夏のある日、箸が折れた <6>
一言も聞き漏らすまいと相手の口元を注視していると、その口に湯飲みが運ばれた。
すっかりぬるくなった茶をごくりと音を立てて飲み干すと、湯飲みを置かぬ内に岡部は言葉を紡いだ。
「ですが、それ以上に守りたいものがあった。それだけの話です」
「守りたいものとは・・・・かづ殿でござるか?」
湯飲みを置く音は剣心の声にかき消された。
ええ、と微笑む瞳には愛情に溢れている。
「私はあれが愛おしい。使用人として当家に仕えるようになってから、ずっと彼女だけを見てきた。友人や両親に他の女性を勧められても、私の心にはかづしか存在しなかったんですよ」
黙って話を聞く剣心に困ったようにこう告げた。
「笑える話でしょう。大の男が女一人のために心がかき乱され、彼女のためなら何でもしてやりたい、彼女がいれば全てを捨てても構わないなどと」
「いや、惚れた女子(おなご)であればそう思うのが当然でござる」
剣心もまた、誰かを思い浮かべているのだろう。
その目元が穏やかに細められた。
「緋村様ならそうおっしゃってくださると思いました」
嬉しそうに言った後、彼の表情が暗くなる。
「だが現実はそうではない。私はかづと想いを通じることは出来ましたが、家を捨てることは出来なかった。そうすると結婚は私達二人だけの問題ではなくなります」
それからの二人に何があったのかなどと聞くのは愚問だろう。
「いっそのこと家を捨てて二人で生きていこうとも考えましたが、時というものは不思議ですね。最初は周囲から白い目で見られましたが、時がたつにつれ皆理解を示してくれるようになり、慶介が生まれたことで険悪だった両親との空気も緩んでいきました・・・・・それがここ数年の話です」
このまま数年の年月が流れていけば家族全員、心穏やかに過ごせる日が来る。
確信にも近い想いは先日の騒動で大きく傾(かし)いだ。
「あの騒動で今まで培(つちか)ってきたものが崩れ去っていくのが怖かった。子供のしたこととはいえ、母の大切なものを壊してしまった事実は家族の心に一点の墨を落とすことでしょう。たとえ小さな点でも、それは決して消えない。そしていつかは大きく広がり、澱みとなって家族全員に襲いかかる・・・・・考えすぎだといわれればそこまでですが、私は不安で仕方なかった。かづを、今の幸せを失いたくなかった。だから」
言いながらそのときの不安を思い出したのだろう。
落ち着いていた口調が段々早くなり、声が高くなる。
一種の興奮状態に陥った岡部を押さえ込むように、冷ややかな声が彼の心を穿(うが)った。
「『守る』ために何も知らぬ薫殿を悪人に仕立て上げた。結局のところ、岡部殿の自分勝手な思い込みのために薫殿は利用されたのでござるな」
剣心は容赦なく言い放った。
彼の言い方に岡部は鼻白んだが、何も言い返すことはできなかった。
剣心の言っていることは事実だ。
岡部がどんな言葉で言い繕うとも、自分達の保身のために薫を利用したことには変わりない。
歯を食いしばり、何かに耐えるように膝の上で拳を握り締めた。
「・・・・・・・緋村様のお怒りはもっともです。しかしあの時はああするしか」
「他者を犠牲にしてでも己の守りたいものを守る。その点については拙者も岡部殿を責めることはできぬよ」
さらりと流れた言葉に岡部は瞠目した。
自分の大切なものを守って何が悪いのか。
その結果、嘘をつこうが誰かを傷つけようが、そんなことは関係ない。
大事なのは彼女がずっと笑っていられることただそれだけ。
「守りたいもののためなら、拙者も岡部殿と同じことをしていたでござろう」
だから、岡部を責める資格はない。
「しかし、犠牲になったのが薫殿ということであれば話は別」
周囲の空気の温度が急激に下がった。
無実の罪を擦(なすり)り付けられ、その上大切な櫛まで失った。
あの時の薫は今にも消えてしまいそうで、そんな彼女を見て心が痛み、怒りを覚えた。
薫を傷つけた岡部に。
そうなる前に守れなかった自分自身に。
それでも薫の持つ輝きは失われていない。
その事実がどれほど剣心を救ったか。
だからと言って剣心の中にある怒りが氷解したわけではない。
常人であれば剣心の剣気に当てられ正気ではいられないのに、岡部は気丈にもこちらを見返してきている。
守るべきものがある人間は強い。
心の中で感嘆しながら、剣心の唇が動いた。
「今回の件、岡部殿のかづ殿を想う気持ちに免じてこれ以上何も言うつもりはござらん。だが」
剣心はその場から動かない。
が、岡部は目の前の剣客がゆっくりと腰を上げたのを見た。
「岡部殿に限って二度とないとは思うが、万が一同じことがあれば拙者とて何をするか分からぬ」
岡部の視線は端座している剣心ではなく、膝立ちのままどこまでも冷たい眼差しでこちらを見据えている剣客に注がれていた。
その目に射抜かれた瞬間、岡部の瞳は恐怖で見開かれた。
それでも魅入られたように相手の瞳を見返しているのは自分の意思ではなく、まるでそうせざるを得ないようにされているようだ。
ゆっくりと剣心の手が刀の柄にかかる。
握った、と確認すると同時に光が煌き、岡部の体が一閃された!
斬られた、と感じた瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは出会ったばかりのかづであった。
粗末な着物を着て、岡部に気づくと
「行ってらっしゃいませ、恭介様」
と笑顔で見送る。
ああ、かづの幻に見送られながら逝くのも悪くない。
どこまでもやさしい幻は剣心の声によって破られた。
「拙者にも守るべき大切な女子がいるゆえ」
はっとして辺りを見回すと、先ほどと同じ神谷家の居間。
「はぁ・・・・ッ」
今まで詰めていた息を一気に吐き出し、思わず胸に手をやってもそこに刀傷などあろうはずもない。
耳を澄ませば女子供の笑いさざめく声が聞こえた。
「岡部殿、もう一杯いかがでござるか?」
にこりとして急須を差し出す剣心に、先ほど冷たい目で自分を斬った人物が重なることはなかった。
「夢・・・いや、幻か?緋村様、あなたは一体・・・」
「どうなされた?」
何かを見定めるように剣心を見つめるが、当の本人は少しとぼけた表情でこちらを見ている。
岡部から返事がないことを了承と受け取ったのか、剣心は彼の湯飲みに茶を注ごうと手を伸ばした。
我に返った岡部が湯飲みの上から手をかぶせ、
「いえ、もう結構です。そろそろ屋敷に戻りますので」
そう言って立ち上がると剣心も同じように立ち上がった。
「おろ、左様でござるか。それでは門前まで・・・」
「はい、ありがとうございます」
二人が縁側に出ると庭先では細い棒を手にした慶介がいくつもの小さな穴を拵えていた。
彼の傍らで薫とかづが談笑している。
居間から男達が出てくると、彼女達は笑顔を送った。
門前で岡部一家を見送り、その背中が消えると、薫が唐突に切り出した。
「あのね、お母さんの櫛だけど・・・大丈夫だから」
剣心の片眉が上がる。
言葉の真意が分からず、薫にどう返せばいいのか分からない。
薫もまた、うまく説明ができないらしく、しきりに言葉を選んでいる。
「だからね、櫛が壊れちゃったのは悲しいけど、それでお母さんとの思い出が消えるわけじゃないし・・・・・お母さんの形見は櫛だけじゃないし・・・だから、その」
「あの・・・薫殿?」
どうにも要領を得ず、剣心が口を挟むと同時に、薫の顔がこちらを向いた。
「だから!剣心が気にすることないんだからねッ」
唖然とする剣心を、どこか心配そうに見つめながら薫が続けた。
「だって、あのことがあってから剣心のほうが元気ないんだもん・・・」
そう言われてはっと気づいた。
薫からあの時の状況を聞いてから考えにふけることが多かった。
そんな剣心の様子を見て自分以上に気にしていると勘違いしたのだろう。
「嫌なことや悲しいこともあったけど、剣心がそばにいてくれて笑ってくれれば私は平気よ」
薫の両手がそっと剣心の手を包み込んだ。
剣心は何度か目を瞬かせたが、自分のことより他者のことを思いやる薫の心を知り、やがて瞳を和ませた。
「・・・・・拙者も、薫殿が笑ってくれれば大丈夫でござるよ」
剣心の言葉に嬉しそうな笑みが薫の顔に広がった。
「本当に?」
「本当でござるよ」
「よかった」
笑みを更に深くさせ、薫は握ったままの剣心の手を引っ張った。
「ね、お天気がいいからこのまま散歩に行きましょ!」
「え?こ、これからでござるか!?」
いいからいいから、と歩き出す薫に引っ張られる形で剣心も歩き出した。
仕方なさそうに苦笑しつつ、それでも足を止めようとしない剣心を認めて、薫は顔を前に戻した。
『あの人は私と家族を守るために必死だったんです。許されようとは思っていません。責めるのならあの人ではなく私を』
かづから聞いた真実。
居間から流れてきた殺気にも似た鋭い剣気。
それで薫は全てを悟った。
だからと言ってかづ達を責める気もないし、剣心に告げる気もない。
この一件は悪意によるものではなかった。
それだけ分かれば薫は満足だった。
それに。
『嫌なことや悲しいこともあったけど、剣心がそばにいてくれて笑ってくれれば私は平気よ』
この言葉に嘘はない。
剣心が笑ってくれさえすればいい。
そのためなら私は。
薫から笑みが消え、どこか思いつめた表情で歩き続けた。
「薫殿、そんな早足では散歩の意味がなかろう」
くん、と手を引っ張られ、薫の足が止まった。
肩で呼吸を繰り返している自分に気づく。
どうやら知らぬ間に早足で歩を進めていたらしい。
すぐに言葉が出ず、剣心の顔を見ていると、そんな彼女の顔を覗き込んでこう言った。
「疲れたでござるか?」
それは三日月の夜に聞いた時と台詞だった。
瞬間目を見開き、次いで、ふ、と強張っていた表情が緩んだ。
「そうね、早歩きだったからちょっと疲れたかも。でもおんぶしてもらうほどでもないかな?」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、剣心もあの夜のことを思い出したようだ。
「では、拙者が薫殿の手を引いていこうか」
おどけて重ねられた手を持ち上げてみせる。
そんな剣心に薫の口から素直な感情がこぼれ出た。
「ありがとう」
この言葉をどう取ったのかは定かではないが、
「どういたしまして」
と言って薫の手を引いた。
薫は重ねられた手をしっかり握り返し、二人並んでゆっくりと歩き出した。
遠ざかっていく蝉の声が、夏の終わりを告げていた。
【終】
前頁
激昂する剣心も好きですが、こんな感じで静かに、冷たく怒る剣心も好きです。
要は薫に関すること(ココ強調)で怒る剣心が好きだとッ
今回のお話ですが、実は普段の暮らしの中で普通にありえることだったりします。
刑事沙汰じゃなくてもすでに起こった出来事を何とか隠し通そうとして新たに何かをしてしまうとか。
よく「罪を隠すために罪を重ねる」なんて言いますけど、まさにそんな感じ。
でもそれは悪意に満ちたものだけじゃない。
誰かのためにつく嘘もあるし、その場の険悪な空気を変えるための嘘もある。
それがいいことだとは思いませんが、それでも「悪いことだ」と断言できない。
だからこそ剣心も岡部を本気で怒れなかった。
その代わり平静な顔でネチネチ、チクチクと言葉責めしてますけど(笑)
具体的に「あの時の●●な感じ」とはっきり明言できなくてもあるときふっと自分で自覚していることがきっとあるはず。
この話に登場する岡部一家ですが、皆さんいい人ばかりです。
岡部氏やかづは作中で感じたイメージそのままでとっていただければ結構ですし、登場時悪い印象だった姑さんだって口が悪いだけで根はいい人なんです。
だけど人間っちゅーのはどんな善人だって「影」の部分を持っているもの。
某作家さんの本のタイトルを借りれば「心の中の冷たい何か」。
今回はそんな「冷たい何か」の部分にスポットライトをあててみました。
「影」が同居しているからこそ、人間くささってのがあるんじゃないかな、と思います。
そんなわけで「夏のある日、箸が折れた」はこれにて連載終了となります。
ちょっと趣向を変えてみた作品ですが、楽しんでいただければ幸いです。