「来迎寺殿、薫殿は災いなどではござらん。得られるはずもないと思っていた幸せを与えてくれた、かけがえのない女子(おなご)にござる」

本人がこの場にいなくとも、薫の姿を容易に思い描くことが出来る。










    剣心       










見るもの全ての者にやわらかな灯を与える温かな笑みをたたえながら、自分に手を差し伸べる少女の姿が剣心の脳裏に浮かんだ。




















Legame <6>










「あの娘が、お前に災いではなく幸せを与えたと?」



意外そうに見返す宗巌に、剣心は無言で頷く。
それを見て、千鶴も剣心に同調するように言葉を紡いだ。
「そうよ、おじいちゃん。私、お姉さんがいるって知って、すごく嬉しかったもの     両親が亡くなって、私にはおじいちゃんしかいないと思っていたから」
「千鶴、お前・・・?」
普段あまり聞くことの無い孫娘の胸中に戸惑いを隠せずにいると、心配かけまいと千鶴が明るい口調で続ける。
「もちろん、おじいちゃんが私のことを大事に思ってくれているのは分かってる。でも、おじいちゃんが仕事で屋敷にいないときはやっぱり寂しかったわ」
潤んだ瞳を隠すようにうつむいた孫娘に、宗巌はどう答えてよいのか分からない。



「来迎寺殿、昼間屋敷を抜け出した千鶴殿がどこに行ったかご存知か」



剣心の声に、宗巌が顔を上げて彼を見た。
その瞳に先ほどの険しさは既に消えていた。
今、剣心の目の前にいるのは、純粋に孫娘を想う一人の老人である。










「千鶴殿は空を見上げていたのでござるよ。ここよりもっと上にある野原で」

宗巌が幼い千鶴に言い聞かせた言葉が、彼女の心の支えになっていることを話すと、宗巌は弾かれたように千鶴を見た。
相変わらずうつむいたままだが、その小さな肩が震えている。










「千鶴・・・ッ」
立ち上がり、孫娘の肩を抱くと、瞳に涙を一杯ためた千鶴がたまらず宗巌の胸に飛び込んだ。
「おじいちゃん!」
己の胸の中で声を上げて泣く千鶴を、宗巌は子供をあやすようにやさしく背中を撫でた。



先ほどまで刺々しい空気に包まれていたが、祖父と孫娘の涙の抱擁でその場の空気が和む。
しかし、荒々しくドアをノックされると、その場の空気が一変する。



入ってきたのは、玄関で警備に立っていた先ほどの警官であった。









「失礼いたします!先ほど近くに住む少年が、知らない男に頼まれたといってこの手紙を       
警官の言葉を皆まで言わせず、署長がひったくるようにしてその手紙をもぎ取ると書面に目を走らせた。










「署長?」
宗巌が緊張した面持ちで問いかけると、署長は書面から目を離し、手紙を宗巌に渡した。
「脅迫状です。こちらのお嬢様と引き換えに、法外な身代金を要求する内容です」
「この回天党というのは?」
一通り目を通し、最後に書かれている名前を見て宗巌が尋ねる。
「最近、商家を狙う不逞(ふてい)士族の集まりです。『国の利益を貪る商人達を裁く』などと大義名分を掲げておりますが、実際は金目当てに悪事を働く荒くれどもですよ。奴らは奪った金で武器を調達し、更に悪事を積み重ねているのです」
と署長は苦々しげに言葉を吐き出した。
千鶴が訴えるように宗巌を見ると、彼は分かっている、とでも言いたげに頷いてみせる。



「身代金を用意しよう。千鶴の身代わりで攫われたのだから、なんとしても無事に救出しなくては」



その言葉に、千鶴の表情が輝く。
しかし、同じように脅迫状を読み終えた剣心は無言で背を向けた。
「緋村さん?」
不審に思い千鶴が声をかけると、剣心は振り向かずに答えた。










「その手紙に、身代金を渡す場所が指定してあった。拙者は一足先にその場所に向かうでござるよ」
「行くってまさか、一人で乗り込む気!?」
彼の言葉に仰天して千鶴が、更に言葉を重ねる。
「無茶よ!そりゃ確かに緋村さんは強いかもしれないけど、相手は何人いるか分からないのよ!?」
剣心はくるりと振り向き、千鶴と向き合った。

「何、心配はいらぬよ。それに千鶴殿の身代わりであることを相手に知られたら、薫殿の身が危うい」
「だからって       
「大丈夫でござるよ」

うろたえる千鶴とは逆に、剣心は飄々とした態度を崩さない。
言葉を失った千鶴を尻目に、剣心は客間を出ようと足を踏み出した。
それを見て傍らにいた署長も、無謀な行動に出るこの剣客を止めようと一歩進み出た。
「ま、待て!今はまだここに       !?」










そこで署長の言葉が途切れた。

その瞳は食い入るように彼の左頬を見つめているが、剣心はそれを一瞥しただけで、ドアを開けて静かに客間から出て行った。










ぱたん、と扉が閉まる音ではっと我に返った千鶴は、呆然としている署長に噛み付いた。
「ちょっと!なんですんなり行かせたりするんですか!」
しかし、千鶴の声が届いていなかったかのように、署長はその場に立ち竦んだまま。



「署長?」



その様子に異変を感じ取り、宗巌が近寄って声をかけた。
見ると、署長の顔色が真っ青になっている。
「署長!?どうしたんだねッ」
もう一度名前を呼び、今度は強めに彼の肩を揺すった。
すると、彼の口からつぶやくような声が漏れてきた。

「間違いない・・・・目つきこそ違うが、あの十字傷は・・・・」
「署長はあの男を知っているのか!?」

その声でやっと宗巌に視線を向けた署長は、驚くべき事実を口にした。










「実は、私は幕末の京都で彼を見たことがあるのです。彼は維新志士達の中でも最強といわれた男でした。あまりに強く、あまりに多くの人間を斬り殺したため、ついた呼び名が       『人斬り抜刀斎』!!」
「な・・・・!?」

その場にいた全員が息を飲んだ。















人斬り抜刀斎。

当時幼い子供であった千鶴ですら、その名前はよく知っている。
長州派維新志士として、幕府側の要人を暗殺し、時には新撰組とも戦った男。
短身痩躯のその姿からは想像できぬほどの剣の腕を持ち、彼と剣を交えた者には確実な『死』が訪れるという。



そして彼は動乱の終焉と共に忽然と姿を消した。
数々の最強の伝説を残して       















「緋村さんが、人斬り抜刀斎?」
両手で口を覆い、驚きを隠せない千鶴に署長は難しい顔で続けた。

「明治になっても彼の生死すら分からずじまいだったのに、まさかこんなところで会うとは・・・・確かに抜刀斎の強さを持ってすれば、何人束になってかかってこようとも       

はたと何かに気付いたように言葉を切る。
不意に黙り込んだ署長の顔を見ると、その瞳が不安定に揺れている。
「いかん・・・」
「は?」
「抜刀斎が本気を出したら、犯人達に生き延びる術は無い!ろくでもない犯罪者どもだが、抜刀斎に殺させるわけにはいかんッ」
そう叫んで署長は客間のドアを開け、待機している警官に号令をかける。



「抜刀斎を追うぞ!犯人達が殺害されるのを阻止するんだ!!」




















瞼の裏に光を感じ、薫の意識が覚醒した。
しかし、何だか息苦しい。
自分が猿轡を噛まされていることに気付くと、薫は己の身に何が起こったのか鮮明に思い出した。

そうだ、確かお見合いの最中に知らない男が襲い掛かってきて・・・・・

ゆっくり目を開けて周りを見渡すと、木で作られた建物の中に閉じ込められたようだ。
薫が横たわっているのも畳の上ではなく、硬い床板だ。
かびの臭いが鼻につくところから、あまり使われていない建物らしい。
暗い室内を申し訳程度の小さな火が燭台の上で揺らめいている。
先ほど感じた光はこれか。



「おう、気がついたか」



野太い声が聞こえ薫は身を起こそうとしたが、後ろ手に縛られているためそれが出来ず首だけ動かして男を睨んだ。
囚われの身となり、不安げな顔をしているとばかり思っていた娘に意志の強い瞳で見返され、男は一瞬戸惑いの表情を見せた。
が、すぐに皮肉ったような笑みを顔に貼り付かせ薫に近づく。

薫は瞬きもせずに男の動きを見据えていたが、彼女の首が元の位置に戻る頃、男は薫と向き合う形で腰を下ろした。

「そんな目で睨むなよ。美人が台無しだぜ」
不意に手を伸ばすと、薫は反射的に身を退いた。
男はその様子に目を丸くしたが、薫の考えていることが分かり、笑い声をあげた。
「安心しろ。何もしやしねえよ。ただ、今のあんたはひどい格好しているから、ちっと直してやろうと思っただけさ」
と言って、男は腰に差した刀を抜き出した。
すらりと抜かれた刀に薫は警戒の表情を見せたが、まあ見てみなよ、と男に体を起こされ、刀身に映った己の姿を見てぎょっとする。










丁寧に結い上げられていた髪はかなり乱れて、かろうじてまとまっているに過ぎない。
友禅の振袖も男達に運ばれている間に襟元が緩み、乱暴に転がされたせいで汚れたり、ほつれたりしている。










「な?これで分かったろ?」
男が刀を納めると、薫の頭の中で別の心配が生まれた。



この着物、どうしよう・・・・やっぱり弁償しないとまずいわよね?
一体、いくら位するのかしら?



自分が誘拐されたという事実より、高価な着物を駄目にしてしまったということのほうが重要らしい。
囚われの身になっていることより着物の心配をするとは、肝が据わっているというか何というか・・・・・










今自分が置かれている状況も忘れ、とりあえず謝るのが先よね、などと考え込んでしまう。
そんな薫を見て、今頃になって恐怖を感じているのかと勘違いした男は、安心させるようにこう言った。



「まあ、そう怯えるな。さっき、脅迫状を来迎寺の家に届けた。金さえ手に入ればすぐに解放してやるよ」



脅迫状を出したということは、彼らも薫のことを千鶴だと思い込んでいるらしい。
だが、人違いだと知られたらどうなることか。
もっとも、体の自由を奪われている今の状況でどうにかなるものでもないが。










「阿部さんだって、無闇に人を襲ったりしない」










阿部、というのが首謀者の名前だろうか。
囚われの身となっている今、そういった情報がこの状況を打破する鍵となるかもしれない。
薫は顔を伏せ、しおらしい態度を作り、聴覚に意識を集中した。

「だが、もし約束を違(たが)えた時は」

男の口調が変わったことに気付き、薫が顔を上げると、彼の瞳がぎらぎらと異様な光を放っている。
その瞳に射抜かれ、薫は初めて身の危険を感じた。
じりじりと後退すると、男の手が薫の細い顎を捉え、無理矢理顔を掴まれる。
薫は身を捩(よじ)って逃れようとしたが、男の力は強く、びくともしない。
視線を逸らすことも出来ぬまま男を見ると、彼もまた、薫の瞳を捉え言葉を重ねた。










       お前を殺す。そして、死体を来迎寺のもとに送ってやる」










はったりなどではない。
男から感じる殺意は本物だ。



薫は本能でそれを悟った。



禍々しいほどの視線で射抜かれ、恐怖で震えだしそうになるのを何とかこらえた。
だが、男は薫の隠された恐怖を見抜いたかのように、ふっと頬の筋肉を緩めた。

「まあ、それはあくまで来迎寺が約束を違えた時の話だ。奴も血の通った人間、たった一人の肉親を見捨てることは無いだろうよ」

そして、薫の顎を掴んでいた手を離し、にやりと笑う。
男の手から解放された薫は、そのまま脱力したように背後の壁に寄りかかった。
冷や汗が背中を伝い、心臓の音が聞こえるのではないかと思うほどに、どくどくと音を立てる。
恐怖に支配されそうになる薫は、それでも一筋の光を見出し、それに縋(すが)った。










剣心・・・・・剣心ッ










心の中で呪文のように彼の名を呼び続けると、外が騒がしくなってきた。
薫同様、騒ぎに気付いた男が腰を浮かすと、ばたばたと無精髭を生やした男が息せき切って飛び込んでくる。



「二ノ宮、来たぞッ!」
「来迎寺か!?」
二ノ宮、と呼ばれた男が刀を手に立ち上がると、無精髭の男は無言で首を振った。



「いや、来たのは一人の男だ。今、阿部さんと話をしている」
「男だと?」
男の話に、二ノ宮は眉をひそめた。
「ああ。女みたいな顔した赤毛の剣客だ。帯刀しているから、用心のため全員集まれとさ」
「分かった     あんたはここにいてもらおうか」
二ノ宮は薫にそう言い置いて、部屋を出て行った。
だが、薫の耳にその言葉は届いていなかった。










剣心     剣心が来てくれた!










煩(うるさ)いほど鳴っていた心臓の音はなりを潜め、代わりに薫は冷静さを取り戻した。

剣心が来ている。

それだけで、先ほどの恐怖が嘘のように消えている。
ほんわかと胸が温かくなるのを覚えたが、感動するのは後だ。
この場でただ待っているわけにはいかない。



剣心が負けることは無い。
しかし、もし彼らが薫を盾にしたら?



今の薫に出来ることといったら、剣心の足手まといにならぬよう、ここを出て身を潜めることくらいか。
だが、思うように動かぬこの体でどう逃れればいいのだろう?
あれこれと考え込んでいると、薫の視界に火が付いたままの燭台が目に入った。
薫は壁に寄りかかりながら何とか立ち上がり、灯してある炎に背中を向けた。




















『今夜八時 泰万寺(たいまんじ)ニテ待ツ』

脅迫状にはそう書いてあった。
その寺の場所を町の人間に聞くと、数年前に廃寺になったという。
剣心は教えられた場所に辿り着き、本堂に向かう石段を登り始めた。
夜空には月が輝いているが、流れる雲に邪魔され、月光が地上を満たすことはない。
しかし、夜目の利く剣心にはそれで十分だった。
長い石段を登りきると、本堂の前にたむろっていた十数人の男が剣心に気付き、その場の空気が殺伐としたものに変わった。



「何だお前」
「来迎寺の手のものか!?」



警戒の表情を露にし、殺気立った男が刀に手を伸ばす。
しかし、それは彼の背後から聞こえた声によって止められた。










「まあ待て。まず、話を聞こう」










奥のほうから声がしたので、剣心は僅かに眉をひそめる。
だが、本堂の前にいた男達はその声を聞くと、直(ただ)ちに左右に分かれた。
そこに現われたのは長髪の男。
外套(マント)で身を包んでいるため、正確に判断できないが、剣心より体格がいいことは確かだ。
「この明治に刀を持ち歩いているところを見ると、我らと同じ士族だろう。ならば、話をしてみるのも悪くない」
「しかし阿部さん」



咎めるような声があがると、阿部、と呼ばれた男の瞳に獰猛(どうもう)な光が宿った。



       俺に指図する気か?」
ぎろりと睨まれ、
「と、とんでもない!阿部さんに指図するなんてそんな・・・・」
怯えたように後ずさる男に、阿部は口角を上げる。
「お前の言いたいことは分かる。だが、我らの本懐を遂げるために、数多くの壮士が必要であるということも覚えておけ」
「は、はい・・・失礼しました・・・」
ぞんざいな物言いをするこの男が回天党の首魁らしい。
思ったより若い男で少々意外な気がしたが、とりあえず剣心は直接本題に入った。










「人質は無事でござろうな」
「案ずるな。部下達にも金が手に入るまで何もするなと伝えてある。それより、ここは一つ、話し合おうじゃないか」
「話?」

署長の話や先ほどのやり取りで何の話か想像できたが、ひとまず阿部の話に耳を傾ける。
剣心が話を聞く姿勢を見せると、阿部は賽銭箱に腰かけ、もったいぶるように話し始めた。










「我らとて、好き好んでこのようなことをしているわけではない。だが、今の腐った明治政府を正すには俺達もそれ相応の力をつけねばならん。どうだ?お前も仲間にならんか?」










こういった状況で話し合いになると、大体の場合は相手を自分の味方に引き込もうとするのだ。
無論、剣心にその気は全く無い。
それに気付かない阿部は得意げに話を続ける。



「政府を正し、再び日本に攘夷を掲げる同志は一人でも多いほうが良い。回天党は士族であれば誰でも歓迎だ。ここにいるものもみな明治維新で役職を追われた没落士族ばかり・・・・お前も今すぐ忠誠を誓えば、党の末席に加えてやるぞ」



どうやら剣心が帯刀していることから、労せず自分の仲間に加わると思い込んでいるらしい。
ここまで自分の予想通りの話になると呆れを通り越して、却って馬鹿らしくなってくる。
剣心は大きく息を吐き出した。










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