花の名



目の前で炎が赤々と燃え続けている。
剣心はそれを確認すると、かまどの上に汁物が入った鍋を置いた。
次に包丁を手に取り、大根の皮をむき始めた。
包丁の刃が大根に触れたと思うと、流れるように皮がむけていく。
「剣術にお料理にお掃除に・・・剣心てば何でも出来るのねぇ」
洗い終えた野菜を水切りしながら、傍らにいる薫が感嘆のため息を漏らした。



この程度のことなら剣心にとって造作もないことだが、薫が同じように大根の皮をむくと食べられる部分まで一緒にむいてしまい、最終的には筆ほどの細さしか残らなかったのだ。



「慣れでござるよ。何度も練習すれば薫殿にも出来るようになるでござるよ」
そう言って慰めると、「そうかな・・・」と照れたように小さく笑った。
滅多に感情を表に出さない剣心と違い、薫は正直に表情に表れる。




















「人斬り抜刀斎!!」
と木刀を向けられた時に見せた剣客の顔。
だがその顔は間抜けな剣心の姿を目にした瞬間、呆れ果てた表情に変わった。



自分の感情を隠そうともしない少女が、剣心には眩しかった。



年頃の娘なのだから当然だろう、と思ったのも束の間、次の瞬間には剣客の顔に戻っていた。
抜刀斎の名を騙(かた)る大男に立ち向かっていく薫に怯む様子は全く見られず、かと言って無闇に攻め込むような無茶はしない。



剣心の目から見て、薫の剣の腕はなかなかのものであると感じた。



しかし、相手は少女より数倍大きな体を持つ巨漢。
薫が狙いを定める箇所に、彼女の剣が届くことは無かった。

着眼点はいいのだが、策を実行に移すのに本人の動きが追いつかないのだ。

そうこうしている間に、負傷した薫が壁際に追い込まれた。
「しまった」という表情になったが、その目は諦めていない。
しかし、この状況で剣心も傍観しているわけにはいかなかった。
剣心が助けに入らなければ自分の命すら危うかったというのに、それでも自分の道場の名誉のために手負いで相手を追いかけようとする薫を半ば引き摺るようにして道場に連れ戻った。



後にこの一件は道場の評判を落として薫から土地の権利を奪おうとする小悪党の仕業であることが判明し、剣心の活躍で土地も薫も無事に済んだ。



同時に剣心が本当の人斬り抜刀斎であることも知られてしまったわけなのだが、
「私は人斬り抜刀斎のあなたじゃなくて、流浪人のあなたにいてほしいの!」
と薫に引きとめられた。

「しかし、年頃の娘の家に拙者のような輩がいると薫殿の評判が       

薫の唯一の肉親である父親が西南戦争で亡くなったことを聞いていた剣心は、彼女の将来のことを考えて何度も断った。
薫もまた、
「何言っているのよ。私は人の過去にはこだわらないわよ」
と自分の発言を撤回しようとせず、両者とも譲らなかった。










「それに・・・あなた、どこかで       
「え?」










薫がぽつりと漏らした一言に、剣心の眉がひそめられた。
その表情に気付いた薫は慌ててかぶりを振った。
「ううん、何でもないの・・・・・それより、道場を復興するったって私一人じゃ無理よ。少しくらい手伝ってくれてもいいんじゃない?」

しつこいくらいに自分を引きとめようとする薫に、さすがに剣心もげんなりしてきた。

「何度言われても答えは同じでござるよ。大体、本物の抜刀斎がこの場にいたら洒落にならな       
「じゃあ、この道場の有様はどうしてくれるのかしら?」
「おろ?」
言葉を遮られ、改めて道場を見渡してみると。










・・・・・嵐が通り過ぎたような惨状でござるな・・・










剣心の比喩は決して間違っていない。
逆刃刀で打ち付けただけだから血みどろになっているわけではないが、その衝撃によって吹っ飛ばされた者が勢いあまって道場の壁を突き破ったり、床に穴を開けている。



「助けてくれたことには感謝するけど、誰も道場を壊せなんて言ってないわよ。それとも何?破壊した本人はこの惨状を目の前にしても黙って出て行くつもりなの?」
じぃっと咎(とが)めるような視線を剣心に送る。

「も、もちろん弁償させていただくでござるよ」

痛いところを突かれて、剣心がしどろもどろに口を開けば、
「言っておくけど、高くつくわよ。ここまで派手に壊されたら修理代も馬鹿にならないし」
ずばりと言われて返答に窮した。










ずっと流浪してきたため、必要以上の金銭は持ち合わせていない。
つまり、今の剣心にこの道場の修理代は払えないのだ。










「喜兵衛がいなくなると、家事をやってくれる人がいなくなるから困るのよね〜。私は出稽古でウチをあける時間のほうが多いから家のことがおろそかになっちゃうし・・・誰か代わりに引き受けてくれないかしら?」
返す言葉が見つからず、だらだらと滝のような汗を流し続ける剣心にとどめの一言。

「何ならそれで修理代チャラにしてあげてもいいのよ?」

勝利の笑みを浮かべる薫にもはや対抗する術(すべ)は無い。
剣心は己の敗北を悟った。
ふぅ、と諦めたように息を吐き出し、剣心の唇が動いた。



「緋村剣心」
「え?」



いきなり名乗られ、薫はきょとんとしている。
そんな薫を見てくすりと笑みを漏らすと、剣心は言葉を続けた。
「・・・それが今の拙者の名前でござる。拙者でよければ、薫殿の手伝いをさせていただくでござるよ」










しばらく薫は表情を変えずに剣心の顔を凝視していた。
剣心は穏やかな微笑を絶やさずに薫を見返している。










一瞬、薫の瞳が懐かしそうに細められた。
そしてそのまま瞼が落ち、顔ごと下を向いてしまったので、剣心からは薫の表情が見えない。



「神谷薫」
「え?」



今度は剣心がきょとんとする番だった。
再び正面を向いた薫の表情はどこか楽しげであった。



「それが今の私の名前よ。よろしくね、剣心!」



やっと自分の真似をされたのだと分かったのはそれからすぐのこと。
薫の明るい笑顔につられるようにして、剣心も笑顔を返した。




















そう。

いつだって薫の笑顔は剣心の心を満たしてくれる。
弥彦が神谷活心流の門下に入り、左之助が喧嘩屋を廃業して度々食事をたかりに来るようになった今でも。



いつか自分がここを出て行っても薫の笑顔は忘れない。
いや、これほどまでに鮮やかに映る笑顔を記憶の彼方に消し去ることなど出来ないだろう。



絶対に忘れない。




















「剣心、どうしたの?」
出会った頃のことを思い出していた剣心は、薫から見ればただ突っ立っているだけにしか見えない。
首をかしげて不思議そうに見つめている彼女の声で剣心は我に返った。



「いや、何でもないでござるよ」
「そう?ならいいけど・・・」



薫はそれ以上詮索しようとはせず、鍋の蓋を取って中身をかき混ぜた。
「ね、味噌汁そろそろいいかしら?」
「ああ、そうでござるな」

じゃあ盛り付けちゃうね、と言って薫は人数分の椀を取り出した。

「では、拙者はこれを持って行くでござるよ」
剣心が手に取ったのは本日のおかず数品。
「それなら弥彦に手伝わせましょ。あの子ってば人の作ったものに文句は言うくせに、全然手伝おうとしないんだから」










剣心の返事を待たずに奥に向かって声を張り上げると、面倒臭そうに弥彦が現れた。










「何だよ、でかい声出しやがって」
「そうしないと来ないじゃない。ほら、ご飯出来たからあんたも手伝って」
「何で俺が・・・」

ぶつぶつ文句を言いながらも言われたとおりにする弥彦を見送りながら薫は呆れた顔を剣心に向けた。

「剣心が連れてきた子だから確かに見所はあるけど・・・あの口の悪さはどうにかならないかしら」
これには剣心も苦笑した。



「弥彦はまだ幼い。成長するにつれ、言葉遣いも改まるのではござらんか」
「そうかしら?・・・そういえば、剣心のござる口調は昔からなの?」
「おろ、変でござるか?」



薫が盛った汁椀を受け取りながら逆に問うと、
「うーん、変わっているとは思うけど別に・・・ただ、剣心も弥彦くらいの頃は口が悪かったのかと思って」
そこまで言って付け加えるように言葉を重ねた。
「まあ、人それぞれよね。さ、ご飯にしましょう」










『人の過去にはこだわらない』と剣心に告げたとおり、薫は家事一般を引き受けているこの剣客に必要以上のことは聞かなかった。










「今日のおかずはきんぴらよね。私、きんぴらがあればご飯何杯でも食べられそうよ」
さりげなく話題を変えたことに、当の本人も気付いていないのだろう。
だが、剣心にはその無意識の気遣いが心地よかった。
「何杯も、でござるか・・・最近は弥彦や左之が増えたせいで米の減りが早いのだが、この分だともっと早く米がなくなりそうでござるな」
「し、失礼ね!言葉のあやよ、あや!」
からかい気味にそう言ってやれば、剣心の言葉を本気にした薫がぷぅと頬を膨らませる。



実際、そう言っても薫の食は細い。
茶碗に軽く盛っただけの量でも「もうお腹いっぱいだから」と残してしまうことの方が多いのだ。
ただでさえ華奢な体つきをしているのに、これで食が細いとなると体を壊すのも時間の問題だ。
そのため、剣心は少しでも薫の食が進むようなおかずを食卓に並べる。



「はは、冗談でござるよ・・・あ、薫殿、箸は」
探すように視線を移す剣心と違い、薫は迷うことなく箸を取り出す。
「はい、これでしょ。いつも台所を任せているからもう場所を覚えたかと思ったけどそうでもないのね」
「毎日使っていてもまだ拙者はこの家に来て日が浅いゆえ・・・細かいことは薫殿の方が詳しいのでござろう?」
「まあ、一年経てば大体のことはね」
剣心の質問にさらりと答える。



「私もここに来てしばらくの間は物のある場所を覚えられなかったし」



す、と感慨深げに周りを見渡した。
「さ、もう行きましょ。弥彦も待ちくたびれているだろうし」
「・・・そうでござるな」
ぱたぱたと先に台所を出て行く薫は、すでにこの家に馴染んでいるように思う。
というより、薫はこの家で生まれて今までの時間を過ごしてきたのだと信じて疑わなかった。
だから薫本人の口から、

「私ね、去年より前の記憶がないの」

と言われた時は言葉を失った。










「つまり、神谷薫っていうのは私の本当の名前じゃない。この家とは無関係の人間ってことよ」










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僕がここに在る事は あなたの在った証拠で

Song:BUMP OF CHICKEN