大丈夫だから。

そう告げたのはまだほんの数日前のことだ。
大丈夫と言ったからには、剣心の帰りを待っているつもりだった。
しかし、今薫がいるのは吉原の大門の前。
女が一人佇むには不釣合いな場所だ。
そのため、吉原に出入りする者や通行人からはじろじろと遠慮ない視線を注がれる。
風呂敷包みを抱え、大門の前に立っているのを見れば誰でも売られてきた娘と見るだろう。
好奇の視線に晒されながらも隠れる場所などなく、恥ずかしくて逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
(もう、弥彦ったら何してるのよっ)
こんな目に遭っているのも元はといえば弥彦のせいだ。










闇の夜は吉原ばかり月夜かな <2>










剣心の着替えは警察が持って行ってくれることになっている。
警察署へ届けるために必要なものを用意しているとそこに居合わせた弥彦から、
「吉原なら普通じゃお目にかかれないような美人が大勢いるんだぜ?お前、不安じゃないのかよ?」
「またあんたはそういうことを・・・剣心は遊びで行っているんじゃないのよ?」
「剣心じゃなくて女のほうだよ。無自覚に女をたらしこむ才能がある剣心だ。向こうから言い寄られても不思議はねえ」
言い返せなかったのは、それこそ薫が不安に感じていた部分だったからだ。



剣心は確かに「大丈夫」と言った。
その言葉に嘘はない。
が、剣心は大丈夫でも吉原の女たちはどうだろう。



きっと遊女だからといって色眼鏡で見ることなどせず、いつもと同じやさしさで接するだろう。
そんな男と出会ったら気持ちが傾くのも当然だ。
黙り込んでしまった薫を元気付けるように、弥彦がぱんっと背中を叩く。
「そんなに不安なら一度会いに行けばいいだろ?女たちへの牽制になるし、剣心だって久しぶりにお前の顔を見れて喜ぶんじゃね?」
「そうかな・・・却って邪魔にならないかしら?」
薫の心に迷いが生じたのを見て取り、弥彦の拳がぐっと固められた。

     弥彦の性格を把握している読者は既にお分かりかと思うが、薫の心を乱すような言動は全て彼の芝居である。

(こんな面白そうなこと、見てるだけなんて出来るかっての)
吉原といえば弥彦も母親と共に過ごした時期がある。
そこで母親を亡くしたことを思えば決して楽しい思い出はないはずだが、それでも弥彦にとっての古巣。

自分が出張れば有益な情報が手に入る可能性が高い。

吉原という場所と弥彦の年齢を考えれば連れて行くことはできないと判断してのことだろうが、役に立つ自信はある。
そんな時、今の薫は吉原に入るための格好の口実だ。
それに対してやましい気持ちがないわけではないが、
(ま、どうせ薫も剣心の顔見ない限りぐだぐだ悩んでいるだろうし。俺はその手助けってことで)
と問題を挿げ替えた。










まんまと弥彦に乗せられた薫はそれと気付かないまま、こうして大門で立っている。
この状況を作り出した本人はといえば、
「ちょっとここで待ってろ。女でも出入りできるようにしてやるから」
と言い残してから大門をくぐったまま、なかなか出てこない。
もう帰ってしまおうかと考え始めた頃、ようやく姿を現した。
「遅い!一体何やっていたのよッ」
居心地の悪さから開放された安心感から思わず声が高くなる。
「うるせえな、ちょっと手間取ったんだよ。ほらこれ持ってろ」

差し出されたのは一枚の紙     大門切手である。
吉原には「女性は一切、門の外に出られない」という決まりがあるため、遊女でない女が吉原に出入りする場合はその証である大門切手が必須となるのだ。

二人揃って門をくぐろうとしたとき、四郎兵衛会所にいる男から声をかけられた。
「おう弥彦!吉原見物したいっていう変わり者ってのはその別嬪さんかい?」
指差されているのは間違いなく自分と知って、前につんのめった。
気安く声をかけてくるところを見ると弥彦の知り合いだろうか。
大門切手が薫の手にあるのはきっと彼の口添えもあったのだろうが、今はそんなことはどうでもいい。
まぁな、と普通に返すが、話題に上った本人はたまったものではない。
抗議しようにも弥彦はさっさと歩いていく。



言いかけた言葉を飲み込み、慌てて後をついていった。
ここで置き去りにされてはたまったものではない。
が、場所は違えど結局置き去りにされたことに変わりはなかった。



玉屋に到着すると、
「んじゃ俺もちょっくら話を聞いてくるから」
と薫の答えを待たずに駆け出してしまったのだ。
「え、弥彦!?」
呼び止めようとしてもすぐ路地に入ったため姿も見えなくなった。
「嘘でしょう・・・」
呆然としかけたが、妓楼の前に突っ立っていたらまたどのような誤解を受けるか分からない。
さすがに正面から入る勇気はなく、薫はそそくさと裏側にまわった。
裏口からそっと覗き込むと、ちょうど下働きらしい下女が掃除に使った道具を片付けているところだった。
薫に気付くとあからさまに胡乱げな視線を投げたが、声をかけると気軽に応じてくれた。
事件解決のためとまではいかないが、何らかの理由をつけてここに逗留しているのだろうと思って聞いてみると、
「ひむら?・・・名前までは知らないが、ひょっとして護衛してくれるって言う剣客のことかい?」
詳しいことは伝わっていないようだが、妓楼で働く人間も剣心の存在を知っているようで薫は些か驚いた。
「皆さんご存知なんですか?」
「ここだけじゃなくて他にも広まっているんじゃない?そうでなけりゃ意味がないだろうし」

益々分からない。
犯人を捕まえるためなら、剣心の存在は伏せておいたほうが都合がいいだろうに。

首を捻っていると、
「おや?もしかして薫さんではありませんか?」
名を呼ばれて振り返ると、中から見覚えのある男が出てきた。
顔を見て、数日前に剣心に依頼した男だと思い出した。
(名前は確か与市郎さん)
軽く会釈をすると、薫を認めた与市郎も笑顔になった。
「いやはや、こんな場所でお目にかかるとは。緋村さんに御用ですか?」
「あ、用というか必要なものを持ってきただけで・・・」
「生憎緋村さんはこちらではないんですよ。でも折角いらしたんだ、どうぞお入りください」
気楽に誘われて困惑した。
剣心がいるなら外で手渡せばいいと思っていたからだ。
そんな薫の考えを察してか、
「普段はここではなく、喜の字屋という仕出しの店にいらっしゃいます。ですが、毎日顔は出してくださいますよ」
今日もそろそろ来る頃だ、と安心させるように告げられた。
何だか腑に落ちないが、与市郎に勧められるまま薫は中に上がった。
先導する与市郎の背中に先程から感じていた疑問をぶつける。
「あの、何故剣心のことを皆さんに話したんですか?そんなことしたら犯人が警戒して近づけないのでは・・・」
「近づけないのなら大いに結構。そのほうがこちらとしても襲われる危険性が減りますからね」
与市郎の言葉に眉をひそめた。
店に危害が及ばないようわざと剣心のことを広めたというのか。



「確かにそうですけど・・・そうしたら今度は他のお店が」
「もしそうなったら私も心が痛みますが、それはその店の運が悪かったということで」
「!」



己の店が無事なら他はどうでもいいということか。
薫を見ずに淡々と紡がれる言葉は冷たく、背筋に悪寒が走った。
「もちろん緋村さんに犯人を捕らえていただくのが一番です。しかし、それはいつのことになりましょう?そしてその間手前の店の女が狙われないという保証は?」
「だからって   
「騒々しいぞ。折角人が気持ちよく寝ていたというのに」
反論の言葉は上から降ってきた声に遮られた。
見上げると、吹き抜けになった階段踊り場から男が乗り出している。
寝起きなのか、来ている床着がだらしなく緩んでいた。

「成宮様」

同じように与市郎も上空を仰いでいる。
成宮と呼ばれた若い男は無言で見下ろしていたが、やがて手すりから離れると階下へ降りてきた。
「成宮様、何か」
「お前、名はなんと言う?」
与市郎を無視して背後にいる薫に問いかけた。
問いかけながら間近でじろじろ見られて、思わず身を引く。
「聞こえなかったのか?お前の名前を聞いているんだ」
無遠慮な視線と横柄な態度にむっとした。
「どなたか存じませんが、人の名前を聞くときはまず自分から名乗るものでしょう?」
不機嫌さを露にした薫に成宮の目が丸くなり、事の成り行きを見守っていた与市郎が青くなった。
「な、成宮様、この人は手前どもとは無縁の    
「黙れ。今はこの女と話している」
物怖じせず強く見返す薫を、成宮は面白そうに観察した。
「気に入った。おい主、この女に相手をさせろ」
「はぁ!?」
成宮の言葉に薫は目を剥いた。
「私はこの店とは無関係です。そんなこと言われても困りますっ」
「女が一人吉原に来て無関係も何もないだろう・・・そうか、売られてきたばかりで現実を受け入れられないのか」
「勝手に話を作らないで!」
言い争いになり、いつの間にか他の遊女や客も遠巻きに眺めていた。
「成宮様、これには訳がありまして」
「黙れと言っている!」
「あんたが黙りなさいよ!!」
「無礼だな。誰に向かってそんな口を     
ぎゃあぎゃあ言い合っている三人は気付かなかったが、周りを囲んでいた人の壁が音もなく開いた。










「主(ぬし)さん」










澄んだ声が辺りに響き、水を打ったように静かになった。
声のしたほうに首をめぐらせると、薫はその場から動けなくなった。
与市郎も成宮も、そして周りにいた人間全て魅入られたように固まっている。
まるで美人絵からそのまま抜け出てきたようだ。
それほどまでに美しい。
思わず見惚れていると、ぽってりとした唇が開かれた。
「その娘はわっちの妹分 。どうか堪忍してくんなまし」

それとも、と視線を流すのがたまらなく色っぽい。

「わっちよりその娘のほうがよければ、主さんとはこれきりということに」
「九重」
先程まで高慢だった成宮の声質が柔らかくなった。
薫から離れ、九重の細面に指を滑らせる。
「こんな小娘に本気になる俺だと思っているのか?」



成宮がなだめても九重は表情を崩さない。
美しいがゆえに揺ぎ無い鋼鉄の意思のようなものが感じられ、成宮はやれやれと大げさにため息をついた。



「分かった、今夜もここにいる     それでいいか?」
その言葉に九重は艶やかに微笑んだ。
「では部屋へ戻りんしょう」
九重が傍らに控えていた禿(かむろ)に目で合図すると、心得たように成宮を先導していく。
数歩進んだところで「ただし」と成宮が振り向く。
「宴にはそこの妹分とやらも同席させろ。お前のやきもちなんて滅多に見られるものではないからな」
一瞬九重の目元がきつくなったがすぐ顔を綻ばせ、
「あい」
返事に満足した成宮は、振り返ることなく部屋へと戻っていった。

姿が完全に見えなくなった頃、薫は楼主の部屋に通され、九重と与市郎に頭を下げられていた。

「こうするより他になかったとはいえ、遊女同様に扱ってしまいんしたことお許しくんなまし」
あの成宮という男はとある大物政治家の息子で、九重の上客であると同時に玉屋の得意客なのだ。
「いえ、却って助かりました。九重さんがいなかったらご迷惑をおかけするところでしたし」
子供のような言い合いになっていたことを思い出して今更ながらに羞恥が襲ってきた。
そんな薫にほっとしたような表情を見せた九重だったが、すぐ瞳が翳る。
伏せられた睫がこれまた色っぽい。
支度途中だったのか略装のままで化粧も施していないが、白粉が不要ではないかと思われるほど肌は白かった。
「でありんすが・・・こなたのような場所にお嬢さんもご一緒させてしまうことになろうとは」



それを言われると薫も困った。
結局成宮は薫を九重の妹分だと思い込んでしまった。



今夜の宴で薫が姿を見せなければまた機嫌を損ねるだろう。
そうなった場合、最悪九重も玉屋も上得意を失い痛手を被る。
しかも今回の件に関しては薫にも責任がある。

「ただ座っているだけで結構ですので。あとは九重におまかせいただければ、悪いようにはいたしません」
与市郎の言葉を受けて九重がにっこりと微笑んだ。

まるで大輪の花が咲いたような微笑に思わず頷いてしまったのが運の尽き。
あれよあれよという間に俄か花魁に仕立て上げられてしまったのである。










そして夜見世が始まる午後六時過ぎ。
弥彦が迎えに来てくれることを願ったが、日が落ちてもそんな報せは来なかった。










重い頭と打掛を引き摺りながら表座敷へ入ると、成宮が九重の後についてきた薫の姿に目を留めた。
無言で薫に見入っているようで、九重が声をかけなければ気付くことはなかっただろう。
「これが・・・さっきの娘か?」
窓際に座った薫をじっくり観察して目を瞬いた。
「主さん、見惚れていんすかぇ?」
軽く腿をつねられた成宮が大げさに痛がって見せた。
「なに、化けたと思ってな。さすがは九重の妹分だけある。ええと・・・」
呼びかけようにも名前を知らないため、言葉が途切れた。
薫としてもどう答えていいのか分からず黙っていると、



「みき葉といいんす」



九重の言葉に場が妙な空気に支配された。
「?」
意味が分からず周りを見渡すと、芸者や新造はお互い怯えたような視線を交わし、禿もびくりと肩を揺らした。
成宮もまた、表情が凍ったがすぐ口角を上げて、
「みき葉ね。九重、平気なふりしてお前も相当・・・」
くつくつと含み笑いながら、意味ありげな視線を投げてよこした。
(誰のこと?)
疑問に感じたがそれを口に出せるわけがなく、そのまま場は酒宴となった。

美しく盛り付けられた料理が次々と運ばれてくるが、食べるのは成宮だけだ。
何かにつけて薫に声をかけたが、与市郎が言ったとおりその都度九重がさりげなく助けてくれた。

が、じっとしているのもしんどい。
頭が重くて姿勢を保っているので精一杯だ。
「みき葉はおとなしいな。先程俺と口論したのと同じ女だとは思えん」
「主さんは先程からみき葉のことばかり・・・エエ憎い人」
そうして顔を寄せ合う九重と成宮の瞳が熱っぽく絡む。
艶を感じさせる二人の様子に見ていた薫はどきりとして視線を外した。



そのとき、見覚えのある緋色が目に入った。
板前姿で皿を運んでいるのは     剣心だ。



「え?」
一瞬剣心と視線が合ったような気がする。
(剣心・・・やっぱりここにいた)
だがすぐに剣心の視線が外され、吉原の喧騒の中へと消えていった。
薫は自分が今どんな格好をしているか思い出し、諦めたようにため息をついた。
(私だって自分じゃないみたいに感じたんだもの。剣心が気付くわけないわね)
三味線の音色が流れ、芸者が踊る。
賑やかな宴とは裏腹に、薫の心は冷えていった。















あちこちの妓楼で、通りに面した座敷の格子の内側にずらりと着飾った遊女たちが居並ぶ。
夜の張見世では大行燈に照らされ、白粉を塗った顔が妖艶に浮かび上がり、一服した煙草を格子越しに男に手渡す遊女もいた。
「あ、緋村さん!」
呼びかける声は喜の字屋の古株女中、お新だった。
妓楼の張見世に群がる男たちの背後を通ってお新のもとにたどり着く。
「旦那からの伝言よ。注文が入ったからすぐ戻れってさ」
はきはきとしゃべりながら脂肪をたっぷり蓄えた体で巨大な台の物を頭の上に載せ、片手には大皿料理を持っている。
見るからに重そうなので手伝おうとしたが、
「こっちはいいから早く戻ってやんな!旦那がアワアワしてみっともないったら」



それなら、と辺りを見回すとちょうど角の妓楼から出てきた若者を見つけ、声を張り上げた。
剣心やお新と同じように、店の名前が染め抜かれた前掛けをしている。
空の皿を数枚手にした若者     喜の字屋で共に働く康夫だ     に、



「それは拙者が一緒に持っていく。お主はお新殿を助けてやってくれんか」
今までも何度も料理を運んで額に玉のような汗が浮かんでいるが、本人は至って平気なようである。
剣心の頼みを快諾した後、康夫は悪戯っぽく笑った。

「ま、緋村さんじゃこの人の手助けは無理だろうね。なんせ、お新さんはあんたの倍はあるしな」
「減らず口叩いてないでさっさとしなッ」

乱暴に料理の皿を手渡すと「なんだよ、本当のことだろ」とぼやきながらも二人揃って歩いていった。
笑いを噛み殺しながら、剣心も増えた皿を軽々運んだ。



喜の字屋は主に妓楼へ料理を供しているが、運んだついでに空の皿を回収していくこともある。
そのとき妓楼の中に入るので、さりげなく怪しい人間がいないかどうかを見てまわったが、同じ妓楼で何度も見かけるということはなかった。



しかし妓楼に詰めるより喜の字屋で動き回っていたほうが吉原の外も中もよく分かる。
そのおかげか、犯人と思われる人物の目星はついた。
(あとはどうやって尻尾を捕まえるか)

与市郎が剣心の存在を広めたせいで、逆に動きづらくなった。
犯人も同じように感じているのだろう。

おそらく剣心が吉原から去るまで何も起きない。
そして犯人が捕まらない限り、与市郎は理由をつけて剣心を留まらせる。
     今更ながら嫌な人間に見込まれたものだ。
長引けば長引くほど薫のもとに戻るのが遅くなる。
嘆息し、闇夜を仰いだ。
昼間のように煌々と輝く吉原の灯に阻まれ、どれほど目をこらしても月と星の姿は見えなかった。






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