カルマの坂   <9>



すぐに引き返したのは奇跡としか言いようがない。



花瓶を持ってくるんなら、一緒に花も挿してきたほうがいいだろうと思って、男はまた病室に引き返した。
病室のドアに手をかける        カシャン、というガラスが割れる音を聞いたのはその時だった。
男は迷わずドアを開けた。










そして見た。

花瓶代わりのコップを割って、その破片を手にした女スパイの姿を。











彼女は男が戻ってきたことに驚いたように目を見開いたが、すぐ真顔になり手にしたガラス片を自分の首筋に持っていく。
何をしようとしているかなど、一目瞭然だ。



「よせッ」



間一髪。
ガラス片が頚動脈に触れる前に、男が彼女を押さえつけた。










「放して!放してよぉッ」










男の体の下で、髪を振り乱しながら女スパイが金切り声を上げる。
身を捩(よじ)って暴れても、男は力を緩めない。
その間にも、何とか彼女の手にあるガラス片をもぎ取ろうと試みた。
鋭いガラスは彼女の手を、そして男の手を傷つける。
しかし、そんなことに構っていられない。



血が流れ、それがどちらのものか分からないくらいにシーツを赤く染めた頃、やっと彼女の手からガラス片が滑り落ちた。










・・・キィン・・・・・

澄んだ音が病室に響いた。










「ああ・・・」
己の命を絶つための道具を失い、絶望したかのように女スパイの体から力が抜けた。
しかし、男は依然として彼女の体をベッドに縫いとめている。



指一本でも動かすことを許さぬように、きつく、きつく。



呆然としていた彼女は、その痛みで現実世界に戻ってきた。
「・・・なんで邪魔するの?」
男の顔を見ずにぽつりとつぶやくが、彼からの返事はない。

さすがに掴まれている手首が痛くなってきた。



「ねぇ、いい加減はな      
男の顔を見て、言葉を失った。










男の顔は、血の気を失い、顔面蒼白だった。










唯一赤い色を見せる唇も、きつく噛み締めているため、本来の色を失っている。
彼の全てを知っているわけではないが、それでもこんな表情を見るのは初めてだ。
男は彼女と視線を合わさぬまま、言葉を紡ぐ。



「なんで邪魔をするかって・・・?」



やや語尾が震えた。
今にも爆発しそうな己の気持ちを静めるかのように、大きく息を吐き出した。



「死なせたくないからに決まってるだろ」



淡々とした口調に、彼女は一瞬唖然としたが、すぐに険しい表情に変わった。
「そんなの、あなた達の勝手じゃない!大体、Y国の情報を得るために私を助け・・・」
「違うッ!!!!」
強い口調で遮られ、彼女は口を閉ざした。
いや、彼女が口を閉ざしたのはもう一つの理由があった。










・・・・・・震えている?










そう。
彼女を拘束している男の体が小刻みに震えていた。



「なぜ、震えているの?」



この病室が寒いとは思えない。
それなのに、どうして男は震えているのか、彼女には理解できなかった。



「震えている?この俺が?」
男は、彼女に言われて初めて自分の体の異変に気付いた。
しかし質問した彼女と違い、すぐにその理由に思い当たったようだ。
「ああ、これは・・・」
彼の口から紡がれた言葉は、彼女を大いに混乱させた。










「・・・怖かったからだな、きっと」









他人事のようにつぶやく男の声に、彼女は自分の耳を疑った。



怖い?この男にもそんな感情があるの?



冗談でしょ、と言えなかったのは彼が震えているのが演技ではないと察したから。
いつもならまっすぐ自分を見つめている瞳が不安定に揺れている。



だけど、何が?



そんな彼女の疑問に答えるかのように、
「君が死んでしまうのが、怖かったんだ」
と、付け加えた。



「頼むから、もう死のうとするのはやめてくれないか。さっきは本当に心臓が止まるかと思った」



男の口調は相変わらず淡々としているが、その表情は傷ついたように暗い。
それが余計に痛々しく、彼女の胸がちくり、と痛んだ。










『ごめんなさい。もうこんなことしないと誓うから、そんな顔しないで』










たぶん、こう言えば男の表情に明るさが戻ることを直感的に感じていた。
でも、言えない。
なぜなら、彼女は突発的に死のうとしたわけではなく、悩んだ末の選択だったのだから。










「じゃあどうすればよかったの?あなた方には、国民が虐(しいた)げられているように見えるかもしれないけど、私達はずっと守られていると信じて生きてきたのよ。いきなり『君達は君主にだまされている』なんて言われて、納得するとでも思っているわけ?」










生まれた時から教え込まれた思想、そしてそう信じ続けた月日は決して短いものではなく。
その長い年月の間に、間違った『真実』は確実に彼女の奥底に根付いているのだ。
己の中に矛盾を感じても、全てはその『真実』が覆い隠してしまう。



それが当たり前だと信じていたのだ。



それに、と彼女は悲しげに睫毛を伏せた。
「私が祖国を裏切れば、犠牲になるのは両親よ!?君主様を裏切り、国を捨てるなんて出来ない・・・私には出来ない!」
彼女は胸の内を吐露し、その表情は今にも泣き出しそうに歪んだ。










信じていたものが音を立てて崩れた時、私はどうすればいい?



国内で起きた争いを見せ付けられて、彼女は激しく動揺していた。



命を懸けて守るべき国。
自分が生まれ育った、愛すべき国。










でも、私が本当に守りたいのは          










先ほど見せた笑顔とは対照的な悲哀を漂わせる彼女を見て、男は少し手首を掴む力を抜いた。



「じゃあ、せめて君の名前だけでも教えてくれないか」
「私の名前・・・?」



いきなり突拍子のないことを言われ、ゆっくりと彼女は男と向き合った。
彼女の心を表すかのようにその表情は暗かった。

「話をするにしても、名前が分からないと不便だろ?」
と言って、彼女の憂いを少しでも軽くするようにわざとおどけた顔を作った。

そんな男の表情を見ても、彼女は躊躇うように視線を外した。
「でも・・・やっぱり私・・・」
彼女の口調はたどたどしく、己の中で葛藤しているのが感じられる。










一方、男もまた迷っていた。










彼女自身がじっくり考え、納得して答えを導き出す        それが自分にとっても、彼女にとっても一番いい方法だと思う。

だが、さすがにその時間すらなくなってきた。
議会の連中が行動を起こし始めたら、彼女を守りきれない。



彼女がY国の情報を提供し、S国側につくということになれば議会も考えを変えるだろう。
しかし、彼女自身が口を堅く閉ざしている限り、それは難しい。










平静を装ってはいるが、彼の頭の中ではいくつかの考えがぐるぐると回っていた。










いっそのこと、情報を提供してくれれば彼女の両親の安全はこちらが保障するということに       いや、だめだ。
それではただの脅しだ。
脅迫じみた汚い手は使いたくない。
結果的にそうなるとしても、最終的な選択は彼女に選んで欲しかった。



だが。



彼女の身を守るためには、もうこの方法しか残されていないのかもしれない。
それがたとえ彼女を傷つけることになっても        










張り詰めた空気の中、テレビではアナウンサーが可愛らしく飾り付けされたスウィーツを頬張り、満面の笑顔で中継している。



『ん〜、おいしい!実はこれ、地元では知る人ぞ知る有名なスウィーツなんですよ〜』



この中継を見ている二人の心など知るはずもなく、病室には不釣合いな弾んだ声がこだまする。
そんな能天気な中継を見ていられるほど、のんきに構えていられなかった。










そう、このアナウンサーの声が途切れるまでは。










『中には濃厚なチョコクリームがぎっしり詰まっているんですが、混ぜてあるオレンジピールの苦味が甘さを抑え・・・』



突如耳に届いたのは乾いた銃声。










二人は反射的に視線を走らせ、テレビ画面を注視する。
のどかな情報番組が一変して、銃声や爆音響く戦闘シーンに変わる。










激しい銃撃戦によって、建物は破壊され、無残な姿を晒していた。
その武器を扱う人間も無事では済まされなかったのだろう、所々血痕が飛び散っているのがありありと分かる。
今テレビから聞こえてくる声は、先ほどまでの明るいものではなく、緊迫したものに変わっていた。
『・・・先ほどまで、ここでも戦闘が繰り広げられていました。どうやら武装集団はY国の政治に不満を持つ国民の集まりのようです』



映し出される画面が固定されずにぐらぐら揺れている。
よほど足場が悪いのだろうか?
それに、さっき見た情報番組に比べると声がかなりくぐもって聞こえる。



所々途切れる音声に苛立つように唇を噛むと、そんな彼女を横目で見て、
「普通に撮影するとすぐ止められてしまうから、ショルダーバッグに小型カメラを仕掛けてあるんだ。だから音が悪いし、人の目線より下の映像になっている」
と言って、男は再び画面に視線を戻した。

それじゃ盗撮じゃない、と言い募ろうとしたが、画面を凝視している彼は彼女の憤慨に気付かない。
ニュースに気をとられ、彼女の体を自由にしてやったことすら気付いていないのだろう。

同じようにその事実に気付いていない彼女も、テレビに視線を戻す。
このニュースの真偽はともかく、母国が今どうなっているかは彼女にとって重要なことだった。



映像の真偽を確かめようにも、街は随分被害を受けているため、今映っている街並みが本物か作り物か判別できない。



『戦闘が開始されてから数時間が経過していますが、鎮圧された様子はありません。警官隊もかなり手こずっている様子です。反乱軍を指揮する人間がそれだけ優秀だということでしょうか』










中継を続けながら、カメラは街の中心に進んでいく。
中心に近づくにつれ、傷つき力尽きた人間が倒れているのが映し出された。
反乱軍は黒のツナギ、警官隊は紺の制服を着ているため、倒れている人間がどちら側の人間なのか判別できる。
しかし、中には一般市民の姿も数多く見受けられる。



戦闘に巻き込まれたのだろうか。



彼女はあまりの惨状に目を逸らしたくなった。










『今、軍施設から軍隊がこちらに向かっているとの情報が入りました。どうやらY国政府は軍を投入し、反乱を鎮めようとしているようです。反乱軍は、この事実を知っているのでしょうか・・・うわッ』



ガガッ、と何かがぶつかる音が聞こえたと思ったら、カメラを持った人間が振り向いたのか、画面が変わった。






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こーゆー話を書いておいて何ですが、争いごとは嫌いです。
どんな大義名分を掲げて戦争しても、結局犠牲になるのは戦う術を持たない人達ばかり。
戦争が終わっても、その傷跡は簡単に消えないし、失くしたものは帰ってこない。

もちろん、政治的な問題とか、根本的に間違っていることを正すためとか、理由を数え上げればキリがないし、σ(・_・ )自身、難しいことは分かりません。
だけど、突き詰めて考えてみるといつも答えは同じなんですよ。

それは、「私がイヤなんだ」ということ。

戦争に限らず、争いごとは苦手なんですよ。
自分が当事者じゃなくても、その場の空気とかがすごいイヤ。
よく言えば平和主義、悪く言えば事なかれ主義ってことですかね。

ずるいって言われてもいい。
汚いって言われてもいい。

まー、個人のわがままと言ってしまえばそうなんですが、でもイヤなものはイヤなんです。
それだけ、σ(・_・ )は争いごとが嫌いということで。

・・・暗いあとがきでスミマセン;