流れ星、ひとつ   【前編】










朝一番に井戸を覗き込むと水面に薄く氷が張ってあるのが見えた。
まだ冬の名残を惜しむような日もあるが、それでも最近『春』を感じることがある。










例えば陽光を巻き込み、しなやかにうねる川の流れ。

例えばあぜ道を歩いている時に薫る土の匂い。

例えば冬の間には目にしなかった華やかな色が固い土の中から顔を出しているとき。










頬に触れる空気はまだ冷たいが、それでも以前よりぬるくなったと感じるのはそれだけ自分も春を心待ちにしているからだろうか。
風も同じ思いなのか、背中に吹き付ける風はどこか弾んでいるような気がする。



早く早く、と急(せ)かすように剣心の背中を押し、そうすると自然歩みも速くなる。



あまりの風の強さに体がよろめき、
「そんなに急かさずとも春は来るでござるよ」
思わずそんな言葉が口から出た。










人間相手ならいざ知らず、風相手に話しかけるなどやはり自分も春の訪れを歓迎しているのかもしれない。










肩に食い込む味噌樽の重さなど忘れているかのように剣心は空を仰いだ。
空はどこまでも青く、どこまでも高い。

ひと月前に比べるとかなり日が長くなってきたことも『春』を身近に感じる一因だ。

同時に、暖かくなれば洗濯物も早く乾くであろうな、などと考える彼は紛れもなく『主夫』である。
そして主夫ある剣心は日が長くなっても時間も延びるわけではないという事実に気付き、味噌樽を担ぎなおして歩き出した。



       助けを呼ぶ声が聞こえたのはそれからすぐのことだった。




















よいせ、と味噌樽を担ぎなおす。
同じ事を繰り返すのは本日何度目だろうか。
担ぎなおすと同時に剣心の足元がふらついたのは決して味噌樽の重さだけではない。
「やはりちと無理があったか・・・・・」
視界を遮るように剣心の目の前には眩しいくらいの赤丹(あかに)色の花がさわさわと擦(こす)れた音を立てている。
右手で味噌樽を担ぎ、左手には溢れんばかりの花束。
いや、花の本数だけ数えればさしたるものではない。
だが花弁が大きく広がっている上に、支えるべき茎があまりにも頼りなく、気をつけないと花ごと落ちてしまいそうだ。



「見た目は確かに華やかでござるが、持ち運ぶには難儀でござるなぁ」



味噌樽はいつものように家主殿に言いつけられたのだが、この花についてはまた別の理由がある。




















剣心が歩いていると苦しげに呻く声が聞こえた。
その声はあまりに小さく、一瞬空耳かとも思ったが剣心は足を止め、周囲の気配に神経を集中させた。










「た、助けてくれえぇぇぇ・・・・・」










二度目の声も小さくはあったがそれは確かに助けを求める声。
剣心は声が聞こえた方向に駆け出した。
川原まで出たところで剣心は声を張り上げる。



「誰か、いるのでござるか!?」



すると葦(あし)が群生している辺りから、
「ここにおるぞ〜・・・」
とか細い声が剣心の耳に届いた。
土手を滑り降り、葦を掻き分けると立ち上がろうとしているのかしゃがみこもうとしているのかよく分からない中途半端な格好をしている老人が川の中にいる。

「・・・・・おろ?」

状況を把握できず思わず間抜けな声を出すと、
「何をしておる!早く助けんかッ」
と怒鳴られた。
が、すぐに顔をしかめ腰に手をやる。
それを見て剣心もこの老人の身に何が起きたか察することが出来た。
「ご老人、もしや腰を痛めて動けぬのか」
「見れば分かるじゃろう!!」



噛み付くように叫んでまた顔をしかめる。



「ああ、大声を出さぬほうがよい。腰に響く」
味噌樽を置いて剣心はざぶりと水の中に入った。










岸に近いから深くはないが、それでも水の冷たさが足に染みる。
躊躇(ちゅうちょ)する様子を見せず、そのまま浅瀬を進む剣心の姿に老人は目を瞠(みは)った。










「さ、ご老人。拙者の背中におぶさるでござるよ」
「あんた・・・お武家様かい」
腰に帯びている刀を目にして老人は驚いたようにつぶやいた。
この老人から見ればまだ武士は身分の高い存在なのだ。
先ほどまでの勢いはどこへやら、目を丸くして自分と逆刃刀に見入っている老人に剣心は苦笑した。



「そんな大層なものではござらんよ。さあ、川の中にいては体が冷えてしまう」



そう言って背を差し出すと、
「滅相もない!お武家様におぶってもらうなんてそんな恐れ多いこと」
「何、遠慮は無用。困った時はお互い様でござる」
にこりと人の良い笑顔を向けると、老人の緊張も和(やわ)らいだようだ。










「じゃあ・・・ごめんなすって・・・・・」

老人を背に乗せたことを確認すると剣心は味噌樽を担いで軽々と土手を上がり、そのまま老人を住居まで送り届けた。
その間ずっと老人は恐縮しており、何度も剣心の背から降りようとしたが、その度に剣心も何でもないようにからりと笑ってはぐらかした。










老人の住居に着くと、庭先から老婆が慌てて駆け寄ってきた。
「あれま、爺様!お侍様、うちの爺様が何か・・・・・」
「このご老人の奥方でござるか?川で腰を痛めたらしく、お節介とは思ったが拙者がここまでお連れしたのでござるよ。すまぬが、ご主人を寝かせたいので床の準備をお願いできるだろうか?」



剣心の指示通り、老婆が部屋に布団を敷くと剣心は背負っていた老人を慎重に布団の上に降ろした。



「お武家様、ありがとうございます。あとはこちらで・・・・」
「しかし、医者に見せたほうが」
剣心の言葉に老婆はからからと笑って首を振った。
「この人が腰を痛めるのはいつものことですよぅ。大体、今日だって冷え込むから川に行くなって言ったのにそれを聞かないから」
「仕方ないじゃろう。仕掛けをそのままにしといたら凍っちまう」

海老のように体を丸くして、老人が言い訳をする。
むっつりとしているが、顔を上げられないのは老婆の言葉が正しかったことを身をもって自覚したからだろうか。

そういえば網代(あじろ)が立てかけてあったな、と剣心も思い出した。
この寒空の下、しかも川の中で何をしているのかと思ったが、どうやら網代を片付けようとしていたらしい。
何も今日でなくてもいいのに、とくどくど言い続ける老婆に聞こえないふりをしている老人を見て剣心の口元がおかしそうに緩んだ。










女に弱いのはどこも同じか。










幸い、老夫婦は口論に夢中になっており剣心の様子に気付くことはなかった。



「それでは拙者はこれにてお暇(いとま)させていただくでござるよ」



逆刃刀を手に立ち上がった剣心に老夫婦ははっと我に返り、
「とんだ失礼を・・・お侍様をおもてなしできるようなものは何もありませんがせめてお茶だけでも」
「折角だが、拙者も用事を残してあるゆえ」
と腰を上げかけた老婆を手でやんわりと制した。

「じゃが・・・・・」

横になりながらも申し訳なさそうにしている老主人がふと庭に目をやって思いついたようにこう言った。
「そうじゃ!婆さんや、あの花を切ってくるんじゃ!」
「花を?でも・・・・・」
「いいから!たくさん持ってくるんじゃぞ」










老婆はまだ何か言いたそうだったが返す言葉が見つからず、老人の言うとおり両手いっぱいに花を抱えて戻ってきた。










それを満足気に見て、
「お武家様。せめてこれだけは持っていってくれんじゃろうか?」
「え?この花を・・・でござるか?」
老婆の手にある花はひらひらとした薄い花弁がついており、ひと目見たら忘れられぬほど奇抜な色合いの珍しい花だった。



だからこそ、男である剣心が抱えていくのはかなり気恥ずかしいものがある。



それを敏感に察した老婆が咎(とが)めるように老人に言った。
「爺様、お侍様がお困りですよぅ。それにこの花は持ち帰ったところですぐ花が落ちちまいますよ」
「そ、そうじゃな・・・男が花なんぞもらっても嬉しくもなんともないわいな」

今流行のかすていらとかいう菓子の方がよかったかもしれんの、などとしょげてしまった老人が少しかわいそうに思えて、剣心の口から勝手に言葉が滑り出た。

「確かに拙者に花のことは分からぬが、拙者が世話になっている家の者が喜ぶゆえ、ありがたく頂戴するでござるよ」





















・・・・・・・・・・というわけで今に至る。

やはりかすていらを選ぶべきだった、と後悔しても後の祭り。
ついもらってしまったこの花だが、持ち運びにくいことこの上ない。



花に注意すれば味噌樽がずり落ちる。
味噌樽を担ぎなおせば花弁が散ってしまう。



この両方に気を配って運ぶのはなかなか骨が折れる。
だから道場の門が見えたときには心の底から安堵した。










「お帰りなさい!・・・・・うわぁ、どうしたの!?」










土間で味噌樽を置いて花をどうしようかと思いあぐねていると、奥から薫が出てきて花を抱えて突っ立っている剣心に驚きの声をあげた。
「すごい・・・どうしたの、このお花」



すぐいきさつを話そうと思ったのだが、ちょっと派手目だけどきれいな花ねぇ、などと感嘆している薫を見て、剣心は理由を話すきっかけを失った。



「薫殿は花が好きなのでござるなぁ」
薫は花束に顔を埋めてうっとりとしていたが、剣心の言葉に不服そうな顔をする。
「何よ、似合わない?」
「そんなことはござらんが・・・・・かすていらの方が喜ぶのかと」
「しっつれいね!花が好きなんだからいいでしょ!・・・そりゃかすていらも大好きだけど」

最後の部分は聞こえないように言ったつもりらしいが、剣心にははっきりと聞こえた。
が、気付かれていないと思っている薫は何事もなかったかのように再び花に顔を埋めた。

「左様でござるか。てっきり薫殿は『花より団子』なのかと」
「・・・・・剣心、ケンカ売っているの?」
ぎろりと睨むと滅相もない、と剣心が慌てて手を振る。
そんな剣心を疑わしそうに一瞥したが、すぐ薫の視線は花に戻った。










匂いを胸いっぱいに吸い込んでいる薫はとても幸せそうに微笑んでおり、それを認めた瞬間、剣心の口から自然と言葉が零れ出た。










「それほどまでに気に入ったのであれば、この花は薫殿に」
「え・・・・・?」
驚いて顔を上げた薫に剣心は花束を差し出した。
「無粋な男より薫殿のような娘に愛(め)でてもらった方が花も喜ぶ」



剣心としては深い意味を込めずに言ったのだが、薫にとってはそうではなかったらしい。



二、三回瞬きした後、頬を染めてはにかんだ。
「この花を、私に?」
いとおしそうに花弁に触れようとした手を剣心が掴んだ。
はっとして彼を見ると、剣心はやさしい眼差しを薫に向けて、
「花びらに触れるとすぐ散ってしまうらしい。花瓶に挿すときには花びらに触れぬようにしたほうがいいでござるよ」
薫の手を開放すると、じゃあ拙者は薪割りでも、と言って真っ赤になっている薫を残してさっさとその場を去ってしまった。










これが分かってやっていることならただの女たらしだが、剣心の場合はそうではない。
意識していないからこそ、余計にタチが悪い。










残された薫は、といえば剣心から花をもらったことが余程嬉しかったらしく、
「剣心が・・・私のために・・・・・」
と感激してその場から動けずにいた。

恋人同士になった自覚はあるが、こんな誰にでも分かるような愛情表現は初めてのことだ。

朴念仁の剣心が女を喜ばせるために花を贈るはずもないことなど少し考えれば気付きそうなことだが、薫は素直に目の前にある現実のみを受け入れた。



ある意味、その方が幸せなのかもしれない。



その日一日、薫の頬は緩んだままで、何も知らない弥彦と何も分かっていない剣心が不思議そうに顔を見合わせていたという。




















それから数日後。

剣心が夜、家を空けることになった。
先日、剣心は警察と協力して一つの事件を解決した。
今夜は新市達警官と事件解決の祝賀会をしようという話になったらしい。
剣心は辞退したのだが、

「今回の一番の功績者は緋村先生ですからッ」

と警官達    特に新市    に強く誘われて断れなくなってしまったのだ。
薫は今朝交わされたばかりの会話を思い出した。










『いいじゃない、それだけ慕われている証拠よ』
『しかし、どうもああいう席は苦手で・・・・・』










出かける直前まで渋る剣心の背中を押すようにして送り出した。
もちろん剣心が家を空けるのは寂しいが、いつもと違って今夜は賑やかな宴(うたげ)になることだろう。



戦いに行くわけじゃない。



だから薫も安心して剣心を送り出すことが出来るのだ。
「でも、色街に行くことを許しているわけじゃないからね」
上目遣いで釘を刺すと、剣心はびっくりしたように薫を見たあと、すぐに相好を崩して、
「その点は大丈夫でござるよ。薫殿の怒りを買うと後が怖いゆえ」
と悪戯っぽく言って家を出たのだ。

会場は赤べこ。
となれば弥彦が合流してもおかしくない。

その時の様子が手に取るように分かり、薫はくすりと笑みを漏らした。
本当は新市から薫さんも一緒にどうですか、と誘われたのだが、剣心が眉をひそめたのを見て薫は断ったのだ。
剣心としては薫目当ての若い警官達がいるのを知ってから同行させるのを渋ったのだが、薫はたまには剣心も男同士で飲みたい時もあるだろうとあまり気にしなかった。










「でも、やっぱり退屈」










剣心が作っておいてくれた夕食を一人食べ、縫い物をしたり書物を読んで時間を潰していたのだが、それでもまだ寝る時間には早い。



それに、もしかしたら剣心が早く帰ってくるかもしれない。



自分で行くように勧めたのに、早く帰ってくることを期待するなんて矛盾している、とため息をついてごろんと仰向けに寝転がった。
その拍子に剣心からもらった花が目に入った。

「そうだ、お水替えなきゃ」

がばりと起き上がり、花瓶に挿した花を見る。
もらったばかりのときに比べると、少し萎(しお)れかけているような気がする。
「剣心から初めてもらった花だもん、大切にしなくっちゃ」
口元を綻(ほころ)ばせて花瓶に手を伸ばした。
が、行灯の灯りで部屋がほの暗くなっていたせいだろうか。
掴んだ、と思ったら花瓶が薫の手から滑り落ちた。










「あっ」
と叫んでも花瓶が落ちるのを止められない。

ばしゃ、と中の水が零れ、畳に染み込んでいく。
柔らかい畳の上だから花瓶は割れずに済んだのだが。










「大変・・・・・!」
薫は慌てて散らばった花を拾い上げた。
しかし彼女の手にあるのは華奢(きゃしゃ)な茎だけであった。
落ちた衝撃で花は無残に散り、その姿を失っていた。




















がらり、と戸を開けてやけに家の中が静まり返っていることに気付いた。
「今帰ったでござるよ       薫殿?」
薫の部屋にはまだ灯りが灯(とも)っていた。
剣心は部屋の前に立ち、もう一度薫の名を呼ぶ。



「薫殿、いないのでござるか?」



だが中から返事はなく、部屋にも、家中からも薫の気配が感じられない。
剣心の瞳がすぅ、と細められた。










       失礼するでござるよ」










油断無くゆっくりと障子を開けると、そこはもぬけの殻だった。
部屋に入ると、足の裏が濡れた。
「?」

畳に手を当てると濡れている。
だが濡れ方が尋常ではない。

足元に転がっている花瓶で合点がいった。
察するに、水を替えようとして誤って花瓶ごと下に落としてしまったのであろう。
だが中に挿してあった花は?
ぐるりと部屋を見渡すと鏡台の上に懐紙を敷いて、その上に散ってしまった花があった。



散ってしまっても捨てずに一枚一枚拾い集めたのか。



茎は茎、花弁は花弁ごと分けてある。
それだけでどれほど薫がこの花をいとおしんでいたのか分かる。

「薫殿・・・・・余程この花を気に入っていたのでござるなぁ」

大切にしてきた花が散ってしまったとき、薫の心痛はいかばかりであっただろう。
「しかし薫殿は一体どこに       まさか、花を探しに?」
こんな時間に、と思ったが薫が家にいないのは事実だ。
「花など・・・いつでも探せるだろうに」



この男はこの期に及んでもまだ薫が散ってしまった花に対して嘆き悲しんでいるだけだと思っている。



剣心は呆れたようにため息をつくと、くるりと背を向け薫の部屋をあとにした。










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