弥彦から竹刀を奪おうと躍起になっていたのは覚えている。
しかし途中から弥彦ではなく、『倒すべき相手』と意識がすり替わった。

それが子供であろうと容赦しない。
目の前にいるのは子供の姿をした敵だ。

どれほど愛らしい顔立ちをしていても隙を見せれば子供の顔から一転、邪悪なものへと変貌する。
言葉通り牙を剥き、小さき体に殺気を漲らせて襲い掛かってくるのだ。
そうなる前に斬る。
薫が一閃しようとしたそのとき     



「うあああぁぁぁぁああぁぁ!?」



恐怖に満ちた悲鳴が耳に届き、薫は我に返った。
同時に自分が斬ろうとしていた存在を知ると、全身の血が引くのを感じた。










光と影を抱きしめたまま










道場を飛び出した薫は夢中で走っていた。
どこへ向かっているのか自分でも分からない。
ただ、あの場所から一刻も早く遠ざかりたかったのだ。

さっきのは何!?

どうしてそうなったかは分からないが、弥彦にひどいことをしてしまったという自覚はある。
あの時確かに薫は、弥彦を殺そうとした。
手ぬぐいで人を斬ることは出来ないが、それでも弥彦はそう感じたのだろう。
だからこそ、あんな怯えた瞳で薫を見たのだ。
自分に向けられた眼差しが、どこまでも追いかけてくるような気がして薫は更に足を速めた。
すると。



     あなたは何も悪くない。



頭の中で女性の声が聞こえる。
「誰?」
立ち止まって見回すが、誰もいない。
いつの間にか郊外まで出てきてしまったのか、街道脇は林に囲まれている。
無我夢中で走っていたら、思いのほか遠くまで来てしまったようだ。
しかし今はそんなことを考えている余裕はなかった。
聞こえるはずのない声に薫は動揺を隠せない。
黒瞳が揺れ、自然呼吸が浅くなる。
そんな薫の不安を更に煽るように女の声が続いた。

     あれは子供の姿をした魔物。気を許したらあなたが殺されるわ。
「違う!弥彦は魔物なんかじゃないし、第一私があの子に殺されるわけないッ」

か、と頭に血が上り、その勢いで叫ぶ。
薫の剣幕に圧されたのか、声が聞こえなくなった。
しばしの沈黙の後、僅かに悲しみを滲ませて告げた声は。










     では、あなたが殺すの?










胸を鋭い刃物で切り裂かれたような感覚を覚えた。
思わず胸を押さえると、地面にぽつんと黒い点が出来た。
一つ二つと続けざまに落ちてきたそれは、やがて叩きつけるような雨となる。
激しい雨音の中で女性の声だけがはっきりと伝わってきた。

     今まであなたはたくさんの命を奪ってきた。たくさんの血を浴びてきた。まるでこの夕立のように。

その言葉通り、血の雨が降ってきてぬるりとした感触を肌に伝えてきた。
「うそ・・・」
今起きていることは幻だと頭で理解しようとしているが、女の言葉は真実だと心が認めている。
「そんなことない!」
一瞬でも認めてしまったことを否定するように、大きく頭を振った。
そして林の中に駆け込んだ。
逃げられないのよ、という声が追いかけてきたが無視した。
だがすぐその言葉が間違っていないと思い知る。
勢いを増した雨は木々に遮られて先程よりましになったが、それでも葉を伝って流れ落ちた水滴が地面に水溜りを作っていた。
その水溜りも真っ赤に染まっており、まるで血溜まりの中にいるよう。
立ち竦む薫に声が囁く。



     これが、現実。



血溜まりの中から人の形をした何かが出てきた。
その姿を認め、薫はこれ以上ないほど目を見開いた。
「こんなことって・・・ッ」
薫の瞳が捉えたのは、悪夢の代名詞とも呼べるあの男。
ありえない。
ありえないが、目の前にいるのは確かにあの男なのだ。

「何であいつがここにいるの!?」
     お父様でしょ、あなたの。
「!!!」

唐突に言われても信じられるわけがない。
誰かは知らないが、けれど確実に忌み嫌う男があろうことか父親。
姿が見えないと分かっていても、無意識に声の主を探した。
混乱する薫の心を見透かしたように声が言った。

     あなたは本当にお父様を嫌っているのね。

父だという男の姿をしたそれが自分を向いたとき、体中に悪寒が走った。
嫌うなどという生易しい感情ではない。

憎悪、軽蔑、殺意、恐怖、戦慄、脅威、怨恨。

どろどろとした黒い感情が体の内側からこみ上げ、胸の奥がざわざわして気持ち悪い。
そのくらい、この男と同じ空間にいること自体耐えられなかった。
この世の中で一番嫌悪する男が薫を認め、ゆっくりとこちらに歩いてくる。



これは夢ではない。
目が覚めればそこで終わりということではないのだ。



戦うしかない。
気持ちを切り替えると体が自然に動く。
地面に視線を走らせると、木刀に似た大きさの枝を見つけた。
震える手ではうまく拾えず、その間に近づいてくる存在への恐怖心が倍増した。
落ち着けと自分に言い聞かせながらようやく枝を手にすると、真正面に構える。
その時には既に相手も手にした得物を振りかざしていた。
反射的に横に飛んで避ける。
そして間を置かずにがら空きになった胴を撃つ!
ごぽん、と水を叩いたような感触がしたと思ったら、そのまま崩れるようにして姿が消えた。
ほ、と息を吐いたが、背後から影が差したのを感じて心身が緊張した。
そこには今倒したばかりの男がいるではないか。

「!?」

男の足元には水溜りがある。
そこから新たに出てきたのか。
すぐに構えることが出来ず、背中から一撃を食らった    ちょうど背中の傷跡をなぞるように。
(やっぱり無理なんだ)
背中の傷はこの男に斬られたのだと悟ると同時に、どうあがいても勝てないと絶望した。
手にした枝を落とし薫の表情に諦めが浮かんだそのとき、頭の中で絶叫が響いた。



     薫!!!!



声の主を鮮明に思い出す。
(確か、あの辺りにいたはず)
記憶の中でその女性は愕然と目を見開き、泣き出しそうな表情でこちらを凝視していた。
自分が倒れたら、次に狙われるのは彼女。

そう思った瞬間、全ての記憶が蘇った。

洪水のように一気に駆け巡る記憶の波に揉まれながら、今の薫が思うことはただ一つ。
(この人のために生きなければ)
決して彼女を死なせてはならないという使命感が薫を奮い立たせた。
落ちた枝を拾って真正面から向き合うと可能な限り両腕を引く。
意識を集中させると枝の周りが薄く光った。
そして。

     はぁッ!!」

気合と共に体の中心を貫くと周りが空洞になり、破裂音と共に霧散した。
降り注ぐ赤い液体は薫の体も紅に染めたが、足元にある水溜りだけが透明だった。
激しく体力を消耗したかのような脱力感に堪らず膝をつく。
緩慢な動作で覗き込めば、やがて水面に亜麻色の髪を漂わせながら女が浮かび上がってくる。
記憶を取り戻した今となっては、薫にとって一番身近な存在だ。
女性は薫の姿を認めると、灰色の瞳をうれしそうに細めた。
泉の中から抱擁を求めるように腕を伸ばされても恐怖はなく、むしろ薫の表情が綻んだ。










「静」










掠れた声で呼びかけて、静と呼んだ女性を受け入れようとした。
やがて水面から人の手が出てきて、薫を包み込んだ。
まるで薫を呼び戻そうとするように。
(私の戻るべき場所へ   )
目を閉じて受け入れようとしたその時、違う光景が見えた。
傷つきながら、必死にこちらに向かって叫んでいる赤髪の少年の姿が。



バシャンッ!!



拳で水面を叩いた。
水と泥が混じり、跳ねる。
泥水を被り、拳を固めている薫の目に映る景色は本来の色を取り戻していた。
水溜りを見つめても水面に映るのは己の姿のみ。
ゆらゆら揺れる水紋を見つめながら唇から言葉が零れた。
「ごめん静。私はまだ帰れない」
きっぱりと口にした言葉には決意も込められていた。
「誓ったの   私が守るって」

薫の脳裏に浮かんでいるのは、悲しみを含んだ瞳でやさしく微笑む男の顔。
苦々しい記憶の中で、そこだけが色を持っているかのように薫の心を鮮やかに彩る。

さぁ、と風が吹いてきて薫を包み込み、こちらに向かってくる存在を告げていた。
そしてそれが誰なのかも。
薫はふらつきながら林の外を目指して歩き出した。




















買い物を済ませて戻ってきた剣心は、異様な静けさに出迎えられ眉根を寄せた。
が、人がいるのは間違いない。
そっと庭からまわりこむと、力の入らない両足を踏ん張って何とか立ち上がろうとしている弥彦が見えた。
「弥彦?」
剣心の声に弥彦がはっと顔を上げる。
見るからに難儀そうな様子に手を差し伸べて体を支えてやった。
弥彦は剣心に助けてもらいながら立ち上がり、
「お前、一人か?」
「拙者だけでござるが・・・何があった?薫殿はどこに?」
薫の名を出した瞬間、少年の体が強張った。
「頼む剣心。薫を追ってくれ」
ぎゅう、と強く手を握られ、その力に弥彦の顔を覗き込む。



「俺、あいつにひでえことしちまった・・・ッ」



絞り出すような声からは怯えと後悔が滲み出ていた。
剣心は弥彦から事情を聞くとすぐさま飛び出した。
そして町の方角ではなく、逆に進路をとる。
仮に薫が町に向かったなら途中で剣心とすれ違っているはずだ。
それがなかったということは、薫はここから郊外に向かっていったということ。



空が暗くなり、あっという間に強い雨が降り注ぐ。
突然の夕立に道行く人が皆屋根の下へ入る中、剣心だけはずぶ濡れになりながら走り続けた。



走りながら雨宿りできそうな場所に目を走らせるが、薫の姿はない。
もっと先まで行っているのかもしれない、と剣心は先を急ぐ。
住宅地を抜け、郊外に出る頃には雨足が弱くなった。
(一体どこまで   )
ここまでかなりの速さで駆けてきたのだ。
これ以上先へ進めば薫を追い抜くことになる。
常であれば追いつけるはずなのに薫を見つけられないのは、途中でどこかに立ち寄っているのか。
ふぅ、と一息ついて引き返そうと踵を返しかけたとき、木の陰からふらりと出てきた人物がいる。
薫だ。
剣心の姿を認めるとどこか遠くを見るような目になったが、やがて小さく微笑む。
どことなく現実味を伴っていない笑みに心がさざめくが、薫の体がぐらりと傾くのを見ると剣心の足が地面を蹴った。















ぬかるんだ地面に倒れる前に、力強い手が薫を抱きとめた。
肩を抱く手が酷く熱いと感じるのは、それだけ自分の体が冷え切っているせいか。
いや、違う。
道場からいなくなった薫を探すために、剣心が駆け回っていたからだろう。
全速力で走ってきたのか、珍しく息を切らせている。
険しかった瞳が薫を映し出すとやさしい光を帯びた。
その面影は昔のことを思い出させた。
十年前の京都で出会った二人の男のことを。



そういえば初めて会ったときも探しに来てくれた。
あの時は雨ではなく雪だったが。



「ごめんなさい・・・また迷惑かけちゃった」
過去に言えなかった言葉を重ねたが、剣心は違う意味で取ったようだ。
「いや、薫殿が無事でよかった」
見上げた薫の瞳に十字傷が映る。
手を伸ばしてそっと指でなぞると、僅かだがぴくりと剣心が反応した。
「薫殿?」
呼びかける声に戸惑いが含むが、構わず何度も指を往復させながら問うた。

「もう痛くないの?」

言われた言葉の意味を図りかねて、一瞬言葉を失った。
が、すぐにこりと笑って、
「痛みはござらんよ。何故そのようなことを聞くのでござるか?」
そう言ってさりげなく薫の手を取り、十字傷から遠ざけた。
薫は首を振って視線を外すとそのまま黙り込んだ。
どういう意図で聞いたのかは分からないが、全身濡れ鼠のままでは二人とも風邪をひく。
「立てるでござるか?」
無言で頷き、剣心に支えてもらいながら立ち上がる。
いつの間にか雨は上がり、空は茜色に染まっていた。
夕焼けの美しさに目を細めながら、薫はもといた世界のことを思った。

自分の世界と比べてここはなんと平和だろう。

日常的に命の奪い合いをすることは既に過去のこととなっている。
しばらく夕焼け空を見ていたが、剣心を見てこう言った。










「ありがとう剣心。私を見つけてくれて」










探しにきたことについて礼を言われたのだろうと合点した剣心は、気にするなと言う様に微笑むと、薫を促して歩き出した。
(ごめんね静。もう少しだけ待ってて)
薫は心の中で詫びた。
(あなたとの約束はそう遠くない未来に必ず果たせるから)
反故にする気は全くないが、約束を先延ばしにしてしまったことに対しては少々心が痛んだ。
しかし、静を待たせることになってもこの願いだけは叶えたかった。



剣心を守りたい。
せめて自分の幸せにちゃんと目を向けてくれるまで。



それは十年前に胸に秘めた誓い。
数歩前を歩く剣心の背中が十年前のそれとだぶる。
(あの時、私はあなたに救ってもらった。だから今度は私の番)
迷いのない瞳で、薫は空と同じ色の髪が揺れるのを見つめていた。

時折全身に走る鈍い痛みに確信にも似た予感を抱きながら。






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君が教えてくれた
その儚さも その強さも

Song:田村 直美