太陽よ、
いとおしさで胸がつまる男が見えるか







縁側に座って目を閉じている一人の男がいた。
その肩が規則正しく上下しているところを見ると、眠っているのだろう。
残暑厳しい日々が続いているが、その陽射しを避けるような日陰の中で柔らかな風がゆるりと吹けば睡魔が襲ってきても不思議はない。
彼が眠っているのを知っているのか、鳥も遠慮しているかのように姿を消した。
時折頬をかすめる風以外は、誰もいない。










いや、いた。










その男       剣心が座する位置よりぐるりと見渡してみれば建物の影からひょっこりと頭だけ覗かせている少女がいる。
黒髪をまとめてある薄紅のりぼんが、この少女の正体を物語っていた。



薫が赤べこから帰ってきたのはまだ日の高いうち。
いつもより早く帰宅したと自分でも思う。



普段なら時間が経つのも忘れて妙とおしゃべりに興じ、弥彦に指摘されて慌てて帰り仕度を始めるというのが常であった。
が、今日は思いのほか赤べこに客が入り、妙も薫と話している場合ではなくなり、燕と共に接客にまわっていた。
その状況を見て薫も早々に赤べこを辞したのだ。
予定より早く帰宅した薫はまだ庭にいるであろう剣心を驚かそうと、玄関ではなく裏に回った。



「あら?」



足音を忍ばせ、呼吸さえ押し殺して庭を覗き込んでみると、剣心が縁側に座って居眠りをしている場面に出くわしたのだ。
眠っている剣心を起こしては悪いと、来た時同様こっそり戻ろうと思ったのだが、そんな僅かな行為ですら彼を起こしてしまうような気がして動くに動けなくなってしまった。



でもこれじゃまるで・・・・・



その場に留まってからどのくらい時が経っているのか分からないが、それでも僅かな時間でないことは確かだ。
人の気配に敏感な剣心のこと。
しばらくすれば目を覚ますだろうと踏んでいたのだが、その兆(きざ)しすらない。
そんな中で彼の姿を見つめている薫ははたから見れば盗み見ているとしか映らないだろう。
今この場で咎(とが)められることはないが、何だか居心地が悪い。










それに       疲れているんなら、ちゃんと横になった方がいい。










京都で志々雄真実と死闘を繰り広げ、一週間前に東京に帰ってきたばかりだ。
白べこで養生させてもらったとはいえ、いまだ医師の治療を必要とする傷も残っている。

「剣さんのことだから何ともないように振舞うでしょうね・・・・・だから、あんたが気をつけて見てあげなきゃ駄目よ」

恵から何度も言われたとおり、剣心の体に負担をかけぬよう、今まで彼の分担だった仕事の量を減らそうとした。
剣心にもそう告げたのだが、
「別に山に入って食料を調達するわけではござらんから・・・家事くらいなら大丈夫でござるよ」
いつもの笑顔で返され、更には体を動かした方が傷の治りが早いと言われてしまえば薫は反論できない。



抜刀斎として剣を振るっていた頃には今よりももっと酷い傷を負った経験があるのだ。
その経験をもとに言った言葉なら信憑性は十分ある。



剣心の言葉をそのまま恵に伝えると、
「まぁ、家事程度なら問題はないけど。でも一度に味噌とか醤油を頼むのはやめなさいね」
一応許可が出たので、前と同じように家事は剣心の担当となった。
それでもしばらくは剣心の体調が気になって少しでも辛そうに見えたら即やめさせようと思っていた。
しかし、当の本人が楽しそうに家事をこなしているのを見ているうちに、これなら大丈夫と胸を撫で下ろしたのだ。










やっぱり安心するのはまだ早かったのかしら・・・










眠っているからと言って体調が思わしくないのかと考えるのは早計だろう。
だがこの男の性格を考えればその考えもあながち間違ってはいないような気がする。

どちらにせよ、剣心が眠りに落ちているのは事実だ。

薫は意を決して足を踏み出した。
剣心との距離を縮めても全く目を覚ます気配はなかった。
近づくにつれ、彼が気持ち良さそうに眠っているのが分かる。



いつもならここまで来れば気付くのにね。



ふ、と薫の口元が綻んだ。
目を覚まさないのは自分の存在を受け入れてくれているからだと自惚れてもいいのだろうか。
起こそうと思って近くに来たのに、普段見ない彼の表情をもっと見ていたくて剣心の隣に座ろうとしたのだが、ぴたりと動きを止めた。
愛刀を抱え込むようにして眠る剣心の姿は紛れもなく一介の剣客の姿だ。

刀を捨てて人並みの幸せを掴むことだって出来るのに。
彼が望みさえすれば明治政府の要職に就くことも出来る。

だが、剣心が選んだのはそのどちらでもない。










人を殺すことなく人を守る。
刀で傷つけるのではなく、刀で守る。
矛盾しているようだが、それこそが彼が選んだ道。
抜刀斎の名前を捨てても刀を携(たずさ)えているのが何よりの証拠だ。










自分が傷ついても、自分の命を捨ててでも剣心は目の前で苦しむ人を助けようとするだろう。



       でも、剣心自身が倒れてしまったら贖罪(しょくざい)も何も出来ないじゃない。



きゅ、と薫の眉が辛そうに寄った。
そして剣心の右側ではなく、柱を挟んだ左側に腰を下ろした。
こつんと柱に頭を預け横目で剣心の寝顔を見やる。




















剣心の右側には行けない。
だって、あなたの右手は誰かを守るためのものだから。

隣にも行けない。
だって、私はまだあなたの力になれないから。



だけどせめて。




















「・・・せめて、ここにいさせてちょうだい・・・」

剣心との間に隔(へだ)たりがあっても、少しでも近くにいさせて欲しい。
頑張ってあなたの力になれるような女性になるから。
あなたを支えられるくらい強くなるから。










そして、いつかはあなたのすぐそばに       










それまで待っていてね、剣心。

瞳を閉じた薫が眠りに落ちるのに時間はかからなかった。




















『・・・せめて、ここにいさせてちょうだい・・・』

その声はどこか悲痛で、剣心を現実に引き戻すのに十分な効果を発揮した。
だがすぐに目を開けることはせず、しばらく様子を窺う。
眠った振りを続けて視覚以外で状況を把握するのは幕末時代から染み付いた習性だ。

自分の左側にいるのが薫であることは分かっている。
しかし薫は剣心を起こすこともせず、縁側に座り込んだままらしい。
何も言ってこない薫に対し、まだ眠った振りを続けた方がいいのだろうか、などと考えているうちに小さな寝息が聞こえてきた。
「・・・・・?」
そっと目を開けてみると、薫が眠っているのが見えた。



無防備な寝顔。
剣術小町の凛とした姿からは想像もつかない。



「おろ・・・」
縁側で眠りこけていた自分を起こしに来たのではなかったのか。
それともここに座っていたら薫自身も眠くなってしまったのか。
確かに剣心ですら寝入ってしまうほど、居眠りするにはもってこいの場所である。
呆れていないわけではなかったが、それでも見るものを和(なご)ませる薫の寝顔をやさしい気持ちで見つめていたが、ふと自分と彼女との間にある柱に気付いた。
「まるで今の拙者達のようでござるな」
無機質に口の中でつぶやいてざらりと柱を撫でた。

薫に想いを寄せる町の男たちから見れば、剣心は彼女に一番近い位置にいると思われている。
しかし、手を伸ばしても巨大な壁が行く手を阻み、彼女に触れることすら叶わない。










・・・せめて、ここにいさせてちょうだい・・・










先ほど聞いた薫の声が蘇り、柱を撫でていた剣心の手が止まった。
そのまま宙に浮き、薫に手を伸ばす。
「それはこちらの台詞でござるよ」
言いながら薫の前髪に触れた。




















右手で触れることは許されない。
いくつもの命を絶ってきた血塗られた手だから。

すぐ隣に行くことも許されない。
君を己の奇禍に巻き込んでしまうから。



だけどせめて。





















「・・・せめて、ここにいさせてはくれまいか・・・」

薫との間に隔たりがあっても、少しでも近くにいさせて欲しい。
君の笑顔を出来るだけ近くで見ていたいから。
今までもこれからも、その笑顔で何度も救われるから。










そして、いつかは君のすぐそばに       










剣心の手が薫から遠ざかる。
「夢物語・・・でござるな」
ふ、と自嘲気味に笑みを漏らした。



自分の過去の全てを明かさぬまま薫に甘えているくせに。



薫に話したのは自分が『人斬り抜刀斎』だったということだけ。
抜刀斎としてどんな生活をしてきたのか、そしてどんな人間と付き合ってきたのか、彼女は何も知らない。
いや、薫が聞いてこないことをいいことに自分から何も語ろうとしなかった。
血なまぐさい話をしても薫の笑顔を曇らせるだけと自分に言い訳をしているに過ぎないのだ。










「ん・・・」
太陽の光が薫の顔を照らし、それが眩しかったのか僅かに顔をしかめた。
剣心は立ち上がって少女の正面に立った。
すると影が生じ、薫の表情が穏やかなものに戻る。
それを認めて剣心の顔も緩む。
が、それはすぐに険しいものと変わった。










もし・・・もし、俺が自分の妻を惨殺したなどと告白したら彼女はどうするだろう?










恐れるだろうか。
軽蔑するだろうか。

きっとそのどちらでもないだろう。










でも、薫から笑顔が消えることは間違いない。
他人の痛みを自分のものとして受け入れてしまう少女だから。










剣心は安らかに寝入る薫のかんばせに手を伸ばした。
が、触れる直前で手を止めた。
あと少しで少女の顔に触れるというところで制止した剣心の手。



ああ、空の彼方にある太陽からは剣心の表情は分かるまい。



今の彼は重傷で寝込んでいた時より何倍も辛そうな瞳で薫と己の手を見ていた。
これほどまで近づいているのに、見えない壁が二人を分かつ。

叩き壊そうと思えば叩き壊せる。

だが、今の剣心にその壁を叩き壊して薫のもとに行く力はなかった。
全てを諦めたかのように、剣心の手がゆるりと下ろされる。
そこにいるのは静かな笑みで自分の感情を隠す剣客ではなかった。
剣心は、胸の内から溢れ出す感情を押し留めるように固く拳を固めていた。
この感情の正体は誰よりも彼自身がよく分かっている。



このまま薫のそばにいても彼女を悲しませるだけ。
どんなに今が幸せでも、これから先もずっと続くとは限らない。
触れたくても触れられない。
自分も、薫も苦しいだけだ。










       それでも。










剣心は柱に手をかけ自分の体を支えると、重心を前にずらした。
剣心と薫の距離が徐々に縮まっていく。

「もう少し、だけ」

あまりに小さいその声は薫の耳に届かない。
剣心の唇が薫のりぼんに触れた。
そのまま、りぼんが薫本人であるかのようにやさしく口付ける。










慈(いつく)しむように、いとおしむように。










やがて名残惜しそうに唇が離れ、剣心は一歩後退して口を開いた。
       薫殿、そんなところで寝ていては首の筋を違えてしまうでござるよ」
剣心の声に反応してうっすらと薫の目が開いた。
ぼんやりと剣心を見ていたがやがて今の状況を把握したらしく、彼女の頬が鮮やかに色付いた。
そんな彼女にいつもどおりに微笑んでやると、はにかむような笑顔で応えた。










この笑顔。
この笑顔のためにもう少しだけここにいたい。










男の笑顔に隠された痛みに彼女が気付くことはない。

気付かないで。
そうすればもう少しここにいられる。

この先決して伝えることのない言の葉を己の心の内で紡ぎながら、剣心は薫を促して家の中に入った。




















太陽よ。
遥か天空から地上を照らす太陽よ。










そこからいとおしさで胸がつまる男の姿が見えるか?



















【終】

小説置場



触れたくても触れることが出来ない。
剣心の場合、「触れない」ではなく「触れることが出来ない」。

京都編の前には既に自分の気持ちに気付いていたと思いますが(全然その気はなくて薫を抱きしめた、なんて言ったらシメルぞ、ゴルァ!)、それを表に出すことはない。
剣心の場合、人斬りとして多くの命を奪い、更には自分の妻をも殺してしまったという過去があります。
そんな自分が薫のもとにいていいのか、そのせいで彼女が危険に巻き込まれるのでは、と危惧しているんですね。
薫本人や周りから言わせてもらえばそんなこと全然気にしていませんが、こればっかりは本人の心の問題でもありますからねぇ。

「過去にこだわらない」と薫に言われたからといって「じゃあ、今までのことは綺麗さっぱり忘れて何も気にしない」なんてことは剣心でなくとも簡単に出来ることじゃない。
でも人を好きになる気持ちはどうしようもなくて。

好きなんだけど伝えられない、でも気持ちを抑えられない、みたいにはたから見てじれったいような、もどかしいような剣心が書きたかった。



そーしーてー!
こちらの駄文の挿絵ですが・・・「月のおと」の於音様よりいただきました!
同じイラストでもこちらはスキャンで取り込み、透明度を上げたものなのであまりはっきりと分からないと思いますが・・・
加工前のイラストは客室に展示してありますので是非ご覧ください!