ひらり、ひらり、と無数の白い粒が舞う。
雪かと思って掌で受けてもそれは消えぬ。
見れば雪ではなく、薄く色の乗った桜の花びら。



植えてある桜の木より多いそれは、
剣心と薫を別世界へと誘(いざな)うかのように辺り一面桜吹雪を散らしている。



うっとりとしながらも無邪気にはしゃぐ薫の姿に、剣心は目を細めた。
ふと、剣心が彼女の名を呼ぶ。

素直に近付く少女の黒髪に花びらが一枚。

手を伸ばし、
「取れたでござるよ」



差し出された彼の手を見れば、そこにあるのは薄桃色の花びらではなく、
銀の輪にやわらかな乳白色の真珠が鎮座している指輪。



さすがに薫も、桜が指輪に化けたとは考えなかった。
剣心と指輪を交互に見比べるだけで言葉が出ない。
対する剣心はまっすぐ薫を見つめて、
「これを、左手の薬指にはめてほしい     受け取ってもらえるだろうか?」










言葉にも瞳にも迷いの色はない。
薫の瞳が潤んでいく。
涙が零れ落ちぬよう唇を噛んでうつむいた。










吐息が震えたが、再び顔をあげた彼女は瞳こそ濡れているものの、
満開の桜にも負けない笑みで剣心と向き合った。
そして     



「はい・・・・・!」



剣心が薫の体を抱き寄せると、桜吹雪が二人の姿を隠した。






























まさかの依頼   【前編】



まだまだ冷え込む日が続くが、それでも日中は暖かく、春の気配を感じる。
「そろそろ桜が咲く頃でござろうか」
買い物に行く途中、まだ蕾すらつけぬ桜の木を見つけて剣心がぽつりと呟くと同時に薫が吹き出した。
「それはいくらなんでも気が早すぎるわよ」
「最近暖かくなってきたゆえ、そんなことも考えてしまうのでござるよ」
頬に乾いた風を感じながら、剣心と薫はなるべく陽が当たる場所を選んで歩いた。



それぞれの買い物     重い物は当然の如く剣心の分担だが     を終えてあらかじめ決めてあった場所で落ち合うと、二人に声をかけてきた者がいる。



赤い鉢巻の上のトリ頭は見間違えようがない。
だが今日は連れがいるようだ。

中肉中背でこれといって特徴のない男が二人の視線に気付いて軽く頭を下げる。
よく見れば男にしてはまつ毛が長い。

本人も気にしているのか、前髪を伸ばしてそれを隠しているようだ。
「こいつはさっき賭場で知り合った奴で・・・オイ、名前は?」
「・・・アンタ、知り合いとか言っておいて名前を聞いていなかったわけ?」
呆れる薫を「まぁいいじゃねえか」と軽くいなす。
ちらと剣心が視線を投げるとそれを受ける形で彼は名乗った。










「阿晴泰造(あばれたいぞう)ズラ」
見知らぬ顔だと思ったのも道理、泰造はこの町の人間ではない。
言葉に訛(なま)りがあることを指摘すると、信州の出であることを明かした。










「ほぅ、信州の・・・」
「そうズラ」

左之助も信州出身だ。
同郷同士、さぞかし話が弾んだことだろう。

「しかし信州とはまた遠い所から来たのでござるな。東京に誰ぞ知り合いでも?」
「いや、目的地は別にあるズラ。俺達は川向こうに宿をとっていて」
「『俺達』ってことは、誰かと一緒ってこと?」
答えようとした泰造の動きが止まった。
そして井戸水を頭から引っ被(かぶ)ったのかと思われるほどの大量の冷や汗が体中から噴き出す。
「オイ、どうした?」
左之助の声にぎしぎしと音を立てながら片手を挙げて言った。

「さ、左之兄ィ、俺のことは構わずそこの人達とゆっくりしていくズラ・・・!」
「気にすんなって!別に気を遣うような連中じゃねえし」
「アンタが言うなッ」

即座に噛み付く薫の声など耳に入っていないのだろう。
泰造の視線は薫よりも彼女の背後にあるものに注がれており、いつでも逃げられるように後ずさりすらしている。



気になって剣心も首だけ回して見てみたが、老若男女がそぞろ歩くいつもと変わらない町の風景だ。
だが、この日常風景の中に泰造を脅(おびや)かす何かが潜んでいるのか。



「と、とにかく俺は行くズラ」
制止する暇すらなく、泰造はくるりと背を向け一目散に駆け出した。
・・・・・が、周りをよく見ていなかったせいか、五間も行かぬうちに乾物屋の前で誰かとぶつかった。










「すまねえズラ!」
「何だぁその態度は!人にぶつかっておいて、頭も下げないのか!?」










急ぐ泰造にとって運の悪いことに、ぶつかった相手は昼から酒を飲んでいたらしい赤ら顔の男だった。
どん、と強く肩を押され、不安定な姿勢で固まっていた泰造の体が乾物屋の店内に倒れこんだ。
売り物を置いてある棚にぶつかったのだろう、削りたての鰹節が羽毛のように舞い飛ぶ。
買い物客からいくつもの悲鳴が上がり、慌てふためいた店主が現れた。
「お客さん、困ります!喧嘩するなら余所でやってくださいッ」
「ああ、本当に申し訳ないズラ。あとで必ず代金は払うから・・・」

立ち上がって店主に何度も頭を下げる泰造だったが、それは相手の男の怒りを更に煽(あお)っただけであった。

「無視するとはいい度胸だなッ」
「そっちのお客さんもやめてくださいよ・・・ッ」
「うるせぇ!!!」
オロオロと割って入る店主を煩(うるさ)そうに押し返すと、今度は店主の体が地面に転がった。



「何するズラ!この人は関係ないズラ!」
泰造も頭に血が上ったようで、最早己を抑制できない様子。



「ねぇ・・・ちょっと止めたほうがよくない?」
薫の懸念も尤もである。
ここで喧嘩を始められたら乾物屋どころか、隣接する他の店にまで被害が及ぶだろう。
左之助に目配せすると承知したように頷き、二人揃って歩を進める。

「やるか!?」
「おお、望むとこズラ!!」

周囲に険悪な空気が渦巻く。
それを破ったのは剣心でも左之助でもなく、今にも消え入りそうなか細いしゃがれ声。



「そこにいるのは泰造ダニか?」



その場にいた全員の目が一斉に声がした方向に向けられるが、声の主は一向に動じる気配がない。
「な、何だあの婆さん」
「おろ・・・」
面食らったように左之助が口を開く。
おそらく自分も同じ表情をしているのだろうと剣心は思った。










一言で言うと小さい。
本当に小さい。










腰を折り曲げているせいで小さく見えるのかもしれないが、実際腰を伸ばしても薫の腰に届くかどうか。
顔には行く筋もの皺が刻まれ、真っ白な髪をきっちり結い上げている。
こちらをまっすぐ見据えているところから目は見えているのだろうが、彼女の瞳はたるんでしまった瞼に隠されいる状態。
細目の人間は何人か知っているが、その老女の目はどう見ても「線」としか表しようがない。
杖も突かず、よろよろと危なっかしい足取りで歩く老女に手を貸そうかどうしようか逡巡した時。

「ゲッ」

首を絞められた鶏のような声に振り向くと、顔色を失った泰造が瞬きもせず老女を凝視していた。
「泰造、お主の知り合いでござるか?」
「し、知らないズラ、あんなババァ」
間髪いれずに否定された。
まだ若干視線は泳いだままだが。
だが、泰造を見つめる老女の表情に変化が表れた。



「バ バ ァ ?」



まっすぐだった線が歪む。
と思ったが刹那、剣心と左之助の間に突風が走りぬけた!!










「誰がババァダニか、この馬鹿息子がぁぁぁぁッ!!!」










太陽の光が遮られたかと思うと、空高く跳躍した老女が『降って』きて、泰造の顔面に足蹴を食らわせた!
「ぐっふぁ!!!」
顔面を着地地点にされ、哀れな彼は再び倒れこんだ。
しかも今度は頭が地面にめり込むという更に悲惨な状態で。



この二人が親子だということは分かったが、剣心をはじめ、その場にいる誰もが言葉を失った。
酔っ払いは顎が外れそうなほど大口を開けたままだし、少し離れていた薫も同じ顔をしている。
が、酔っ払いはまだ酒が残っていたのだろう。
やめておけばいいのに今度は老女に突っかかる。



「おいババァ、アンタは関係な」
「だからババァじゃないと言うてるダニ!!」
最後まで言わせず、老女の足が泰造から離れたと思いきや、今度は酔っ払い男の下顎目がけて強烈な頭突きをお見舞いした。
先ほど泰造に向かっていったときには見えなかったが、今は本当に老人かと思うほど腰がしゃっきり伸びており、糸目が三白眼に変わっている。

はっきり言って怖い。

そんなことを考えていると、跳躍して攻撃力も増した攻撃に男が昏倒する。
その後は見届けず、老女は泰造に向き直る。
だが、足場にされた泰造はその衝撃をもろに受け、白目をむいていた。



「しっかりするダニ、泰造、泰造!?ああ、この母がもっと早く来ておればこんな酷いことにはならなかったダニ・・・!」



既に糸目に戻り、腰を曲げた様はどこからどう見ても息子を心配する健気な老母である。
だが一部始終を見ていた者は一瞬で豹変する老女の人格に血の気が引いた。
全員、彼女の持つ凶暴性に「逆にもっと酷いことになったんじゃないか」と感じていたのだろうが、誰一人としてそれを口にする勇気を持ち合わせていなかった・・・・・。




















意識を失ったままの泰造を送り届けることにしたのだが、彼女達は亡夫の墓参りのため、伊豆に向かう途中とのこと。
滞在している宿に送るより家に運んだほうが近い、という薫の判断で左之助が泰造を担いで帰路についた。
道中恐縮しまくっている老女から「どうも年をとると色々な所が弱ってきて・・・親切な人と出会って本当に助かったダニ」と礼を述べたが、剣心らはひくついた笑みしか返せなかった。



神谷家の一室に泰造を横たわらせ、ほっと一息ついたところで、
「そんじゃあんたらはまだ夫婦(めおと)になっていないのダニか〜?」
掠れた声が室内でのんびりとした雰囲気をかもし出す。



泰造の傍(かたわ)らに老女     泰造の母でルヨと名乗った     がちんまりと鎮座している。
あまりに小さすぎて一瞬置物かと見間違えるほど。
「夫婦でもない若い男女が一つ屋根の下で暮らすなんて・・・そんなの駄目ダニ!」
「いや、若いというても拙者はもう二十八で」
「話を逸らすなダニ!」










ぶん、と拳を振り下ろすと、ごきん、という嫌な音までついてきた。
ルヨが振り下ろした拳の先にいたのは     










「ぶぎっ!?」
打撃で覚醒した泰造が跳ね起きる。
「おや泰造、起きたダニか?ホレ、お前もこの方達にお礼を」
「ほのまへにはんがいふほほばあるうら!?」

鼻を押さえ、しかもくぐもった声で聞こえにくいがおそらく『その前に何か言うことがあるズラ!?』と言ったのだろう。

「すまないダニ、まだ痛むダニか?」
悪気はなかったとはいえ起こした(しかも情け容赦ない打撃で)息子に対し、罪悪感を感じたのか。
ルヨが子供のような手でそっと泰造の手をどけると、彼の鼻がありえない方向に曲がっている。



「ああ、このくらいなら大丈夫ダニ。どれ、すぐ治してやるダニ」



言うが早いかルヨの裏拳が息子の鼻を強打すると、薫がひきつった悲鳴を上げ、剣心にしがみつく。
打撃音と共に再びごきん、という音が聞こえ、

「ぎょおおぉぉぉぉおおぉおぉぉぉ・・・・・ッ」

聞いているこっちの胸が締め付けられるような苦悶の声を上げながら、泰造がごろごろと部屋中をのたうちまわる。
剣心は涙目になっている薫をしっかり抱きとめ、左之助も青い顔をして心持ち身を引いていたが、ルヨは平然と転がる泰造の顔をがっしと掴み、しばし凝視した。
やがてほっと息を吐き、
「ほら、もとに戻ったダニよ」
同一人物とは思えないほど柔和な声に誘われるように恐る恐る泰造を見れば、なるほど、確かに鼻の位置が戻っている。
そうなるまでに本人は地獄の痛みを味わったようで、ルヨが手を離すとぱったりと布団に突っ伏した。










「・・・・・で、さっきの話に戻るダニが。そこまで仲睦まじいのに、どうして一緒にならんのダニ?」
「「「へ?」」」










間抜けな声が唱和してふと気づいてみれば、薫は剣心に抱きついたまま、剣心は薫をしっかり抱えたままという有様。

「おおおっ」
どこか楽しそうな左之助の存在を完全に忘れ、
「ごごごごごごめんなさいッ」
「か、薫殿は何も悪くはござらんよ・・・」
二人の距離が必要以上に開いた。
「まぁアレだ、ご覧の通りの仲だけどよ、中々煮え切らないっつーかなんつーか」
「ちょ、何余計なこと言ってるのよッ」
真っ赤になった薫が左之助に掴みかかり、そんな薫を剣心が宥める。
しかし剣心の頬も赤く染まっていることに薫は気付かない。
ルヨは三人の様子をただ黙ってみていたが糸目が山形になり、口角が上がった。



「いっそのこと、祝言を挙げてしまうというのはどうダニか?」
「「「へ?」」」



またもや三人の声がハモる。
剣心と薫は何を言われたかすぐ理解できなかったが、こういうときに限って俄然やる気になるのは左之助だ。
「おお!婆さんいいこと言うねぇ!」
「そうダニ?兄さんもそう思うダニ?」
「なるほど、たまにはいいこと言うズラ、このババ・・・じゃねえ、母ちゃんも」
いつの間に目を覚ましたのか泰造まで話に乗ってくる。
禁断の一言を口にしかけたときルヨの三白眼に睨みつけられて即座に訂正したあたりが、彼がどれほどこの母親を恐れているのか測り知ることが出来た。

が、話題の中心人物達にとってはそれどころではない。

「ちょ、ちょっと待つでござるよ!ルヨ殿、勘弁してくだされ」
「そうよ、いきなりそんな話されたって・・・!」
なし崩し的に話が進んでいくのを止めるように二人同時に声を張り上げた。
「何を待つダニ?剣客さんはこのお嬢さんと一緒になりたくないダニか?」










ルヨの一言に薫は口をつぐんだ。
こんな馬鹿騒ぎは一刻も早く終わらせたい。
だが、実際想い人が何を考えているのか知りたい乙女心が待ったをかけた。










薫の心に同調したかのように、室内がしんと静まり返る。
全員の意識が自分に向けられている居心地の悪さに、剣心は僅かに身じろぎした。
一瞬だけ視線が薫に向けられる。
それはすぐ外されたが、何かを含むような瞳に薫の鼓動が早くなった。
「・・・・・それはなりたくないと言えば嘘になるが、だからと言ってすぐ祝言というのは早急すぎるしそれに拙者とて色々と考えることが・・・」
煮え切らない態度に全員苛々してきた。
その中でも一番苛立ちを募らせているのは薫だ。



(結局剣心はどうしたいの?私と夫婦になりたくないの!?)
滑舌の悪さを披露している剣心は少女のこめかみに青筋が浮かんでいることにも気付かない。



いい加減堪忍袋の緒が切れようという直前、
「剣客さん、もういいダニ。ワタシが悪かったダニ」
しょんぼりとした声が聞こえてきた。
ルヨは小さな体を更に丸めてうなだれる。

「さっき知り合ったばかりの婆にいきなり祝言を挙げろと言われても気が乗らないのは当然ダニ」
「か、母ちゃん?」
意気消沈している母親を見て泰造がオロオロしているが、狼狽しているのは彼だけではない。

今にも消え入りそうなほどの小さな声でルヨが続ける。
「ワタシの夫、阿晴乃至(ないし)はさる豪家の息子で、ワタシはその家に奉公している女中だったダニよ。お互い想い合っていたけど、所詮は主人と奉公人、認められるわけがないダニ。だからワタシと夫は駆け落ち同然で一緒になったダニ・・・・・当然祝言もなかったダニよ」
「左様でござったか・・・」
剣心が同情を込めた相槌を打つと、ルヨはこくりと頷いた。



「だから剣客さんとお嬢さんのように想い合っていても祝言を挙げない二人を見るとつい・・・婆の戯言と聞き流して欲しいダニ」
「そんなことないわ!」



先ほどの怒りはどこへやら、ルヨの話にすっかり感動した薫が感極まったように彼女のしわくちゃの手を握った。
「今日初めて会ったばかりなのに、こんなに心配してくれるなんて・・・迷惑どころかすごく嬉しいです!ね、剣心もそう思うでしょ?」
「全くでござる。ルヨ殿のお気持ち、ありがたく受け取らせていただくでござるよ」

やや薫に押された感じもするが、それでも剣心は本心を伝えた。
すると、それを聞いたルヨが顔を上げ、喜色満面で問う。

「そうダニか?本当にそう思ってくれるダニか?」
「もちろんでござる」
つられたように剣心も笑顔を返すと、ルヨの笑みも深くなる。










「じゃあ早速祝言を挙げるダニ!」
「おろ!?」
おなじみの台詞が甲高く響く。










「何でそんな展開になるのでござるかーッ」
「こういうのは勢いダニ!今やらなかったらいつ挙げるダニか?」
「そうと決まったら急いで準備しねえと!よし、俺がひとっ走りして赤べこに仕出しでも頼んでくらぁッ」
「左〜〜之ォ〜〜〜!?」
剣心の叫びも空しく、嬉々とした左之助が行動に移る。
「あの、ルヨさん?」
「ささ、とびきりきれいな花嫁にするダニよ!まずは風呂ダニ!」
「え?お風呂?ええ?」

口をぱくつかせている薫を強引に連れ出そうとするのにはさすがに見過ごすわけには行かず。

「ルヨ殿!拙者達はまだやると決めたわけではござらんッ」
「剣客さん、諦めるズラ。母ちゃんがこうと決めたらもう誰にも止められないズラ」



剣心の肩に泰造の手が置かれる。
彼を見やれば申し訳なさと同情心に満ちた顔をしているが、その瞳からは今起きている事態を面白がっているのが見て取れた。



「泰造・・・お主・・・」
「老い先短いこの婆のために二人の晴れ姿を見せて欲しいダニ」
どの口がそんなことを言うのかと思わず突っ込みそうになったが、それより早く泰造が笑い出した。

「はっはっはっ、母ちゃんは殺したって死なねえズラ」

ぴしゃり、と障子が閉められた部屋にはボコボコにされた泰造と、成す術もなく頭を抱えている剣心が残されたという。





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