雨が止まない 【前編】



「突然申し訳ない。あなたは神谷薫さんではありませんか?」

呼びかけられたのは街道に出て半分ほど歩いた頃か。
剣心と薫、二人揃って振り向くとそこには見慣れない紳士が立っていた。

口元に涼しげな笑みを乗せてこちらを見ている若者を、はて誰だったかと考えていると、
「武雄さん・・・?」
やや困惑した声音で答えたのは薫だった。
「知り合いでござるか?」
「え、ええ。昔ちょっと・・・でも本当に武雄さんなの?以前とは感じが全然変わっているから一瞬誰だか分からなかったわ」
着物と揃いで仕立てたのであろう青磁色の羽織は肌触りがよさそうな生地で仕立てられており、薫が覚えていたざんばら髪はきれいに撫で付けられている。
「ははは・・・薫さんと稽古していた頃は頭のてっぺんからつま先までぼろぼろだったからね。今は店を預かる身だし、それなりにこぎれいにしていないと」
薫の指摘にからりと笑う。
さっぱりとした言葉遣いは接した者全てに好感を持たせることだろう。
「本当に立派になって」
笑顔ではあるが、どこかぎこちない。
それは武雄も同じように感じたのか、怪訝そうに片眉が上がった。
しかし、彼は隣にいる剣心を見て、

「あ、突然声をかけてすみません。僕は野田武雄といいます。昔は下鳥道場という剣術道場を開いていまして、それが縁で薫さんと知り合いました。今はのだやに婿入りして野田武雄と名乗っています」

どうやら薫がぎこちないのは剣心が隣にいるからだと思ったらしい。
「それにしても驚いたよ。久しぶりに会ったと思ったら薫さんの隣に男の人がいるんだから・・・もしかしたらこの人は薫さんのいい人?」
見る間に真っ赤になって否定した。
「違うわよ!彼は緋村剣心っていうもと流浪人!今はうちの道場の食客だけど、先月出会ったばかりなんだからっ」
「薫さん、顔真っ赤」
「武雄さん!」
武雄のからかいに更に頬を赤らめ、それを隠すように両手で押さえた。
初心(うぶ)な少女の様子を楽しむようにして眺めていたが、やがてその表情がふと翳(かげ)った。
「変わらないな、薫さんは・・・・いや、僕が変わってしまったんだね」
「武雄さん?」
「あの時は楽しかったな。お互い道場を再興しようと日々奮闘していたね」
様子を窺うような薫から視線を外し、遠くを見る。



「自分の実力は分かっている。薫さんに言われたことは間違っていない。でも時々思うんだ。あの時道場再興を諦めずにいたら、と」



今まで赤くなっていた薫の顔が蒼白になった。
そして、今まで聞いたことのないような突き放した口調で言った。
「でも最後に決めたのは武雄さんよ。今更そんなこと言って奈保子さんを不安にさせないで」
責めるような薫を驚いて見やる。
それは武雄も同じだった。
しばし大きく目を見開いていたが、苦しそうに眉をひそめた。
「・・・・・うん、そうだね。分かっているよ」
次に目を合わせたときには恥じるかのように朗らかに笑った。
「ありがとう。薫さんはいつだって正しい答えをくれるね」
「正しいなんてそんな    
言葉が途切れた。
ぎゅう、と手が白くなるほど握り締めているのを見て、剣心が後を引き受けた。
「久方ぶりの再会に水を差して申し訳ない。どうも一雨来るようでござるから、拙者らはこれにて」
「え?ああ、本当だ・・・・」
空を見上げれば西の空から暗い雲が流れてきていた。
「これは確かに急いだほうがよさそうですね。薫さん、今日は会えて嬉しかったよ」
「私も武雄さんの元気な姿を見られてよかったわ。奈保子さんによろしくね」
やや強張ってはいたが、それでも別れ際には薫も笑顔を見せた。
だがそれも一瞬のこと。
武雄と別れてから、薫は固い表情で一言も口を利かなかった。
剣心もまた、声をかけることなく二人は無言で歩き続けた。



ぽつ、と一滴雨が落ちる。
それを合図として段々雨足が速くなってきた。



素早く周りを見渡すと、幸いにも青々とした葉が生い茂った大きな木が視界に飛び込んできた。
剣心は薫の手を掴むと、迷うことなく走り寄った。
懐から手ぬぐいを出して濡れた部分を拭いていたが、薫は呆けたように佇(たたず)んでいる。
黒髪の先から水滴が滴り落ちるが、本人は全く動かない。
「薫殿」
見かねて手ぬぐいを目の前に差し出すが、剣心を見ようともしなかった。
「薫殿、拭かねば風邪を引く」
「ん」
短く返事をして受け取り、のろのろと手を動かす。
緩慢(かんまん)な動作で顔や髪を拭いながら、薫は独り言のように呟いた。
「武雄さんと初めて出会ったのはこの道だったの」
「左様でござったか」
呟きに合いの手を入れると、言葉が続けられる。
「あの時はちょうど父さんが亡くなって門下生が一気に減った頃だったわ     
虚(うつ)ろな視線の先には今しがた歩いてきた道があった。
降り続く雨は当分止みそうになかった。















       師範である神谷越路郎が西南戦争で没し、神谷活心流は薫の細い肩にかかっていた。
父の死にしばらく打ちひしがれていたが、四十九日が過ぎる頃には新たな道場主としての責任感と使命感に燃えていた。
(私がくよくよしたままでどうするの?父さんのように皆を引っ張っていかないと!)



門下生は皆からよく知っている者達だ。
共に学び、切磋琢磨してきた仲間達だ。
越路郎を亡くした悲しみは深いけど、それを皆で分かち合い、乗り越え、今より強い絆で結ばれることだろう。
そうすればきっとうまくいく。



しかし現実はそう甘くはなかった。
薫が師範代として稽古を始めようとしたその日、十人近くの者が「辞めたい」と申し出てきたのだ。
「僕らは神谷先生に教えを請うていたのです。先生が亡くなったらその後を継ぐ薫さんに稽古をつけてもらうのが道理だろうけど、僕は承諾できません」
「薫さんが強いのは知っているよ。でもやっぱり、なぁ」
今まで仲間だと思っていた彼らからそう言われ愕然とした。

きっと彼らは越路郎その人に教えを請いたいと願っていたのだ。
(私では頼りないと思われたんだわ)
それなら自分が今以上に精進すれば認めてもらえる     自分が女だから辞められたとは認めたくなかった。

残った者は剣術を始めたばかりの年少者や、思い出したように稽古をするような者だけ。
これではろくに稽古も出来ない。
神谷活心流の名を広める意味も兼ねて、薫は様々な道場に出稽古を申し出た。
しかしなかなか申し出を受けてもらえない。
決まってしばらく待たされ、
「今は出稽古の申し出を受けていないので」
「折角稽古をつけてもらっても神谷さんへの報酬が渡せない状態で・・・」
と曖昧な返事で断られてしまう。
中には「女性に稽古をつけてもらうようでは当道場の名折れです」とはっきり言われてしまうこともあった。
それが何度も続くと、女であることが恨めしくなってくる。



何で女に教えられることをそんなに恥じるの?
そりゃ私だってまだ未熟だけど、女だからって理由、納得できるわけないじゃない!!



苛々して大股で歩いていると、
「わっ」
誰かとぶつかって危うく転びそうになった。
「ごめんなさい!」
慌てて謝ったが、相手はそれどころではないらしい。
抱えていた紙束が地面に散乱し、それを全部拾い集めることに必死だ。
薫も同じようにしゃがみ込んで何枚か拾い集めた。
「ありがとう」
礼を言うのは薫より頭一つ分背の高い若者だった。
だが何をどうしたらそうなるのか、短い髪はあちこち飛び跳ね、着ているものも破れた箇所がある。
「いえ、元はといえば私がぶつかったせいだし」
じろじろ見るのも失礼なので薫は手に持った紙に目を落とした。
そこには剣術道場の門下生を募る文面があった。

「下鳥剣術道場?」
「うん、うちの道場なんだ」

手渡しながら改めてよく見てみると、黒ずんではいるが彼の着ているものは自分と同じ道着。
「あれ、君も剣術をやっているの?」
脇に置いてある薫の道具を見て若者が聞いた。
出稽古の申し出をするとき、自分の実力を見てもらおうと思って持ってきたのだ。
もっとも、その前に断られて持ってきた意味がない状態だが。
「どうせ女がやっても意味がないなんて思っているんでしょ」
今日も断られたばかりだったので無意識のうちにつっけんどんな答えになる。
しかし相手は一瞬驚いたように薫を見て、
「何で?剣術が好きな気持ちに男も女もないだろう?」
と言って白い歯を見せる。

今度は薫が驚く番だった。
今までそんなこと誰からも言われたことがない。

嬉しくなって薫も相好を崩した。
「そう思う?私、父親が道場の師範だったから小さい頃からずっと剣術三昧だったの。周りは女なんだからそろそろやめて花嫁修業でもしろって言うんだけど、こんな面白いものやめられるはずがないわ」
「あ、僕のうちもそう!確かに修行は厳しいけど、ちゃんと力になっているって分かるんだよね。同じように修行してきた仲間と打ち合うときなんて勝っても負けても清々しい気分になるんだ」
「分かる分かる!!」
意気投合した二人はお互いの名を名乗り、剣術談義に花を咲かせた。



道の真ん中で道着姿の二人が    しかも一人は少女    が盛り上がっているのを通行人が胡乱げに見るが、当人達は全く気にしない。



ことに薫は今まで否定されてきた自身を認められ、嬉しさで舞い上がりそうだった。
「あなたは下鳥道場の人って言ってたけど・・・この辺りじゃ聞かないところね」
「ああ、峠を越えたところにあるんだ」
「あの峠を越えてきたの!?」
武雄が指差した方角には大人の足でも越えるには二刻ほどかかる峠があった。
「峠の向こうから歩いてくるなんて・・・大変だったでしょう?」
「足腰の鍛錬にもなるから苦ではないよ。でもここから道場に通うには遠いよね・・・・もっとも、そうでなくても入門したいって人はいないけど」
感心する薫に涼しい顔で答えたが、その表情が曇った。
「逆に道場の近くの人に声をかけたほうが入門者が集まるんじゃない?」
薫の案に首を振った。
「父はそこそこ名の通った剣客だったけど、息子の僕にそこまでの技量はない。だから父が亡くなると皆辞めてしまったよ」

師の息子とはいえ無名の若者、しかもさほど強くもない武雄についていこうという者はいなかった。
父の足元にも及ばないことは重々承知しているが、剣術を多くの若者に伝えたいという父の遺志を継ぎたかった。
だが武雄の実力は近辺のものであれば誰でも知っている。
そのため、事情を知らない場所の人間であれば入門してくれるのではないかと考え、ここまで足を伸ばしてきたのだ。

「そうだ薫さん。君の知り合いで剣術をやりたいと言う人はいないだろうか」
「もしいたとしてもあなたには紹介できないわ。だって私も門下生を探しているんだもの」
薫も事情を説明する。
父親が亡くなり、女である薫について来なくなったものが数多く出ていること。
それでも残っている門下生はいるが、活気を取り戻すため門下生を探していること。
「でも君はまだいいだろう。少なくても門下生がいるんだから」
「そりゃそうだけど、でも父さんがいた頃に比べると活気がなくなったわ。私は昔のような活気を取り戻したいの」
「じゃあ僕ら二人、これから頑張らないとね」
道場のことや最近の剣術のことについて話は尽きない。
しかし武雄はまた時間をかけて峠を越えて帰らなくてはいけないのだ。
名残惜しいが、この日は別れることにした。
もちろん、次に会う約束を取り付けたのは言うまでもない。
聞けば下鳥道場がある町は薫の縁者が住む町であることが分かった。
「来週、叔母に呼ばれているの。用事が終わったら武雄さんの道場に寄らせてもらうわ」










そして約束の日。
この日は武雄のときとは違い、薫をますます憂鬱にさせた。
叔母の口から出たのは、
「道場を早く畳め」
「剣術なんてやっていたら嫁の貰い手がなくなる」
というような薫が聞きたくないようなことばかりだったのだ。
延々と続きそうなお小言の途中で、
「そ、そういえばこの町にも下鳥道場という剣術道場があるって聞いたんですが・・・」
別の話題を持ち出されたことに叔母の片眉が上がったが、もともと話好きらしく色々と教えてくれた。
「下鳥?ああ、去年大先生が亡くなったところね。あそこの息子も早いとこ見切りをつけてのだやのお嬢さんとくっつけばいいのに」
「のだや?」
「近くにある老舗の油屋よ。あそこのお嬢さんと下鳥の息子さんは幼馴染同士だからのだやのご主人は是非娘婿にと望んでいるんだけどね」
だから薫ちゃんも早く見合いでも、と続けようとする叔母の話を振り切って、この日は切り上げた。



武雄から聞いた道場に行くと中から話し声がする。
どうやら既に先客がいたようだ。



「また入門断られてしまったのね」
聞こえてきたのは若い女性の声。
「もう聞いたのか・・・大店のお嬢さんは色々話を仕入れるのがお早いことで」
「意地悪な言い方しないで。これでも武ちゃんのこと、心配しているのよ」
「分かってるって。でも僕は諦めないよ」
「だけど武ちゃん」
これ以上は盗み聞きになってしまう。
薫は大きく声を張り上げた。

「こんにちは!どなたかいらっしゃいませんか?」

立て付けが悪いのか、がたがたと耳障りな音を立てて戸が開くと喜色満面の武雄が出迎えてくれた。
その後ろから遠慮がちに一人の少女が顔を出す。
「薫さん!本当に来てくれたんですね!?」
「だって約束したもの。そちらの方は?」
「あ、幼馴染の奈保子です。ほら奈保子、こないだ話した神谷道場の薫さん」
紹介された奈保子が一歩前に出て深々と頭を下げた。
「初めまして。奈保子と申します」
「神谷薫です。今日は図々しくお邪魔してごめんなさい」

別に謝る必要はないのだが、どうもこの奈保子という少女は武雄と縁が深そうな気がしたのだ。

薫の心など全く知らずに奈保子は屈託のない笑顔を見せた。
「私もあなたとお会いするのを楽しみにしていたんです。武ちゃんたら会うたびに薫さんの話ばかりするんですもの。『女性の身で頑張っている師範代がいる』って」
武雄同様、奈保子も薫に会えて嬉しそうだ。
むしろ、薫と出会ったおかげで武雄が元気になったと感謝している。

(幼馴染ってことはこの人がのだやのお嬢さんよね)

談笑しながらさりげなく奈保子を観察すると、大店の娘らしく上等な着物を身に着けている。
大切に育てられたのだろう、真っ白な肌は日焼けの跡すらない。
上品に笑い、それが嫌味ではない。
話せば話すほど、奈保子の性格のよさを感じさせた。
前で重ねられた白魚のような手と己の剣だこだらけの手を比べて恥ずかしくなり、薫はなるべく袖の中に隠して見えないようにした。
(何か、嫌だわ)
娘らしい奈保子、そして武雄にも薫は焼きつくような妬みを覚えた。



先程聞いた叔母の話では、のだやの主人は武雄と奈保子を添わせようとしているとのこと。
そうなれば貧乏道場主から一転、繁盛する店の若旦那という輝かしい未来が待っている。



おまけに奈保子は美人で気立てがいい。
微笑みあう二人はお互い想い合っていることが恋愛事には疎い薫でもすぐ分かる。
薫の心がざわめいた。
だが苛立ちをかき消すようにして明るく言い放つ。
「武雄さん、一人じゃ満足に稽古もできないでしょう?私でよければ手合わせの相手になるわよ」
「わぁ、私も見てみたい!」










この日は軽く打ち合っただけだが、薫は武雄の力量を知った。
弱くはないが強くもない。
これでは仮に道場を再興できたとしても門下生がついてくるかどうか。










そこまで考えて自身を叱咤した。
(力量は二の次。剣術への情熱とやる気が大事なんだから!)
しかしざわざわとした感じは消えない。
そんな薫の心中を知るはずもなく、武雄と奈保子は無邪気に感嘆している。
「いやぁ参った。僕もまだまだ修行が足りないな」
「武ちゃんだってよく頑張っていたじゃない。でも手合わせしている最中の薫さんってとても綺麗でした」
まだ興奮が治まらないのか、奈保子の瞳はきらきらしている。
「もちろん、普段もお綺麗ですわ。でも何て言うのかしら・・・真剣な眼差しで向き合う薫さんってとても清廉としていて、つい見入ってしまいますの」
普段なら喜ぶべき賛辞であるはずなのに、素直に受け取ることが出来ず形だけの笑みを貼り付けて礼を言った。
「これからもまた相手になってもらえないだろうか?もちろん、今度は僕が神谷道場に行くから」
「ううん、私も叔母に会うためによくこの町に来るからそのときでよければまた伺わせてもらうわ」

嘘だ。
苦手な叔母に会うのはなるべくなら避けたい。

しかし、武雄を道場に来させるのはもっと嫌だった。
同じ境遇だが薫は女で武雄は男。
しかも武雄は道場再興を諦めても将来が約束されているような状態だ。
何度も神谷道場に通っていれば門下生達も事情を知る。
それを知れば口には出さずとも「師範代も道場なんて売り払って嫁に行けばいいのに」なんて思うかもしれない。



『女だから』



薫の一番嫌いな言葉だ。










後編  感謝処