カルマの坂   <4>



任務、了解しました        



迷いのない男の返答を受けて、大統領は満足げに口角を上げた。
しかしすぐに難しい表情になり、こう告げた。

「難しいとは思うが、なるべく急いでくれ。議会の連中は俺が抑えるがいつまでもつか分からん」

Y国の女スパイを直ちに処罰すべし、と国の最高議会から要請が来ている。



S国の要人の命を狙った危険人物だ。
彼女が死刑を言い渡されるのは間違いなかった。










「はい」

男は再度背中を向ける。










「あ、大統領」
ふと、男が主を呼ぶ。
「何だ」



男は背中を向けたままこう言った。










「先ほどは『大統領』らしかったですよ。いつもこうなら俺も苦労しないんですがね」
「てめえは・・・くだらねえこと言ってないで、さっさと行きやがれッ!」



背後に殺気を感じ男が素早く部屋から出ると、ドアの内側からガチャン、と陶器が割れる音がした。




















朝7時に起床。
看護婦が来て検温・血圧を測り、その後朝食。
12時・昼食。
14時・医師による診察。
18時・夕食。
22時・就寝。



彼女の一日のスケジュールは大体こんな感じだった。
後の時間はひたすら体力温存に充(あ)てた        つまり、目を閉じて横になっているだけ。
だが、さすがにずっと横になっていては体がなまってしまう。



そろそろ体を動かさなくては、と思っていたところ、医師から少しくらいなら起き上がっても良いと許可が下りたため、彼女はゆっくりと上体を起こしてみた。

診察時間中に医師に言われて体を起こしてみたところ、あと半分、というところで強烈な眩暈(めまい)に襲われ、看護婦の支えがなければ一人で起き上がることも出来なかった。
一月以上寝たきりの生活を続けていたから、彼女が思った以上に体がなまってしまっている。

半分くらい身を起こしたところで、先ほどと同じように頭がくらくらしてきた。
両腕で上体を支えるが、うまく力が入らない。



「・・・だめだわ・・・」



耐え切れず両腕の力を抜いた途端、彼女の体がベッドに沈む。
その時の衝撃で塞がったばかりの傷が悲鳴をあげ、苦痛に顔をしかめた。



なまっているなんてもんじゃない、筋肉が衰えている。



唇を噛み締め、筋力も回復させなくては、と考えた。
訓練施設で培(つちか)った彼女の身体能力は、一発の銃弾によって呆気なく奪われた。










やっぱりあの時死んでいればよかったのよ。










彼女の口元が自嘲気味に歪む。
ぐるりと病室を見回しても、彼女が死ぬために必要な道具は全て排除されている。
仮にあったとしても、数分おきに誰かが彼女の様子を見に来る       何かあれば迅速かつ確実な処置を施すことだろう。










自決することは不可能、か。










痛みと眩暈が遠のき、大きく息を吐き出した。
ふと、病室に備え付けられたテレビが彼女の視界に入った。



最初、医療器具とベッドしかなかった殺風景な病室もテレビや雑誌などが置かれ、生活感のある部屋に変わった。
ずっと病室にいる彼女が退屈しないようにと、世話を任された看護婦が運んできたものだ。
だが、それらはまだ使用されたことはない。











S国のものに触れたら、たちまち毒されてしまう         










母国では、他国の文化は百害あって一利なし、と教わった。
目に触れただけで心まで腐ってしまうと言われ続けてきたのだ。
だから彼女は看護婦が持ってきてくれた雑誌にも一切目を通していないし、テレビにも手を触れていない。



でもテレビを用意してくれるなんて・・・
さすが貿易業が盛んなだけあって、こんな高価なものでも普通に買い求めることが出来るのね。



彼女の家にはテレビがない。
Y国は自国で生活に必要となる全てのものを生産している。
しかしテレビは貴重品とされ、自宅にテレビを持っている人間は国内でも一握り       裕福な人間だけだ。
あとは村に一台あればいいほうだとされている。
その村にあるテレビもかなり画像が悪く、時々音声が飛んだり、最悪何も映らなくなったりと、色々と問題のあるテレビだった。



今、サイドテーブルに置かれたテレビのラベルには、機械工学が盛んなK国の名前が記載されている。










そりゃ、K国に比べたら我が国のテレビは品質が悪いかもしれないけど、それでも他国に頼らず、独自に開発しているんだから。











どんなに粗悪な品であっても、自国で開発し生産しているという誇りが彼女にはあった。



ただ。



蛇口からお湯が出る台所はY国にも普及して欲しいと思った。

首都でもそういった台所はない。
水道はあるが、水しか出ないのだ。










蛇口から温かいお湯が出れば、台所仕事は随分楽になるのに。










彼女は、真冬でも冷たい水に触れてあかぎれだらけになっている母親の手を思い出したのだ。



台所だけではない。
例えば看護婦がいつも使っているもので、乾燥までやってくれる全自動洗濯機。
それに、時間になると自動的にスイッチが入り、部屋を暖める暖房器具。

あまりに便利な他国の機器を目の当たりにし、羨(うらや)む気持ちが芽生えるのも無理はない。










この中のどれか一つでも我が家にあったなら、母親はどれだけ助かるだろう。










ぼんやりとそんなことを考えていると、コンコン、とドアがノックされる。
ノック音は聞こえているが、彼女はいつも返事をせず、そのかわり黙って瞳を閉じた。
「失礼」
入ってきたのは、このところ毎日のように姿を現すあの男だった。
応答がないのはもう慣れたらしい。

彼女の目が開く様子はない。
こちらもいつものことだ。



「そろそろ目を開けてくれないか、眠り姫」



眠り姫、という人が誰なのか彼女には理解できなかった。
彼女の国では『眠り姫』という物語自体、知られていないからだ。
だが、男が自分に呼びかけているのは分かった。
その呼びかけに答えず、眠ったふりを続ける。
男はただじっと彼女を見ていた。










どのくらい時間が過ぎたのだろう。

正確には分からないが十分か十五分くらい経過しているのだろうか。










そう判断した時点で彼女はふと疑問を感じた。
いつもなら五分くらいしたら諦めて席を立つのに、今日はやけに粘っている。



私と根比べでもする気かしら?



目を閉じたまま男の動きに注意を払っていると        










カチリ。










小さな音だったが馴染みのあるその音を聞いて、彼女の瞳が反射的に開かれる。



彼女の目の前に銃口が迫っていた。
その銃口を向けているのはもちろん。










「おはよう眠り姫。       いや、もう昼過ぎだからこんにちは、か」










彼女の瞳を覗き込むようにして、男が何事もなかったかのように拳銃を胸元に納めた。

「あれだけの音でも判別できるとは・・・さすがだな」
「・・・S国の人間は人を起こすときに物騒なものを使うのね」



一杯食わされたのが悔しくて、思わず彼女の口から悔し紛れの言葉が出た。
憎まれ口でも、彼女が返事をしてくれたことが男には嬉しかった。



「やっと口をきいてくれた」
嬉しそうに目を細める男に、彼女はふい、と顔を背けた。
「何か用?私に何を聞いても無駄よ。あなた達に話すことなんて何もない」
「何ともないのか」
「え?」

的外れな答えに視線だけ男に向けると、彼の真剣な瞳と出会った。

「具合が悪いんじゃないかと思って。だから少々手荒な起こし方をした。すまない」
「・・・嘘つくんなら、もうちょっとましな嘘をついたら?」
呆れてため息混じりにそう言っても、男は真面目な表情を崩すことなく言葉を次いだ。



「いつもより顔色が悪い。やはりまだ傷が痛むのか」



顔色が悪い、と言われて彼女はその理由に思い当たった。










さっき、起き上がろうとした時だわ。










「どうした」
急に黙り込んだ彼女を気遣うように声をかけると、
「何でもないわ。痛みも大分マシになったし」
ぶっきらぼうにそう言い放ち、彼女は男から視線をそらした。
「本当か?」
「本当よ」



事実、先ほど感じた痛みも眩暈もとうに消えていた。
彼女の言葉に嘘がないと知り、男は安心したように息を吐き出した。



「確かに君にとってここは敵国だが、体の不調があれば遠慮せずに言ってくれていい」
「別にないわ」
素っ気無く返事を返すと、男もそうか、と頷いた。
「あと、欲しいものがあれば可能なものであれば用意する」
「・・・欲しいものはないけど、聞きたいことならあるわ」

そう言って、今度は顔ごと男に向けた。










        私をどうする気?」
「どうする、とは?」










彼女の言葉の意味を量りかね、問い返すと、
「決まっているでしょ、私の処遇よ。命を助けたと思えば尋問すらせず、逆に私を厚遇している        あなた達の目的は何?」
しっかりとした声が返ってきた。
目的は、と問われ、男は少し考え込んだがすぐにこう答えた。










「君を、助けたい」










彼女は男の言葉の意味が飲み込めず、眉をひそめている。
そんな彼女に言い聞かせるようにして、男は同じ言葉を繰り返した。

「君を助けたいんだ。自覚していないかもしれないが、君はY国に踊らされているだけなんだ。だからあんな国は捨て         










男の言葉が途切れた。
彼女が男を睨みつけたからだ。










「私を取り込もうってわけ?これがS国のやり方なのね」
「違う、俺は」
男に言葉を選ぶ暇(いとま)を与えぬかのように遮った。
「何が違うの?取り込んで、最後には殺す?それならY国の情報も得ることが出来るし、私も死ぬ。素晴らしく効率が良くて、酷く残忍なやり方ね」

静かな口調だが、彼女の瞳は怒りのためぎらぎら光っている。
しかし、男も彼女の皮肉ったような物言いにむっとして、思わず声を荒げる。

「残忍なやり方をしているのはそっちだろう!」
「私の国を侮辱しないで!!」



がばり、と彼女が身を起こした。
さすがに完全に身を起こすことは出来ず、四分の一ほど起こした体を両腕で懸命に支えている。
それでも、男に対する怒りが今の彼女を支えていた。










細い腕が震えだしても、それすら気付かないほどに。










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サブタイトル、「ケンカの花道」(笑)
口喧嘩のシーンは結構好きです。
台詞がぽんぽん飛び出すので、キーを叩く手が面白いように動きます←え

男と女スパイ、やっとこさマトモに会話できると思ったらいきなりバトルです(ただし、口のみ)
んで、この口論、まだ続きます。