【小話 その1】 ざぁ、と頭から湯をかぶり、しばし自分の髪から滴り落ちる水滴を見つめていた。 ふと、何かを感じてはっと振り向くが、無論そこにはだれもいない。 あるのは薫が入るのを今か今かと待ち構えている湯気のたった湯船だけだった。 風呂場には薫一人。 それでも感じるのだ。 彼が私を見ている。 彼・・・剣心は外で薪をくべているはずだ。 換気のために作られた小窓も踏み台かはしごを使わない限り風呂場の内部を見ることは出来ない。 剣心が風呂場にいる薫を見つめることなど不可能だった。 だが、薫には分かるのだ。 剣心の全神経が内部にいる薫に向けられていることを。 湯船に入る前にかけ湯をした時も、体を洗うために己の胸に触れた時も・・・・・ 神経を注がれていることの方が実際に見られているよりも落ち着かなかった。 そのため、普段なら体を伸ばしてのんびり出来るはずの湯船の中でも薫は体をちぢこませ、 己の体を抱え込むようにして湯の中に身を沈めている。 それでも一枚の壁を挟んで剣心が神経を集中させているのが分かる。 目に見えずとも、剣心の耳はどんな小さな水音でも聞き逃すことはない。 きっと今の彼は、薫の動きが手に取るように分かるだろう。 彼が私を見ている。 気にしないように努めても、知らぬ間に意識してしまう自分がいる。 「薫殿、湯加減はいかがでござるか」 薫の心を表すかのように水面が乱れた。 いつもと変わらぬ彼の声。 あなたは今、どんな表情をしているの? |
【小話 その2】 (とりあえず薫の手に小さな傷があるという設定で) 「薫殿、洗い物なら拙者が・・・」 「いいわよ、来客用の湯飲みだけだし」 「しかし薫殿は手に怪我をしているわけでござるし」 「こんなの怪我のうちに入らないわよ」 心配そうに見守る剣心に対し、薫はころころ笑うだけである。 薫の手に刻まれたいくつかの傷。 彼女のいうようにそれはほんのわずか引っ掛けたような傷であり、 薬を塗る必要もないほど浅いものであった。 しかしながら傷は傷。 この赤毛の男は目の前の少女に針の先ほどの傷でも負わせたくないのだ。 必要以上に気遣う剣心に薫は呆れ、それ以上に深く想われているという喜びをかみしめていた。 知らずに緩む顔を誤魔化すため、やや大げさに手を振り、水を切った。 「はい、おしまい!もう、剣心は心配性なんだから」 「薫殿が気にしなさすぎなのでござるよ」 些か憮然としながら言い返したが、ふと薫が手を擦り合わせているのが目に入った。 やはり痛むのかと見ているとその視線に気付いたのか、薫の瞳が動いた。 そして剣心の心を見透かしたようにこう言った。 「別に痛むわけじゃないのよ?ただ、水に触れるとちょっとかゆいような感じがして」 「かゆい・・・でござるか?」 そう、と薫が頷く。 「かゆいようなくすぐったいような・・・あ、でも手が乾けばおさまるし」 脇においてある手拭いをとろうとしたが、それより早く剣心の手が伸びて手拭いを奪った。 僅かに目を見開く薫であったが、このあと更に彼女の黒瞳が見開かれることとなる。 剣心は無言で薫の手を取り、手拭いで丁寧に水分を拭っていく。 「け、剣心、自分でできるから・・・」 「いいから」 あっさりと、しかしやや低めの声で制され、薫は口をつぐむしかなった。 薫の華奢な手は剣心の手にすっぽりおさまった。 剣心はまず、彼女の手全体を拭き終わると今度は指の間に手拭いを滑らせて丁寧に拭き取る。 その間、薫は先ほどとは違うくすぐったさを覚えていた。 思いのほか真剣な眼差しで黙々と作業を続ける剣心に胸の鼓動が早くなる。 「あ、ありがとう・・・」 両手の五指を全て拭き終わる頃になるとやっとのことで声を搾り出した。 そのまま剣心の手が離れるのを待ったのだが。 「剣心?」 いつまでたっても薫の手を離そうとしない剣心を怪訝に思い、小首を傾げる。 「ねぇ、もう終わったんでしょ?」 「まだ仕上げが残っているでござるよ」 「仕上げ?」 鸚鵡返しに聞き返す薫を見ずに、剣心はそっと彼女の小さな手に口付けた。 「!?」 息を飲む薫に構わず、剣心は両手の甲に己の唇を落とした。 「けん 「まじない、でござるよ」 「え?」 剣心の唇は離れたが、視線は薫の手に落とされたままだ。 「薫殿の傷が早く癒えるように。そしてどんな小さな傷でも負わぬように」 そう言って顔を上げた剣心はふわりと微笑んだ。 「・・・・薫殿がよくても拙者がいやなのでござるよ」 す、と手が離れる。 薫は背を向けてその場を立ち去る剣心に声をかけられずにいた。 手に感じていたくすぐったさはいつの間にか甘さを伴って薫の胸に残っていた。 |
【小話 その3】 ちらりと薫の目だけ動く。 剣路が完全に家を出たことを確認して、再び視線は剣心に戻された。 その表情は硬く、剣心は僅かに眉をひそめた。 今回思いも寄らぬ怪我を負い、その結果床につく羽目になった。 言われるとしたらこのことかと思ったのだが、それにしてはどことなく様子がおかしい。 心配しているとか悲しんでいるといったことではなく、薫から感じられるのはむしろ「怒り」。 剣心は薫から切り出すまで沈黙を通した。 妻の口から言葉が発せられたのはそれからすぐのこと。 「・・・・・その怪我、あなたは油断して負ったものだと言ったけど、 本当は昔の知り合いに斬られたんですって?」 彼女から知るはずもない事実を告げられ、言葉を失った。 そんな夫の姿を見て、薫はくすりと寂しそうに笑う。 「ごめんなさいね、あなたがこんな重症を負うなんて余程のことだったから。 署長さんに無理矢理聞きだしたの」 薫は浦村署長から聞いた話をそのままそっくり剣心に伝えた。 それは彼の苦い思い出でもあり、振り返れば悔恨と共に深い哀しみが胸をえぐる。 できれば彼女には聞かせたくなかった 口には出さなかったが、顔に出ていたのか。 薫はキッと眉を吊り上げ、剣心に食って掛かった。 「何で言ってくれなかったの!?何で一人で抱え込もうとするの!?」 最近滅多に見なくなった妻の剣幕に一瞬たじろいた。 そのせいだけではないが、彼女の問いに対する答えはない。 薫はそんな夫の態度にいよいよ激昂する。 腕を振り上げ、剣心の胸を何度も叩いた。 「あなたって人はいつもそう・・・私には何も話してくれない! 私だってあなたのことを知る権利があるのに・・・!」 怒りにまかせて拳を振り上げてはいるが、剣心が怪我人だと言うことを忘れているわけではない。 その証拠に剣心は痛みを感じはしない。 だが、彼女から発せられた言葉は彼の心に深く突き刺さった。 「私達、夫婦じゃない!夫婦なら苦しみも喜びも分かち合うものじゃないの!?」 薫の瞳からは幾筋もの涙が流れ落ちていた。 剣心が何も打ち明けてくれなかったことが悲しくて悔しくて情けなかった。 感情は留まることを知らず、それを証明するかのように涙が止まることもなかった。 彼女に叩かれるより、彼女の涙と絞り出すような悲痛な声が痛かった。 「剣心にとって私ってなんなの?私は・・・・・私はあなたの妻なのよ!!」 雷に打たれたような衝撃を受けた。 考えるより先に剣心は妻の手を掴み、そのまま己の胸の中に引き寄せた。 「すまない、薫・・・!」 抱きしめられた薫は抗うように身を捩っていたが、 剣心が離さないことを知ると夫の腕の中ですすり泣いた。 「拙者達は夫婦であったな」 包み込むように抱きしめると、薫は何度も頷いた。 |
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