新橋から汽車に乗り、横浜に近づくと潮の香りが強く匂った。



横浜駅(現・桜木町駅)に到着すると、剣心は駅員を一人捕まえて千鶴の屋敷の場所を尋ねた。
刀を帯びた剣心の姿を胡散臭そうに見ていたその駅員は背後に控えていた薫の存在に気付き、驚いたように声を上げた。

「千鶴お嬢さんじゃありませんか。先ほど、屋敷の人達が探しに来ましたよ」

駅員の言葉に、剣心と薫は顔を見合わせた。
どうやら薫の危惧したとおり、また千鶴は屋敷を抜け出したらしい。










お互いそっとため息をつくと、駅員が薫の肩をぽんと叩いた。
「さあさ、おじい様がご心配なさっていますよ。ここから屋敷に戻るには大変でしょうから、馬車を用意させます       おおい、誰か!」
この駅員は薫のことを千鶴だと信じ込んでいる。
大声でほかの人間を呼び、馬車の手配を始める駅員に薫が慌てて口を挟む。



「ちょっと待ってください、私は・・・」
「大丈夫ですよ、ここに来たことは黙っていてあげます。屋敷の人間には気付かれないようにして降ろしてさしあげますから、お嬢さんはちょっと散歩に出ていたとでもごまかせば咎められることはありませんよ」



善意に満ち溢れた笑顔を向けられては、薫も人違いですとは言い出しにくい。
結局、人のいい駅員に背中を押され、剣心ともども馬車に乗り込む羽目になったのだ・・・・・










Legame <4>










横浜駅から繁華街を抜け、野毛坂を上っていくと西洋風の豪邸が目に付くようになった。
「立派な屋敷でござるな」
「千鶴さんも、こんな大きなお屋敷に住んでいるのかしら」
千鶴から話は聞いていたが、実際に目にするとその豪奢(ごうしゃ)な建物にただただ圧倒されるばかりだ。



横浜に来たことはあるが、その時は駅周辺にある店を見ただけでここまで足を伸ばしたことはない。
周りの景色に目を奪われていると、不意に馬車が停止した。



「どうやら、千鶴殿の屋敷の近くまで来たようでござるな」
御者にここまで乗せてもらったことに礼を言い、剣心と薫は地面に降り立った。










馬車が消えるのを見届けて二人は歩き始めたが、十歩も行かないうちに背後から声をかけられた。

「お嬢様っ、千鶴お嬢様!」

振り向くと小太りな中年女性が駆け寄ってくる。
千鶴の名を呼ぶところを見ると、彼女の屋敷に仕える使用人だろうか。










彼女は薫に追いつくと、その肩をがっしと掴んで、
「ああ、見つかってよかった。早くお屋敷に戻りましょう」
と言って、薫を連れて行こうとする。
またか、とうんざりしながらも、薫はその場に踏みとどまる。
「よく似ているから間違えるのも無理はないんですけど、私は千鶴さんじゃないんです。実は私・・・・」
薫が説明しようとすると、その女性は呆れたように口を挟んだ。



「何を馬鹿なことを言っているんですか。いくらお見合いが嫌だからって、当日にお屋敷を抜け出すなんて」
「いえ、私は本当に     って、お見合い?」
「今日が見合いの日でござったか」



言葉を続けようとした薫の動きが止まり、剣心もまた思わず声を上げた。
薫の傍らにいる剣心に気付き、先ほどの駅員同様探るような視線を投げたがすぐに薫に視線を戻し、
「そうですよ、もうすぐお相手の方がお見えになるというのに、お嬢様ときたら・・・・・さあ、すぐに戻ってお支度を」
剣心を無視し、有無を言わせぬ口調で薫を連れて行こうとする女性を見て、今の状況はよほど切羽詰っているのであろうと推測できる。

「やはり・・・お見合いに出ないと、大変なことになるんでしょうか?」
「当たり前ですよ。本日いらっしゃる方はこういった約束事をきっちり守る方ですからね。それに、お相手はあちこち顔が知られているお公家様です。もし約束を反故(ほご)にしたとあれば、一番被害を被(こうむ)るのはおじい様なんですよ」

何を言い出すのか、と目を丸くしている女性を見て、薫は心を決めた。










「分かりました、行きます」
「!?」










これには剣心もぎょっとして薫を見やった。

「か    
「ごめんなさい、ちょっと」

安心したように笑みを浮かべる女性にそう言いおいて、薫は剣心を引っ張った。



「どうするつもりでござるか、薫殿」



剣心は困惑した表情を浮かべている。
女性に聞こえぬように押し殺した声で問うと、薫も小声でそれに応じた。
「だってしょうがないじゃない。お見合いに出るはずの本人は見つからないし、それなら私が代わりに出たほうが事を荒立てなくて済むわ」
「確かに千鶴殿と薫殿は瓜二つだが代わりに見合いに出るなど」
「こっちが違うって言っても、向こうが信じないんだから・・・大丈夫よ、なんとかなるわ」

その自信は一体どこから来るのか。
意志の強い瞳で見返され、剣心はもう何を言っても無駄と悟った。
疲れたようにため息をつく剣心に、申し訳なさそうに薫が言葉を紡いだ。

「それでね、剣心       
「分かっているでござるよ、千鶴殿を探してくればよいのでござろう?」
剣心の言葉に驚いた表情を見せたものの、薫はすぐに笑みを返す。










まっすぐ剣心を見つめ、一点の曇りもない薫の笑みは心から剣心を信用している証拠。
その証拠に彼女の瞳に不安はない。










言いたいことは山ほどあるが、彼女の笑顔で全て許してしまうのは惚れた弱みからだろうか。
しかしそれは言葉に出さず、代わりにこう続けた。



「千鶴殿を探して見合いの席に出てもらえば、全ては丸く収まる       そうと決まれば、一刻も早く千鶴殿を探したほうがよいでござるな」



その言葉に薫は嬉しそうに何度も頷き、
「お願いね、剣心。私も頑張ってみるけど、どこでばれるか分からないから」
と言って、胸の前で手を合わせる。

それなら始めから身代わりにならなければいいのに、という本音は飲み込んで、剣心もにっこりと微笑んだ。

「分かった。こちらも早く千鶴殿を見つけられるよう、善処するでござるよ」
そう言って、剣心は踵(きびす)を返し、駆け出した。




















しかし、見慣れぬ町で人を探すのは容易なことではない。
千鶴が薫と巡り会うことが出来たのは、千鶴自身がよほどの強運の持ち主だったからだろう。
ひとまず町の人間に聞き込むしかない、と考え、剣心は先ほど馬車で通り抜けた繁華街に足を踏み入れた。



東京の下町を思わせる商店が並んでいるかと思えば、異人向けの珍しい品物を揃えている店を目にすることもあった。
関内、山手まで足を伸ばせば開港と同時にやってきた外国人の居留地がある。
そのため、外国人相手の商売が盛んになったと聞いたことがあった。



薫がいれば彼女は瞳を輝かせ、剣心と共に店内に入っただろうが、その彼女は今はいない。
剣心もまた、やるべきことがある。










剣心は道行く人間に千鶴の事を聞いてみた。
その名を聞いて知らない者はいないほど、来迎寺家は有名な家であった。
しかし、千鶴の行方となると皆一様に首を左右に振るばかり。










日が傾きかけている。
剣心の心に焦りが芽生え始めた頃、乾物屋の店先で店番をしていた老婆から彼が求めていた情報を得た。
千鶴がよく行く場所、ということを聞いたのだ。



老婆の話によると、千鶴は幼い頃からその場所で一人過ごすことが多い、というのだ。
どうやら屋敷の人間には分からない特別な場所のようで、その老婆と千鶴が出会ったのは本当に偶然であったらしい。



「あんた、千鶴お嬢ちゃんの知り合いなら、迎えにいってくれんかね。もうすぐ日も暮れるだろうし」



剣心は老婆に礼を述べた後、教えられた場所に向かった。
その場所は、屋敷が密集している地域よりもさらに坂を上った高台にあった。
この辺りはまだ人間の手が入っていないのか、雑草が生い茂り、未開の地であることを強調している。










「確か、雪だるまに似た岩・・・これのことでござろうか?」










剣心の視線の先には大きな岩がある。
大小の岩を二つ乗せたようなそれは、なるほど雪だるまに見えなくもない。
剣心はその岩の後ろに滑り込み、藪をかき分けながら上へ上へと足を運んだ。

静寂の中で、がさがさという藪をかき分ける音だけが辺りに響く。

それを聞くのは藪をかき分けている剣心と、夕暮れになって冷え込んできた空気。
そして       










「誰!?」

剣心の向かう先から聞き覚えのある声が聞こえた。










「ちょっと、誰かいるなら返事くらいしなさいよッ」



正体不明の人物に向かって気丈に声を張り上げるが、やや声が上擦っている。
だがその声で剣心はこの先にいるのが誰か知ることが出来た。



「千鶴殿。拙者、緋村でござるよ」
「え?緋村さん?」










やっと視界が開けると、そこは千鶴が踏み固めたのだろうか。
草木が平らになっており、その中心に千鶴がちょこんと座っている。

「怪我は無いようでござるな」

いつからここにいたのかは定かではないが、見れば千鶴の全身は草まみれになっている。
それでも怪我をした様子はないため、剣心は表情を和らげた。
「なんで緋村さんがここにいるの?」










剣心はことの次第をかいつまんで説明した。
話が進むにつれ、千鶴の瞳も見開かれていく。










「じゃあ、薫さんが私の代わりにお見合いしているってわけ!?」

薫が自分の身代わりになっている事実に驚いている様子だ。
自分で頼んだ時に断られたため、まさか薫が見合いに出ているとは予想だにしなかったのだろう。

「なんで!?人違いだってこと言わなかったの?」
思わず素っ頓狂な声を出す千鶴に、剣心はやんわりと答えた。
「無論、始めはそうしたのでござるがあの容姿でござろう?全員薫殿を千鶴殿と思い込んでしまって・・・・」
「それで私の代わりにお見合いするなんて・・・人がいいにもほどがあるわ」
「それが薫殿のいいところでござるよ」
さらりと言う剣心を、千鶴は呆れたように横目で見た。



「・・・・それってノロケ?」
この言葉に剣心が慌てた。



「の、ノロケなどそんなッ!第一、拙者と薫殿はそういう仲では・・・」
「あら、違うの?一つ屋根の下に住んでいるからてっきりそうなのかと・・・」
「千鶴殿!今はそんな話をしている場合では・・・大体、何ゆえこのような場所にいたのでござるか?」

話が違う方向に飛びそうだったため、剣心は必死に軌道修正を試みる。
思わぬ話を聞いて楽しげだった千鶴の顔が、剣心の言葉によって見る見る曇っていく。










「ねえ、緋村さん。人の魂って、どこに逝くか知ってる?」
「魂、でござるか」










突然突拍子もないことを言われ、剣心はすぐ返答できない。
千鶴はそんな剣心にお構いなしに話を続ける。



「あのね。人って死んだら、魂は空に昇るんですって」



そう言って、空を見上げた。
剣心は何か言いかけたが、千鶴の悲しげな表情を見て口を閉ざした。
以前、彼女と同じ表情をした人間がいたことを思い出したからだ。
剣心は、黙って千鶴の話を聞くことにした。










       私の両親が亡くなったことは以前話したわよね?あの時、私は赤ん坊だったから両親の顔を覚えていないって言ったじゃない?だから悲しくないって。その言葉に嘘はないのよ。実際顔を知らない人に対して、涙を流すことなんて出来なかったし」
千鶴の視線は依然空に向けられている。
「でも、子供って周りと自分を見比べちゃうじゃない。友達に両親がいるのに、私にはいない・・・・死んじゃったんだから当たり前のことなんだけど、それでも何だか寂しくてついおじいちゃんに言っちゃったのよ。なんで私には両親がいないの、って」



血が繋がっていないとはいえ、薫は両親の愛を受けて育った。
だが千鶴は違う。
唯一の肉親は多忙な祖父だけ。
仕事で家をあけがちな彼の代わりにいるのは、両親ではなく、機械的に仕える使用人達。



明るく振舞ってはいるが、彼女も孤独と戦っていたのだ。
仕事のために構ってやれず、すべて使用人任せにしてきた宗巌は、そんな孫娘の寂しさに気付いてやれなかった。
自分の正直な感情をぶつけてきた千鶴に対して、彼も戸惑いながら孫娘に温かい言葉をかけたのではなかろうか。










「おじいちゃんね、私をだっこして庭に連れ出したの」
剣心の心を読んだかのように、千鶴はふっと笑みを漏らした。

「そして空を指差してこう言ったわ。『お前の父母はもうこの世にいないが、その魂は天に昇りいつも千鶴を見守っている』って」

それは、ろくに会話しない宗巌が祖父らしい感情を見せた一瞬であったという。
千鶴は剣心に視線を戻した。
「それ聞いてから、寂しくなった時はいつも空を見上げているようにしているの。この辺じゃ、ここが一番空に近いから」



私の秘密の場所なのよ、と千鶴は悪戯っぽく笑って再び視線を空へ戻した。
その笑みに、かの人の面影を重ねながら剣心は口を開いた。



「薫殿も同じでござったよ」
「え?」

見ると、今度は剣心が空を見上げている。

「薫殿と出会った頃、今の千鶴殿と同じように空を見上げていたのでござるよ。理由を聞いたら、『何だかこの空から亡くなった両親が見てくれているような気がして』と・・・・」










今でも時折、空を見上げている薫を見かける。
以前は悲しげな表情をしていることが多かったが、今ではまるで亡き両親と会話しているかのように、笑みすら浮かべて空を見ていた。










「やはり姉妹でござるな」

千鶴は薫の顔を思い出し、悲しげな表情で空を見上げている姿を想像してみた。
しかし、思い描けない。
先日会ったばかりの己の姉は凛とした姿が印象的で、その表情が翳ることなど思いもしなかったのだ。

「あの人は強いから、涙なんて見せないかと思っていたわ」










初めて会ったとき、竹刀を手に清々しいほどの強さを見せ付けた薫。
そんな彼女に自分と同じ一面があったとは。










「薫殿も普通の人間でござる。確かに強いが、だからといって悲しみを感じないということではござらんよ」 
意外ではあるが、それでもなにかしら自分と通じるものを感じ、千鶴は我知らず口元を緩めた。
そんな千鶴を見て、剣心も微笑んでいる。



「薫さんに先日のことを謝らなきゃ。許してくれるといいんだけど」
「何、心配無用。薫殿とて千鶴殿の心は分かっているでござるよ」



剣心の言葉に千鶴は頷いた。
二人は笑い合い、どちらからともなくその場を後にしたのだった。










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