思えば彼が心から笑った顔を見たことが無いと、気付いたのはいつだったろう。
彼はいつでも、どこか一線を引いて静かにこちらを見ている。
その薄い見えない壁の向こうから、此処までは踏み込んではいけないと。
その有無を言わさぬ無言の訴えに、私はいつも恐れを為してしまうのだ。

”好き”という気持ちがもし重さを持つのなら。

秤にかければ私の気持ちは地へと沈むことでしょう。





ねえ、本当は何を考えて居るの。




不安で不安で仕方ないのよ。






確かなものなんて何も無い。




目に見える形で、証明してみせて。





そう願うのは、私の我儘ですか    








その壁を、越えた先に











隠し事は昔から、苦手だった。いつのことだったか、今は亡き父が、薫は心にも無い事を口にすれば鼻の頭が膨らむ癖があると、母に話していたことをふと、思い出す。
その父が気付いた私の癖が未だ残っているかなんて分からないけど、云える事は唯一つ。

   薫殿はすぐ顔に出るでござるなあ   

困ったような笑顔でそう告げる彼の表情はどことなく、私の癖を告げた父の姿を彷彿とさせた。
それが何故だかは分からない。けれども、重なって見えるそれが私を安心させ、そして同時に苛立たせもする。

剣心は、いつもそうだった。感情を決して表に出すことが無い。いつも冷静で温厚で、落ち着いた人。感情の起伏が激しい落ち着きの無い私とはまるで正反対。
そんな事は今更言われずとも分かっている。けれども、その事実が私と彼の間を遮る何かに思えて仕方が無い。



想いを言葉に乗せてくれない彼。いつもと変らぬ声色で私の名を呼ぶ。


穏やかな音を、心安らぐ筈のそれを、時折とても悲しく思う。







「薫ちゃん、それは考え過ぎとちゃうのん」

太陽が山々の淵に隠れ始めようとしている時刻。とある甘味屋の一番右端の席に、薫と妙は向かい合う形で座っていた。
卓上の両端に置かれた器の淵に、楊子が当たり渇いた音をたてた。中に盛られていた餡蜜は、すっかり跡形も無く消え去っている。
少し冷めた緑茶を啜りながら、妙は落ち着き払った様子で呟いた。ざわざわ、ざわざわと沢山の人の声が交差する店内に、それは不思議と重く響く。

「そう……なのかな…?」

薫は静かに呟くと、両手で握り締めた茄子紺の湯呑みを、円を描くようにゆらゆらと廻した。底に溜まった茶葉がその動きに合わせて波打つように揺れる。


「そうや、剣心はんは剣心はんなりに薫ちゃんの事想ってくれてはるえ?」

妙の言葉に反応してか、ピタリと薫の両手の動きが止まる。湯呑みの角が机上を滑り、カタリと鈍い音が鳴った。



「………自信がないのよ」





気持ちはひどく不確かで曖昧で、目に見えないからこそ、人はそれを言葉に乗せて形に変えて想いを伝えるものなのに、言葉足らずなあの人は、唯笑って私の傍に居るだけで。




あの張り付いた仮面のような笑顔の下に忍ばせた感情―もの―を、私は知らない。


「薫ちゃん…」

「やっぱり…悔しいじゃないですか。結局…私ばっかり剣心の事好きなんだもん……」

「そんなことあらへん思うで?」

「そう…かなあ…」


薫は深く溜め息を吐くと、背中を落とし首を捻り顔を机に押しつけた。
ひんやりとした感触が左頬に伝わり、その頬の上をぱらり、と頭の上で一つに結われた薫の艶やかな緑髪が滑るように落ちていく。
妙は指先で散らばったその髪束を纏めてやると、宥めるように呟いた。


「ほら、薫ちゃん元気だしぃな。今日剣心はんと行くんやろ、秋祭り」

しかし薫の肩が微かに上下したのを目に留めて、妙は思わず眉間に皺を寄せた。

「まさか、約束してないん?」

薫は机に突っ伏したまま、浅く頷いた。器に残った鼻先を掠める餡の甘い香り。

「なんで誘わへんのよ、きっと剣心はんも薫ちゃんと行きたかったやろうに」


今宵妙が営む赤べこやその筋の商店関係者が主催の秋祭りが、丁度神谷道場から半刻程南へ下がった所にある広場で開催される。
毎年割りと大々的な規模で開かれるこの催しを知らぬ人間は、この近辺ではあまり居ない。
当然神谷道場にも詳細が記載された文が今年も配達された。

薫も昔はよく父と母と三人で、足を運んだものだった。
母に滅多に着ない珊瑚色の浴衣を着付けてもらい、結った髪に飾りをつけて。
大好物だったりんご飴が心置きなく食べられるこの秋祭りが、幼い薫にとっては滅多にない行事であった。

そんな懐かしい思い出の場所に、剣心を誘って二人で来ないかと、妙に話を持ちかけられたのはつい十数日も前の事だった。
妙の呆れるような物言いに二の句が告げず、薫は静かに床に視線を落とす。

視界の右端に、誰かが落としたのか、端が揃った一枚の山吹色の手ぬぐいがちらりと見えた。

「せっかく浴衣も新調したんやろ?」

「うん」

「ほななんでなん?まさかまた出稽古先の付き合い云々言うんちゃうやろな」


眉を潜めて妙は言い放つ。

「違うわよ・・・」

咎めるような口調に思わず薫は唇を尖らせた。
ここ数ヶ月前から、薫の出稽古の依頼が格段に増え、加えて剣心が急に警察関係の仕事を引き受けだした為家を開ける事も多くなり、
予定の合わぬ二人の間に生じたすれ違いの所為で、二人で過ごす時間がめっきり少なくなってしまっている。



けれど、文句の一つも零さないあの人。



笑顔で見送る彼の言葉を背に受けて、何度切なく思ったことか。





一月程前、やっと二人の暇が合った日さえも、突然の前川道場からの来訪客により、見る影も無く奪われてしまって。



   こんな所で立ち話もなんでござる、拙者今茶を煎れるゆえ、薫殿あがってもらってはどうか   


いつもの穏やかな笑顔を浮かべて来訪客に応じる彼を尻目に、何度心中で深い溜め息を吐いたか知れない。




   私は二人で過ごすのを楽しみにしていたのに、剣心はそうじゃないの   








「気ぃ使ってくれたんとちゃうの?薫ちゃんの人間関係に後腐れが無いように」

「頭では分かっているんだけど、それでもやっぱり考えちゃうの」






私はあの人みたいに笑えないから。




「剣心に、女の人が逢いに来ただけで、多分凄く嫉妬しちゃうと思う」




落ち着いた素振りが酷く憎らしい



あの人が持つ『余裕』という名の鎖は、私を堅く縛り付ける



「取り越し苦労に過ぎん思うで。剣心はんはきっと薫ちゃんのこと」

「そんなこと」




分からないのよ。




あの人は、何も言ってくれないから。




不安になってしまうのは当たり前でしょう?




「だから切り出せなくて・・・私ばかり必死になるのも悔しいじゃない」



浴衣を新調し、髪飾りも合わせて見立て、準備は万端な筈なのに、「一緒に行こう」と唯其の一言が彼を目の前にすると、私は何もいえなくなってしまう。
本当の言葉は喉に張り付いたまま、またいつもの日常をやり過ごすのだ。


「最近よく思うの。」



   薫は、嘘が下手だなあ   


眉を下げて崩した表情で、骨ばった大きな手で私の頭を撫でる父。ゆっくりと、父の手の腹を滑る私の髪。
いつもあの人が私に苦笑いを零してそう呟くたびに、亡くなった筈の父の姿が彼の背後に透けて見える。

姿形が似ている訳でもない。

けれど確かに脳裏に鮮明に蘇る父の姿と、かつての口癖。


   薫殿は嘘が下手でござるなあ   




時折、とてもそれが怖くなる。
何一つ、あなたは言葉にしてくれない、何一つ、確かなものをくれやしない。
父と重なるその姿が、どんなに私を不安にさせているか、きっとあなたは気づいてなんかいないでしょう?







あなたの中に父の影を見る度に、淀んだ不安が私を襲う。




そんなもの、私は望んでなど居ないのに




「剣心は私の事、もしかして恋愛対象として見ていないんじゃないかって・・・」




客がまた一組入店したのだろう、カランという音を鳴らした扉から、ふわりと漂う風が宴の喧騒の気配を乗せて、靡くように揺れた。
いつもと違う独特の匂いのするそれに、薫は再び溜め息をつく。すっかり気を落とした薫を案じ、妙が声を掛けようとした、その時。




「妙ッ!!」

荒々しい声を挙げて、こちらへ駆けつけてくる少年。艶の無い黒髪を無造作に立てたそれを見て、薫は思わず目を見張る。

「弥彦・・・」

先ほどの音は弥彦のものだったかと、薫は机上に手をついて身を乗り出す弥彦を見上げる。かなり遠くから走ってきたのだろう。額には薄らと汗を掻いていた。


「どうしたのよ、弥彦。あんた今日祭りの準備に出ていたんじゃなかったの」

「その祭りの準備なんだがよ、大変な事になっちまったんだ」

弥彦の言葉に途端に表情を曇らせる妙。

「何があったんッ?」

「売り子で手伝いに来る筈だった隣町の奴等が、食中毒で倒れちまって来れなくなったんだ」

弥彦はそう言うと、余程苛々しているのだろう、髪束に手を差し込み後頭部をガリガリと掻き毟った。

「何やて・・・!?」

「食中毒って何でまたこの時期に・・・」

薫は不審に思いそう問いかけた。弥彦の眉間に寄せられた皺がさらに深くなる。

「何でもワライダケ喰って死にかけているらしいんだな、病院で。」

(どこかで聞いたことのある話なのは気のせいかしら・・・)

瞼を閉じてこめかみに手を添えると、妙はどうしよう、と抑揚の無い声色で呟いた。

「あの子らおらんかったら店まわらへんのに・・・」
「今燕が街の奴等に聞いて回ってるが、今年はどこも人手が一杯って噂だからな、捕まるか補償が出来ねえ」

大々的な祭り故、準備にもかなりの労力と時間を今まで費やしてきたのだろう。
突然舞い込んで来たその事態に途方に暮れ、二人は頭を抱えどうしたものか、と首を捻らせた。

「妙さん、弥彦」

ふと薫が短く呟く。

「私でよければ、手伝うわよ」

それは人材不足の店側からしてみれば願っても無い申し出だったが、妙がそれを快く受ける筈も無く。

「何言ってるの薫ちゃん・・・だって」

「いいのよ、別に。それにほら、売り子ってちょっとやってみたかったし」

すると、弥彦が準備をしようと席を立とうとする薫の着物の端を掴んだ。

「ちょっと待てよ、薫お前」

思わずぐらついた身体。何よ、と薫は弥彦に文句を投げる。しかし弥彦は神妙な顔つきで言った。

「今夜剣心と祭り行く予定あんだろ?無理すんなよ」



思わず停止する思考。

頬を霞める風が冷たくなった気がした。



「え・・・?」


ざわざわ、ざわざわと。

遠くでざわめく人々の声。喧騒。


「剣心が話してたぞ。」

「どういうこと・・・?」



約束なんて、交わしていない筈だったのに。



「今夜は薫と祭りに行く予定だから、晩飯は外で済まして来いって。薫、何も聞いてないのかよ?」







分からないのよ。




あなたが何を考えて居るのか。








後編   客室