【小話 その1】




その瞳の色はどこまでも深い闇しか映し出さなかった。


辺りを見渡せば月の光も家の灯も確かにあるのに、
   人斬り抜刀斎   に見つめられただけで闇に囚われる。
息が苦しい   そのとき初めて自分が動きだけでなく呼吸をも止めていたことを知る。
外気を肺に送り込もうと息を吸い込んだ瞬間。

抜刀斎が大地を蹴った。

ざ、と土を噛む音がやけにはっきりと聞こえ、
地を離れた歩を追うようにして生じた土煙の細かい粒子も見分けることが出来た。
そのくらい彼の動きが止まって見えるのに、なぜ己の体は動かないのか。
これ以上の好機はないというのに。

そして動かぬ体がまるで炎が走ったかのように熱いのはなぜだろう。

ぼんやりと考えていると視界が暗転した。
この時はっきりと分かった。


ああ、自分は斬られたのだと。










【小話 その2】



ちりーん。


洗濯物を取り込んでいると、風鈴の涼やかな音が剣心の耳に届いた。
川の流れに花びらが浮かぶ絵柄に薫が惚れこみ、先日買ったばかりのものである。


ちりーん。


風鈴を吊るすには少し早いかもしれない。
しかし、新緑の季節を迎え夏が近付くとじわりとした暑さが全身を包み込む。
一定の間隔を置いて響く風鈴の音が暑さを緩ませてくれているようだ。


ちりーん。


しばらく音の余韻を楽しんでいたが、誰かが訪ねてきた気配を感じ、剣心は腰を上げた。
庭から玄関にまわり込むとちょうど門をくぐった燕の姿を認めた。
「おや燕殿」
「こんにちは・・・あら?薫さんはお出かけですか?」
「いや、今道場で稽古中でござるよ」
視線だけで薫の居場所を伝えると、釣られるようにして燕も道場を見やる。
「一人でもちゃんと稽古しているなんて、やっぱり薫さんはすごいです」
「しかしさすがに今日は暑いゆえ、もう少ししたら何か冷たいものでも
持っていこうかと思っているのでござるよ」


ちりーん。


「道場の中はもっと暑いんでしょうね。風があれば戸を開けることもできるでしょうけど」
「いや、少し開いているのでござるよ」
首を傾げた燕のために、今度は指で教えてやった。
「本当、全然気付きませんでした。ほんの少ししか開けないのも稽古のうちなんですか?」
「まぁ・・・稽古といえばそうでござるかな?」
言われたことがよく分からず、再び首を傾げた燕だったが、ふと気付いたように声を上げた。
「あ」
「如何(いかが)した?」
今度は剣心が燕の視線を追って体の向きを変えた。
「あそこ。あんなところに風鈴があるんですね」
燕が指摘したのは、真正面に位置する道場の引き戸。
先ほど剣心が教えたように僅かに開いている。
その真上から垂直に風鈴が吊り下がっているのだ。


ちりーん。


剣心には馴染みのある音がまた聞こえた。
   きれいな音。聞いているだけで何だか涼しくなりますね」
澄んだ音色に聞き惚れる燕に、にこりと笑いかけた。
「では体も涼しくなるものでも用意しよう。
ちょうど麦茶を冷やしてあるのでござるよ。燕殿も一緒に如何でござる?」
「あ、いえ結構です。ごめんなさい、私ってば・・・」
「何、気にすることはござらん」
「いえ、そうじゃなくて・・・弥彦君から言付かってきたんです。
今日は遅くなるから夕飯はいらないって」
「ほぅ、赤べこは相変わらず繁盛しているようでござるな」
「急に団体のお客様がいらっしゃることになって。本当にすみません、肝心なことを言わずに・・・
私もそろそろ戻らないといけないのでこれで失礼します」
「ああ、ありがとう。弥彦にもよろしく伝えてくれんか」
「はい、それでは」


ちりーん。


ぺこりと頭を下げてその場を後にしたとき、また風鈴が鳴り響いた。
そこで初めて燕は気付いた。

あれ?
風なんて吹いていたかしら?

しかし、現に風鈴は鳴ったのだ。
ぴたりと足を止め振り返っても、風鈴が揺れている様子はない。
「燕殿?」
動きを止めた燕に、剣心が怪訝な声を投げた。
それではっと我に返り、再度頭を下げて今度こそ本当に走り出した。

きっと自分が気付かなかっただけで風が吹いていたのだ。
だから風鈴が鳴ったのだ。

そう、自分に言い聞かせながら。


ちりーん。


燕の姿が見えなくなると、剣心は道場に向かって歩き出した。
引き戸の前で足を止め、呼びかけるために口を開く。
「薫殿」
「さっき誰か来ていたようだったけど・・・誰?」
「燕殿でござるよ。弥彦の帰りが遅くなることを教えてくれたのでござる」
「ああ、燕ちゃんだったの」
「中は暑いでござろう。冷たい麦茶があるから少し休憩せぬか?」
「さすが剣心!気が利くわね〜」
「では用意してくるでござるよ」
「うん、ありがとう」
ひゅっと竹刀を振り下ろす気配がした。


ちりーん。


道場の中から吹いてきた風は風鈴を揺らし、剣心の頬を撫でていった。










【小話 その3】



気配を完全に絶ち標的にゆっくりと近付いた。
背後を取られていることに気付くことなく、のんきに洗濯をしている。
しかも、腰に帯びているはずの刀はここにはない。
稀代の剣豪と謳われたのも幕末の話。
今は完全に腑抜けた、ただの優男だ。

部下の一人に目配せすると、承知しているように小さく頷く。
そしてそのまま更に距離を詰めると。

   拙者に用があるようだが、断りも無く勝手に人の家に入り込むのは感心せんな」
静かな口調だが、気付かれていないと過信していた男達にとってこれは全くの不意打ちであった。
だが彼らも並みの人間ではない。
すぐさま身構え、一番近い位置にいた男が剣心に躍りかかった。
対する剣心は気負うことなく自然に立ち上がる。
立ち上がり様、彼の右手が動いたかと思うと、
「うわ!?」
すぐそばにいた男が顔を押さえてのけぞった。

剣心の周りに武器になりそうなものは無い。
だが、今まさに『何か』されたのだ。

状況がつかめぬまま、一人が抜刀する。
そのまま型を作る姿勢に入るが、ほぼ同時に彼の右手に何かが巻きついた。
びちょりとした冷たいものが手首にはりつく。
その正体を知って目を瞠(みは)った。
彼の瞳に映し出されたのは濡れた手ぬぐいだった。
振りほどこうとしても水ではりつき、しっかりと固定されている。

と。

いきなり引っ張られたかと思うと、次の瞬間、
鼻っ柱に痛みと衝撃を感じて立っていられなくなった。
一番後ろにやや年かさの男が控えていたが、
彼は動きを封じられた部下が剣心の掌打を食らって倒れる様に我が目を疑った。

日本を代表する凄腕を持つ   とまではいかなくとも決して弱いとはいえぬ部下が、
刀を持たぬ男に簡単にあしらわれたことに。
力ではなく、手ぬぐいを武器とした意表をついた攻撃に。

だから反応が一瞬遅れた。
相手の間合いの外から剣心が腕を振り上げると、手ぬぐいが彼の首に生き物のように巻きつく。
呼吸が詰まり思わず顔をしかめたが、体の自由を奪われたわけではない。
柄に手をかけ、抜刀しようとしたが。
「!?」

己の全てを貫くような鋭い眼光。

それだけで今度こそ本当に体が動かなくなった。
その小さき体から迸(ほとばし)る気のなんと重いことよ。
体勢を立て直そうとした者達も剣心の剣気に圧され、その場から動けずにいる。
先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりもいつの間にか消えていた。
だが、全てをひれ伏せる気を放つ張本人は驚愕の色を浮かべる来訪者達を見ることもない。

「さあ、用件を聞こうか」

恐ろしいほど澄み切った声。
目の前にいる赤毛の男に告げられた瞬間、初めて自分が呼吸を止めていたことに気付いた。







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