待ち焦がれしは梅雨晴れだけでなく



ちょうどよい具合に木陰が二人をすっぽりと覆い、緩やかな風が頬を撫でる。
まさに平穏を絵にしたような状況。
目を閉じればそのまま寝入ってしまいそうだ。
特に変化もなく、されどそれがどれだけ心を穏やかにするのか。
今の状況に溶け込むような剣心だったが、彼の連れは静けさより変化を求めているらしい。



「釣れないわねぇ・・・この辺りにはいないんじゃない?」



本日何回目かの欠伸(あくび)を噛み殺している薫に苦笑した。
いや、彼女が暇そうにしているのは今に始まったことではない。















この時期特有の長雨で否応無く家の中に閉じ込められ、雨が上がっても「地面がぬかるんで危ないから」と剣心から外に出ることを禁じられていたのだ。
だが、梅雨も中休みを取ったらしく、この数日間は見事な青空が広がり、泥で濁った川の水も本来の透明度を取り戻した。

これまで言うことを忠実に守ってきた薫だったが、雨上がりの爽やかな空気に触れた瞬間、ついに辛抱しきれなくなったのだろう。
剣心もまた、連日の雨で少々気鬱になっていたことも事実。

朝から「外に出たい!」と詰め寄る薫に、一応は思案する素振りを見せたが、数刻後には梅雨晴れの中を二人揃って歩いていた。



       行き先が鬱蒼(うっそう)とした中にある池になったのは、買出しにいけなかったせいで乏しくなった食料を調達するため、というのが哀しいというか、らしいというか。




















買い物するでもなく甘味処に寄ることが出来ずとも、久しぶりに外に出た薫にとっては釣り糸を垂らしているだけでも嬉しかった。
しかし「あまりしゃべっていると魚も逃げちゃう」と黙り込んでから、隠し切れなかった欠伸が何度か剣心の耳にも届いていた。
欠伸しか出ないのは釣りに飽きたからではない。
何も得られない現状に変化を望んでいるだけなのだ。



まだここにきて間もないというに。



釣りに必要なのは忍耐であることももちろん挙げられるが、変化のないことも受け入れるくらいの余裕がなければ、ただ待つ時間というのは酷く耐え難(がた)いものとなる。
大体簡単に釣れるようなら今頃は魚という魚は絶滅の危機に瀕していてもおかしくはない・・・・・という本音は喉元で止め、のんびりと言った。

「まあまあ。気長に待てばそのうち食い付いてくるでござろう」
「剣心、よく待っていられるわねぇ・・・退屈しない?」

欠伸のせいで涙が滲んだのか、目を瞬かせている。
ちらりと横目で見やって剣心は同じ口調で続けた。
「そうでもござらんよ。色々と考えることもあるし」
「ふーん例えば?」
興味を引かれたように薫は顔ごとこちらに向けた。
すると剣心は逆に視線を逸らして空を仰ぎ、しばし思案してから言った。



     例えば、今夜のおかずは何にしようとか」



言い終わらないうちに薫の無遠慮な笑い声が空気を震わせ、数羽の鳥達が空へ飛び立つ。
「剣心ったらいつもそんな所帯じみたこと考えてるの!?」
「そりゃあ・・・家事一般は拙者の仕事でござるし、どうしても考えてしまうのでござるよ」
「やだ、おかしすぎッ」
「・・・そんなにおかしいことでござろうか?」
憮然とした剣心のつぶやきは笑い転げる薫の耳には届かなかった。










あーおかしい、と笑いの余韻を引きずっていた薫だったが、次の瞬間、ただ持っているだけだった竿が別の力によって引っ張られ、体勢を崩した。










「わ・・・」

踏ん張ろうにも湿った草の上では、逆に滑って転びそうだ。
それでも竿から手を離さないのは今宵の夕飯がかかっているからか。
剣心を笑ったものの、やはり自分が食することを考えると今手放すわけにはいかなかった。

抗(あらが)うことも出来ずにいる薫の体を支えたのは剣心。

竿を放り出した所を見ると、こちらは食料より少女の安全が最優先事項に挙げられると思われる。
右手は竿を握る彼女の手に添えられ、左手は己よりも細い腰を抱く。










「しっかり掴んでいるでござるよ」
「う、うん」
神速で窮地に駆けつけてくれた驚きよりも、隙間もないほどぴったりとお互いの体が密着していることに対して体内の血液が顔に集中する。
そんな薫の心を知ってか知らずか、剣心は獲物の動きを窺うかのように竿をこまめに動かす     彼女のほっそりとした手を包み込むようにして。
「お、これは大物かも知れぬな」
彼の意識はあくまで餌に食いついている魚に向けられているが、薫を支える力強い腕はびくともしない。

「拙者がいいと言うまで引き上げてはならぬよ」
耳にかかる息がこそばゆい。

僅かに身じろぎすると、
「まだまだ・・・焦っては逃げられてしまうゆえ」
薫を宥めるように、先ほどより強く握り締められる。



「・・・剣心」
「ん?」
「分かっていてやっているんじゃないでしょうね?」



じとりと疑いの眼差しを肩越しに投げると、
「さて、何のことやら」
ととぼけた返事。
「もー!またそうやってからかうんだから!」
「すまぬすまぬ、薫殿が可愛らしい反応を見せるゆえ、つい・・・」










更に言葉を継ごうとした薫に、剣心は眉を下げたが、すぐ彼の瞳が細められた。

「剣心?」
問いかけても剣心の瞳はまっすぐ正面に向けられている。
「薫殿、合図したら思いっきり竿を上げて・・・・・今でござる!」

薫の体は剣心の言葉に素直に動いた。










合図と共に思いっきり竿を振り上げると、水面から大きな鯉が身を現し、尾の後を追うように飛沫(しぶき)が上がる。
ぶら下がった鯉は振り子のように一旦遠くまで行って、こちらに向かってきた。

剣心は器用に糸を掴み、薫にもよく見えるように目の前に掲げて見せた。
近くで見ると丸々太っていて、肉付きもいい。

「お手柄でござるな」
目を輝かせて鯉に見入っていると、剣心がひょいと首を伸ばして笑いかけた。
はっとしたように彼を見たが、すぐ表情を緩ませる。
「そんなことないわよ。私一人じゃ釣り上げられなかったもの」
剣心がいてくれてよかったわ、と照れ隠しに目の前にある鯉をよく見ようと顔を近づけた。
「こんなに大きいと、二人じゃ食べきれないわね」



剣心の助力があったからと分かっているが、それでも釣り上げた獲物が、思いもよらぬ大物でやはり嬉しさを隠しきれない。



満足げに鯉を眺めていると、最後の足掻きとばかりにびちびちと体を震わせた。
「きゃッ」
驚いて身を退(ひ)くが、後ろにいる剣心に思い切りぶつかる羽目になる。










剣心も不安定な姿勢をとっていたこともあり、すぐ彼女を支えることが出来ず、勢い余って倒れこんだ。
幸い鯉は草の上に落ち、尚も暴れているがそんなことよりも。










「ごめんなさい!剣心、大丈夫!?」
剣心を下敷きにしてしまい、薫は慌てて起き上がろうとしたが、彼女の体をやんわりと押さえる手があった。
そのまま己の胸に抱き寄せ、心配そうに見上げる少女を穏やかに見つめる。

「拙者は大丈夫だからこのままで」
「でも重いでしょ?待ってて、すぐどくから・・・」
「慌てて動いたら腹の子に障(さわ)る」

静かな、されど有無を言わせぬその一言で薫の動きが止まった。
おとなしく胸の中におさまった妻の黒髪を撫で、そして彼女の下腹部を愛おしそうに見やる。
「・・・まだ腹は出ていないようでござるな」
「そうでもないわよ?ぽこっと出ているし」
「ほう、そうなのでござるか?」
「着物の上からだと分からないかもしれないわね。触ってみる?」



今度は剣心が慌てる番だった。



「え、触ってもいいのでござるか?」
「いいに決まっているでしょ!だってあなたはこの子のお父さんなんだから」
少し怒ったように言い、上目遣いで睨んだ。
だが彼は怯むことなく、むしろ今言われたことを己の中で反芻しているようだ。
「お父さん、か・・・」
剣心の目は相変わらず薫の下腹部に注がれているが、その瞳は僅かに緊張を帯びていた。
それを認めた薫も口を閉ざし、夫の手を己の腹に導いた。
彼女の手に支えられながらゆるりと撫でるが、どことなくぎこちない。










それはきっと、生み出される命に怯えているから。










数え切れぬほどの人を斬った男が、血の味など知らぬ少女に命を植え込み、それがこの世に生み出されることに恐怖しているのだ。
理由は無い。
ただただ怖いのだ。



無言で腹を撫で続ける夫に、薫もまた沈黙した。
幕末には恐怖される存在だった彼が、今は逆に恐怖する側となっているとは、なんと皮肉なことよ。
薫は体をずらして、剣心の左胸に耳を押し付けた。
「薫殿?」
ついと視線を走らせても彼女は何も答えず、代わりに彼の手をしっかり握り締めた。



「・・・ほら、鼓動が聞こえるでしょ?これがあなたのお父さん」



黒瞳がゆっくりと閉じられ、しばらくは微睡(まどろ)むかのように動かなくなった。
「お母さんはお父さんの胸の中が一番安心するの。きっとあなたも好きになるわ」










目を瞑ったままにこりと微笑んだのは生まれ出ずる我が子へ向けたものかそれとも。
剣心はしばし妻の微笑に見入っていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。









それを感じたのか、薫が目を開けるとそこにはいつもと同じ、穏やかな笑みを唇に乗せた夫の顔があった。
「早く生まれておいで。お主の母はどれほど素晴らしい女性なのかを生まれてきたら話してやろうな」
視線を妻に戻すと、彼女の頬がほわりとした桜色に染まっている。
「・・・・言い過ぎよ、剣心。生まれてきたこの子が私を見たら幻滅しちゃうわ」
「拙者は本当のことしか言わぬよ」
「私だって同じよ」
くすりと同じ種類の笑みが交わされる。



鳶のピーヒョロロというのどかな鳴き声が空高く響き、二人揃って顔を上げる。
見上げれば雲一つない青空が広がり、鳥の泣き声と葉がこすれる以外余計な雑音は一切耳に入らない。



       たまにはのんびりするのもいいものでござるな」

そして再び命が宿る場所を見つめた。
「外はこんなにも美しいと教えてやれば、もしかしたら早く生まれてくるやも知れぬ」
本気とも取れる口調に薫は目を瞬(しばた)かせたが、すぐに笑顔が咲いた。
「まだ二ヶ月しかたっていないのよ?そんなに急(せ)かされたらこの子だって困っちゃうわ」
くすくすと笑う妻に、それだけ待ち遠しいのでござるよ、と照れくさそうに答えて、彼女の体を両腕でしっかり抱え込んだ。
腹の中にいる我が子もこの手に抱(いだ)いているのだと考えると、幸福感に満たされ、自然と頬が緩む。
果てしなく広がる天は生きとし生けるもの全ての未来を表しているようだった。




















生まれてくる命に伝えたいのは、この世の美しさと命の尊さ。



そして、愛しい人の温かさ。




















【終】

小説置場



ここのところUPしたのはシリアスだったりアクション風味が続いていたので久しぶりにほのぼの系です。
一応6/20にUPできましたが、たまたまこの日にUPできただけです。
そう、本当にたまたま。
誕生日に書きたいと考えていたわけではなく、単純に二人の共同作業を書きたかったんですよ。
釣りでも料理でも何でも。

んで手助けする剣心が「補助」というセクハラをかます(笑)

あ、考えてみたら剣路製造も共同s(オワレ)
最初は妊娠も結婚もしていないという設定だったのですが、書いていくうちにいつの間にかデキていたという話になりました。



そして鯉はどうした?という点に関しては気にしない方向で(待て)