出稽古の後に道場主から「他の門下生と共に夕食でもいかがですか」と誘われた。
躊躇した。
突然のことで、しかも今日は夕餉(ゆうげ)前には帰ると伝えてきたのだ。
剣心はなんと言うだろうと考えると、いつもと変わらぬ笑みで「せっかくのお誘いを断っては先方に失礼でござるよ」と答える夫が思い浮かんだ。



あの人はいつもそう。
私が妻らしくなくても全然気にしない。



あの時応じてしまったのはきっと彼に対して不安だったせい。















十一月二十二日



そろそろ日付が変わる。
しばらく時計と玄関の方角を交互に見ていたが、帰ってくる気配すら感じられず剣心はため息をついた。
神谷活心流にも門下生が数人新たに入門しているが、薫は出稽古の数を減らすことはなかった。
それは祝言を挙げて剣心の妻になった今でも変わらない。
一派を担う剣術家として他派と剣を交えるのは悪いことではない。



だがそれはあくまで「剣術家として」だ。
竹刀を手放せば凛々しい女剣士から一人の女性へと変わる。



先程出稽古先の道場から使いがきたことを思い出す。
稽古が終わってから道場主から夕食に呼ばれたため、帰りは遅くなるとのこと。
他道場の、しかもいつも世話になっている道場主からの誘いとあれば断るわけにもいかないだろう。
それでも夕餉だけであれば一刻ほどで帰路につけるはずだ。
弥彦も同伴していることだしさほど遅くはなるまいと考えていたが、時計の針は剣心の予測時刻をとうに通り過ぎた。
時が過ぎれば過ぎるほど、剣心の眉間に深い皺が刻まれていく。
しかし彼の苛立ちは妻の帰りが遅いだけではなかった。

またため息が漏れる。
剣心は逆刃刀を手に取り腰を上げた。



















(どうしよう)
注がれる酒を笑顔で受けてはいるが、さすがに時刻を知ると薫も焦ってきた。
夕食とはいうものの、門下生全員揃っているため実際は宴会のようなものだ。
その証拠に薫の手の杯にはなみなみと酒が注がれ、中には既に出来上がっている門下生もいる。
「さぁ薫さん、ぐいっといっちゃってください!」
「じゃあこれを頂いたら私はそろそろお暇(いとま)を・・・夜も遅くなりましたし」
「何を言うんですか。薫さんと飲める機会なんてそうそうあるものではありませんし、せめてもう少しいてくださいよ〜」
そういうわけには、などと逃げながら弥彦を探すが、彼は既に酔いつぶれた後で母屋に寝かされている。
誘いを受けたとき真っ先に、しかし小声で反発したのはこの一番弟子だった。



馬鹿、何で断らねえんだよッ
剣心が待っているんだろ?



そこで素直に折れればよかったのだろうが、そう出来ないのが薫の性格。
ちゃんと剣心には伝えてもらうからと宥め、仏頂面の弥彦共々夕餉の席についたのだ。
それに、弥彦がいるからこそ誘いに応じられたとも言える。
長引くようであれば弥彦を言い訳にして暇乞いをすればいい。

そんな浅はかな目論見は、弥彦が酒を飲みすぎて早々に潰れてしまったことで脆(もろ)くも崩れ去った。

最初は薫のお目付け役のように目を光らせていたが、同年代の門下生達と剣術の話で熱く語り合い、勢いのまま酒を煽っていた。
あっという間に限界量を超え、薫が止めようとしたときには遅かった。
食べ合わせも悪かったのか、厠(かわや)にこもり上へ下への大騒ぎ。
幸いなことに母屋から駆けつけた奥方が薬を飲ませてくれたおかげで医者を呼ぶまでには至らなかったが、安静にさせたほうがいいと告げられ、更には翌日まで弥彦を預かるとまで言ってくれた。
そうなると余計に薫もすぐ席を立つわけにもいかない。
道場の若者達はこれ幸いとばかりに色めきたち、今に至る。
だがもう限界だ。
道場主や門下生の気を悪くさせてしまってもそろそろ帰らねばならない。

「でもあまり遅くなると剣、じゃない、主人に怒られてしまいます」

何か言われるたびに返してきたこの台詞ももう何度目か。
繰り返される『主人』という単語に、向かい合っていた門下生の眉が不機嫌そうに上がった。
「主人ったって、今日遅くなることは伝えてあるんでしょ?それとも早く帰って来いとでも言われましたか?」
「それは・・・」
薫は口ごもった。
家主と食客から恋人となり、そして今は夫婦となった。
しかし、剣心は世に言う亭主関白ではなくむしろ出会った頃と全く変わらない。
お互いを「剣心」「薫殿」と呼び合うことも。
道場のために日々奔走する薫を支えるように朝早く起き出し食事の支度、掃除、洗濯をこなしていく。
逆転夫婦であることに不満はないのかと問うたことがあるが、逆に何故かと問い返された。










『何故って・・・だって、旦那様である剣心に家のことを全部押し付けているのよ?本当だったら私がやらなくちゃいけなのに』
『しかし薫殿には活心流を盛り立てていく役目があろう。拙者は薫殿の助けになるのであれば家事をこなすくらいどうということはござらん』
『でも、誰かに何か言われたら剣心だって嫌でしょう?』
『好きに言わせておけばいい。それとも薫殿の信念はその程度のことで曲げられるのでござるか?』
『そんなことない!私は結婚したっておばあちゃんになったって活心流を守るんだからッ』
『では決まりでござるな』










まっすぐな瞳で言い切った薫に満足そうな笑みを浮かべた剣心は、言葉通り家のことは全て請け負った。
おかげで薫は今まで以上に活心流のため、そして己の精進のため全力で剣術と向き合うことが出来た。
それは言葉に言い尽くせないほど感謝している。
感謝していいはずなのに、心の中では小さな不満が芽生えている。
剣術に打ち込むことを反対されているわけではない。
むしろ理解しているからこそ、家事全般を引き受けてくれたのだ。
では何が不満なのかといえば。

(何も言われないのが不満なのかしら?)

時折、知り合いの道場から宴会の誘いがあっても剣心は「他流と交流を持つことは悪いことではござらん。銃火器が世に出回っている今こそ流派の垣根を越えて一致団結して竹刀剣術を後世へ伝えることもできよう」と笑顔で送り出す。
遠くの道場へ出稽古に赴くときもそうだ。
「遠方から薫殿に依頼が来るのは、それだけ神谷活心流が名を上げているからでござるよ」と、送迎までしてくれるほど。
道場絡みとはいえ、妻が家のことを放り出してあちこち出かけたり夜遅く帰宅するのだ。
これでは夫でなくとも嫌味の一つも出るだろう。
しかし剣心は全く頓着しておらず、薫の背中を押し続けている。










(私って、ちゃんと剣心の奥さんになったのよね?)

祝言は挙げた。
一つの部屋で過ごし、一つの布団の中で睦み合う。










夫婦になった証といえばそのくらいしか思い浮かばないが、床の中でも「明日は出稽古があるから」と一言告げれば、剣心はそれ以上何もしてこない。
床を同じにしたことを除けば、二人の関係は出会った頃と変わっていないといえる。

「で?どうなんですか?」

徳利を持った青年に返事を促されるまで自分が物思いにふけっていたことに気付かなかった。
薫の周りには酒の匂いを漂わせている門下生で囲まれている状態で、なかなか解放してもらえない。
「今日のことは急でしたので他の方に伝言をお願いしましたけど、返事は特に何も      
「これこれ、あまり薫君を困らせるでない。遅くなったせいでご主人に叱られては可哀想だ」
少し離れたところから道場主が声をかける。
遠目から見ても薫が困っているのが分かったのだろう。
しかしこの若い門下生は少々ずる賢さを併せ持っているらしい。



「大丈夫です先生。薫さんのご主人はとてもやさしい方で、遅くなっても構わないそうですよ」



伝えた言葉が都合のいいように脚色されたことに対して反発を覚えたが、
「ほう、ご主人は理解がおありのようだ。さすがは薫君の選んだ男よ」
酒が入り機嫌よくなった道場主にそう言われては薫もぎこちない笑みで応えるしかない。
「これで気兼ねなく飲めますね!」
にこやかに距離を詰めてくる彼の表情は、思惑通りことが運んで喜色に満ちている。










完全に逃げる口実を失った      いや、そんなものは最初から存在しなかったのだ。
そもそも薫が遅くなると分かった時点で何故「すぐ帰ってこい」と言ってくれなかったのか。
夫の一言があればどれだけ懇願されようともすぐ帰ったのに。










(自分の妻が他の男性とお酒を飲んでいても剣心にとってはなんでもないことなんだ)
諦めに近い感情が薫を支配する。
なんだか無性に虚しくなってくる。
酒を勧める門下生の声も、周りのざわめきもどこか遠くのことのようだ。
ふと手にした杯が目に入り、薫はそれを一気に飲み干した。
おお、という歓声が聞こえ、自嘲気味に口角が上がった。
しかしそれは違う意味合いで取られたらしく、薫の見事な飲みっぷりに勢いを得た者が杯を満たす。
「そうそう、この調子でもう一杯!」
「一杯といわず遠慮なく飲んでくださいね」
薫は何も答えず無言で杯を空ける。
「薫さん、すげーッ」

もともと酒に弱い上に立て続けに無茶な飲み方をしたものだから喉が熱くなり、頭がぼんやりする。
ほぅ、と熱い吐息を吐き出すと周囲の若者達が魅入られたように動きを止めた。

「薫さん・・・?」
一人が呼びかけると薫はゆらりと視線だけを向けた。
潤んだ流し目に全員声も出ない。
誰かが薫から目を離さないまま酒を注いだ。
自然な動作でそれを口に運ぶ薫を、全員息を呑んで見つめる。
ふっくらとした唇が杯に触れる。
ごくりと喉を鳴らした者がいたが、諌めるものは誰もない。
そのまま酒を流し込み、魅惑的な表情を期待したのだが。










「飲み過ぎでござる」










寸前で待ったをかけたのは彼女の夫。
いつ道場に上がり込み、輪の中に割り込んできたのか誰も気付かなかった。
今彼らの頭の中には『何故この男がいるのか』という疑問だけだろう。
「けんしぃん?」
ゆらゆらと頼りなく振り向く妻を見て剣心の目が細められた。
薫を取り囲む若者をぐるりと見渡すと、誰もが視線を逸らしたりうつむくなどして剣心と視線を合わせようとはしなかった。
人妻になって独特の色香を醸し出す薫に対して邪念がなかったとは言い切れないため、皆居心地が悪そうだ。
剣心は彼らを冷ややかに一瞥した後、突然の来訪者に呆気に取られている道場主のもとへ歩み寄った。
「この度は妻が世話になり申した。何分、酒に慣れていないものでさぞかしご迷惑をおかけしたかと」
「何の、こちらも薫君と飲めて楽しかったから気にせんで欲しい。それに詫びるのはこちらの方だ。奥方を遅くまで引き止めて申し訳なかった」
頭を下げた剣心に道場主も気を取り直したようだ。
詫びる道場主に対して「こちらこそお誘いいただき光栄でござる」などと返すのだろうかと何気なく考えていた薫だったが、次の瞬間酔いが一気に覚めた。



「前もって約束されていたことなら構わぬが、何の約束もなしにいきなり人の妻を引き止めて、挙句酒の席に同席させるのは些(いささ)か配慮が足りぬのではござらんか」



はっきりとした口調で責める剣心の表情は厳しい。
にこやかな応対を予測していた薫や他の門下生達もぎょっとして目を剥いた。
ふらつく足を叱咤して立ち上がると、
「ちょっと剣心、先生に失礼でしょ!?お誘いに応じたのは私なんだから、先生には関係ないじゃない」
だが剣心は薫にも冷淡な声で告げる。
「薫殿も薫殿でござる。いくら誘われたからといって軽々しく応じるのは少々考えが足りないようでござるな」
「な・・・ッ!?」
あまりの言葉にすぐ言い返すことも出来なかった。

(私が悪いっていうの!?そりゃお酒を飲みすぎたり遅くなったのは悪いと思うけど剣心だって駄目だって言わなかったじゃない)

それなのにいきなり押しかけてきてあの言い様。
納得できないことだらけだ。
「とにかくほら!先生に謝って!」
「いや薫君。ご主人の言うことももっともだ」
声を高くした薫を静かな声が制す。
「ご主人から何も言われてなくともやはり人妻である薫君を男ばかりの中に遅くまでいさせるのは確かに問題だ。迷惑をかけたのはこちらの方だ」
すまない、と頭を下げられた。
「そんな、先生      
しかしその後は他の声によってかき消された。

「違います、先生は悪くありません!」
「僕らが薫さんを無理に引きとめたんです」
「申し訳ありませんでしたッ」

門下生全員頭を床に付くまで深く垂れている光景に薫は困惑した。
見れば先程までしつこく薫に付きまとっていた門下生達も粛々と頭を下げている。
剣心は全員頭を下げていることを認めると、戸惑う薫の手を取った。
「以後、気をつけていただきたい。では拙者らはこれにて」
何か言う暇もなかった。
薫は剣心に引き摺られるような形で道場を後にしたのだった。




















夜の闇に提灯の頼りない明かりだけが帰路を照らしていた。
掴まれた手はとうに離され、薫は前を歩く剣心のあとについていた。
      何であんなことしたの?」
ぽつりと呟かれた言葉にどちらからともなく足を止めた。
「いきなり乗り込んできたかと思えば先生にあんなこと言って。あそこの先生はまだ話の分かる人だからいいけど、悪ければ出稽古先を一つなくすところだったのよ」
ひゅう、と秋の冷たい風が通り抜ける。
酔いはとうに醒めていた。
「さっきも言ったが今回の件については薫殿にも落ち度がある。ああいった席では酒が出されることくらい知らないわけではなかろう?そして薫殿自身、酒に弱いことも」
「わ、分かっているわよ」
「では何故承諾したのでござるか?拙者が止めなければ勧められるまま飲み続けていたのでござろう?」
「それは反省しているわ。でもそれとこれとは別よ。先生に失礼なこと言うしおまけに皆さんの前で私のこと叱るようなこと言って・・・酷いわ」
無意識のうちに恨みがましい口調になる。

これでは剣術に夢中になりすぎて妻として全く役に立っていないようではないか。
確かに妻として胸を張れるようなことはないが、それでも人前であそこまで言われるのは我慢できなかった。

「あんな風に叱られたら活心流の師範代は家のことをほったらかしにしてるなんて言われて」
まだ言い足りなくて愚痴っていると前を向いたままだった剣心が振り向いて怒鳴った。
「自分の女房を叱って何が悪い!」
びくっと薫の肩が大きく揺れたが、気遣う余裕などなかった。










稽古で遅くなるのはまだ許容できる。
道場同士の交流も大切だと分かっている。

だが、酒の席で自分以外の男達に囲まれているのは我慢できない。










「薫殿は妻以前に女子としてもっと警戒すべきでござろう。万が一何かあればそれこそ師範の名折れでござる」
今まで溜めてきた不満が形となった。
しかし、今彼の口から飛び出した『妻以前に』      その単語が耳に届いた瞬間、薫の中で何かが切れる音がした。

「知らないわよそんなこと!」

今に至った経緯ややりとりをばっさり切り捨てる発言に剣心は言葉を失った。
「私が出稽古に行こうと遅くなろうと何も言わないくせにッ」
高い声で喚く薫はまるで聞き分けのない子供だ。
「それは・・・活心流のことを第一に考えれば拙者のわがままで薫殿を縛り付けるわけには」
勢いに押されて、剣心の口から本音が滑り出た。
が、激昂した彼女は気付かず、勢いはそのままに言い放つ。
「道場のことは剣心より私のほうがよく分かっているわ!でもたまには縛り付けてよ!叱ってよ!私は・・・剣心の奥さんなんだから!!」
感情を制御できずに叫ぶと、酸素を肺に取り込むかのように大きく深呼吸した。
きっと睨みつけたかと思えば、ふっと自虐的な笑みを漏らし聞き取れぬほどの小さな声でぽつりと呟く。
「そうしないと・・・知らない間に剣心からどんどん離れて行っちゃうんだから」



怒っているのか嘆いているのか分からない表情だった。
が、黒瞳(こくどう)から一滴の涙が零れ落ちて彼女の本心を剣心に伝える。



うつむかず正面を向いたままの薫を剣心は己の胸に導いた。
「それは困る。薫殿は拙者の妻ゆえ、共にいてくれねば」
ぴくりと反応し、恨みがましい目を向けた。
「ずるいよ・・・こんなときばかり私のこと『妻』扱いして」
「夫としての本音を言えば拙者のことだけ考えていて欲しい。しかし、剣術家として薫殿の夢を叶えて欲しいのもまた本音」
それは拙者の夢でもあるのでござるよ      囁かれた言葉に新たな涙が溢れるが、剣心の唇がそれを拭う。
「だから結局拙者のわがままなのでござる」
「そういうことも言ってくれないと分からないじゃない。もとはといえば剣心が何も言ってくれないのが悪いのよ」
すまぬ、と困った声が聞こえた。
そして遠慮がちに付け加えた。

「しかし薫殿。それは拙者とて同じこと」

薫を見ると、問いかける眼差しと出会った。
「他道場との交流は大切にせねばならない      だがそれらが全て薫殿にとって居心地の良いものとは限らない」
今夜のことを蒸し返されるのかと思ったのか、薫の表情が苦虫を噛み潰したようになった。
そうではないことを伝えるようにやさしく髪を梳く。
「顔見知りであっても他の男達の中にいてほしくないが、道場同士のことと言われてしまえば拙者はただ待つことしか出来ぬ。だから、薫殿が嫌な思いをしていると分かっていてもすぐ駆けつけることが出来ないのでござるよ」
「・・・・・いつも笑顔で送り出されるからそういう集まりに私が行くことを歓迎しているのかと思ったわ」
初めて聞く夫の告白に耳を傾けていたが、聞いているうちに普段から感じていた疑問が口から飛び出す。
答えを待つように己の顔を凝視している黒曜の瞳から逃れるべく、こつんと妻の肩に頭を乗せる。



「言ったでござろう、他の男達の中にいて欲しくないと。言ってしまえば薫殿に詰(なじ)られそうで怖かった」
彼女の夢を応援したい気持ちは本当なのに、彼女の夢を潰すような発言しか出来ない。



「だから何も言わなかったのね」
返事をしない剣心を薫の両腕が包み込む。
顔を上げると穏やかに微笑む妻がいた。
      これからはお互い思っていることを言うようにしなくちゃね。ずーっと一緒にいるために」
「そうでござるな」










ゆっくり薫の顔が近付き、二人の唇が軽く触れ合う。
これだけ?というような夫の瞳に苦笑しながら、今度は希望に応えるべく彼の上唇を甘噛みして深く口付けた。










正確には口付けようとした。
瞬時に二人が離れたのはこちらに向かってくる足音と荒い呼吸が聞こえたから。
「道場の人かしら?」
「いや、この気配はおそらく      
剣心が答えるより早く薫にも分かった。
掲げた提灯の明かりにぼんやり浮かび上がったのは、道具袋と竹刀を二人分抱えて不安定な格好で走ってきた弥彦だった。
「弥彦!」
「ちょっとあんた、大丈夫!?」
慌てて駆け寄る二人に、恨みがこもった目が向けられる。

「お前ら・・・!俺のこと完全に忘れてただろ!!」

その場にへたり込み息を切らせている弥彦に、
「「あ」」
「『あ』じゃねーーーーーッ!!!」
仲良くハモッた声に弥彦の怒声が重なった。
「目が覚めてみりゃ布団に寝かされているし道場に行ったら通夜みたいに重い空気になってるし挙句の果てには薫は剣心と一緒に帰ったって言うし・・・俺をあのまま置いていくつもりだったのかよッ」
一気にまくし立てる弥彦を必死に宥め始めた。
「忘れていたわけじゃないわよ?でもあんたはすぐ動かせる状態じゃなかったし奥様や先生も泊めてくださるっておっしゃってくれて」
「明日にはちゃんと迎えにいこうと思っていたのでござるよ」
やや早口になりながらも懸命に言葉を紡ぐ二人を交互に見比べ、やれやれと大人びたため息をついた。



「心配して損した。お前ら、ちゃんと仲直りしたんだな」
「え?」
「おろ?」



言われている意味が掴めず、剣心も薫も首を傾げた。
そんな二人を面白そうに眺め、わざと面倒臭そうな表情を作る。
「全く・・・妙なところで似たもの同士の夫婦の面倒見るのは苦労するぜ」
「何であんたにそんなこと言われなきゃならないのよッ」
むっとして詰め寄る薫を剣心がまぁまぁと押さえる。
「お前らのその性格が人に迷惑かけてるってことをいい加減自覚しろよな。おい、剣心!」
名を呼ばれて顔を向けると、弥彦の親指が荷物を指した。

「あとは任せたからな。俺、もう限界・・・」
「や、弥彦!?」

語尾が小さくなりふーっと後ろに倒れこんだ弥彦に薫が悲鳴に近い声を上げた。
素早く剣心が様子を見るが、健やかな寝息に安堵の息を吐く。
「大丈夫。ただ眠っているだけのようでござるよ。呼吸も落ち着いている」
よかったという呟きが聞こえ、剣心は右手に弥彦を抱きかかえ、道具袋を背負って立ち上がった。
「剣心、弥彦の分も私が持つわよ。さすがに弥彦を背負ってじゃ重いでしょうし」
「平気でござるよ。普段薫殿に鍛えられているゆえ」
「む!それっていつも重い買い物を頼んでいる私への嫌味?」
少女のように唇を尖らす様に頬が緩んだ。
「おろ、今度からは思っていることを口にしてよかったのではござらんか?」
「う・・・言ったけど・・・」
詰まった妻を他所に、子供一人を抱えて道具袋二人分を背負いながらもふらつくことなく歩を進める。
言葉を探す薫に足を止めた剣心が更に告げた。
「ではもう一つ言っておきたい」
改まった口調で自然と背筋が伸びる。
しかし、告げられた言葉に薫の頬が紅潮した。



「弥彦を送って家に帰ったら先程の続きをいたそうか」



くるりと振り向いた剣心は満面の笑み。
薫はしばらく硬直したままだったが、
「・・・・・絶対しないからッ!!」
自分の道具袋と竹刀を抱えて追いかけてくる足音を聞きながら、剣心の微笑が深くなった。










二人が夫婦となって初めて喧嘩しお互いの本心を知ったのは、現代でいえば十一月二十二日      後に「いい夫婦の日」として制定された日である。





















【終】

小説置場



こちらは過去に発行された某アンソロジーに参加させていただいた時の作品です。
恋人未満・恋人・新婚夫婦それぞれの剣薫を書くことになっていまして、σ(^^)は新婚担当でした。
当時もあとがきに書いたけど、新婚=夫婦ということで無理矢理こじつけたようなブツになってしまいました。
タイトルと最後の部分は確実に後付けです、ハイ。

夫婦の剣薫と考えて、「妻を叱る旦那」という構図が書きたかったんですね。
冷淡にネチネチ説教するんじゃなくて(笑)
感情を露わにする剣心もなかなかいいんじゃないかと自己満足に浸ってます(=ヮ=)