「待ちなさい弥彦!」
「待てと言われて待つ奴なんかいるかよ、バーカ」
道場から罵声とそれに輪をかけるような大騒動が伝わり、剣心は洗濯の手を止めた。



やれやれ、またか。



偽抜刀斎騒動から今まで神谷活心流に入門する者はいない。
現在のところ、剣心が連れてきた弥彦が門下生第一号となっている。
「子供のくせに口だけは達者」と薫が評したとおり、彼女が何か言えば必ず突っかかってくるらしい。
ぎゃんぎゃん騒ぎ立てる声がここまで聞こえ、違う意味で道場も賑やかになったと苦笑すると同じように感じたのか、今まで縁側で寝そべっていた左之助がむくりと起き上がり、
「全く、あれじゃ稽古しているのかどつきあっているのか分かりゃしねぇ。毎日よく飽きずにいるもんだ」
なぁ、と剣心に同意を求める。
「弥彦も薫殿を認めていないわけではござらん。ただ素直になれぬだけでござるよ」
視線を道場に向けたまま剣心は続けた。
「あの騒ぎも今だけ・・・もうすぐ静かになるでござろう」

果たして剣心の言葉通り、段々と怒鳴り声が遠くなり、やがて聞こえるのは風のそよぐ音のみとなった。

「・・・単に弥彦が嬢ちゃんにのされただけじゃねえのか」
「左之・・・薫殿が聞いたら今度のされるのはお主でござるよ」
「嬢ちゃんがいねえから言ったんだよ。んで?実際のところはどうなんでい」
全く悪びれる様子を見せない左之助に嘆息し、剣心は洗濯を再開した。
「さっき薫殿が一旦自分の部屋に戻ってきたのを覚えているか」
「ああ、何か本を持っていったな。あれがどうかしたのか?」
「あれは活心流の指南書とも呼べる書物で、薫殿の父上    神谷越路郎殿が西南戦争に赴く前に手渡したらしい」
「指南書?」
怪訝そうな左之助の声は井戸に落とされた釣瓶(つるべ)によってかき消された。



「薫殿に一年前の記憶がないことはお主も知っていよう。一年前、全身傷だらけの少女が倒れているのを越路郎殿が見つけてここに運んできた     それが薫殿でござる」



剣心が水の入った釣瓶を引き揚げるたびに、ぎ、と軋んだ音を立てた。




















さよならの向う側



越路郎がその少女を見つけたのは春の気配を感じ始めた頃。
所用で出かけた帰り道、今までにない強風を感じた。
何とはなしに風が去った方向を見やれば、藪の中に一人の少女が倒れている。
戦争にでも巻き込まれたのかと思わせるほど、少女の体には無数の傷があった。
つい今しがた負った裂傷もあれば、中には数年前からあるような古傷もある。
着ているものは焼き焦げたのか破れたのか、ただの布きれが体に付着しているだけで意味を成さぬ。
出血もひどく、傷も深いことからこの少女の命もあと僅かと感じたのは、越路郎の剣客としての直感だった。
彼女を診た玄斎も黙って首を振るほどに彼女の命の灯は消える寸前であった。

しかし少女は死ななかった。

驚くべき回復力であった。
若さゆえ、と一言で片付けるにはそれは異常ともいえた。
やがて少女は目を覚ます。
当然の如く越路郎は問うた。










どこから来たのか。
そして、何者なのか。










しかし少女は問いかけに瞬きを数回繰り返すだけで何も答えない。
「君は怪我をして倒れていたんだ。一体何があったんだい?」
質問を変えてもやはり答えは返ってこない。
困惑したように視線を彷徨わせるのを見て、口が利けないのか、あるいは耳が聞こえないかもしれないと考え、今度は筆と硯を用意し、質問を紙に書いて差し出してみた。
少女は手渡された紙を無言で見つめていたが、やがて筆を手に取り書き始めた。
今度は越路郎が困惑する番だった。
少女が書いたものは文字には違いないのだが、今まで見たことのない文字だったからだ。

まっすぐ伸びた黒髪とそれと同じ色を持つ瞳。
西洋人のような彫りの深い顔立ちはしていないのでどちらかといえば日本人顔だが、少女は日本語が分からないらしい。

それでも身振り手振りを交えて日本語で話しかけることしか越路郎にはできなかった。
少女が回復したらあとは警察に任せるしかないかもしれない、と悩む越路郎の憂いが伝わったのか。
数日後、少し訛(なま)りがあるが少女が日本語をしゃべったのだ。
「あなたがはなしているのをきいて、すこし、わかりました」
どうやら越路郎や玄斎が会話しているのを聞いて日本語を覚えたらしい。
この少女と出会ってから驚くことばかりだが、これでやっと彼女のことが分かると安堵した。



だが事態は更に混迷を極めた。
少女は一切の記憶を失っていたのだ。



記憶を無くしたのは怪我のためか、それとも       
とにかく越路郎は少女の体が完治するまで神谷家に置くことにした。
少女の回復はめざましく、目覚めてから数日後には壁伝いに歩けるようになった。
もともと食が細いのか、あまり食事を口にすることはなかったが肌艶もよくなり、死線を彷徨うほどの重傷は嘘だったのかと思わせるほど。

最初は怪しかった日本語も今では普通に話し、読み書きも出来るようになった。
そして見るもの聞くもの全てが珍しいらしく、興味のある事はその都度越路郎に問うてくる。

越路郎の説明に大きな黒目を更に見開き、完全に理解すると今度は満足したようににこりと笑う。
その笑みは年相応の娘と何ら変わりなく。










だが、女性の着るものやこまごまとしたことは越路郎でも答えられないことはある。
そういったことは妙を頼るよう教えた。










彼女が伏せっていた頃から意識のない娘の体に触れるのもどうかと思い、顔馴染みの妙に任せていたのだ。
最初は目を覆いたくなるような少女の惨い姿に息を呑んだようだが、さすがは関西の人間、次の瞬間には目の前に置かれた現実に素早く対処していた。



言葉通り少女の身の回りの世話は全て妙が行い、今では妹のように案じている。
少女もまた、妙に心を開いているようで、出歩けるようになると必ず赤べこに顔を出す。



楽しげに笑い、驚き、ときに唇を尖らせる。
「ほんまに表情がころころ変わる子やわ。見ているこっちも、なんや楽しゅうて」
妙の言うとおりである。
少女と共に過ごす毎日が楽しいと感じているのは越路郎も同じであった。

越路郎に家族はない。
若い頃結ばれた妻は、とうに亡くしてしまった。
腹の中にいた赤子と共に。










もし生まれてきた赤子が女児であったなら、きっと今頃はこの少女のように可憐な娘に育っていたに違いない。










この頃から越路郎は少女の行く末を真剣に考え始めた。
どこかに家族がいて、少女の帰りを待っているというのであれば話は別だが、警察に尋ねても今のところ尋ね人の依頼はないとのことだった。
普通に考えればどこか働き口を見つけ、そこを世話するのが妥当だろう。
彼女がどこの誰であるのか       もしかしたらこれから先違った環境になることで何か思い出すのかもしれない。
少女が神谷家に来て数ヶ月が過ぎたが、記憶が戻る気配はなかった。



いや、変化はあった。
少女が一際興味を示したのが剣術と「かおる」という名。



稽古中の越路郎の姿を瞬きもせず眺めている少女に、
「興味があるならやってみるかい?」
とおもしろ半分に誘ってみたのだが、実際竹刀を握らせてみると目の色が変わった。
試しに自由に振らせてみると、今まで見たことのない構えで竹刀を振るう。
本人に尋ねるが、

「なぜなのかは分かりません。でも、体が自然に動くのです」

だが、彼女がどこかで剣の手ほどきを受けたのは間違いない。
そして、彼女自身、今まで剣を振るっていたのかもしれなかった。
そうでなければこれほどまでに自然な動きは出来ない。
まるで竹刀が     否、手にした得物が体の一部のようだった。










このまま少女を自分の娘として育てることを本気で考え始めたのはこの頃だ。
無論、周囲からは反対された。
戦乱の世ならまだしも、明治の御世にもなってあそこまで重傷を負うのは何か厄介ごとに巻き込まれたからに違いない、と。

弟子達もあまりいい顔はしなかった。
門下生に混じって稽古に参加するようになった少女が水を吸収するように上達するのを見て危機感を覚えたのかもしれない。
活心流を継ぐのはこの少女かもしれない、と。










越路郎もそれを考えなかったとは言い切れない。
確かに見事だ。
惚れ惚れするような剣の腕前は、おそらく道場で仕合せたら敵う者はいないだろう。

だが、もし彼女に真剣を持たせたら触れるもの全てを斬り裂く。

構えてもその先に見据えるは「無」。
立ち向かうというより、己に向かう者は容赦なく斬る       感情のこもらぬ硝子のような少女の目を見て越路郎は寒気すら覚えた。



少女をそばに置きたいのは後継者としてではない。
また、その危うさから見張るわけでもない。
ただ、少女がいると失ったはずのものが再び己の手に戻ってきたような気がするのだ。
この充足感は妻を失って以来のものだった。
できれば普通の親子としてこのまま穏やかに毎日を過ごしたい。



少女もまた、越路郎を慕っている。
恩人としても剣の師としてもそれは当然の感情ともいえるが、越路郎が少女を娘として見始めたように少女も越路郎を父親として意識し始めた。










そして越路郎は正式に養女として少女を迎えた。










この時悩んだのが少女の名前。
娘らしい名を、と思っていても所詮男が考える名など花と同じ名前になってしまう。
ふと外を見れば桜の花びらがひらひらと風に舞っている。
特に何も考えず、一句口から出た。



「風通ふ寝ざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」

確か新古今和歌集だったと思う。
別に和歌を嗜んでいるわけではないが、昔聞いた歌でこれだけよく覚えていただけの話であった。



「今、何て?」
ちょうど茶を運んできた少女が傍らに座った。
共に暮らし始めて気付いたのだが、この少女は家事一般がこなせない。
今淹れてきた茶も葉を入れすぎたのか、湯飲みの中には茶葉が大量に注がれている。
一体今までどうやって暮らしてきたのか、と疑問が頭をもたげたが、まずは少女の問いに答えることにした。
もう一度歌を繰り返し、その意味を教えたが、彼女の関心は意味ではなく歌の中にある単語らしい。

「かをる枕の・・・かおる・・・」
「それが君の名前?」

期待をこめて聞いてみたが、少女は首を振り、
「覚えのあるようなないような・・・でも気になってしまって」
申し訳なさそうに目を伏せた。
うなだれた少女を励ますように越路郎は軽く肩を叩いた。
「それでも今まで何も反応を示さなかったことを思えば、気になる程度でも大事なことだ。ちょうど君の名前も決めなくてはならなかったし、かおる、と呼ばせてもらってもいいだろうか?」
そして越路郎は紙に一文字書いて少女に見せた。










     これで『薫』と読む。今から君は私の娘の薫だ。いいね?」
「でも、私がここにいることに反対している人もいるようです。このままここに居ついてしまえば越路郎様の立場が悪くなるのでは?」
少女の杞憂を吹き飛ばすかのように越路郎は豪快に笑った。










「かまわん。逆に今ここで君を追い出したら私が玄斎先生や妙さんに睨まれてしまう。それに法に沿って正式に君を娘として迎えるんだ。時間が経てば皆理解してくれるよ」

ああそれと、と越路郎は付け加えた。

「娘が自分の父を名前で呼ぶのは変だろう。さすがにそれは直してもらいたいな」
終始笑みを崩さぬ越路郎に少女の表情も解けた。
少女は姿勢を正すと、指をついて頭を下げた。
「分かりました、義父上」
顔を上げた少女の口元にはやわらかな笑みがあった。






























稽古が終わり、弥彦が出て行った道場には薫一人だけ残された。
彼女の手には先ほどまで弥彦に読み聞かせていた活心流の指南書がある。
越路郎の達筆な文字の上を指でなぞると、薫の脳裏に背筋を伸ばして文机に向かっている亡き義父の姿が浮かんだ。
本来なら口伝であるはずのものを書物にして著(あらわ)したのは、ひとえに薫のためだろう。



『時間が経てば皆理解してくれるよ』



己のことを何一つ覚えておらず、右も左も分からぬ薫を越路郎は温かく迎え入れてくれた。
自分のこと、これからのことを不安がる薫を明るく励ましてくれた越路郎も昨年の西南戦争で帰らぬ人となった。
出征することが決まり、彼が気がかりなのは残された薫のこと。
法的には父子となっても、やはり薫を受け容れられない者は多い。
そこで越路郎は自分の不在中は薫を師範代に立てることを決定した。

門下生はいい顔をしなかった。
何故、と詰め寄る者もいた。










当然だろう。
素性も分からぬ女がいきなりやってきて、養女になったかと思えば、古参の門人より先に師範代になったのだ。

反発しないほうがおかしいし、またそうなると越路郎は予期していた。










そこまで分かっていて薫を師範代に抜擢したのは理由がある。
それは薫の腕、というのもあるが、それより何より薫の居場所を残してやりたかったのだ。
傍目(はため)にはこの町に馴染み、活心流の門下生として、そして越路郎の娘として日々を過ごしているように見えるが、それは全て越路郎がいてこそ。
その越路郎に何かあれば薫がここにいる理由もない。

死ぬつもりは毛頭ないが、今回の戦は歴史に残るほどの激戦になろう。
もし自分に何かあれば薫はきっと出て行ってしまう。

薫をこの家に縛り付けることで、却って辛い思いをさせてしまうかもしれない。
だが越路郎はどうしても薫に帰る家を与えたかった。
薫と過ごしたこの数ヶ月間、越路郎は確かに幸せだった。
薫も同じように感じてくれているならば、この家が彼女の支えとなろう。










一人残されれば今までの思い出は時に切なく、悲しいものだが、それ以上の喜びも確かにある。
それを思い出し、これから先の人生を歩んで欲しい。

必要があれば道場は手放しても構わない。
活心流が終わってしまうのは残念だが、しかし薫の幸せには換えられない。










出立する前夜に、越路郎は薫を前にしてそう告げた。
しかし越路郎の訃報が届いても薫は道場を閉めることはしなかった。
薫にとっても活心流は越路郎の生きた証だからだ。

       でも、確かに私が師範代ではなかったらここにはいなかったわね」

越路郎が亡くなったあとに数人道場を去り、更には偽抜刀斎事件も発生して最後には薫一人だけになった。
自分に人望がないことで門下生が辞めていくのはまだ諦めがついたが、第三者の謀略によって越路郎が築き上げたものが潰されるのは我慢ならなかった。
騒動の首謀者が捕まり、汚名は削がれたが、一度失ったものはそう簡単には戻ってこない。
視線の先には「師範代・神谷薫」「門下生・明神弥彦」の札が壁にかけられている。

たった二枚。
されど薫にとっては貴い二枚だ。










私の力でどこまでできるか分かりませんが、きっと活心流を再興させてみせます。
だから義父上、私達を見守っていてください。










知らぬうちに手に力がこもる。
まるでそこに越路郎がいるかのように、薫は目を逸らさなかった。
その空気を変えたのは一陣の穏やかな風と静かな声。



「薫殿」
振り向くと剣心が道場に入ってきたところだった。



「さっき弥彦が出てきたのが見えたので・・・もう稽古は終わったのでござろう?」
「あ、うん。これから出ようと思っていたところ」
「早く汗を拭かねば風邪をひく。師範代が風邪をひいたら道場の再興がそれだけ遅くなるゆえ」
「分かってるわよ」
心配性なんだから、と苦笑しながら薫はその場から離れた。

が、すぐ立ち止まりまたもとの位置に戻ると深く頭を下げ、そのまま動かなかった。
そして顔を上げ、ずっと待っていてくれたであろう剣心を見ると、彼もまた同じように頭(こうべ)を垂れている。

目を瞠(みは)っている薫の視線に気付いたのか、剣心も顔を上げた。
何も言えずにただ目を丸くしている薫に微笑みかける。
そしてそのまま何事もなかったかのように出て行く剣心を見て、やっと薫も体を動かした。
「あ、ちょっと待ってよ!」



二人揃って出て行った道場には、廉とした静寂が漂う。
何があっても薫の味方であり続け、彼女の背中を押した彼の人のように。






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いつものようにさり気なく
あなたの呼びかけ あなたの喝采
あなたのやさしさ あなたの全てを
きっと私忘れません

Song:山口 百恵