道場に戻る頃には雨溜まりに鮮やかな夕焼け空が映っていた。
数歩先を歩きながら視線を後ろに走らせれば、心持ち顔を傾けている薫がいる。



あれから薫は一言も口を利かなかった。



足取りはしっかりしており、体調が優れないということではないらしい。
無言で歩く姿はものを尋ねることが憚られたし、何より薫自身言葉をかけられることを拒んでいるように見える。
それほどまでに薫の身に纏う空気は確かに違っていた。

よく言えば落ち着いた、悪く言えば近寄りがたい空気だ。

お互い沈黙したままだが、歩く速度は変わらない。
見慣れた家々の塀に沿って角を曲がると、門の前で弥彦が待っていた。
剣心の後ろに薫の姿を認めると、ほっと息を吐いたがすぐ視線を逸らした。
何か考え事でもしていたのか、薫は弥彦に気付いていないようだ。
剣心が歩みを止めるとそこで初めて気付いたかのように顔を上げた。
誰も言葉を発することもせずしばし沈黙が場を支配したが、口火を切ったのは弥彦だ。
「薫、その・・・さっきはごめん」
彼の声からは後悔と罪悪感が滲み出ていた。
弥彦の中では薫を深く傷つけてしまったという慙愧の念があるだけに、どれほど謝っても謝り足りないだろう。
その気持ちが痛いほど分かるだけに、剣心も二人を見守っていたのだが。



「うん、いいよ?」



今の空気にそぐわぬ能天気な返答に、剣心と弥彦の目が点になった。










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雨が降った後の空気は澄み切っており、そのおかげで少し意識を集中させれば大気中に宿る力を感じることが出来る。
時折前を歩く剣心の視線を感じ、その都度気付かれたかと焦ったが、そんなことはあり得ないと思い直す。
(私が何をしているかなんて分かるはずがないわね。しかも精霊なんてもの、言葉すら聞いたことがないでしょうに)

薫が全てを思い出した事実には気付かずとも、それでも『何か』違うことには気付いている。

勘のいい存在というのは、物事を隠したいときには厭(いと)わしいものだ。
いつかは話さねばと思うが、少なくとも今はまだ記憶が戻ったことは伝えるつもりはなかった。
(記憶が戻ったことを伝えれば私の素性も話さないといけない・・・でもこことは違う別世界で生み出された人外の者ですなんて誰が信じる?)










今では全てを思い出せる。
羊水にも似た培養液の中で生み出されたことも。
精霊の力を使って戦場を駆け抜けたことも。



     数え切れないほどの命を無慈悲に奪ってきたことも。










(こんなこと、どう説明しろと?)
薫の口元が自嘲で歪んだ。
こちらでは決してあり得ない話をしたところで一笑に伏されるか憤慨されるかのどちらかだろう。

その目で見たものしか人は信じないし、知る必要もないこともある。
知られたくない秘密を抱えているのならこのまま何も語らず姿をくらますのが一番だと分かっている。

(剣心がいなきゃそうしたいところだけど)
ただでさえ記憶を失っていた頃の不安を抱えた姿や、吐血して倒れた姿まで見られているのだ。
弱者には分け隔てなく手を差し伸べる剣心のこと、当然のごとく庇護の対象として常に気にかけている。



そんな彼だからこそ、薫が出て行けば必ず探しに来る。
今日のように。



(それに、こっちも放っておくわけにもいかないしなぁ)
ちらりと剣心の背中を見やる。










男にしては小さな背中。

けれどあの時はこの背中に助けられた。
今度は私が守る。
そして、自分自身の幸せに目を向けられるように。










しかし残念ながら薫の願いをすんなり聞き入れてくれる相手ではない。
ことに自身のこととなると優先順位がぐっと下がる剣心のこと。



実現できるまでにどれほどの時がかかることか。
胸に手を当てて、薫は小さくため息をついた。



そんなことを考えていたせいか、剣心が止まるまで道場に到着したことも気付かず。
門で待っていた弥彦からの謝罪も薫にとっては些細なことでしかなく、軽く受け流してしまった。
酷く思いつめていた少年の表情が呆気に取られたそれに変わる。
が、すぐ目を吊り上げ烈火のごとく怒り出した。

「おま・・・!謝っているのになんだその気の抜けた返事はぁ!!」
激昂する弥彦を見ても薫の表情は全く変わらない。

「だって別に気にしてないし。あんただって謝らなくてもいいのよ?」
本心からの言葉に口をぱくぱくさせていたが、やがて。
「あぁそうかよ!たくっ、悩んで損した」
吐き捨てるように言って、弥彦はそっぽを向いた。
さすがにその様子を見て己の言い方に難があると気付いたか。



「弥彦」



柔らかく呼びかけても少年はむすりとしたままだ。
しゃがみこみ、目線を合わせると、
「私が怖かった?」
直球の言葉に弥彦の表情が動いた。
剣心からは薫が今どんな表情なのか知ることは出来ず、彼女の背中を見つめるのみ。
黙り込んだ弥彦に再度問う。

「私のことが、怖かった?」
口を噤んだままの弥彦を辛抱強く待つと、ようやく少年の首が躊躇いがちに縦に振られた。

「恐怖することは悪いことではないわ。でも逃げてばかりじゃ何の解決にもならないわよ?」
はっと顔を上げると、まっすぐに己を見つめる若き師の瞳と出会った。
どことなく挑むような目に対し、反射的に口から飛び出した言葉は。



「見くびるな!この明神弥彦、怖くて逃げる男じゃねぇッ」



薫の眼差しを受け、弥彦の瞳にも強い光が宿る。
「俺は逃げねぇ。どんなに怖くても立ち向かってやる!!」
真一文字に結ばれていた薫の唇が弧を描き、そして言った。
     私の足元にも及ばないくせに、立ち向かっていくって言われてもねぇ?」
「何をぉ!?俺が本気になったら、お前なんて敵じゃねえんだよ!!」
「はいはい、楽しみにしているわ」

手を伸ばしてごわつく黒髪を撫でても、弥彦は先程のように身を竦ませなかった。
反対に「ぜってーぶっ倒すッ」と噛み付きそうな勢いで喚いている。

「私を倒すならさっさと強くなってちょうだい。そんなに気長に待てないから」
「上等だ!後で吠え面かくなよ!?」
頭に血が上っている弥彦は薫の挑発に応戦しているが、剣心は間に立つこともなく違和感の正体を探ろうとした。










何かひっかかる。










いつもなら聞き流すだけだが、今日は薫の発する言葉に敏感になっていた。
不意に風が三人を囲い込む。
     冷えてきたわね」
ふるりと肩を震わせる薫に、
「濡れた恰好のままで突っ立ってりゃ当たり前だろ!とっとと中に入って着替えろよ」
乱暴な物言いで中に追い立てる。
が、剣心は動かない。
顔を上げ、上空で鳴く風に目を細めた。



まるで先程の思考を遮るかのような風に。



そのまま弥彦の急き立てられるまで、剣心の視線は見えるはずのない風に向けられていた。






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たとえどんな終わりを描いても 心は謎めいて
それはまるで闇のように 迫る真実

Song:嵐