雨が止まない 【後編】



それから何度か下鳥道場に足を運んだ。
門下生達には内緒で。
武雄は「毎回こんな遠くまで来てもらうのは申し訳ない」と何度も神谷道場に行くことを申し出た。
薫もその都度断っていたがそれも限界に近付いてきた。










武雄を納得させるような理由を考えているとき、神谷道場を訪ねてきた客があった。
まさか武雄が、と一瞬血の気が引いたがそうではなかった。
供の者と一緒に神谷道場の門をくぐったのは奈保子であった。



稽古が終わった後でも、薫はあえて道着のままでいた。
奈保子や武雄の前ではなぜか「女らしさ」を見せたくなかったのだ。
しかし彼女は特に気にする様子もなく、
「稽古中にごめんなさい」
と逆に恐縮された。
却って自己嫌悪に襲われた薫に向かって奈保子が切り出したのは意外なことであった。

「薫さん、どうか武ちゃんに道場再建を諦めるよう勧めてくださいませんか」

これがいつも武雄に付き合い、彼を励まし続けている奈保子から出た言葉だろうか。
全く予想もしなかった展開に薫は混乱した。
「それは一体どういうこと?奈保子さんはいつも武雄さんを応援していたじゃない」
「武ちゃんを支えていきたい心に変わりはありません。でもこの一年間、武ちゃんがどれだけ頑張っても門下生は一人も入ってきません。それに日々の暮らしだって相当大変なはずです」



武雄の生活が決して楽ではないことは、彼の身なりを見れば容易に察することができる。
薫の知る武雄はいつも門下生を募るビラを配り歩いているか、一人で道場にこもっているかのどちらかだ。



それだけでは食べていけないだろうから何か日雇いでもしているのかと思っていたのだが。
「武ちゃん、本当は剣術より算術のほうが得意なんです。ですから時々うちの店を手伝ってもらってその分のお給金は武ちゃんに渡しています。でも『いつか門下生が増えたときのために』と言ってほとんど手をつけていないようなんです」
「じゃあ・・・武雄さんは毎日どうやって」
「出来るだけ質素に暮らしているため、食事も満足にとっていません」
答える奈保子の表情が見る見る曇り、わっと泣き出した。
「私、このままじゃ絶対倒れてしまうと思ったんです・・・それがついに現実に・・・!」



しゃくり上げる奈保子から聞き取れた言葉を繋ぎ合わせると、いつものようにビラ配りをしている最中に突然倒れたらしい。



医者に見せたところ、診断結果は過労による貧血。
安静にしていれば二、三日で回復するという。
重症ではなかったことにほっと胸を撫で下ろしたが、奈保子は沈痛な面持ちで続けた。
「今回はこの程度で済みましたけど、このままの状態が続けば武ちゃんの体はどうなってもおかしくありません。武ちゃんがお父様の遺志を継ぎたいという気持ちは良く分かります。でも私は道場再建より武ちゃんに元気でいてほしいんです・・・ッ」
見れば奈保子も少し痩せたようだ。
おそらく想い人の体を思う余り、己も食が進まなかったのだろう。
このままでは武雄だけでなく奈保子も体を壊してしまう。

「分かったわ。今度、私から武雄さんに話してみる」

妬みや焦りが己の中に交錯しているのは自覚していたが、二人が共倒れになるまで黙って見ていられるほど薫の心は冷え切っていなかった。
      少なくともこのときは、まだ。










約束はしたがおそらく説き伏せるのは不可能だろうと感じていた。
薫とて父が興した活心流を再興させる一心で日々駆けずり回っているのだ。
立場は武雄と同じ。










それでも約束した以上、武雄と話をしてみた。
「心配してくれるのはありがたいけど、やはり諦めるわけにはいかない」
答えを聞いて落胆よりもやっぱり、と思った。
これが逆の立場なら薫も同じように答えている。
「でも武ちゃん、これ以上無理したら今度は倒れるだけじゃ済まないわ。ここまで頑張ってきたんだもの、武ちゃんのお父様だって分かってくださるわ」
同席していた奈保子は引かなかった。
武雄を想うが故だろうが、それでもやはり彼の心は動かない。
「奈保子、君の気持ちはありがたく思うよ。道場再興は父のためだけじゃない、自分のためでもあるんだ」
「自分のため?」
「そうさ。道場再興するのはもちろんだけど、僕は今以上に強くなり、父を越えたいんだ」
「だからといって体を壊したら元も子もないでしょう!?」
ついに端麗な表情がくしゃりと歪んだ。
そんな彼女をどう説き伏せようかと思案顔になった武雄の視線が薫に向けられた。

「薫さん、君なら分かってくれるだろう?」
同意を求められ、いつもなら素直に頷くところではあるが、それでは奈保子との約束を反故(ほご)にすることとなる。
薫は考えながら言葉を口にした。

「私は、奈保子さんの言うことも一理あると思う」
「・・・薫さん?」
意外な答えに武雄の目が丸くなる。
薫は続けた。
「奈保子さんから今のあなたの暮らしぶりを聞いたわ。それじゃ倒れるのは当たり前よ。剣術家は体が資本なんですからね」
「それは分かってる。だから今度からは気をつけて」
「分かってない」
ぴしゃりと言うと武雄は口をつぐんだ。
その様子を見て一つ息をつき、こう提案した。
「ねぇ武雄さん。今は休養期間と思ったらどうかしら?」
「休養期間?」
繰り返される言葉にこくりと頷いた。
「武雄さんはここに一人でいるから気を張り詰めすぎてしまうのよ。奈保子さんや周りの人と接して視野を広くすれば道場再建の手がかりを得られるかもしれないわ」
「それはいい考えだわ!ね、武ちゃん」
薫の提案に奈保子の顔が輝くが、当の武雄の表情は硬かった。
さすがにいきなり休養しろといわれてすぐ納得できるはずもない。
「・・・・あなたの気持ちはよく分かるわ、武雄さん。でもね」
静かに諭す薫を強い目で見返し、武雄は何かをこらえるように言った。



「君こそ自分の言っていることが分かっているのか?薫さんはいいよ、まだ門下生が残っているものな。だけど門下生もいない道場なんて少しでも休めば潰れたも同然なんだ!」
武雄の叫びに思わず怯んだ。



「何故僕の気持ちが分かるんだ?僕の気持ちは僕しか分からない・・・ッ」
「そ、それはそうだけど・・・でも道場を担う者としてなら私は武雄さんの気持ちを理解しているつもりよ」
いち剣術家としての気持ちは武雄と同じ。
これだけは自信を持って言える。
だが荒ぶる感情を抑え切れなくなった武雄の口から出たのは。










「君は女だ。今は剣術に夢中でも結婚したらやめるんだろう?」










全身の血がすっと冷たくなるのが分かった。
それが表情にも出ていたのだろう、気付いた奈保子が止めに入る。
「何を言うの、武ちゃん!あなただって薫さんは女だてらにすごい、きっと薫さんなら道場を盛り上げられるって言っていたじゃない!!」
ここで武雄も自分の失言に気付いた。
が、退くに退けなくなったのだろう。
決まり悪そうに目を逸らし、
「しかし薫さんが女なのは事実だ。どんなに道場を盛り上げたとしてもいつかは婿をとり、家に入る・・・だから休養期間なんて簡単に言えるんだ」
「武ちゃんッ」
「もういいわ、奈保子さん。私は大丈夫だから」
一瞬ほっとしかけた奈保子だったが、薫の怒りに燃える瞳と出会ったとき言葉をなくした。



「それに、これ以上話しても無駄だっていうのがよく分かったし」
口調は静かだが、その表情は完全に怒りを表していた。



武雄もまた無言で見入り、次の行動を見守っている。
薫は自分を見つめる視線を無視し、壁にかけてあった竹刀を取って床に転がした。
竹刀は乾いた音を立てて武雄の前で止まる。
そして自分の分を手にした薫が振り向き、

「私と勝負して、武雄さん。あなたの気持ちが本物かどうか見せてちょうだい」

竹刀をまっすぐ向けられた先には武雄。
薫の意図を理解すると、武雄もまた竹刀を手にして立ち上がった。










奈保子との約束は完全に頭から消えうせた。
認めてくれたと思っていた武雄から一番聞きたくない言葉を聞かされ、今まで薫の中にわだかまっていた黒い感情が一気に噴出した瞬間だった。










「行くわよッ」
合図もなしに薫から仕掛ける。
今まで二人で手合わせした成果か、武雄もすぐさま反応し左から狙った竹刀を受ける。
「おおおッ!!」
鋭い切込みだったが所詮は女。
力で押し出すと簡単に薫の剣は押し戻される。
今度は武雄が攻勢に回ったが、何度仕掛けても難なく交わされる。

(私より弱い人が道場再建なんて出来るわけないじゃない!)

「胴ーーーーーー!!!」
一歩踏み込み、武雄の胴に吸い込まれるようにして技が決まった。
「ぐぅ・・・ッ」
しかしすぐには倒れず、両足を踏ん張って持ちこたえている。
お互い防具は付けていない上に手加減無しの薫の一撃を受けたのだ。
それでも倒れずにいるのは、それだけ剣術への思いが強いからだろう。
道場再建に対する真摯な姿を見て薫の心が落ち着きかけたが、視界に青ざめた表情で見守っている奈保子の姿が入ると言いようのない激情に襲われた。
(女は剣を持っちゃいけないの?女はおとなしくしていなくちゃいけないの?)



一本取ったのは薫だが、いつものような清々しい勝利感は得られない。
逆に、苛々とした気持ちが足元から這い上がってくる。



「まだだ!」
荒い呼吸を繰り返しながら構えを取る姿は薫の感情を逆撫でしただけであった。
(ここで負けてもあなたには隣にいてくれる人と裕福な家が用意されているのに・・・ッ)
ぎ、と手に力が入る。
そして剣を下段に落とし、向かってくる彼の腕を打ち払おうとしたが、武雄も負けてはいない。
薫の攻撃を打ちとめ、そのまま激しい打ち合いにもつれ込んだ。

だが、誰の目から見ても圧されているのは武雄。

とうとう薫の猛攻に耐え切れず、武雄の膝が落ちた。
それを見て、奈保子が悲鳴に近い声を上げた。
「武ちゃん!!薫さん、もうやめてッ」



それでも薫はやめなかった。
渾身の力を込め、武雄の肩に竹刀を打ち下ろす!!



「ぐ・・・ぁ・・・ッ」
「武ちゃんッ」
どぅ、と倒れこむ前に奈保子が駆け寄る。
そんな二人を侮蔑(ぶべつ)を込めて見つめるのは勝者である薫。

「これで分かったでしょ?自分の実力が」

冷たく言い下ろすと背を向け、帰り支度を始めた。
「これでお父様を越えたいなんてよく言えたものね。女に負けるような人が道場再建なんて笑わせるわ」
「か、薫さん・・・」
弱々しい呼びかけにとどめの一言を投げつける。
「もうここには来ないわ。弱い人の相手をしているほど私も暇じゃないの」
振り向かなくても武雄がどんな表情をしているか分かった。
残された二人の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、薫は下鳥道場を後にした。
怒りはもうなかった。
黙々と歩き続ける薫の胸にあるのは自己嫌悪と虚しさと惨めさだけだった     















    それから二人には会ってない。風の噂で武雄さんと奈保子さんが結婚したって聞いたけど、ちょうどその頃偽抜刀斎事件が発生したの。今から思えば、ひどいやり方で武雄さんの夢を潰した罰が当たったのね」

力のみで相手を打ち負かす方法は薫がもっとも嫌う方法だった。
しかし、その忌み嫌う方法で完膚(かんぷ)なきまでに打ち負かしたのは自分自身。

「私は剣心が思うほど正しい人間じゃない。あのときのように焦ったり嫉妬したりして結局抑えきれずに相手を傷つける。私の中にもあんな冷酷な部分があるなんて認めたくなかった。いつもまっすぐな生き方をしたいって・・・ううん、しようって心がけてた。けど、こんな黒い感情を持っている私がまっすぐ生きられるわけがないのよ」
彼女の瞳は全く違う方向に向けられており、紡ぐ言葉は自分へなのか、それとも剣心に向けられているのか分からなかった。

「見たくなかった」というのが自嘲気味に笑う薫を見た正直な感想だった。
いつもの明るい笑顔のほうが似合う、というのもあるが、己を自嘲する彼女は傍(はた)から見ても痛々しい。

だが彼女も一人の人間だ。
出会ってから己の見た薫はほんの一部分でしかないのだ。
当たり前の事実に気付き、剣心は己を恥じた。
『薫殿は明るく、どこまでも純粋』      そんな愚かな偶像を押し付けてしまうところだった。



「確かに今の薫殿は醜い」



雨のせいか、ゆらゆらとしたおぼろげな空気を断ち切るようにきっぱりとした口調で言い切ると、薫の肩がびくりと揺れた。
怯えるようにこちらを見る様に、先程の話は剣心に聞かせて反応を見ているのだと確信する。
無論、本人は無意識だろうが。
己に向けられている黒瞳(こくどう)を捉え、剣心はゆっくりと語り始めた。
「だが人として生まれてきた以上、誰かを妬んだり傷つけたりするのは当たり前ではござらんか。清廉潔白な人間だけが誠実なのではなく、そういう醜い己と向き合い、悩むことで人の痛みが理解できる人間もまた誠実であると拙者は思うのでござるよ」
「でも・・・未だに門下生が集まらずに道場復興できないのはこんな醜い私を皆分かっているからなんだわ」
弱々しい反論に苦笑しつつ、事実を伝える。

「現に薫殿の誠意を知る者が門下生になっているでござろう?」

剣心の言う門下生というのは最近スリから足を洗って入門した弥彦のことだ。
最初は女である薫に教わることに反発してばかりだったが、先日元門下生と菱卍愚連隊との諍(いさか)いに決着がついた後からおとなしく稽古を受けるようになった。










剣術の師として、最後まで元門下生の面倒を引き受ける己に課せられた使命を全うしようとする心。
全てを投げ打ってでも誰かを救おうとする深い慈悲。
そして残された者へ残す温かさ。










他の誰かが見たら愚かと笑う行為に薫は何の躊躇いも見せなかった。
それが弥彦の心に響いたのだろう。

「醜い感情を曝(さら)け出してもいい。その後自己嫌悪に陥るのもいい。それが後の人生に大きく係わってくるのだから決して無駄ではござらんよ」
「剣心も、自己嫌悪に陥ったりするの?」

口にしてしまったと思った。
人斬り抜刀斎の過去を持つ剣心にとって、この問いはあまりに酷だ。
だが彼はおっとりとした笑みで、
「そりゃ何度も。薫殿とは比べものにならぬほどに」
あまりにあっけらかんと答えられたので問いかけたこちらが詰まってしまった。
これは謝ったほうがいいのかとも思ったが、本人は全く頓着していない様子で逆に謝るほうが不自然に思える。
何か言おうとしては逡巡(しゅんじゅん)する薫を穏やかに見つめていた剣心だったが、ふと空を見上げて声を上げた。
「ほら、薫殿」
つられて見上げると薫の表情が綻(ほころ)び、それを認めると剣心もまた満足そうに頬を緩ませた。

     雨は止み、暗雲を取り払うかのごとく青空が広がり始めていた。






【終】

前編  感謝処



saya様よりキリリクいただきました!

リクエストは「薫ちゃんの昔の思い出」。
まぁ出来上がってみたら思い出なんていう微笑ましいものではないんですけど( ̄▽ ̄;)ははは

剣心にとって薫は人斬りである己を受け入れてくれたばかりか、帰る家と家族をくれた大切な女性です。
『彼女の存在そのものが剣心の支えになる』
こう書くと薫は年下ながらもまっすぐで芯が強いと感じますが、でもそれは生まれたときからではない。
「そういう風に生きよう」と心がけていても人の心にはどうしても消せない負の部分があります。
それを薫が持っていないはずはないし、また負の部分と向き合うことだってあったと思います。
神谷薫も一人の人間であるということを書いてみましたが・・・コレ、賛否両論かなぁ?
受け入れられない人はさくっと記憶から削除していただくということでお願いします。



saya様、十七万打申告&リクエストいただき、ありがとうございました!