カルマの坂   <5>



彼女の怒りは純粋に母国を侮辱されて生じたものだ。
その証拠に、凛とした怒りの色が彼女の瞳を彩(いろど)っている。



自分が忠誠を誓う国に踊らされているとか、そう言われて腹の立たない人間はいない。
しかし、彼女が我を忘れるほど激昂しているのは男が漏らした一言。










この男は、私に何と言った?
彼はこう言ったのではないか。










「国を捨てろ」と        










「・・・・・最低ね、あなた」
憎々しげに彼女はつぶやいた。

初めて会った時は己の前に立ちふさがる者として、それを排除すべく銃を向けた。
いわば、義務感から来る行動だった。



でも今は、本気でこの男を殺してやりたいという明確な殺意が彼女の中にあった。



「国を捨てるなんて・・・そんな・・・そんなこと・・・」
彼女の顔が青ざめてきたのは怒りのためだけではない。
唐突に起き上がったせいで、彼女の体内の血液が急激に下降しているのだ。

男もそれに気付き、彼女を落ち着かせるために静かな口調で話しかけた。

「すまない、こちらの失言だ。国を捨てるんじゃなくて、この国に移住して        
「どちらにしても同じことよ!!」
叫ぶように言い放ち、憎悪を込めて男を睨んだ。



それこそ、視線で人間が殺せるのではないかと思わせるほどに。










「あなたは・・・私に家族を捨てろというの?」

ぽつりと零れた彼女の言葉には悲壮感が漂っていた。









国に忠誠を誓い任務に従って功績を挙げた人間は『栄誉』を手にし、それに見合った『未来』を手にすることが出来る。
反面、国に不満を持ち、国の方針に逆らう者には容赦ない。
厳しい制限のある収容所に放り込まれ、過酷な労働を強いられた後、最後には『死』が待っている。



Y国直属のスパイである彼女がS国に移住するとなれば、それは完全な背信行為。
そうなれば残された家族には『反逆罪』のレッテルと、それ相応の報いが待ち構えている。










つまり          『死』。










紙のような白い顔で、ひときわ目立つようになった黒曜の瞳が映し出す感情は『悲しみ』。
男はその悲しみの瞳に釘付けになり、声を発することが出来なかった。



「私に父と母を見殺しにしろと?・・・そんなこと、出来る・・・わ、け・・・」



彼女の気力もそこまでだった。
息が絶え絶えになり、言葉を続けることが出来ない。



「おい        










男の声を合図に、がくん、と彼女の体が崩れる。










「おいッ」



彼女の体の力が抜けるや否や、男が素早く手を差し伸べ、彼女を支える。
片手で彼女を支え、もう片方の手で彼女の頬に触れると酷く冷たい。
まだ体が慣れていないのに突然体を起こし、ずっとそのままの姿勢でいたのだ。
彼女の頬に温もりが戻るまで、少し時間がかかるかもしれない



「無茶をする・・・」
ぼそ、と一人ごちたが、その原因を作ったのは間違いなくこの自分。
自分の失態に心の中で舌打ちし、男は壊れ物でも扱うかのように彼女の体をそっとベッドに横たえた。



ナースコールを押し、
「今、看護婦を呼んだから       
そう言いながら布団を掛けなおす。
それまでずっと閉じられていた彼女の瞳が開き、男を見つめた。
眩暈からくる吐き気の症状も出ているのだろう。
それをこらえるかのように浅い呼吸を繰り返しているが、それでもその視線はまっすぐ男の姿を捉えている。
もう彼女の瞳から怒りは消えていた。

しかし、その中に男に対する『非難』があることに否が応でも気付かされる。



「君の気持ちを考えず、不用意な発言をしたことは謝るよ。本当にすまなかった・・・」
弱々しく言葉を紡ぐ男の言葉に嘘はない。
「移住の話も、君を傷つけたくて言ったんじゃなくて、君を助けたいという気持ちから生まれた話だ。でも、俺の言葉が足りなかったな」



ごめんな、と言って小さく笑おうとしてもうまくいかない。
そんな男に対して、彼女の口が何か言いたげに動いた。



「何?」



唇の動きだけでも意思は伝わるが、今は彼女の声が聞きたくて、男は顔を寄せた。
彼女は少し力がないが、それでも割合はっきりとした声でこう言った。











「嫌い・・・あなたなんて大嫌いよ」










「・・・・・」
男は何も言えなかった。



そう言われて当然だ。
男は、彼女に対してそれだけのことをしたのだ。










だけど、彼女に「嫌い」とはっきり拒絶されることがこんなにも痛いとは思わなかった。










慌ただしい足音が聞こえてきた。
看護婦が医師と共にこの部屋に駆けつけたのだろう。



このままこの場に留まろうかどうしようか思案していると、男の心を読んだかのように彼女が言った。
「行きなさいよ・・・そして、もう二度と私の前に現われないでッ」
男に選択の余地はなかった。
病室のドアが勢いよく開き、看護婦と医師が入るのと入れ替わりに、男が無言で部屋を出る。










「もう殺して・・・早く私を殺して         !!!!!」










ドアを閉める直前、彼女の叫ぶ声が聞こえた。
しばらく何か喚いていたが、医師が鎮静剤でも打ったのだろうか。
だんだんと声が小さくなり、やがて何も聞こえなくなると、男は静かにドアを閉めた。



しかし、男の耳には「殺して」という彼女の悲痛な叫びが、いつまでもいつまでも残っていた       




















あれから三日が経過した。
平静として毎日を過ごしているが、男の心はひどく重かった。
日々の雑務を片付けながらも、男の頭に浮かぶのは唯一つ。
まっすぐな怒りをぶつける彼女の顔が浮かんだ。



あんな風に言うはずはなかったのに。



確かに、時機を見て彼女にY国を出るよう促すつもりだった。
彼女を傷つけるような方法ではなく、もっと素直に受け入れてもらえるように男なりに色々考えていた。
しかしその方法が思いつかず、悩みながら彼女の病室に行くと、思いがけず彼女と言葉を交わす幸運に恵まれた。



自分が      いや、自分でなくとも他人との接触を拒むかのようにいつも目を閉じている彼女と言葉を交わすこと自体奇跡に近かった。



言葉を交わすきっかけとなった行為が少し強引だったのは認めるが、あの場合は仕方なかろう、と自分に納得させた。
彼女と話ができたことで、少し浮かれたのかもしれない。
話さえできれば何とかなる          いつもなら生まれるはずのない淡い期待が生まれた。

しかし、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。










なぜ、あの時あんな甘い考えを持ったのか。



まだ幼い少女とはいえ、彼女はY国のスパイだ。
一筋縄ではいかないことくらい、最初から分かっていたことではないか。










その時のことを思うと己の浅はかさに腹が立つ。

これで振り出しに戻った。
いや、振り出しより始末が悪い。
この一件で、男は完全に彼女から嫌われたのだから。



自分が思っている以上に、焦っているのだろうか。
最高議会から彼女の身柄を引き渡すよう、催促されている。
大統領が今のところ動きを抑えているが、そろそろ限界だろう。



最高議会が悪いと言っているわけじゃない。
彼らは彼らなりにS国の安泰を願っているのだ。
要人暗殺という大それた計画を企て、実行しようとしたY国のスパイを一刻も早く処刑し、国民に余計な動揺をさせまいとしているのだ。










しかし、すぐに処刑とは。
しばらく様子を見て、本人にその気があれば更生させられるチャンスだってあるはずなのに。

全てを力で潰してしまっては、Y国と同じだ。










そこまで考えを巡らせ、ふと時計を見ると三時を指し示している。



「そろそろ行くか」



男は机の上に散らばっている書類を片付け始めた。
彼の机には、必要最低限のものしか置いていない。

数本のペン、電話、メモ、そして仕事に必要な資料集。

いかにも事務的な仕事をするためのその机は、普段ならば誰にも気にされることなく周りの景色に溶け込むだろう。
しかし、今日の彼の机には人の目を引くあるものがあった。










それは今切ってきたばかりの一輪のマーガレット。

その可憐なマーガレットは、建物の南側に設けられた花壇に咲いているものだ。
花壇を世話する職員に頼んで、一輪分けてもらったのだ。










彼はマーガレットを手に席を立った。
長い廊下を歩いていると、数人の議員と共に大統領が正面から歩いてきた。










いやな時に会ったな・・・・・










向こうもそう思ったのだろうか。
露骨にいやそうな顔をしてこちらを見ている。
が、男の手にあるマーガレットを認めると何やら意味ありげな笑いを浮かべ、同行している議員達に一言二言告げてその場で別れた。



議員達の姿が見えなくなると、大統領は男と向き合い、
「・・・今からでは手遅れかもしれんぞ」
と言って、マーガレットを指差した。
「そうかもしれません。だけど、これは俺の気持ちとして彼女に受け取ってもらいたいんです」










どんなに性悪でも一応自分の上司にあたるので、その日に起きたことは事細かに報告する義務があった。
さすがに彼女から拒絶の言葉を聞いた時のことを報告するのは気が重かったが、これも任務と自分に言い聞かせ、罵(ののし)られることを覚悟の上で報告した。
案の定、男からの報告を聞き終わるや否や、



「この馬鹿が」
「間抜け」
「てめえは根性のないガキと同じか」
「前世から人生やり直せ」



と思いつく限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた。






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流浪人の宿 憂晴
女将と仲居K嬢との会話

K嬢「物語中盤ですか?」
女将「そうね〜、そろそろ変化が起きてもおかしくはないものね〜」
K嬢「企画モノは結構短いものが多いけど、今回長編ですもんね」
女将「次<6>だしね」
K嬢「それでですね、女将。私ちょっと気づいたことがあるんですけど」
女将「あら、何か誤字でもあった?」
K嬢「そうではないんですけど・・・コレって歌詞を元に書いているんですよね?」
女将「それがどうかした?」
K嬢「それらしいのは序章にあったくらいで、それ以後全然らしいものがでてこないんですけど・・・」
女将「ぎくっ・・・えーと、そ、それは・・・」
K嬢「もしやすっかり忘れていたとか?」
女将「・・・あ、ホラ、お客様お見えよ!ちょっとお出迎えしてくるわねっ」
K嬢「女将!?・・・逃げたわね・・・」

すみません、そろそろらしきものを出しますm(_ _)m