少年よ、竹刀を抱け 【前編】



町で一番賑やかな通りでは昼過ぎから威勢の良い掛け声が響いていた。
「今日は鯵のいいのが入っているよ〜」
「そこ行く奥さん!カブはどうかね?」
いつもと変わらぬ市場の風景だ。
だが、見慣れている町の喧騒も変わりゆくのかもしれない。

     時代は動き、人は変わる。
少し寂しい気もするが、逆に喜ばしい変化もある。
それが、今の自分と薫だ。

「ほら剣心、鯵が安いんですって。今夜は焼き魚にしましょうか」
初めて会ったときと同じ道着に身を包んでいるが、今の薫は間違いなく自分の妻になっている。
彼女も若々しいのは相変わらずだが、そこはかとなく嬌艶(きょうえん)な雰囲気を纏うようになった。
「あと、お米も切れていたかしら。そうそう、大根も必要よね。あ、家に帰ったらお風呂入りたいからよろしくね!」
夫婦の関係になったとはいえ、様々な用事を言いつけられるのは変わらない。
肩に乗せた薫の道具が一際重くなったような気がした。
苦笑しながら返事をしようとしたとき、こちらに向けられる視線を感じた。
「どうしたの?」
黙り込んだ剣心に怪訝な顔をするが、
「いや、なんでもない。まずは鯵でござったな」
何事もなかったかのように歩き出した彼のあとを薫がついていった。



「決めたぞ勘助。僕はあそこに入門する」



剣心達を見送る視線は少し離れた物陰から。
聞こえた声は意外と幼い。

それもそのはず、剣心をじっと見つめていたのはまだ十にも満たない男児だったからだ。

彼の近くには勘助と呼ばれた男が控えている。
がっしりとした体格で、おまけに隻眼、顔中傷だらけとくれば一目で堅気(かたぎ)の人間でないことが分かる。
見てくれも加わって美丈夫とは言い難く、残った一つの目は厳しい光を放っているが、男児の言葉を聞いて目を丸くした。
「へ?いやしかし、どこの道場かも分かりやせんし、それだったら昼間見た前川道場のほうがいいような」
「入門する道場は僕が決める約束だぞ。それに、どこの道場かはこれから聞けばいいことだろう?」
言うが早いか、少年は剣心達を追うために駆け出した。
「あ、待ってくだせぇ!雪之丞坊ちゃん!」
勘助と呼ばれた男も慌てて後を追う。
彼らが足を止めたのは雪之丞が声をかけたときだった。

「おじさん、剣術をやっているんだろ?どこの道場か教えてくれよ」
「お、おじさん!?」

見知らぬ子供に挨拶なしで質問されたことよりおじさん呼ばわりされたことのほうが衝撃が大きかった。
隣で薫が吹き出しそうになるのをこらえているのを見ると更に不機嫌になる。
だがそれを子供の前で面(おもて)に出すことはせず、引きつった笑顔で剣心は問いかけた。
「童(わっぱ)、おじさんとは拙者のことでござろうか?」
視線を合わせるために腰を屈めようとしたとき、ぎろりと勘助に凄まれた。
「坊ちゃんのことを童呼ばわりたぁいい度胸だ!粂内一家の跡継ぎ息子、粂内雪之丞様たぁこのお方のことでい!重石つけたまま川に放り込まれたくなかったら言葉に気をつけたほうが御身のためですぜ?」
「ほぅ、粂内一家の・・・ではお主は一家の者でござるか?」
雪之丞のことを童呼ばわりされて思わず凄んでしまったが飄々として受け流されたことに勘助は毒気を抜かれた。
が、尋ねられたことに気付き、慌てて居住まいを正す。
と言ってもこの場合、腰を低くして右掌を前に出したのだが。

「お控えなすってお控えなすって!向かいまする上さんとはお初にござんす。従いまして手前、生国は」
「こいつは勘助。僕のお目付け役だ」

張り切って仁義を切ろうとした勘助を雪之丞が遠慮なく遮ったため、危うくずっこけそうになった。
「ぼ、坊ちゃん・・・せめて仁義くらい切らせてくださいよ・・・」
情けない顔で訴えるが雪之丞はつんと澄ましたままで、
「だってもう聞き飽きてるし。別にいいだろ、そんなのやらなくても」
しょぼくれた勘助から視線を外し、雪之丞は剣心と向かい合った。
「で、どこの道場?」

偉そうな、それでいてどことなく大人びた口調は雪之丞の生まれ育ちから考えれば無理のないことだろう。
しかしここにそんなことは関係ないとばかりに口を挟む者が一人。

「雪之丞君だったわね。人にものを尋ねる時は『どこの道場ですか?』でしょ」
「お嬢さんは黙っていてくだせぇ。坊ちゃんはこのお侍と話をしているんです」
突然割り込んできた薫に目をむくが、当の本人は逆に勘助に噛み付いた。
「あのねぇ、この子がどういう子だろうと人としての礼儀は必要よ。それはあなた達の世界でも同じでしょ?」
そして雪之丞に言った。
「ねえ雪之丞君。頼み事をするときはどうしたらいいのか、あなただって分かるでしょ?」
しゃがみ込んで目線を同じくした薫から独特の匂いが漂う。
その瞬間、雪之丞がたじろいたように見えた。
「僕、その・・・剣術を習いたくて     
しどろもどろに答える様をしばらく眺めていたが、やがて薫がふっと表情を緩めた。
「そう。雪之丞君は剣術を習いたくて道場を探しているのね?」
薫の問いかけに首が縦に振られた。
「もし雪之丞君がウチに入門したいということなら歓迎するわ」
「本当か?」
ぱっと輝いた表情に薫は頷いた。
しかし次にはやや表情を引き締めて、



「ただし誰であろうと特別扱いはしません。雪之丞君がどこの家の子でも他の門下生と同じように稽古をつけます。それでも構わないなら明日の朝、神谷道場に来て」



厳しく告げられた言葉に雪之丞の瞳が揺らぎ、勘助の眉が吊り上った。
が、雪之丞は一つ頷くと、
「分かった!じゃあまた明日な!」
「へ?ちょ、坊ちゃん!?」
短く告げるとそのまま背を向けて歩き出した。
見送る剣心と薫に勘助がぺこりと頭を下げて小さな主を追っていく。
「明日から賑やかになりそうね」
ぽそりと呟かれた言葉はひと騒動起きることを予見していたのかもしれない。
生まれたときから人の上に立つことに慣れている雪之丞が果たしておとなしく稽古を受けてくれるだろうか。
薫の懸念は剣心にも伝わった。
「剣術はもちろんだが、人から教わることや人と交わることを教えていくことも師範代の役割でござろう」
そうね、と答えた薫からふわりと甘い乳の匂いが香った。
そろそろ弥彦に預けた剣路が腹を空かせて泣き出す頃かもしれない。
運ばれてきた香りは母恋しさに泣く息子を思い出させた。










しかし翌日起きた騒動は剣心と薫が全く予測していない形で起こった。
一人で道場に現れた雪之丞は挨拶なしでこう切り出したのだ。
「昨日はああ言ったけど、適当に稽古のふりだけしてくれればいいから」
「はぁ!?おい、お前どういうつもりだッ」
いきり立つ弥彦を抑え、剣心は訳を聞いた。










理由はこうだ。
粂内一家をまとめる粂内菊之丞は数年前の抗争で受けた傷が悪化し、ここ数ヶ月寝たり起きたりの生活を繰り返している。

そこで誰かれともなく囁かれたのは跡目のこと。

しかし雪之丞に跡目を継ぐつもりはない。
「万が一親分に何かあったとき、今のままだと粂内一家はばらばらになっちまう。そうなったらこの道以外のことを知らない奴らだ、どうなってもおかしくありやせん。ここは一つ、坊ちゃんにしっかりしていただかないと!」
生まれたときからお守り役としてそばにいる勘助がいい機会だとばかりに稽古をつけようとしてきた。



勘助の言うことは分かる。
それでもやはり素直に頷けるものではない。
そこで雪之丞は条件をつけた。
「勘助の言うとおり強くなる。でも、どこで強くなるかは僕が決める」
こうして雪之丞の道場を探すため、勘助と二人町を歩き回って見つけたのが神谷道場というわけだ。



「勘助は『昔も今も侠客は腕っ節が大事』って言う。だけど今は明治だ。外国から色々なものが入ってきてるし、任侠の世界なんかもう古いよ」
「雪之丞君、そんな言い方よくないわ。現に勘助さんは仁義や任侠を大切にしているじゃない」
「悪いことなんて思っていないよ。僕だって勘助や皆は好きだ。でも昔からある仁義がこの先通用するかどうか分からないじゃないか」
「だからって     
続けようとした薫を剣心が制する。
代わりに口を開いた剣心は、
「では何のためにこの道場に入門するのでござるか?稽古は受けずに入門したいというその理由を聞かねば薫殿とて入門を許すわけにはゆかぬよ」
「何言ってんの?入門者を決めるのは師範のあんただろ?」



小さな指が指し示した先には目を瞬かせた剣心。
雪之丞が勘違いしていることに気付くと、師範は妻である薫であること、道場についての決定権は全て彼女にあることを手短に説明した。



「男と女が並んでいれば、普通は剣心を師範だと思うのが当然よね・・・一応剣心も男だし」
唖然としている雪之丞を見て、薫が納得したように何度も頷く。
付け加えられた一言に対しては聞かなかったことにしておく。
「だって、剣道の道具一式担いでいたし・・・それに女にこき使われるような情けない師範ならうまく丸め込んで、ここにいる間はずっと勉強できるかと思って」
ここで弥彦が派手に噴きだした。
「そ、そりゃお前、確かに剣心はいっっっっつもこき使われているけどよ」
「そこ!『いつも』を強調しないッ」

腹を押さえて遠慮なく笑い転げている弥彦に薫が目くじらを立てるが、剣心は口元をひくつかせるのみ。

「・・・おじさんも苦労してんだな・・・」
果ては雪之丞からも哀れんだ目で見られる始末。
こほんと咳払いをして気を取り戻し、剣心は未だ強張った筋肉を無理矢理ほぐすかのように笑みを作った。
「今、ここで勉強をしたいと聞こえたが・・・剣術をせずに勉強をしたいというその理由を聞かせてくれぬか」
剣心の質問に弥彦と薫も我に返り、全員の視線が雪之丞に注がれた。
六つの瞳に見つめられ居心地が悪そうに身動きしたが、自分でもここはしっかり告げねばと悟ったらしい。

「医者になりたいんだ。一日でも早く」
「それはお父さんを治したいから?」

こくりと頷く雪之丞の瞳に嘘はなかった。
「父さんだけじゃない。他の家との諍いがあれば怪我をする仲間もいる。勘助の左目を見ただろ?あれも昔抗争でやられたって聞いた」
「ヤクザにとって抗争で受けた傷は勲章じゃねぇか」
「うん、怪我をした奴らは皆同じことを言う」
弥彦の言葉を肯定したが、その表情が苦しそうに歪んだ。
「一家のためなら死んでもいいとも言ってるよ。死んで欲しいなんて、そんなこと誰も言ってないのに」
「・・・雪之丞君は皆に元気でいて欲しいのね」
雪之丞の上にやさしい声が降って来る。
慈愛に満ちたその声に鼻の奥がつんとしたが、わざと横柄に取り繕った。
「別に。あいつら、暴れて怪我ばかりするから医者が必要だと思っただけさ。それで?入門させてくれるの、くれないの?」
可愛げのない態度に薫と剣心は互いに苦笑した。
そして、雪之丞の目を見て告げた。



「分かりました。入門を許可します」
「薫!?」



ぎょっとした弥彦を見ずに薫は剣術家の顔で続けた。
「ただし入門した以上は剣術の稽古もしっかり受けてもらいます」
「だから僕は剣術を習う気なんて全然・・・」
「雪之丞君」

凛とした態度で名を呼ぶと、びくりと雪之丞の肩が震えた。

「ここは剣術道場なの。ここに入門している人は皆、己の剣と心を鍛え精進するために来ているのよ。あなたの気持ちは分かるけど、勉強だけさせるわけにはいきません」
「げー」
自分の思い通りに事が運ばなくなったことを悟ると、途端に不満が面に出た。
そんな雪之丞を更に弥彦が突き放す。
「げー、じゃねえ!そんなに勉強したいならお前の親父に頼めばいいだろうが」
むっとして雪之丞がやり返す。
「それが出来ないからこうして頼みに来ているんだよ!お前頭悪いだろッ」
「言わせておけばこのクソガキ・・・ッ」
両者立ち上がって睨み合った。
今にも取っ組み合いを始めそうな二人が動きを止めたのは剣心の口から発せられた言葉に仰天したからだ。
「ならば仮入門ということにして拙者が面倒を見るというのはいかがでござろう?」
「剣心!?」



剣心が入門者の選別に口を挟んだのはこれが初めてである。
薫が驚きの声を上げたのは当然といえよう。



一同の注目を浴びつつ、剣心は平素と変わらぬ穏やかな表情で続ける。
「仮入門でも道場に出入りすれば門下生と同じように見られよう。中に入ったら奥で勉強すればいい」
「本当か!?」
目を輝かせる雪之丞だが、次に発せられた言葉に不満顔が復活した。
「ただし薫殿も言ったとおりここは剣術道場でござる。勉強だけでなく、神谷道場の門下生が学ぶ基礎くらいは身に着けてもらわねば」
「結局稽古は受けなきゃならないのか・・・」
げんなりとため息を吐き出したが、
「勘助殿はお主が強くなろうとして道場に入門したと思っている。もし稽古の結果を見せてくれと請われたらどうするつもりでござる?」
剣心の指摘にぐっと詰まる。
反論できない雪之丞に剣心が諭すように言った。

「今の提案は、お主の気持ちを酌んだ上でこちらが譲歩した結果でござる。だが決めるのは雪之丞、お主だ」

雪之丞は下を向いていた。
眉根が寄せられていることで剣心が提示した条件を飲むか、それとも他の道場を探すかを迷っているのが分かった。
悩んだ末雪之丞が出した答えは、
「明日からここに通う」
であった。






後編  感謝処