きっかけは何だったのだろう。



そんなことまで考える余裕はなかった。
あるのは目の前にいる夫への怒りだけである。

























実家に帰らせていただきます!   【前編】










「か、薫殿、落ち着くでござるよ〜ッ」



本気で怒っている薫に剣心はただ焦るばかり。
肩を怒らせ、柳眉を吊り上げている幼妻をなんとか宥めようとするが、今の薫には何を言っても無駄だろう。
焦っているのは剣心だけではない。
普段であれば賑やかな赤べこ店内が繁盛時の昼時にもかかわらず、水を打ったような静けさに包まれている。
騒ぎを聞きつけた妙や弥彦も薫の怒気に圧され、困惑顔でただ見守ることしか出来ずにいた。

「落ち着けですって?一体誰のせいでこうなったと思ってんのよーーーー!!!」
「ぐげぇッ」

ひねりを利かせた拳が剣心の下顎を直撃し、そのまま錐もみ状態で宙を舞う!
店内にいた客は箸を持ったままぽかんとしていたが、赤毛の男が己の場所に落下することに気付くや否や、手にしたものを放り出して慌ててその場を離れた。
彼らがすぐさま飛びのいたのは英断といえよう。
落下した剣心が頭から牛鍋に突っ込むと、どんがらがっしゃん、とやかましい音が店内に響き渡り、誰もが思わず目を瞑った。



やがて騒音の余韻が消えた頃、一人二人とそろそろと目を開ける者が出てくる。
彼らがまず見たものは目を白黒させて哀れな姿を晒している剣客と、そんな夫に目もくれずに鼻息荒く店を出る妻の後姿であった。




















目を覚ました剣心は心配そうにしながらも目を輝かせて事情を聞こうとする妙を曖昧な笑みでかわし、周囲の好奇と同情に満ちた視線から逃れるようにして赤べこを後にした。
体中がずきずきと痛む。
おそらく青あざでも出来ているのだろう。

家路を急ぎながら、牛鍋が冷めていた幸運に感謝した。
出来立ての鍋であったなら間違いなく火傷も加わっていただろうから。

「相変わらず手加減なしでござるなぁ」
そのときは考えなしでも後で自分のやったことを思い出し、必要以上に落ち込むのは当の本人だ。
ごめんね、ごめんなさい、と泣きそうになる幼妻を被害者である自分が宥めるのは意外と骨が折れる。










・・・・・まあ今回はこちらに非があるから致し方ない、か。










昨夜、乾いた洗濯物を畳んでくれたのは薫だった。
このところ出稽古が続き、剣心としては家にいるときくらい寛いでもらいたかったのだが、
「いつも家のことは剣心に任せきりじゃない。このくらいさせてもらわないと妻としての立場がなくなっちゃう」
疲れのせいで舟をこぎそうになりながらも、頭を振って洗濯物を畳む姿がいじらしい。
目をこすりながら全部畳み終えた薫に「お疲れ様。薫殿のおかげで拙者も楽をさせてもらった」と労(ねぎら)いの言葉をかけてやれば充足した笑顔を向けてくれる。



ここまではよかったのだが。



今朝剣心が畳まれた自分の洗濯物を見ると、薫の腰巻が混ざっていた。
やはり洗濯物を畳んでいるときには半分眠っていたのかもしれない。
そのまま手渡せば薫も気まずかろうと、彼女に気付かれぬようこっそり返そうとした。
だが部屋に向かう途中で運悪く薫と鉢合わせてしまい、咄嗟に腰巻を懐に入れた。
得意の笑顔を張り付かせて彼女に気付かれることはなくその場をやり過ごそうとしたら、今度は道に迷った子供が迷い込んできた。
泣きじゃくる子供を宥めすかし、ようやく家を教えてもらい送り届けた頃には昼ドンが鳴り響いていた。

「折角だから食べて行きましょうか」

赤べこで昼餉を済ませようとする彼女の提案に同意し、妙に案内されるまま席について、
「思ったより時間がかかってしまったでござるな」
額に浮かんだ汗を拭くために懐に手を入れ・・・・・・出てきたのは薫の腰巻であったと。
はっと気付いてすぐ懐にしまったが、薫はこれ以上ないくらいに目を丸くして固まっている。



店内は客で賑わっていたが、誰も彼も目の前にある牛鍋を食すのに夢中で二人のことを気にかけるものなどいない。
しかしそんなことに薫が気付くわけもなく、また気付いたとしても平然としていることは出来なかったのだろう。



冷や汗を流す剣心が謝罪の言葉を発する前に薫の肩がわなわなと震え始め、それと感じ取れるほどに怒気が高まっていった。
怒りが爆発することを察知し、何とかおさめようとしたのだが・・・・・・その結果が今のざまだ。















家に着き、玄関から声をかけても何の反応もない。
薫の草履がない所を見るとまだ彼女は帰っていないようだ。
かなり癇癪(かんしゃく)を起こしていたからすぐには戻らず、感情のまま歩き回っているのかもしれない。

ならば下手に探しに出るよりも家にいたほうがいい。

薫は確かに短気ですぐ怒り出すが、自分の気が済めば鎮火するのも早い。
感情が荒ぶっている今の薫を見つけたとしても、また爆発するのが関の山だ。
気が済むまで怒れば空腹も手伝って自分から戻ってくるはずだ。










薫の性格はよく分かっている。

だがそれは間違いであったことに気付いたのは、全身に染み付いた牛鍋の汁を洗い流して着替えを終えた後だった。










機嫌直しの意味も含めて、薫の好物でも作ろうかと厨(くりや)に向かう途中、居間の障子が僅かに開いているのが目に入った。
何気なく障子を開けると卓の上に一枚の紙がある。
紙を押さえている鈍い色合いの一輪挿しは、京都の比古を訪ねたときに手渡されたものだった。



そこには、
『実家に帰らせていただきます      薫』
と憤(いきどお)った感情のまま殴り書きされた彼女からの置手紙。



「実家に帰るって・・・ここ以外にどこに帰ると?」
目をぱちくりさせながら考えたが、薫の実家といえばこの家しかない。
他に何か書いてやしないかと思い、読み直してもやはり同じことしか書かれていない。

そしてこの一輪挿し。

「何だか使うのが勿体ないわ」と薫が棚に飾ったままだったのに何でわざわざこれを紙押さえに使ったのか・・・



「まさか」



恐ろしい考えが頭をよぎった。
急ぎ逆刃刀を携え、剣心が向かうは東海道     京都へと続く街道だった。




















薫がどんなに健脚でも赤べこから戻り、旅支度を整える時間などを入れればそれほど遠くまでは歩けまい。
半刻ほど走ると見慣れたりぼんが風に揺れていた。



「薫殿!」
呼びかけると薫の足が止まった。
が、振り向かずにそのまま歩き続ける。
半ば予測していたとはいえ、こうもあからさまに邪険にされるのはあまりいい気持ちはしない。



嘆息しつつ、剣心は言葉を紡いだ。
「・・・こちらを向いてくれぬか?」
何も答えずに歩き続けている薫と並んで彼女の表情を盗み見ると、険しい顔で前方を見据えている。

肩には振分荷物をかけ、手甲をした手には笠と杖が握られていた。
歩きやすいように裾短かにした着物からは脚絆を履いた足が覗いており、どこからどう見ても完璧な旅装束である。
京都に行くときは船を利用するためもう少し軽装になるのだが、ここまでしっかりと旅支度を整えているということは、東海道を歩き続けるつもりだろうか。

何とまあ無鉄砲なことを、と再度ため息をつきたくなったがそれは飲み込み、一呼吸置いて剣心は口を開く。
「赤べこでの件でござるが」
切り出された話題にぴくりと薫が反応した。
「確かにあれは拙者の不注意であった。しかし、だからといって師匠のもとに行くなどちと大袈裟ではござらんか?」










書置きにあった『実家』とはおそらく京都にある比古の家のことだと思って間違いないだろう。
普段使わぬ一輪挿しを紙押さえに使っているのが何よりの証拠だ。










「だから・・・」
更に言い募ろうとしたとき、いきなり薫がこちらに向き直り、
「だから何!?何事もなかったかのように帰ればいいってこと?」
話の途中で噛みつかれ、剣心が一歩後ずさる。

「別にそうは言っておらぬよ。拙者はただ、」
「もういい!何も聞きたくないッ」
「薫殿!!」

言葉通り話を聞かぬ姿勢を見せた薫を諫(いさ)めるために伸ばされた手は、次に発せられた言葉で動きが止まった。










      剣心の顔なんて見たくない!!」
「!」










剣心の瞳が見開かれ、動きが止まる。
刹那だが彼の瞳から一切の感情が消えうせたことを認め、薫はたじろいた。
何か言おうと口を開くが、言葉は出てこない。
剣心は無言で薫を見つめていたが、やがて紫苑が伏せられた。



「左様か」



唇が短い単語を形作るが、彼の表情は赤い髪に隠されて読み取れない。
恐ろしいほど静かになってしまった剣心に、ちくりとした痛みが胸を刺す。
しかし、意固地になった薫は声をかけることも出来ずにいた

言葉を発する代わりに足が勝手に後ずさる。
気付いたら大地を蹴ってその場から逃げ出していた。




















後ろを振り向かずに走り続け、宿場町に入ったところでやっと足を止めた。
背中に剣心の視線を痛いほどに感じていたが、それもしばらくするとなくなった。
肩で呼吸を繰り返しながら首だけ動かしてみたが、赤髪の剣客の姿はない。

      言い過ぎちゃったかな。

言葉を投げつけたときの剣心の瞳を思い出すと、後悔の念が頭をもたげる。
赤べこでの一件で薫の感情が爆発したのは、怒りというより恥ずかしさのためと言ったほうが正しい。
公衆の面前で自分の下着を取り出され、その正体を悟った瞬間、頭が真っ白になった。
赤べこを飛び出して歩き回ったとしても、家に帰って再び剣心と顔を合わせることは耐えがたかった。










頭に血が上った状態で薫が思い浮かべたのは京都で一輪挿しを贈ってくれた比古のこと。

今になって思い出すと、なぜ比古のもとに行こうとしたのか自分でも理解できない。
しかし、あの時は比古しか頼れる者が浮かばなかったのだ。










もう一度後ろを見た。
そこには誰もいない。

もし剣心が追いかけてきたのなら姿が見えてもいい頃だ。
それがないということは、薫の強情さに呆れて帰ってしまったのだろうか。
「やっぱり剣心に謝らなくっちゃ」
ひたすら歩き続けてきたせいか、薫もやっと冷静に物事を考えられるようになっていた。



今夜はここに泊まって、明日の朝一番に帰ろう。



そう考えて宿を探し始めたが、どこの旅籠(はたご)も既に一杯であった。
「困ったわね、今から引き返してももう日が落ちちゃうし・・・」
西の空が赤く染まっているのを眺めつつしばし思案していたが、やがて薫の足はもと来た道を引き返し始めた。



その後姿を見つめる邪(よこしま)な視線に気付かずに。




















すっかり日が落ちる前に薫は街道を外れた森の中に入り込み、枯れ枝を拾いながら奥へと進んだ。
「このくらい集めれば今夜一晩くらい大丈夫よね」
枯れ枝で小山を作り、その中に丸めた紙をねじ込む。
火が点いたマッチを投じれば紙に引火し、それが種火となって枝が燃えていく。
細い枝から段々と太い枝を積み重ねれば炎の勢いが増していった。



火の点け方は剣心に教わった。



二人が出会って間もない頃、器用に竈(かまど)の火を点ける剣心に感心していたら、
「これもちょっとしたコツがあるのでござるよ」
と実演してくれたのだ。










剣心から教えてもらったことは他にもある。

野菜の皮のむき方、素材や料理によって作り方が違うこと。
米のとぎ汁は庭木に撒くことも出来ることや、薬草と毒草の違い。
家の中の掃除は上から行うこと。



そして、彼と出会わなければ感じることのない痛みや哀しみもある。
でも人を想うことの強さや、愛し愛されて心を満たされる幸せは剣心でなければ知ることもなかった。










木の根元に腰を下ろし、赤々と燃える炎をただ見つめていた。
ここまで森の中に入れば人の気配など皆無だ。
代わりに聞こえるのはぱちぱちと焚き火がはぜる音。
時折風が木々を揺らし、その都度肩を震わせて辺りを見渡した。
たった一人で・・・しかも野宿するというのは何と心細いことか。



      剣心も流浪中はこうして夜を過ごしていたのね。



薫は膝に顔を埋めると、固く目を瞑った。
こんな夜は早く眠ってしまうに限る。
瞼の裏に剣心の笑顔を浮かべながら眠りにつこうとしたが、風の音や時折鳴く梟(ふくろう)の声が気になって眠れない。

と。










がささっ!










一際大きな音がして弾かれるように顔を上げた。
耳を澄ますと、風で木々が揺れる音に混じってがさがさと無理矢理藪を分け入るような音がする。
「かかかかか風!風のせいよね、うん、きっとそうよ!」
努めて楽観的に考えてみるが、その音は段々とこちらに近付いてくるようだ。
そして音を立てる回数も増えた・・・・・・まるで何かが群れを作って薫に迫り来るよう。



野犬か、物盗りの類か      



痛いほど木に背中を押し付けていたが、やがてきゅっと唇を引き結ぶと、薫は傍らにある杖を手にしてその場から離れた。
火の近くにいては格好の標的になってしまう。
適当な場所に身を隠し、息を潜めていると薫の耳に数人の男の声が届いた。











後編    小説置場



こちら、数年前に某御方のオフ本にゲストとして書かせていただいた打つでございます。
「ラブラブ度高めで」というご要望があり、