カルマの坂  <2>



男が部屋から出て行き彼女一人になると、死に損ねたことが何だか無性に情けなくなり、泣きたくなった。
痛みで身動きできないのなら、いっそ舌を噛み切って・・・・と思い、歯で舌を噛み切ろうとしたが、それは失敗に終わった。



何かの薬が効いているのだろうか。
体に力が入らない。



まだぼんやりとする頭で彼女は死に損ねた日のことを思い返していた。




















Y国のスパイである彼女の今回の任務は、共和国家S国のある要人の暗殺。



暗殺の指令が下されるのはよくあることだ。

彼女は任務を遂行すべく、標的がよく利用するという高級レストランに潜入した。
その場所に釣り合うように自身を着飾り、何気なく標的に近づきバッグから拳銃を抜いた。










だが、標的を護衛している人間      今病室を出て行ったばかりのあの男だ      がそれに気付いた。










彼と応戦している間に、騒ぎを聞きつけた数人の人間に囲まれた。
この人数を前に、任務を遂行することは不可能だ。
しかし、彼女は捕まるわけにはいかない。










自分がY国の人間だと彼らに知られたら、母国がどうなるか         










すでに出入り口は固められ、その場から脱出することも叶わない。
窓ガラスの向こうは、母国では見たこともない美しい夜景が広がっている。
きらきらと輝く地上の星に、彼女は目を奪われた。



だがそれは一瞬のことで、彼女はすぐさま行動に出る。



相手の男達に拳銃を向け威嚇すると、彼らは素早く物陰に隠れた。
しかし彼女は発砲せず、男達に向けていた銃口を己の左胸に押し当てた。
そのまま引き金を引くと同時に、耳を劈(つんざ)くような銃声が聞こえ、体中に衝撃が走る。
彼女が覚えているのはそこまでだった。




















あの時、確かに心臓を撃ち抜いたはず。

任務を完遂できなかったことで、無意識のうちに動揺していたのだろうか。
そのせいで僅かに照準がはずれたとしたら・・・?

あまり認めたくないが、つまりそういうことなのだろう。










何てことだろう。
今まで一度も失敗したことのない私が、最後の最後にしくじるなんて。

訓練所の教官が見たら何と言うか。










幼い頃から運動神経に秀(ひい)でていた彼女は国家からその才能を認められ、10歳になった時に軍の訓練施設に入り、様々な訓練を受けた。
中には大の男でも音(ね)をあげるほど厳しい訓練種目もあったが、彼女は歯を食いしばって全ての訓練をこなした。



彼女の両親は、一人娘が訓練施設に入るのを嫌がった。
訓練施設に入れば血の繋がった家族とも自由に会うことも出来ないからだ。
しかし、国家の意向は絶対である。
拒めるはずがない。
彼女が訓練施設に行く日、あまりにも嘆き悲しむ両親を見かねてこう言った。



「心配しないで。私、どんな厳しい訓練でも頑張るわ。施設では頑張った人から優先的に帰省許可が下りるって言うし」



その言葉通り、彼女は幼いながらも泣き言一つ言わずに厳しい訓練に耐えた。
その甲斐あってか、通常であれば一年に一度しか帰省できないところ、数回帰省して両親を喜ばせることが出来たのだ。
それと同時に、どんな困難な種目であろうといつも優秀な成績を修める彼女は軍でも一目置かれる存在となっていた。










やがて、訓練施設を出た彼女は17歳という異例の若さで国家直属のスパイとなった。
最初は近隣国の情勢を探るために、その国の人間に成りすまし情報を得るという、割に簡単な任務だった。



そのうち、暗殺という闇の仕事を請け負うようになった。
彼女の国では、暗殺任務は賞賛に値するものだった。



他国の要人を暗殺するような重大な任務に就く、ということはそれだけ彼女の力量を母国が評価しているからだ。
そういった理由が分かっているから、暗殺を請け負うことに躊躇うことはなかった。
しかし、初めて人を殺した時はさすがに狼狽(ろうばい)した。










彼らは我が国を壊滅させようとする悪魔なのよ!
私には国を、家族を守る義務があるの!










そう自分を叱咤し、暗殺し損ねたことで国が荒(すさ)び、両親が苦しみもがいている姿を思い浮かべた。










そうよ、私がやらなかったらみんな不幸になるんだから。










以来、暗殺が失敗した後のことを思い浮かべることで任務を遂行することが出来た。
さすがにスパイという立場から彼女の存在は公にはできないが、それでも国の功労者として彼女にもそれ相応の報酬が支払われた。
そして、その報酬は彼女から両親に手渡された。



彼女にとってそれは最高の親孝行となった。
彼女の家族が住むのは裕福な者達が住まう首都ではなく、首都から随分離れた山村地帯だ。
この地に住む者の大半は農業を営んでいる。
しかし、痩せ細った大地に農作物が豊富に実るはずもなく、何とか食べていける程度の量しか収穫できない。

だから、任務成功の暁に手渡される高額の報酬は両親にとってかなり助かっているはずだ。

彼女の両親は、自分たちの娘がスパイとして働いていることは知らない。
彼女の存在はいまや国家の最大機密となっている。
たとえ肉親であろうと、その秘密を外部に漏らすことは出来なかったのだ。
だが、彼女にとってそれは都合が良かった。
彼女が訓練施設に迎えられることになったとき、涙を流して見送った両親だ。



愛娘が国家直属のスパイで、危険な任務についていると知ったら       



国から忠告されるまでもなく、自分の置かれている立場を両親に話して余計な心配をかける気などなかった。
しかし最近、娘から手渡される報酬の額が多いことに疑問を持った両親が、
「本当は危ない仕事をしているんじゃないだろうね」
としばしば聞いてくるようになったのだ。
その度に彼女も適当に誤魔化していたが、その態度が余計に両親に不信感を抱かせたらしい。










これ以上隠し通すことは出来ない。










彼女はスパイより安全な仕事に就くことを決意した。
報酬額は今よりかなり少なくなるが、贅沢をしなければ家族三人生きていける。



上司にそのことを申し出る時、
「お前はこの国を守る気がないのか」
とか、
「あれだけ良くしていただいた君主様を裏切るのか」
と怒鳴られることを覚悟していたのだが、彼女の予想に反して意外にもあっさりと承諾された。










ただ、最後に一つだけ任務を引き受けて欲しい      
それさえ終えれば彼女の希望通り、危険な任務は一切無い部署に配属させる、と約束してくれた。










なのに、任務は失敗。
そして彼女は死ぬことも出来ず、惨めな姿をさらしている。










この任務さえ終えれば家族三人、穏やかに暮らせたのに         










彼女は故郷にいる両親を想った。
物静かでやさしい母親と、厳格だけど家族のことを一番に想ってくれている父親。



最後に会ったのはいつだったろう。










お父さん、お母さんごめんなさい。
あなた方の娘はお国のために使命を果たすことも出来ず、無念にもこの地で人生を終えます       ・・・。




















その夜、彼女は夢を見た。



いつものように任務を終え、帰省許可を得た彼女が自宅に帰ると母親が食事の用意をしている。
食卓に並ぶ料理は、どれも彼女の好物ばかり。
年に数回しか帰省できない娘のために、母親が彼女の好物ばかり揃えてくれたのだ。
首都の人間から見ればかなり貧しい内容なのだが、それでも彼女にとって母親の作る料理は世界で一番美味しい料理だった。



母と娘が他愛の無いおしゃべりをしながら台所に立っていると、父親が帰ってくる。
彼女が帰省すると聞いて、仕事を早く切り上げてきたのだろう。
帰ってきて真っ先に聞くことはいつも同じことだった。



仕事は順調か、その仕事に危険なことはないか。



それに対して、彼女もいつも同じ答えを父親に伝える。



危ないことなんて何もない、上司からもよくしてもらっている、と。



彼女が明るく答えると、父親は安心したように、されど少し複雑な笑顔を見せる。
そうか、と頷きながらも何か言いたげにしている父親に、今は仕事のことは忘れてちょうだい、と母親が食事を勧める。



母親の作った料理を囲み、家族団欒の一時を過ごす        彼女にとって、その時間は何物にも代え難(がた)いものだった。










幸せな夢だった。










そして。















とても哀しい夢だった        










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しまった、「男」登場してない;
次回は登場させますので。

一応、女スパイの境遇、ということを説明させていただきました。
それだけなのに、この長さは一体・・・やはり膨らませすぎたか・・・

尚、物語の内容について深いツッコミはご容赦願います。
突っ込まれると、確実にボロがでますんで←おい