カルマの坂  <3>



眠りが浅かったのだろうか。
遠くから聞こえる物音で目を覚ました。

一夜明けたら全て夢だった       そうだったらいいのに、という彼女の淡い期待は瞬時に消え去った。 









がちゃり、とドアが開く音がしてそちらに目を向けると、看護婦が入ってきた。
やや小太りなその女性の年齢は、彼女の母親と同じくらいだろうか。
彼女が目を覚ましていることに気付くと、看護婦はにっこり笑って近づいてきた。










人の良さそうな顔をして、私を油断させようたってそうはいかないんだから。










「おはようございます。どこか痛むところはありませんか?」
しかし彼女はそれには答えず、敵意を剥き出しにしている。
それを見ても看護婦は臆することなく、
「あらら、ご機嫌斜めね」
などと軽口を叩く。



昨日の男同様、彼女のような人間の扱い方は心得ているようだった。



「ちょっと体温計らせてくださいね」
そう言って、看護婦は彼女の体温や血圧を測り、その結果を書類に書き込んでいく。
体を動かすことが出来ない彼女は、看護婦の一連の動きをただ見ていることしか出来なかった。
しかし、看護婦が彼女の体と繋がっている点滴に他の薬剤を加えた時はさすがに表情を強張らせた。



「これはただの栄養剤ですよ。あなたはまだ食事を取ることが出来ませんから」



彼女の様子を察して、安心させるように看護婦は言ったが、信じることは出来ない。
もしかしたら、自白剤を混ぜているのではなかろうか。
動けない彼女に対して、今のうちから自白剤を投与して尋問しやすいようにしているのかもしれない。










何て卑怯な。



任務を失敗し、死ぬことすら叶わず、からっぽになった彼女の中にS国に対する怒りが芽生えた。










まだ終わりじゃない。
「Y国のスパイの最後は、笑ってしまうくらい情けないものだった」と言われないようにしなくては。



それが、私に課せられた最後の使命。



生き地獄のような拷問にも耐え、絶対に屈しない。
どうせ最後は死ぬんだ、それなら精一杯抵抗してやろう。










人間、目標が出来ると生きる気力が湧いてくるらしい。



武器も無く、味方もいない今、頼れるものは自分だけ。
まずは体力を回復させることが最優先だ。
これから先、厳しい尋問に耐えうるだけの力を得なければならない。



愚かなS国の人間は、彼女を死なせないために治療を施(ほどこ)した。
彼女が完全に回復するまで治療は続けられるだろう。










ならば最大限に利用させてもらおう。



そして後悔するがいい。
私に抗(あらが)う力を与えたことを。










傷ついた体を癒すには十分な休息が必要だ。
眠りにつかずとも、目を閉じているだけでその効果は体に反映する。










「そうそう、何か欲しいものがあれば・・・・・あら?」



一通りの仕事を終え、看護婦が視線を向けた先にあるのは眠りに落ちたかのように目を瞑った女スパイの姿だった。




















「おい、そこの赤毛のチビ」
どっしりとしたテーブルに長い足を乗せた男が声を飛ばす。

ここはS国大統領専用の執務室。

今、めんどくさそうに口を開いたのは頭の固い人間が見たら顔をしかめるような行儀の悪さを披露している男。
そして彼の視線の先にいるのは      



「聞こえてんなら返事くらいしろ。それとも、返事の仕方を忘れたのか」
「・・・俺は『赤毛のチビ』なんて名前じゃありませんから」
「不満なら呼び方を変えてやろうか?」
「謹んで遠慮させていただきますよ。で、何ですか大統領」



半ば投げやりな口調で赤毛の男は大統領と向き合った。










これが本当に一国の代表の姿か。
いや、どちらかというと悪徳金融の社長だよな。










偉そうにふんぞり返っている大統領の姿にため息をつきたくなるのをぐっと堪え、己の主である人物の言葉を待った。



「のどが渇いた。酒持って来い」
「・・・職務中です。コーヒーで我慢してください」



そう言って彼の返事を待たず、カップにコーヒーを注いで大統領の前に置いた。
「気の利かねえ部下だな、オイ」
不機嫌さを露にした大統領に、これまたむっつりとした表情を崩さない男が素っ気無く返す。
「財政省から依頼された書類の作成がまだでしょう。期限が迫っているんだからさっさと取り掛かってください」



ちらりと視線を走らせた先には手をつけた形跡の無い書類の束が積まれている。



「めんどくせえな。おい、俺の代わりに書いて財政省に回しといてくれ」
「出来るわけ無いでしょう、そんなこと」
主人のわがままにほとほと呆れ果て、いちいち返事をするのも億劫になってきた。
「形式通りの言葉を並び立てるだ。あとは印を押すだけなんだから楽な仕事だろ?」
「楽な仕事ならあなたがやってください。俺は忙しいんです」

もう付き合ってられない、とばかりに背を向け、そのまま歩き出した。

そんな彼の背中に向けて、大統領は大げさにため息をつく。
「ガキの頃から面倒みてやったのにこれだ・・・やれやれ、使えねぇ部下を持つと苦労するぜ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「・・・言うじゃねえか」










人一倍性格が悪く、面倒なことはすぐ人に押し付けて、そのくせ人のやることに難癖つけていつまでもねちねちと責め続ける。
これが世界から「奇跡の男」と賞賛されるS国大統領の本当の姿だ。



それでも外面(そとづら)はいいため、国民からの支持率は高い。
S国の子供達は、将来はスポーツ選手ではなく、大統領になるのが夢だとか。

この現実を見せて、幻想は捨てたほうがいいと諭(さと)してやりたい。










男と大統領との付き合いはかれこれ十数年になるが、その間どれだけ心労を重ねたことか。
今回のように書類作成の代行を押し付けられたり、大事な会議があるときに限って「息抜きに出かける」と姿を消すことなど日常茶飯事だ。
しかも、大統領は男の少年時代を知っているだけあって更にタチが悪い。
「辞めさせていただきます」と言ったところで、散々嫌味を言われた挙句、本人ですら思い出したくない恥ずかしい過去を並びたてられるのがオチだ。

状況によっては大統領の護衛になる男は、いつも拳銃を携帯している。
同時に、胃薬も常備していることは本人以外誰も知らない。










いつか過労死するかもしれない・・・










まだ28だというのに疲れ果てたようにがっくりと肩を落とすその姿は、何とも物悲しい雰囲気を漂わせていた。



失礼します、と挨拶するのも忘れ、男が部屋を出ようとドアノブに手をかけた時。










「例の女はどんな様子だ」










大統領の声に男の動きが止まった。










再び振り向くと、そこには先ほどとは打って変わって真剣な表情で男と向き合う大統領がいた。
「目を覚ましてからもうどのくらいだ?かなり回復している頃だろう」
例の女、とはいうまでもなくY国の女スパイのことだ。



逃れられぬと分かると何の躊躇いもなく己の胸を撃ち抜き、奇跡的に生還を果たしたあの日から既に一ヶ月が経とうとしていた。



いまや彼女の傷は完全に塞がり、その後も感染症を引き起こすことなく順調に回復していった。
やはりスパイとして基礎体力は並の人間よりあるのだろう。
体力が戻ったらまた自殺を図るのではないかとの声に、看護婦による巡視頻度を増やした。
これなら彼女に妙な動きがあっても迅速に対応できる。

男も何度か彼女の様子を見に行った。
しかし、いつ行っても彼女の瞳は閉ざされたままだった。



眠っているのか、と思ったが観察してみるとどうも違う。



意識はしっかりしているようだが、意図的に目を瞑っているらしかった。










体力を温存しているのか。
それとも、他人と話すことを拒否しているのか。










たぶん両方だろう。
男が彼女の立場でも同じことをした。

スパイとしては的確な判断だ、と敵ながら感心してしまう。










「聞くところによると、まだハタチにも満たない子供じゃねえか。使えるものなら女だろうが子供だろうが関係ないってことか、Y国は」
顔をしかめたのは苦いコーヒーのせいだけではないだろう。










彼女くらいの年齢なら、娘らしい楽しみがたくさんあるはずなのに。
あんな人形のような表情ではなく、不安などないかのように心から笑えるはずなのに。
その才能はスパイのような日陰の仕事のためではなく、もっと有意義なことに使えるのに。










そう思うと無性に腹立たしくなってきた。



華やかに過ごせるはずの現在、そしてあるべきはずの輝く未来も理不尽な理由で奪われている。
母国に絶対的な思想を植えつけられている本人にその自覚はないだろう。



彼女を縛り付けるものを全て断ち切り、彼女を解放してやりたいと思った。










そして        彼女の本当の笑顔が見たい、と心から思った。










「確かにY国の情報は欲しい。だが、最優先事項は      
「『Y国に植えつけられた狂った思想を正すこと』」



男が後を引き継ぐと、大統領は大きく頷いた。

「俺は神じゃないから、他人の考え方をとやかく言うつもりはない。だが、Y国のやり方は人として許されるもんじゃない」



椅子から立ち上がると、大統領の体格が男より一回りほど逞しいことが証明される。



「人間が人間らしく生きる      人として最低限の、そして当然の権利だ。それすら奪われてしまったらこの世に生まれてきた意義がなくなってしまう」



Y国は、昔のS国と似ている。
だからこそ、何とかしたい。

他国に流れた武器のことがなくとも、大統領はY国を放っておくことができなかったのだ。



「あの女スパイをお前に任せたのは、お前が一番適任だと判断したからだ。良くも悪くも、お前はあの時代を生き抜いた      俺の言っている意味が分かるな?」



主の言葉に男は、はい、と短く答えた。










他の人間ではだめなのだ。
彼女を救うのは自分の役目。











男は姿勢を正し、大統領に向かって敬礼した。



「任務、了解しました」






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大統領登場。
<1>を読んでイメージ的に大統領は●久保さんとか山●さんあたりと踏んだ方、結構いらっしゃるのでは?

正解はこの人でした♪←クイズじゃないんだから;

しかし、この人を大統領にして男と一緒に出させると何かコントみたいになったような気が・・・
まあ、お話自体暗いですからね。
この二人でちょっと和んでいただきましょうか(^^)