明るい報せに薫の心は弾んだ。
体にも興奮が走り、じっとしていられない。
だが恵から大事をとって数日間休むように告げられた途端、一気に天国から地獄へ突き落とされた。
「え〜!?出稽古もあるのにそんな何日も休んでいられないわよ。それに体もなまっちゃうし」
薫の不満は当然のごとく通じるわけもなく。
「そんなこと言ってまた何かあったらどうするのよ?私だって忙しいんだから、その度に呼びつけられるのはごめんですからね」
「恵殿の言うとおりでござる。出稽古先には拙者から伝えておくゆえ」
「うう、剣心まで〜」

そして縋るような眼差しを向けた先は己の一番弟子。
「休んじゃったらその分弥彦の稽古もつけられなくなっちゃうし・・・そうなったらあんただって困るでしょ?」

だが、弥彦はつんとした声で、
「別に?そうしたら剣心に相手してもらうだけだし」
冷たく突き放され、即座に噛み付いた。
「裏切り者!さっきは私がいないと稽古ができないって言ったくせにッ」
「何が裏切り者だ!勝手に味方扱いすんな!!」
「ひどいっ」
金切り声を上げる薫を宥めるのは剣心の役である。



「毎日のように稽古に勤しんできたのだから、それが出来ない辛さは分からぬでもない。しかし今無理してまた寝込むようなことになったら数日どころの問題ではなかろう?一日でも早く稽古を再開したいのなら、ここは恵殿の言葉に従ったほうが得策でござる」



『また寝込むようなことになったら数日どころの問題ではない』と言われると、さすがの薫も黙るしかない。
こうして渋々ながらも休むことを承諾し一同を安堵させた。
安堵したせいで、薫の性格上おとなしく寝ているわけがないことに不覚にも誰も気付かなかった・・・・・










曇天










「暇だわ・・・」
縁側に座った薫は足をぶらつかせながらぼやいた。
柔らかな日差しの中、時折吹いてくる風からは春の気配がする。
庭に植えてある花海棠も蕾が膨らんでおり、一つ咲けばつられるようにして他の花も咲くだろう。
視線を移動させれば、買い物中の剣心の代わりに弥彦が洗濯物を取り込んでいる。
不満そうな薫の視線には気付いているはずだが完全無視だ。
最初の頃はぶちぶち文句を言う度に反応していたが、関わるだけ無駄と判断したのだろう。
(もう何ともないのにおとなしくしてろなんて     )



恵から「絶対安静!」と厳命されてからというもの、翌日まで部屋に閉じ込められた。
本人としては別に具合が悪いわけではないし、逆に寝込んでいても気が塞ぐ。



(眠ったらまた変な夢見ちゃいそうだし・・・)
正直に伝えたわけではないが、どうにか頼み込んで床上げさせてもらうことに成功した。
寝巻きから普段着に着替えたまではいいが、それ以外は稽古はもちろん、外出も禁じられた。
鬱々とした気持ちが大きくなり、言葉として吐き出された。

「あーーーー、暇ひまヒマーーーーーー!!!」
「うっせぇ!暇ならこれでも畳んでろッ」

ばふっ、と乾いた着物が投げつけられた。
「仕方ないでしょ〜?暇なものは暇なんだから」
洗濯物まみれになりながら唇を尖らせる。
「始終暇暇聞かされるこっちの身にもなってみろっての!ったく、鬱陶しいったらありゃしねぇ」



全ての洗濯物を取り込むと、弥彦は竹刀を手にして素振りを始めた。
素振りをするたびに聞こえる風音が耳に心地いい。



最初はその音に耳を傾けていたが、やはり人がやっているのを見ていると体が落ち着かなくなってくる。
「・・・ねぇ、姿勢ぶれてない?ちょっと竹刀貸してみて」
指導するようにさりげなく言ってみたが、
「そうやって自分でも素振りする気だろう。考えがバレバレなんだよ」
図星をさされたが、平然として言い放った。

「別に稽古するわけじゃないからいいじゃない。もう体はなんともないんだし、素振りくらい平気よ」
「開き直りやがって・・・!」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く貸して。剣心が帰ってくるまでならいいでしょ?あんたのことは黙っていてあげるから」
「何だその俺のほうが悪いみたいな言い方は!?」

思わず竹刀を向けると、すかさず薫の手が伸びてきた。
「もらったッ」
「そうはいくか!」
あと少しで届くというところで、弥彦が素早く引っ込めた。
「ばーか、そう簡単に渡すかよ」
完全に馬鹿にされている。
勝ち誇ったような弥彦を見ると更に怒りが増した。
「いいから貸しなさいよ!」
縁側から立ち上がり、庭へ降り立つ。
そのまま弥彦に迫るが、本人も察して十分な間合いを取った。
「あ、コラ!恵からおとなしくしてろって言われてるだろうがッ」
無言のまま、左から回り込まれる。
聞く耳を持たない薫に本気で打ち込んでやろうかと思ったが、視界の端に白いものを捉え、無意識のうちに退いた。
だが、何かが竹刀に絡まり、中途半端な体勢にならざるを得なかった。
「!?」
竹刀に絡みついたものの正体を認めて驚愕した。
それは先程まで風にはためいていた手ぬぐい。
外そうとしてもぴたりと貼り付いており、いくら竹刀を振っても取れなかった。
取り込んだときにも乾いていることは確認済みだ。
濡れているものならまだしも、乾いた手ぬぐいがなぜここまで貼り付くようにして絡まっているのか。

もしかしたら自分に気付かれないように濡らしたのかもしれない。

そう問い詰めようと師の顔を見上げて更に戦慄した。










黒髪の間から見えた瞳には得意そうな光はおろか、稽古で見せる鋭さすらない。










感情というものが感じられないのだ。
視線はまっすぐこちらに向けられているが、ちゃんと見ているかすら怪しい。
目を離せずにいる弥彦に構うことなく、薫の手が動いた。
くん、と手ぬぐいが引かれ、弥彦の体もよろめく。
それと同時に手ぬぐいが離れたが、薫の瞳に射すくめられ、体勢を整えることを忘れていた。
竹刀を下げたままの弥彦に対し、薫が上段に構える。
無論、手にしているのはだらりと垂れ下がった手ぬぐいだ。
しかし弥彦の目には、白刃を振りかぶっているように見える。
一瞬煌いたと思うと、次の瞬間には己に向かって刃が一直線に振り下ろされる!

「うあああぁぁぁぁああぁぁ!?」

反射的に竹刀で振り払った。
己自身が真っ二つになるという恐怖心から生まれた行為だったが、自分どころか竹刀も傷一つない。
あるのは竹刀を通して伝わった手ぬぐいの軽い感触。
それを認めると、体中の力が抜けてへたり込んだ。
「・・・ッ、はっ、はぁっ!!」



荒い呼吸を繰り返していると、自分が今まで息を止めていたことを知る。
酸素不足で頭痛がしたが、何とか顔を上げて薫を見ると     



「・・・・・・・」
真っ青になって立ち尽くす薫に言葉はない。
が、唇の動きで何かを言おうとしていることが知れた。
握り締めた手ぬぐいをじっと見ていたが、尻餅をついている弟子に気付くと、
「ご、ごめん弥彦!」
慌てて手を差し伸べる。
いつもの薫であると頭では分かっているのだが、弥彦はその手に縋ることができずにいた。
弥彦の体同様、表情が硬直しているのを認めると、薫の唇が何かに耐えるように引き結ばれた。
「本当にごめん・・・」
語尾が消え入ると同様に、薫は身を翻して駆け出した。
遠ざかる姿に追いかけなくてはと焦るが、体が言うことを利かない。

「薫!!」
呼びかけても振り向くことなく、弥彦の視界から消えた。

薫のいた場所を確かめるように、一羽の燕が低く翔けていく。
いつの間にか太陽は姿を消し、青かった空は灰色に塗り潰されていた。



     湿った空気が夕立が近づいていることを報せていた。






前頁   次頁










鉛の空重く垂れ込み
真白に淀んだ太陽が砕けて
耳鳴りを尖らせる

Song:DOES