カルマの坂   <10>



映し出されたのは画面いっぱいの黒。



反乱軍の人間に見つかったのか。
このカメラマンがY国の情報を流していると知れたらどうなるか。

男も彼女も、息を詰めて事態を見守るしかなかった。
だが、聞こえてきたのは二人が予想していた言葉ではなかった。










『・・・んた、・・・危・・い・・・!・・早・・・にげ・・・・・』










不鮮明ではあるが、それは無関係の人間を危険から遠ざけようとする警告に他ならない。
とにかくカメラマンに害を加えるわけではないその反乱軍の言動に、男は安堵の息を吐き出した。
だがそんな彼とは裏腹に、彼女の瞳が限界まで見開かれ、その唇が戦慄(わなな)いた。



反乱軍の男はその身を翻(ひるがえ)し、戦闘が続く街の中心に向かって駆け出した。
だが、少し離れた所からカメラマンを心配そうに振り返る。
ショルダーバッグに仕掛けられた小型カメラは、その時の男の顔をしっかりと捉えていた。

カメラが反乱軍の男の顔を認めると、彼女の唇が一つの単語を形作る。










「お父さん・・・」
つぶやくような小さな声に、男は弾かれたように彼女を見た。










「・・・何だって?」

聞き逃したわけではないが、それでも聞き返さずにはいられない。
それだけ、彼女の言葉は男を驚愕させるのに十分な効果があったのだ。
男の視線が彼女に注がれるが、今度は逆に、彼女がテレビから目を離さない。
「何で・・・・・」
男の存在など忘れたかのように、彼女はテレビに向かって身を乗り出した。



「何でお父さんがここにいるの?何で反乱軍に加わっているの?答えてよ、お父さん!」



走り去る背中に何度も呼びかけるが、彼女の声は画面の向こうにいる父親に届くことはない。
それでも、手を伸ばせば届くかのように、彼女の細い腕がテレビに向かって差し伸べられる。

目の前で起こった意外な展開に、男はなんと声をかけていいのか分からない。

だが、彼女の体がベッドから落ちそうになるのを見て、慌ててその体を捕まえた。
「危ない!」
「放して・・・お父さんが死んじゃう・・・!」
男に体の自由を奪われながらも、彼女の腕だけが虚しく宙を漂う。










「落ち着けッ!ここはY国じゃない・・・遠く離れたS国なんだ!」










ほとんど叫ぶように言い放つと、彼女の華奢な体がびくり、と震えた。
力なく下ろされた腕が男の体に当たり、何気なくそちらを見れば彼女の白い手は赤い血に染まっている。



それは、彼女が自分の命を絶とうとした時、男が阻止しようとして揉み合った時の傷。



あの時は無我夢中で、自分の手も傷付いたことすら気が付かなかった。
画面上から父親の姿が消えても、彼女は瞬(まばた)き一つせず画面を見つめている。

男がそっと彼女の手を取っても、その体は微動だにしなかった。
手の傷は出血のわりにさほど深いものではなく、血が乾き始めている。
それでも男はポケットからハンカチを取り出し、彼女の手に緩く巻いた。
ハンカチを巻き終えても、男の手が彼女から離れることはなかった。



彼女は動かない。
ただ食い入るようにして画面を見ているだけ。
男もまた、彼女と同じようにテレビに視線を向けた。










「・・・今ならまだ助けられるかもしれない」










独り言のように紡がれたその言葉に、彼女は敏感な反応を示した。
はっとして男を見れば、彼は彼女の視線に気付いていないかのように、依然画面を見つめ続けている。



「助けられるって・・・お父さんを?」



このニュースは作り物だ、と疑う力はもう残っていなかった。
ブラウン管に映る己の父親の姿を見た瞬間、彼女のスパイの仮面は外れてしまったのだ。










「だがそれには君の持つ情報が必要だ。密かに他国へ侵入するためのルートがあるだろう?それを使えばこちらからY国に入り込むことも可能だ」










男の言うとおり、そういった侵入ルートは確かにある。
しかし、それを知るのは国から絶大な信頼を寄せられている人間だけ。



「君は知っているんだろ、その道を」
「な、何であなたがそんなこと・・・」



いくらこの男があなどれないと分かっていても、数少ない人間しか知らない事実まで握られていることに対して、彼女は動揺した。
だが、そんな彼女の様子を意に介することもなく、
「君のお父さんだけじゃない。今あの場にいる人間も助けることが出来るんだ。だから頼む、君の力を貸してほしい」
そう言って、男は彼女に顔を向けた。

そのまっすぐな視線を受け止めることが出来ず、彼女は狼狽したように顔を背けた。

「簡単に言わないでよ。確かに侵入ルートはあるけど、それは国家機密に値(あたい)するのよ。敵国の人間に教えられるわけ・・・」
「じゃあ、君は自分の父親を見殺しにするのか」
氷の刃(やいば)のような男の言葉が、彼女の心に突き刺さった。










「いくら反乱軍が優れた戦闘力を持っていても、軍隊の攻撃を受けたら無事には済まない。軍隊がこの騒ぎを鎮圧するのも時間の問題だ。仮にこの戦闘で生き残っても、収容所に送られる・・・どっちにしても、反乱軍に待っているのは『死』だけということだ」










男の声はどこまでも冷たい。
彼女が苦しむのは分かっている。
それでも、彼はやさしい言葉をかけることはしなかった。



辛いだろうが、これが現実。



男の冷ややかな声はその現実を彼女に突きつける。
そして、彼女は選ばなくてはならない。










「君が守るのは国?それとも家族?」









ぎゅう、と男の手の中で彼女の手が握り締められたのが分かる。
彼女にとって、これは人生最大の選択だった。
苦しそうに何度も呼吸を繰り返す。










国か、家族か。



彼女が男の要求を呑めば自分の家族を助けられる。
要求を呑まなければ、家族の命はない。










単純なことなのに、彼女は声を出せない。
彼女はY国に仕えるスパイなのだ。
国に忠誠を誓い、そのために自分の手を汚してきた。










全てはY国の未来のため。










そう自分に言い聞かせ、己に課せられた役目を誇りに思っていたはずなのに。
今、その『誇り』が彼女を縛り付ける。










家族の命を救うために言わなくては。

国を守るために言ってはいけない。










二つの思いが交差する。
のどもとに手を当て、何とか声を出そうとしてもただ無意味に喘ぐだけ。
きつく目を瞑ったその表情には、彼女の苦悩がありありと映し出される。



私はどうしたらいい       



彼女が求める答えはもう出ているのに、それを言葉に出来ない。










と。

握り締めている手に、男の力が加わった。
それは手の傷に障らぬ程度に、そして彼女に己の温もりを分け与える程度に調節されたかのような力加減であった。
その温もりの源を探すように彼女の顔がゆっくりと動いた。
そこにいたのは、先ほどの冷たい声は別人ではないか、と思わせるような温かな瞳で彼女を見守っている男。



やっぱり、この人はお父さんにちょっと似ている。



父親と同じ色の瞳を持つ男をぼんやりと見つめていると、彼女から視線を逸らさぬまま男の唇が動いた。










「今の君はY国のスパイじゃない。両親の無事を願う、一人の女の子だよ」









以前であればすぐさま否定するところだが、今は男に対して怒りが湧き上がることはない。
むしろ、なかなか見つけられなかったパズルの最後のピースを目の前に差し出されたような、そんなすっきりした気分になった。










私はもうスパイじゃない。
普通の女の子として、家族を想っていいんだ          










『闇』の中に、幾筋もの光が差し込み、彼女の胸の奥から今まで押さえ込んできた『想い』がこみ上げる。
国のことは頭に浮かんでこなかった。
彼女の心を占めていたこと、それは。










「私・・・お父さんを助けたい・・・ッ」










その瞬間、堰(せき)を切ったように彼女の双眸(そうぼう)から涙が溢れ出した。



「お父さんとお母さんを助けたい!」



もう以前のように、自分の感情を隠すことはしなかった。
子供のように泣きじゃくる彼女を見て、男はやっと笑みを浮かべた。

出会うたびにいつも見せてくれたやさしい微笑で。

見慣れた笑顔を見て、余計に涙が零れ落ちる。
男は何も言わずに、彼女の頭を撫でた。










彼女は解放されたのだ。
しかし、完全にではない。
彼女の中に植えつけられたものはとても深く、簡単に根絶することは出来ないだろう。



これから先、彼女は己の中に巣食う『闇』に苦しみながら生きていくことになる。
その時、彼女は再び『闇』に囚われてしまうのだろうか?

男は見えるはずのない『闇』に向かって、こう告げた。










かかってこい。

彼女が『闇』に囚われても、俺が『光』を与える。



彼女が『闇』に囚われるたび、何度でも。










「大丈夫だ、俺がそばにいる」

その言葉は彼女に向けたものか、それとも自身に言い聞かせるためか。










ふと彼女が思い出したように、涙に濡れた瞳で男を見上げた。

「く、国の・・・国への侵入ルート、は・・・」

母国より家族を選んだ以上、すぐにでも情報を提供しようとしているのか。
しゃくり上げながらも、懸命に伝えようとする彼女がいじらしい。



「・・・っ」



気が付いたら、彼女を己の腕の中に閉じ込めていた。
突然抱きしめられ、彼女の体が一瞬強張る。

「急がなくていい」

その一言で、彼女は力を抜いて、その身を男に委(ゆだ)ねた。
家族以外の、しかも他国の男に抱きすくめられ、その体温を感じている。
しかし、彼女にはそれがとても心地よく、安心できた。










これから先、どうなるのか         










与えられた任務を完遂できず、このベッドで再び目覚めた時も同じことを考えていたような気がする。
これからのことを思うと、あの時と同じように先の見えない不安に押しつぶされそうになる。



でも、彼女は自分で未来を選んでしまった。



もう引き返せない。










相変わらず、男は彼女の体を目に見えぬ何かから守るようにして己の中に包み込む。
先ほど情報を提供しようとしたにも関わらず、彼女を気遣ってそれを遮ったことを思い出した。



変な人。
あなただって、Y国の情報が欲しいくせに。



まだ涙を止めることはできないが、それでも他の事を考える余裕は出来た。










この人は私の考えていたS国の人間とは違う         ううん、そんなことは最初から分かっていたはずなのに。










『スパイ』としてではなく、ただの『女の子』としてこの男を見ていれば、答えは既に出ていたのだ。










この男(ひと)を信じようと思うのは、間違いなく彼女の『心』。

どんな思想を植えつけられても、人間の心だけは誰にも支配できないのだ。










「あのね、私・・・」
何度もしゃくり上げながらも何かを伝えようとする彼女に、男は気遣わしげな瞳を向ける。
だが彼女はどうしても今、目の前の男に伝えたいことがあったのだ。



嗚咽をこらえるようにゆっくり息を吐き出し、彼女はその澄んだ瞳でまっすぐ男を見た。
そして、こう言った。



この瞬間、彼女は新たな一歩を踏み出したのだ。










「私の名前は        ・・・」



















【終】

前頁



これにて、「カルマの坂」は終幕となります。
当初の予定よりかなり長くなってしまいました。

結論から申しますと・・・難産でした、かなり;

冒頭部分でも申し上げましたとおり、歌関係は大体短編で終わるんですよ。
でも今回はご覧のとおりの長編・・・読まれた方も疲れたと思いますが、書いているσ(^◇^;)もかなり疲れました・・・

それらしく演出してみれば、どえらく暗い内容になっているし、そこを修正しようとすればその分また話が長くなっているし。
書いている最中に何度躓いたことか・・・(泣)
しかも、歌詞をもとに書いているくせに、最終的には歌詞関係なくなっている・・・最後のほうは特に関係ないですもん。
コレ、企画室に置いていいものかなぁ?←何を今更;

正直、こういう話は不得意分野に入るんですよ〜ッ
じゃあ何で書いたんだよ、と言われると、

「敵同士の剣×薫が書きたかったから♪」

と答えるしか・・・
それだけの理由なんです、すみません(^^;

現実世界でも、この話みたいにお互い分かり合えたら一番いいんですけどね。
実際そうならないケースがほとんどですが、そう願うのは自由だと思っていますので。

それでは、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m