カルマの坂   <8>



貧しさのために病気になっても医者を呼ぶことが出来ず、そして食料すら手に入れることも出来ずに死んでいった人間。
もし、自分の両親や友人がそうなったら      



『君は、自分の家族や親しい友人が病気になって医者にかかることができずに死んでいくのを見ても、今と同じことが言えるか?』



男の問いが蘇る。
彼の前では絶対に言わないが、彼女の中で答えは決まっていた。










答えは、ノーだ。










ちゃんとした治療を受ければ治る病気なのに、治療費を払えないために命を落とした友人がいる。
そして、食料を買えずに飢えて死んだ子供達の姿もこの目で見た。



ただ『死』を待つことしか出来なかった彼らに、君主は手を差し伸べてはくれなかった。



その現実に、己の中で「何かが違う」と警鐘を鳴らす。
でも、それを口にすることはない。










『君主様は国民を守るために、たった一人で他国に立ち向かっておられる』
『君主様はこの国のために寝る間も惜しんで努力されている』










これもまた、彼女が幼い頃から目にしてきた『現実』。










でも、その『現実』を私は見たことがあるのだろうか。
私が見た『現実』は、貧しさのためにただ死を待つばかりの者と、不満を口にすれば即座に収容所に放り込まれるという事実。










最後に両親と別れた時、彼らは彼女を哀れむような目で見ていた。
この任務が終わったらずっと一緒にいられるのに、なぜそんな瞳で見るのか不思議だった。
まるで娘の未来を憂いているような・・・そんな瞳だった。



誰かが収容所に入れられたという話や、近所の知り合いが亡くなったことを聞く度、両親はいつも表情を曇らせていた。
父親が酔った勢いで、
「この国に未来はないのかもしれない・・・」
と漏らした時、彼女は誰かに聞かれるのを恐れて、慌てて父親を嗜(たしな)めた。
「そんなこと言っては駄目よ。収容所に入れられてしまうわ」
と。

そんな娘に父親は、
「誤りを正そうとしても、すぐにその芽を摘み取られてしまうのか・・・」
と呻くように言ったのを覚えている。










その時は、他国に頼らず独自の技術を持ち、他国から侵略されないように君主様に守られているのになぜ未来がないなどと言うのか、と憤慨したが今ならその気持ちが少しだけ分かる。










でも、彼女は国に仕えるスパイだ。
そんなことを口にしてはいけないし、考えてもいけない。
己の中に芽生えた疑問は誰にも知られることなく、墓の中まで持っていく。
それが自分を、そして両親を守る最善の策だと考えていた。



だが今は、母国で反乱が起きたと聞いて彼女の心が揺れている。



いつだったか、あの赤毛の男が『S国に移住しないか』と持ちかけてきたことを思い出した。
今なら      反乱騒ぎで混乱している今なら、両親ともども国外へ出ることも可能ではないか。

そこまで考えて、己の恐ろしい思いつきに青ざめた。










           何を考えているの、私は!!










私はY国のスパイだ。
そんなこと考えてはいけないのに。



なぜ、勝手に考えてしまうの?
大体、Y国の反乱だって本当かどうか分からないのに。










夕方からの続報を早く見たいのか、見たくないのか       自分でもよく分からない。
彼女の中で何かの間違いだ、という気持ちと、もし本当に反乱だったら、という気持ちとがせめぎあっていた。





















自分でテレビをつけて確認したい衝動を何とかこらえて時が過ぎるのを待った。



夕方の五時過ぎにようやく男が姿を現した。
彼女から男にかける言葉はない。
何か一言でも発すれば、女スパイの仮面が外れてしまいそうで怖かった。

「この時間帯だとまだやっていないかもしれないけど、いつ報道されるか分からないからテレビをつけさせてもらう」

男もまた、余計なことを一切含まず、それだけ言ってテレビをつけた。
彼の言うとおり、どこのチャンネルを回してもそれらしき報道はなかった。
男は仕方なく、情報番組にチャンネルを合わせて椅子に座った。










ちらり、と彼女を盗み見ると何だか疲れたような顔をしている。
本人は否定していたが、やはりY国反乱の報に動揺しているのだろうか?
彼女が視線を落とすのは、テーブルに置かれたマーガレット。



それを見て男が、「あ」と声を上げた。










「・・・何?」
あまりにも素っ頓狂な声だったから気になったのだろうか。
彼女が表情を変えずにこちらを見ている。



「あ、花瓶忘れたと思って・・・コップじゃ何だか味気ないだろ?」
ちょっと取りに行って来る、と腰を浮かしかけた男を彼女が止めた。
「別にいいわよ、このままで。花があれば花瓶なんてどうでもいいし」
「でも」
「いいの」
短い押し問答の末、男が諦めたように座りなおした。
それを横目で確認してから、彼女は男に声をかけた。



「ねぇ、以前私に欲しいものはないか、って聞いたわよね。あれ、まだ有効?」



いきなり話を振られ少々驚いたが、すぐに答えた。
「もちろん。何か、希望でも?」
「希望・・・私の希望なら何でも聞いてくれるの?」

彼女の視線は先ほどと変わらず、マーガレットに注がれている。
そのため、彼女の表情が窺えない。



「俺に出来ることなら」
「あなたなら大丈夫だと思うわ」



そう言って、彼女は顔をあげ男を見た。










「私を、殺してくれない?」










男は返答できなかった。



やはり、彼女も自決の道を選ぶのか、と目の前が真っ暗になった。
彼女が自分の胸に銃口を向けた場面を思い出した。



彼女の虚ろな瞳を見て、気づいた時にはもう          










いや、違う。










もう一度少女の表情を見返して確信を得た。

確かに彼女は『死』を望んではいるが、その瞳には一点の曇りもない。
あの時のような虚ろな瞳ではなかった。



「なんかもう、疲れちゃった。どうせ、この国で私の死を望んでいる人間がいるんでしょう。なら、抵抗した私をあなたが撃ったってことにすれば誰も疑問に思わないわよ」



やけくそな口調だが、男はその声に彼女の強い意志を感じた。










「君の希望は分かった。だが、それは聞けない」










彼女は無言で天を仰いだ。
男の答えを予想していたかのようだった。



「・・・いつだったか、私を助けたいって言ったわよね?死ぬことで私が助かるって言っても、私を殺すことは出来ない?」
「確かにそういう場合もあるだろうな。だが今の君を見ていると、殺すことで助けられるとは思えないんだ」
「そう・・・」










ふー、と長いため息をついて、彼女は花を挿したコップを両手で包み込んだ。










「やっぱり、花瓶があった方がこの花は映えるかしら?」
ぼんやりと花を眺めながら彼女がつぶやく。
「それなら、コップじゃなくて花瓶に挿したほうが花も喜ぶわね」

心なしか、花を見つめる彼女の表情が和(やわ)らいで見える。

「持ってこようか、花瓶」
その表情に魅せられたわけではないが、何となく放っておけなくて気がついたらそんなことを口走っていた。
彼女は男の言葉にしばし思案していたようだが、やがて花を見つめたままこくりと頷いた。



「ちょっと待ってて」
男が立ち上がり、部屋を出ようとする。
「あ、ねえ」
そんな彼を呼びとめ、彼女はずっと聞きたかったことを口にした。










「眠り姫って誰?」










一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
「ほら、私のことをそう呼んだじゃない。『おはよう、眠り姫』って」

彼女の言葉に、ああ、と合点がいった。



「他の国の昔話だよ。魔女の呪いでずっと眠り続けることになったお姫様の話だけど・・・知らない?」
「・・・初めて聞いた」










こちらでは知っていても、Y国では知られていない物語らしい。
じゃあどんな物語を聞いて育ったんだ、と聞こうとしたがやめた。
Y国にある子供向けの物語は皆、国にまつわる話ばかりだったのを思い出したのだ。










「今度、その本を持ってくるよ。読んでみるといい」
「それからもう一つ」



今日はやけに質問が多いな、と思いつつ、彼女の言葉に耳を傾けた。



「この花の名前を教えてくれない?」
そう言って、コップごと両手で掲げた。
彼女の瞳は少女らしい好奇心で輝いていた。



「ああ、それは       



男は、例え花や物語でも彼女が興味を持ってくれたことが嬉しかった。
彼の口端が自然と持ち上がる。










「マーガレットだよ」
「・・・マーガレット?」










彼女の口が、花の名前を紡ぐ。
「マーガレット・・・この花と同じように、かわいらしい名前ね」

そっと白い花びらに触れ、そして        










彼女が、笑った。
誰かに強制されたわけでもなく、花を慈しむように自然な微笑を口元に浮かべていた。










花のような笑顔とは、今の彼女のことを言うのだろうか。
その笑みを焼き付けるかのように、男は彼女をじっと見つめていた。










その視線に気付いた彼女が、男を見る。
「・・・どうしたの?」
首を傾げるその仕草は、誰がどう見ても年頃の娘だ。



「・・・花瓶、持ってくる・・・」



それだけ言うのがやっとだった。
男は機械的に手足を動かし、何とか病室のドアを閉めることが出来た。
すると、それまで動くことを忘れていたかのように静かだった心臓が、急にどくどく鳴り出した。










あの笑顔・・・思った以上に強烈かも。










彼女の本当の笑顔が見たいと願っていた。
あのくらいの年齢なら、きっと満開の花のような笑みを浮かべるだろうと。

今、自分は確かに彼女の笑みを見た。

その笑みは、幼い少女のように愛らしく、成熟した女性のように美しかった。



彼女の笑顔で、男の心は囚われた。










いや。
囚われたのは最初からだったのだろうか・・・・・?










どちらにしろ、彼女に心を奪われたことは事実だ。



だからかもしれない。
「殺してくれ」と告げた時の曇り一つない彼女の瞳のことを失念してしまったのは       










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ちょっといい感じになってきましたか?
花の助けを借りたけど、男は無事、女スパイの笑顔を見ることが出来ました!

小道具のつもりで登場させたマーガレット、侮れません(笑)
そしてまた意味ありげなラストです(^^ゞ
そんなわけで久々に・・・

待て、次週!!