明王は導かない 【中編】



返す言葉が見つからず唇を噛むと、ものを詰め込みすぎたのか、少年が苦しそうに胸を叩いた。
声をかけるより早く、僧が竹筒を彼の口にあてがい水を流し込む。
最初は嫌がるように首を捩(よじ)っていたが、中身が水だと分かると自ら竹筒を支えて飲み続けた。

やがて竹筒から口を離し、驚いたように僧を見上げる。
なぜ盗人である自分を責めずに水を与えるのかと問いかけているかのようだ。

僧は懐から丸い乾パンを取り出し、少年に語りかけた。
「言葉が通じずとも、これが食べ物であることは分かるだろう。砂まみれのものを口に入れるよりこれを食え」
促すように差し出され、少年の目が僧と乾パンを交互に見比べる。
警戒心が残っているようだが空腹には勝てなかったのだろう。
乾パンを掴み、あっという間に平らげてしまった。
「・・・坊さん、言っていることとやっていることが違うんじゃないか?」
「もう坊主ではない。今の私は破戒僧だ」
「ふぅん」
興味なさそうにしている剣路を見て、僧が意外そうな表情になる。
「驚かんのか」
「あんたの見た目からして普通の坊さんじゃないことくらいすぐ分かるさ。でも格好は坊さんなんだからそう呼ぶしかないだろ」
「変わった子供だな」



変わり者扱いされたことか子ども扱いされたことかどちらが気に食わなかったのかは定かではないが、仏頂面になった剣路を見て僧の口元が綻んだ。
満腹になった黒人の子がそんな二人をじっと見上げている。



「ここ、汚れてる」
正面から向き合っていた剣路が自分の頬を指すが、意味が飲み込めないらしく少年は首を傾げた。
「だから    って日本語分からないよな」
言葉で伝えることを諦め、手ぬぐいを取り出し、
「じっとしてろよ」
顔全体を拭ってやるとそこでようやく分かったようだ。
少年が両手を合わせて頭を下げた。
そして僧にも同様に一礼する。
「何だ?」
「主と私に礼を言っているのだろう」
今度は僧が腰をかがめ、少年と同じ目線になった。



「私は悠久山安慈。あんじ、という」



名乗りながら自分を指差し、次いで指が剣路に向けられた。
自分の名を聞かれていることはすぐ分かった。
「あ、俺は緋村剣路だ。剣路でいいぞ」
安慈と同じように自分の顔を指で示してから、
「お前の名前は?」
少年に指を向けると、何を聞かれているか察したようだ。

「アカラナータ」
「アカ・・・ナー?」

独特の発音で一度では聞き取れない。
すると今度は一語一語区切ってゆっくりしゃべった。
「ア・カ・ラ・ナ・ー・タ」
「ああ、あからなぁた、ね」
名前が聞き取れても同じように発音できない剣路に、アカラナータが吹き出した。
「笑うなよ。お前の名前が難しいんだよッ」
むっつりとして空の重箱を風呂敷に包んでいると、途端にアカラナータの表情が曇った。
盗もうとしていたことを反省しているのだろう。
項垂れるアカラナータの頭に手を乗せ、
「いいよ。それより、もうこんなことするなよ」
がしがしと撫でると硬くて短い毛の感触が伝わった。
咎めようとしない剣路に対し、まだアカラナータの表情は晴れない。



腰につけてある小さな袋の中から何かを取り出すと、剣路に差し出した。
釣られて手を出すと、剣路の手の中に小さな玉が転がった。
透明なそれは太陽の光を受けてきらりと光る。



「へぇ、きれいなもんだな。これ、お前の?」
指でつまんでよく見てみる。
剣路の脇から覗き込んだ安慈の目が細められた。
「いや、これはもしや    
手に取り、更によく見ようとしていた安慈の言葉が途切れた。
数人の足音と叫び声を聞いたからだ。
男達は剣路らの姿を認めるとぐるりと囲んだ。
よく日焼けしており、むき出しの体には筋肉が盛り上がっている。
彼らも日本人ではないことが見て取れた。
男達はアカラナータを指差して何事か話しかける。
やはり何を言っているのかは分からないが、きつい口調で何事か責め立てている様子だ。

アカラナータは彼らの言葉が分かるのか、拒否するように首を横に振る。
言うことを聞かないアカラナータに苛立ったのか、男の一人がぺっと唾を吐き捨てた。

力ずくで連れて行こうとしたが、それは安慈によって阻まれた。
男が何か言いかけたが、その顔が見る見る苦痛に染まっていく。
安慈が男の腕を捻り上げたからだ。



それを見て残った男達は標的を安慈へと変更し、一気に躍りかかる!



が、それより早く剣路が飛び出した。
地面に落ちていた太めの枝を手にして一閃。
先頭にいた男がまともに剣撃を食らい、後ろの仲間を巻き込んで仰向けに倒れた。
そのまま全員をなぎ倒そうとする剣路の肩を安慈が押さえる。
「待て。どうやら新手が来たようだ」










駆けてくる馬車の音に剣路も気付く。
男達も先程とは打って変わって道を空けるようにして脇に避けた。
速度を落としやがて止まった馬車の上には目にも鮮やかな色彩の壷や数体の仏像が積まれている。










アカラナータが珍しそうに馬車に見入っていたが、中から洋装を身に纏った白人紳士が現れると凍りついたように動かなくなった。
「アカラナータ?」
怯えた様子のアカラナータに声をかけても、安慈の背中に隠れるようにして身を硬くしている。
馬車から降り立った白人紳士は黒人の子供の存在に気付くと相好を崩した。

「探したぞ、アカラナータ!」
てっきり英語で話すかと予想していたが、意外なことに滑らかな日本語が白人の口から滑り出た。
表情と同様、その声も喜びに溢れている。

「この子供の知り合いか?」
隠れたままのアカラナータを一瞥して安慈が問うと、
「はい。私は英吉利(イギリス)で貿易の仕事をしているリチャードといいます。航海の途中で印度(インド)に立ち寄り、仕事を探しているこの子と出会い、雇うことになったのです」
「じゃあ、あんたはアカラナータの主人ってことか?」
剣路の問いかけに笑顔を崩さぬまま答えた。
「もともと印度で親兄弟と暮らしていましたが、家が貧しくて・・・そのため、まだ幼いアカラナータも仕事をしなければ食べていくことも出来ない有様でした。その話を聞いた私は同情し、この子を雇うことにしたのです」
ここでリチャードの表情が曇る。
大きなため息をつくと、やや演技がかった口調で続けた。
「しかし見ての通り、アカラナータはまだ子供。親元から離れて心細いせいもあるのでしょう、なかなか私に心を開いてはくれません」










そして横浜に寄航し、ほんの少し目を離した隙にアカラナータは船を抜け出したと言う。
「それが今朝のことです。私はとても心配で、船の水夫達にもアカラナータの行方を探させていたところです」










今も脇で控えているのがその水夫達だろう。
先程から銅像のように直立不動したままだ。
主人であるリチャードの命令がなければこのまま動かないのだろうか。



リチャードの話を要約すると、雇って欲しいと言ったのはアカラナータでリチャードは快く了解した心優しい雇い主ということになる。
しかもいなくなった子供を必死に探し出そうとしていた。
今も船を抜け出したアカラナータを叱るどころか無事見つかったことを我がことのように喜んでいる。



考えれば考えるほどリチャードは人間的にも立派な英国紳士といえよう。
しかしそんな紳士に対するアカラナータの態度はまるで変わっていない。
リチャードが現れてからというもの、表情は硬くなり、安慈の法衣をずっと握り締めたままで再会を喜ぶようには見えない。
釈然とせず、剣路は真正面から向かっていった。
「リチャードさん、だっけ。話を聞いている限りじゃあんたがすごくいい人に思えるよ。でもアカラナータはそうじゃないみたいだぜ?」

しかしリチャードは顔色一つ変えず、平然として言ってのけた。

「それはきっと私に叱られるとでも思っているのでしょう。この子は印度の言葉しか知りませんから、今どんな話をしているのかも分かっていませんし」
それでも疑惑の目を向ける剣路に、
「あなたは私が本当にこの子の雇い主か疑っているのですね?」
「そりゃそうだろう、俺らはあんたの雇った水夫達に襲われかけたんだからな」
「それは大変失礼をしました。私はただこの子を連れ帰るように言ったのですが、どうやらうまく伝わっていなかったようです」
さらりと答えられ、剣路は更に食い下がった。
「俺と会ったとき、こいつは飢えに苦しんでいた。あんたが本当にいい人ならアカラナータはここまで空腹になることもなかったはずだ」
「しかし、雇い主でなければ私はこの子の名前すら知りませんよ」
言われてぐっと詰まった。



「で、でも名前くらいどうとでも調べられるだろ!?」
「あなたの言うことももっともですが・・・先程から聞いていると、あなたはどうしても私を悪者にしたいらしいですね」
ふぅ、とリチャードはため息をついた。
まるで剣路を哀れむかのように。
リチャードの一挙一動にむかむかしてきているが、それを懸命に押さえた。
「こいつがあんたと会えて喜んでいるなら俺だってこんなこと言わないさ。見ろよ、この怯えようを」
「しかしそれはあなたが自分でそう思っているだけ。何か根拠はあるのですか?誰が聞いても納得するような根拠が」
「それは」



ぎ、と唇を噛んで黙り込んだ。
対してリチャードは勝ち誇ったように嫌味な笑みを口元に乗せている。
こっちが彼の本性なのだろう。










悔しいがリチャードの言うとおりだ。
剣路は怯えるアカラナータの様子だけで判断した。
いや、もはや直感である。
剣路の直感は的中することが多いが、それを言葉で示すとなると相手を納得させられるような言葉が何も出てこなかった。










黙り込んだ剣路を蔑むように一瞥し、リチャードはアカラナータに向き直った。
「さぁ行こうか、アカラナータ」
リチャードが優しく微笑むが、目が笑っていない。
今度こそアカラナータの小さな体が震え出した。
一歩踏み出そうとした剣路だが、リチャードの言葉が蘇りその場にとどまった。
アカラナータから助けを求める視線を受けても何も出来ずにいる自分が歯がゆく、そして悔しかった。



「探しているのはこの子ではなくこちらではないのか」



静かな、だが誰も無視することなど出来ぬ力強い声がその場に響いた。
今まで気にも留めていなかった存在に目を向けると、安慈がまっすぐ己の拳を差し出した。
その拳の中に隠されたものが明らかになると、リチャードの青い目が大きく見開かれる。

安慈の手に乗っているのは先程アカラナータが剣路に贈った小さな玉。

反射的にリチャードが手を伸ばすと、安慈が退く。
「どうやら図星のようだな」
「な、なんのことでしょう・・・私はこの水晶に見覚えはありませんよ」
「そうか。この玉は先程アカラナータから渡されたものだ。しかし主に見覚えがないというのなら私がもらっても全く問題はないのだな?」
懐に仕舞おうとする安慈にリチャードが慌てて付け加えた。



「待ってください!実はその水晶玉は商品の一部でして・・・返していただきたいのですが」
「嘘つけ!さっきは見覚えがないって言ってただろ!?」
「Shut up!すぐ思い出せないことだってあるッ」



焦燥のため思慮することを忘れたのだろう。
思わず口を挟んだ剣路に敬語を乱暴な口調で叫び返した。
双方何も言葉を発せぬまま睨み合いが続く。
そして沈黙を破ったのは今度もまた安慈であった。




「話は変わるが主は貿易商だと言ったな。私の知り合いで裕福な僧がいるのだが、その者が珍しい仏像を欲しがっているのだがどうだ?何かいいものはないか」
口を開いた安慈が放った言葉は睨み合っていた二人の注意を引き寄せることに成功した。
呆気に取られたのはリチャードだけではない。

「おい坊さん、一体何言い出すんだよ!?」
「もともと横浜に立ち寄ったのも頼まれ物があったからだ。このこととアカラナータのこととは関係ない」

いきり立つ剣路を他所に安慈はリチャードと向き合った。
「荷台に仏像が乗っているが、見た感じこの国のものではなさそうだな」
困惑した様子だったがすぐ商人特有の笑顔になった。
「世界各国を飛び回っていますから様々な国の仏像が揃っていますよ」
「その仏像の中で 白毫相(びゃくごうそう)のないものはあるか?」
「ビャクゴウソウ?」
「ここのことだ」
安慈が己の眉間を指差すと、
「そうですね、たまにそういったものを見つけることがあります。やはりあるとないでは値打ちが全く違うので・・・」
「印度で見つけた仏像にもなかったか」
「いや、最初はあったんですが     
ぺらぺらとよく動く口がぴたりと止まり、代わりに安慈の追撃が続いた。



「最初はあったと?では今はないということか?」
「いえ、あの・・・」

うろたえるリチャードに安慈は言った。

「ではその仏像をここに運んできてもらおうか」
「・・・・・はめましたね?」



歯軋りの音が剣路の耳にも届いた。
「別に主を糾弾するつもりはない。私は印度で見つけた白毫相のない仏像を希望しているのだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。白毫相のない仏像って一体何の話だよ。そもそも白毫相自体何のことか」
たまりかねて口を挟んだ剣路に目だけ向けて説明した。
「主も見たことがあろう。仏や観音の眉間にある膨らみや玉を。あれが白毫相だ」










白毫相     仏の三十二相の一。
眉間にあって光明を放つという長く白い巻き毛のことで、仏像では水晶などをはめ込んだり浮き彫りにしたりして表す。
眉間白毫相とも呼ばれている。










「水晶をはめ込むって・・・まさか」
「そう、この水晶玉こそ白毫相だ。おそらくリチャードが印度で見つけた仏像というのはアカラナータの住んでいる地域あるいは縁のある場所に安置されていたもので、不当な方法で手に入れたのだろう。そう考えれば年端の行かぬ子供がたった一人で遠い異国までやってくる理由がない」
「理由っていうのは奪われた仏像を取り戻すためか?」
「本当は仏像そのものを取り返したかったのだろうが子供一人でどうなるものでもない。だからせめてこれだけでもと考えたのだろう」
答えに辿り着いた剣路に頷き、安慈はアカラナータに水晶玉を返した。
返される理由が分からず戸惑うように安慈を見返していたが、
「これはアカラナータ、主が取り戻したものだ。だから主が持て」



小さな手を大きな手で包み込む。
黒い隈取が塗られていても、慈愛に満ちた瞳は隠せない。



アカラナータはその瞳を瞬きすらせずじっと見入っていたが、
「dhanyawad(ダンニャワード)・・・ッ」
絞り出すようにそう言うと、あとは感極まったようにむせび泣いた。
「待て!あの仏像は既に私のものだ。その子供こそ泥棒だろうッ」
「まだ言うかこの悪徳商人が」

呆れたように呟く剣路を凄まじい目で睨みつけたと思ったら、じっと控えたままの水夫達に合図した。
それを受けた水夫達が戦闘体勢に入った。



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