北海道にある樺戸(かばと)集治監の面会室に一人の男が座っていた。
顔立ちは整っており、なかなかの男前だ。
しかし着ているものを見ると果たして今の時期に合っているのか疑問に思われる。

    四乃森蒼紫は、洋装に薄い外套を羽織っているだけ。

現在蒼紫が住む京都では桜の花が見頃を迎え、春の陽気に包まれている。
ここが京都であれば何ら問題はなかっただろう。
しかし今蒼紫がいるのはまだ雪さえちらつき、春の足音すら聞こえぬ北の大地。
出入り口で待機している警官達が時折訝(いぶか)しげな視線を投げてくるが、当の本人は全く頓着しない。
暖房などないに等しい面会室で、彼はただ一人の男を待ち続けていた。



やがて四半刻ほど経った頃か。
警官に付き添われて一人の僧が面会室に入ってきた。



僧と呼ぶには眼光鋭く、武道家のように鍛えられた肉体を持つ。
目の下に塗られた墨が更に威圧感を与えるこの男は、己を呼び出した蒼紫を視界に捉えると無表情で切り出した。
「また主か。この寒い中、ご苦労なことだ」
蒼紫もまた無機質に答える。
「こちらに来る用事がある。お前と会うのはそのついでだ」
「主が顔を見せるようになって十年以上経つが、毎回同じ答えなのだな」
ここでようやく表情らしきものを見せるようになった。










僧の名は悠久山安慈。
「明王の安慈」としてその拳で人の命を奪い続けた破戒僧である。










蒼紫が集治監に服役中の安慈を尋ねるようになったのは、志々雄真実の乱が終息を迎えた一年後から。
それから今日に至るまで年に一度は顔を合わせている。
「お前のことは緋村剣心や相楽左之助が気にかけているからな。俺はそれを受けて様子を見に来ている」
「そのために私の刑期を短く出来るよう奔走していることも知っている。だが最初に言ったろう。私は与えられた懲役を全うすると」

「しかしお前はもう来月で出所することが決定している」
「何?どういうことだ」

椅子に座った安慈がすぐ腰を浮かしかけた。
「まさか、主が・・・?」
「俺は何もしていない」
「しかし」
突然の赦免(しゃめん)に少なからず動揺していると、蒼紫が説明した。
「この地で暴動が発生し囚人が溢れかえったため、集治監の収容人数が定員より大幅に超えてしまった。そのため模範囚であるお前を出所させることになったのだ」



そうはいっても暴動が発生したことをいいことに様々な裏工作を施したのは蒼紫だろう。
誰に対しても感情を表に出すことはないが、彼もまた、安慈を影ながら気遣っている一人だ。

そう、己が昔から大切にしている小さなくの一の命が安慈によって救われたと知ったときから。



「納得できない、と言ったら?」
「納得しようがしまいがお前は従うしか道がない」
それに、と蒼紫が続けた。
「何も刑に服すだけが償いではないし、自分と向き合うのであればここでなくともできる」
それもまた悪くはないだろう、と締めくくった。

他の者が言うと軽く聞こえる言葉も、蒼紫が言うとまた違ってくる。
彼もまた、己自身を見つめ直す旅をしてきたのだ。

安慈はといえば言いたいことはまだあるが、既に決定したことを覆(くつがえ)すことは出来ないと悟り、目を閉じた。
思いもよらぬ事態になったが、これも己の運命なのだろう。
「分かった。主らの心遣い、感謝する」
「俺は何もしていないと言ったはずだ」
「そうだったな」



やがて安慈が集治監を出所する日が来た。
刑に服してから十五年後の、明治二十六年のことである。

「さてこれからどうしたものか・・・」



自由の身になったとて、これといった目的があるわけでもない。
ひとまず安慈は東京に向かうことにした。
今回の件について、蒼紫一人の判断とは思えない。
きっと絡んでいたであろう緋村剣心の顔でも見ておこうと考えたのだ。










安慈が海を渡り、到着した横浜の地で出会うは二人の少年。
一人はかつての敵であった緋村剣心の息子・剣路。
そしてもう一人はとある目的のために日本に来た印度の子供。



物語は緋村剣路が横浜の地に降り立ったことから始まる。




















明王は導かない 【前編】



「何で俺がこんなこと・・・・」
風呂敷に包まれた重箱に視線を落として、剣路はうんざりしたようにため息をついた。
横浜駅に到着した蒸気機関車に残っている乗客はほとんど降りたようで、車内はがらんとしている。
ホームに立っている駅員が幾度となく剣路に視線を送るのは機関車が停止しているにも係わらず降りようとしない乗客を不思議に思っているのか。
しかしそうではないことを剣路は嫌というほど分かっている。

理由は父親譲りの赤い髪だ。

傍目(はため)には異人に見えるこの容姿は、開国してから二十年以上経っても変わらず好奇の的になる。
物珍しそうな駅員の目が厭(いと)わしく、膝の上に置いた荷物を手にして剣路はようやく機関車から降りた。
風呂敷包みを両手で抱えると中身の匂いが鼻腔から入り込んでくる。
重箱の中身は母が作った煮物や握り飯が入っている。
ほっとする匂いのはずなのに、それすら神経を逆撫でする。



「親父のために作ったんだから母さんが持っていけばいいじゃないか」

そう。
最初は母親である薫がこの弁当を運ぶ予定だったのだ。
警察から仕事を頼まれて横浜に滞在している夫のために。



だが神谷活心流の師範である母は本日午後から他流道場への出稽古に行くことになっており、横浜から戻ってすぐまた出かけるという極めて強行な予定にたまらず剣路が代理を申し出たのだ。

無論、出稽古の代理だ。



しかし剣路の案は即座に却下された。
理由は明白、いくら腕は確かと認められても若干十三才で、しかもまだ門弟の一人に過ぎない剣路に出稽古は任せられないというのだ。















「だったら弥彦兄ィに頼めばいいだろ?」
「弥彦は別の道場で出稽古の予定が入っているから無理よ」
「だからって親父の弁当を持っていくなんて役目、俺はごめんだからなッ」
全身全霊で拒否の意を伝える息子に、ふぅと小さくため息をつき、
「分かったわよ。最初の予定通り母さんが横浜に行ってその足で出稽古に行けば済むことだし」
そう言ってさっさと支度を始めようとする母親に今度は剣路が目をむいた。
「それこそ無理があるだろ!若く見えたって母さんもいい年なんだから自覚してくれよ」
「んま、失礼ね!まだまだアンタに心配されるような年じゃないわよっ」

言い出したら聞かないのは薫の悪い癖だ。
こうなったら剣路が折れるしかない。

「・・・・分かったよ。俺が横浜まで行ってくるから」
「あら助かるわー!じゃあこれ、お弁当と横浜までの運賃ね!」
渋々引き受けた剣路とは逆に、薫は満面の笑みを浮かべてさっさと重箱と必要経費を息子に手渡す。
あまりの手際のよさにもしやはめられたのかという気がしないでもない。
そんな考えが頭をよぎったのは母の笑顔に送り出され、蒸気機関車に揺られているときだった。















横浜駅を出るといくつもの露天商が視界を占領する。
光沢のある布地を張り巡らせている店もあれば、手のひらに乗るようなかわいらしい小物を売っている店もある。
中でも目を引いたのが仏像や観音像を並べている店だ。
ざっと見た感じではそこが一番規模が大きい。
横浜で生活している白人に声をかけ、揉み手しながら近付くのはこれまた白人だ。
日本の仏像など、古美術品は外国人によく売れるらしいという話を聞いたことがある。
何気なく見てみれば仏像の眉間にきらりと光るものや浮き彫りにしてあるものが認められ、売人はそれを指差しながら何とか売りつけようと熱心に客を口説いている      無論、全て外国語なので剣路には何を話しているのかさっぱり理解できないが。



好奇心も手伝って立ち並ぶ露天を見ながら歩いていると、空腹を感じ始めた。
どこかで軽く食べようかという考えが頭をよぎったが、先程から匂っている煮物のせいか、剣路の意識は抱えている重箱に集中している。



「・・・・親父のためにここまで来てやったんだから、少しくらい食べてもいいよな」
同意するように腹の虫が鳴ると我慢できなくなった。
弁当を広げられそうな場所を適当に見繕うとさっさと重箱を開ける。
まず煮物を一口放り込んで顔をしかめた。

「甘っ・・・・母さん、また砂糖を多く入れたな」

剣路は知らないが聞くところによると母・薫は娘時代から料理が苦手だったらしく、あまりの味の酷さに一口で人を卒倒させるほどの威力を持っていたらしい。
それが剣心と出会い夫婦になってからというもの、夫の手ほどきを受けながら徐々に上達していった。
今ではそんな時代があったことすら忘れてしまうほどだ。



しかし、この煮物だけはいただけない。



別に剣路が辛党というわけではないが、さすがに甘すぎる。
醤油も入っているはずだが、集中して咀嚼(そしゃく)するとかろうじて分かる程度で、一緒に煮込んだそら豆など甘納豆とさして変わらない。

それでも父親はこの甘い煮物を好んで食べている。
一度理由を聞いてみたところ、
「疲れているときにこれを食べると疲れなど吹き飛んでしまう。やはり甘いのがいいのでござろうな。無論、母さんの料理はどこの料亭にも負けないほどうまいがこれは格別でござるよ」
と惚気(のろけ)にも似た返事を聞き、質問したことを悔いた覚えがある。

口直しで握り飯を頬張っていると、建物の影から重箱に伸びる手があった。
素知らぬ顔をして様子を伺う。
あと少しで握り飯に手が届く、というところで剣路の手が伸びた。










「分かっているのか?お前は今、人として恥ずべき行為をしているんだぞ」
「!!!」










剣路に掴まれると、手首から全身の震えが伝わる。
ぼろ布を被ってはいるが、背丈は低く、掴んだ手は小さい。
この界隈を縄張りとしている地元の子供だろうか。
外国人居留地として繁栄しているように見える横浜だが、ここにも貧富の差は存在しているのだ。
盗みでもしなければ己の糧(かて)を得られぬほど貧困に苦しむ子供を哀れに思わぬでもないが、それでも盗みを黙って見過ごせるほど剣路は聖人ではない。
「別にお前を警察に突き出そうなんて考えちゃいない。けどコイツは頼まれ物だから全部あげられないんだ」

それでも握り飯一つくらいなら      続けようとした剣路の口から漏れたのは苦痛の悲鳴だった。

「いってぇぇぇぇぇ!!!!」
何と最後の足掻きとばかりに子供が剣路の手に噛みついたのだ。
たまらず掴んだ手を緩めると、その隙に重箱を奪って走り出す。
「いくら腹が減っているからって噛むか普通!?」
手を伸ばすが僅かに届かない。
代わりに子供が被っている布を掴んだ。
ずるりと布が落ち、子供の姿が露(あらわ)になる。
「お、お前    !?」
その姿を目にした瞬間、剣路は言葉を失った。



褐色の肌に意志の強そうな瞳。
髪は短く刈られ、彫りの深い顔立ちは明らかに日本人のそれとは違う。



今まで白人を見かけたことがあるが黒人は初めて見た。
素顔を曝け出されたことに黒人の少年も警戒の色を浮かべた。
が、すぐ背を向けて一目散に逃げ出した。
「ま、待てッ」
初めて見る黒人に呆けてしまったがすぐ己の置かれている状況を把握し、剣路もまた駆け出した。
店の中から黒人の子供を見つけて飛び出してきた人間達には気付かぬままで。















赤い髪同様、足の速さも父親譲りだ。
駅前の繁華街を抜け、剣路はじわじわと少年との距離を詰めていった。
舗装中の街道に出ると人の数がぐっと減っていったが、前方に大きな人影が見える。
その男は重箱を抱え必死に逃げる少年の姿を認めると、すれ違いざま二の腕を掴んで足を止めさせた。
少年が抗(あらが)うが、体格のいい成人男性とでは力の差がありすぎる。

「よっし!坊さん、そいつ放さないでくれよッ」

僧というより何らかの武術でも嗜(たしな)んでいそうな風情を漂わせているが、この際見た目で判断した。
剣路も足を止め、少年から重箱を奪い返そうとする。
が、がっちり抱え込まれて簡単には返そうとしない。
「お・ま・え・な・〜!少し分けてやるから放せってば!」
双方顔を真っ赤にして、重箱の攻防戦は続く。
その様子を黙って見ていた僧が口を挟んだ。
「主にとってこの重箱は命を懸けてでも奪い返さねばならぬものなのか?」
「はぁ!?こんなときに何だよ?悪いけど禅問答している暇なんて・・・」



声をかけられて集中力が切れた。
重箱を掴んでいた剣路の手が離れ、いきなり解放されたため反動に耐え切れず少年の手からも重箱が離れた。



「あーーーーーーッ!!!!!」
剣路の叫びも虚しく、誰も掴むことのない重箱は当然のごとく地面に落ち、乾いた音と共に中身が散らばった。
「あーあ、こりゃもう駄目だな・・・」
盗んだのは黒人の子供だが、そのきっかけを作ったのは自分だ。
両親に報告しなければならないが、気が重い。
「で、この子供はどうする?」
静かに事の成り行きを見守っていた僧に問われ、剣路は少年に視線を移した。
食べ物を得ることは出来なかったが、このままおとなしく捕まるつもりはないらしく、いまだにじたばた暴れている。
「いいよ、もう放してやっても。こっちは重箱を取り戻したかっただけだし」
正確には重箱の中身だけど、と付け加えてがっくり肩を落とした。
ひとまず空っぽになった重箱を片付け始める。



すると信じられないことが起きた。
解放された少年が散乱した食べ物を鷲掴み、自分の口に持っていくではないか。



「おい     
地面に落ち砂利にまみれたものまでそのまま咀嚼する少年に声をかけても、無我夢中で食べ続けている。
味など関係なく、ただひたすら口に入れては飲み干していた。
それを己の糧とし、彼は生き延びようとしているのだ。

「よせって!腹こわすぞ!!」

声を張り上げたのは現実を目の当たりにして目を背けたくなった己への叱咤か。
力ずくで制止させようとする体を押さえたのは傍(かたわ)らにいた僧である。
き、と睨むが僧は剣路を見ずにこう言った。










「泥まみれだろうが腐ったものだろうがこの子供にとっては貴重な『糧』だ。今、主が止めたせいで飢え死にするやもしれぬ     それでも止めるか?」
「そりゃこいつが腹を空かせているのは分かるさ。だからって」
「分かっていながら主に止める権利はあるのか?止めた後はどうする?一時の同情で施(ほどこ)したところで飢えはまたやってくる」



淡々とした口調だが僧の口から言葉が紡ぎ出されるたびに気圧(けお)される。






中編