、もう薫一人で持てるようになっていた。
だが、彼女の言葉など耳に入らなかったかのように剣心は手を離そうとしない。
「では、こうでござったか?」
今度は薫の頬に唇を押し付けて、舌でちろりと触れた。
「ちょっと、剣心・・・!」
「おろ、違うのでござるか?」
「そうじゃなくって・・・ン!」
軽く口づけを続けながら、剣心の唇が薫の首筋に辿り着いた。
そこを吸い上げられて思わず声が漏れる。
「・・・それとも、舐めるよりこっちの方がいい?」
少し低めの声にぞくりとした。
そのせいで声を発するのが一拍遅れ、剣心はその隙を見逃さず唇を塞いだ。
逃れたくても両の手は剣心の手で押さえられている。
やや力がこもっているのは重い鉢を持った薫の負担を減らすためか。
「や・・・だ・・・ッ」
少女の唇の弾力を楽しむように触れては離れ、また吸い付く。
角度を変え、何度も繰り返される口づけに、頭の芯がしびれてくる。
いつの間にか抱えていた鉢は奪われ、とん、と置かれる音が遠くで聞こえた。
流されてはいけないと思いながらも思考がぼやけてくるのは自分の意思ではどうしようもできなかった。
男の口づけに身を任せることしかできず、足に力が入らなくなった頃、剣心の唇が不意に離れた。
「はー・・・」
剣心にもたれるようにして体を預け、薫は肩で呼吸を繰り返す。
その体をしっかり抱きしめている剣心は、無言で薫が落ち着くのを待っていた。
荒い呼吸が穏やかなものに変わると、覗き込むようにして少女の表情を伺う。
だが、薫は剣心の胸に顔をうずめたままでこちらを見ようともしない。
「薫殿?」
呼びかけると薫の手に力が入ったのが分かった。
「いきなり・・・何考えてるのよ〜」
「ああ、すまぬ。まず最初に夕餉を済ませたほうがよかったでござるな」
「そういう問題じゃなくて!誰かに見られたらどうするのよ!もうすぐ弥彦も帰ってくるっていうのにッ」
「こんな時分に誰も来ぬよ。それに、弥彦も今日は寄らずに長屋に帰ると言っていたし」
「な!?」
がばっと顔を上げた薫が見たのは涼しげな笑みを浮かべている赤毛の男。
「だから心配無用でござるよ」
要するに全て承知の上での所業だったらしい。
もともと万事抜かりなく進めていく男だが、こういった方面のこととなると更に拍車がかかっているような気がするのは間違いではないだろう。
唖然としている薫に気付きもせず、剣心はやや考えるように顎に手を添えた。
「しかし薫殿の言うことも一理ある・・・やはりこういうことは後の楽しみということで」
さすがに反論しかけたが、艶を帯びている瞳に見つめられると、それだけで何も言えなくなってしまう。
剣心はといえば、やっと彼女を解放し、
「さあ薫殿。夕餉にしようか」
熱を帯びた瞳を向けながらも、飄々としている彼がそこにいた。
策略を成功させるには、ことを仕掛けるまで相手にそれと気付かせぬようにすることが重要である。
そして成功しても己の感情を面に出すことがない。
之、真ノ策略家也。
【終】
企画室
「毎日が恋模様」未来様主催の「剣薫萌え祭2」出展作品。
このお題を見た時、σ(^◇^;)の脳裏には黒い笑みを浮かべる剣心が(笑)
どーもウチの剣心は腹黒で・・・ええ、σ(゚∀゚)も腹黒ですが何か?