ブルーバード



やがて時が過ぎ。

前川道場の前川宮内は雷十太から受けた傷が元で臥せっていたが、数日前に床上げをしたと報せを受けた。
彼が道場の上座に座するだけでその場の空気がまるで違う。
前川に見られている      と思うだけでぴりぴりとした緊張感が場に張り詰める。
そして全員の目は道場の中央、自分たちの仲間と薫の試合に集中していた。
薫と相手の門下生はその緊張感を破って気合と共に打ち合う。

「ヤーーーー!!!」
「エイッ!」

竹刀同士がぶつかると同時に空気が震える。
その震動が見ている弥彦にも伝わってくるようだ。
自分が打ち合っているわけでもないのに自然と丹田に力がこもり、足を踏ん張っている。
弥彦だけではない。
固唾(かたず)を呑んで見守る門下生たちも同様に張り詰めていた。
周囲ですらこの状態なのだから、試合をしている両者はその比ではない。
相手となる門下生は薫より年上で、道場内でも期待されるほどの力量だ。
繰り出される技を防ぎつつ、隙を見ては打ち込んでみるが相手もまた防御に出るため、なかなか勝負がつかない。
しかし男より体力が劣る薫が押され気味なのは周りから見ても明らか。
肩で呼吸を繰り返す薫もそれは分かっていた。
だが。



(負けちゃいけない・・・もっと強くならないと!)
普段なら体力を温存しつつ攻めの機会を待つところだが、今の薫はただ強さを求めていた。



(今のままじゃ勝てないッ)
ゆっくりと息を吐き出すと床を蹴った!
しなやかな女の体は時にばねのような瞬発力を持つ。
その瞬発力に速さと重さを乗せる形で竹刀を凪いだ。
狙うは胴。
しかし相手も薫の実力は十分に知っている。
油断せず薫の出方を待っていた彼に勝機が生まれた。
すぐさま一歩下がることで胴への攻撃をかわす。
かわされた攻撃は惰性のまま勢いに乗り、凪いだ竹刀の動きにつられるように薫の体は均衡を崩した。
これではすぐ体勢を整えることはできない。
相手が竹刀を振りかぶり、がら空きになった面に打ち込もうとするさまを薫は視界の端に捉えた。
渾身の気合を込めたその姿はまさに剣客。
命を奪うために刀を振るう剣客に見え、相手の剣気に呑まれそうになる。










負けてしまう。
負けたらそこで終わりだ。










      何も見えなくなった。
周りには弥彦や前川道場の門下生がいるはずなのに。
目の前にいるはずの顔なじみの相手も、見知らぬ剣客の姿に変わっている。
浅黄色のだんだら模様の羽織に髷を結ったその姿は、明らかに明治の人間ではない。

死ねぇ      !!!!

彼が狙うのは自分自身だと理解した瞬間、頭より体が反応した。
上体が捻るような体勢のまま、薫の膝が落ちた。
膝が落ちたところで今度は下がっていた腕を刀ごと下から振り上げる。
「はぁぁぁぁぁッ」
薫の白刃は侍の右手首を切り落とした。
手首ごと刀を落とされた侍は、苦悶の表情を浮かべ後ずさる。
(勝った!)
だがまだ生きている。
止めを刺そうと立ち上がったそのとき。



「そこまで!!!!」



腹の底から出したような前川の声で周囲に色彩が戻った。
そこは見慣れた前川道場で、目の前には手首を押さえてうずくまっている試合の相手がいた。
「なんで」
呟いて戦慄する。
無意識のうちに相手を倒したことではなく、手首を切り落とすつもりで戦っていたことに対してだ。
仮に真剣を持った相手だったとしても、ここまで冷酷なことは考えない。
苦しそうに呻く彼の手首を見ると、大きく腫れ上がっている。
薫の打撃によるものだが、これだって必要以上の力で叩き込んだ。
「わ、私・・・ごめんなさいッ」
深々と頭を垂れる薫にたくさんの視線が突き刺さる。
「薫・・・お前、何やってんだよ・・・」
ちらりと弥彦を見やれば、彼の瞳は恐れに揺れていた。
その瞳をまともに受けられず、薫はぎゅっと目を瞑った。
周りはざわめき、聞きたくもないのに内容が耳に入ってくる。










「ひでぇ・・・ここまでやらなくても      
「見たか?打ち込んだ時点で勝負はついたのにまだやろうとしていたんだぜ?」
「師範が止めなかったら今頃どうなっていたか・・・」










己が引き起こした事の重大さに、とてもじゃないが顔を上げることができない。
「大丈夫だよ、薫さん。まさかあの体勢から攻撃がくるとは思っていなかったから・・・はは、俺も修行が足りないな」
傷つけた相手から笑顔で慰めの言葉をもらったが、腫れた箇所を見ると更に気持ちが暗くなった。

「薫君」

上座から静かな声が降ってくると傍目にも分かるほど肩が震えた。
「今の下段からの攻撃、見事だった。刀でなくとも剣術は常に真剣勝負ということをこの試合が教えてくれた。感謝せねばなるまいな」
違う、と即座に返そうとした薫の言葉を封じるように、前川はにこりと微笑んだ。
「誰か医者を呼んでやれ。本日の稽古はここまで」
師範の言葉に皆従ったが、終了の挨拶はいつもより気が抜けている。
薫は周囲の視線から逃れるように手早く荷物をまとめ、弥彦と共に帰路に着いた。
その道中でも薫は一切口を開かなかった。
弥彦も聞きたいことはたくさんあったが、今それを聞くのは憚られた。
それよりも、薫の変貌に自身が恐れたことを恥じた。

こいつが一番こたえてんのに。

ちらりと師を盗み見れば、この世の終わりでも迎えるかのような顔をしている。
こちらの気持ちとは裏腹に空は雲ひとつない晴天で、心地よい風さえ吹いてくる。
(せめて剣心がいりゃうまい言葉の一つや二つかけてやれるだろうけどよ・・・)
頼みの綱がいない今、その役目は自分が担うしかなさそうだ。
意を決して足を止めると、うまい具合に薫も立ち止まった。
「あのよ、さっきのことだけど・・・っておい!?」
ぎょっとするのも無理はない。
隣に立っていたはずの薫がすごい勢いで駆け出したからだ。
「ちょっと待てコラ!人が励ましてやろうってときに何でいきなり走り出すんだよッ」
怒鳴りながらも薫の後を追うと、振り向いた彼女に更に驚かされた。
「何ぶちぶち言ってんのよ!ほら、早くしないと置いていくわよ!」
溢れんばかりの笑顔で言い放つと、その表情と同じく軽やかに駆けていった。



もう大丈夫。



吹き抜ける風からはっきりと告げられた。
大丈夫と言われて思うことはひとつしかない。
(由太郎君の腕のことだわ!)
後ろで喚いている弥彦もそのことを知れば歓喜するだろう。
全速力で走っているせいか呼吸が苦しい。
だが、そんなことに構っていられないほど薫の心は浮き立っていた。
それこそ、道場での出来事が払拭されるほどに。





















剣心が塚山の手紙を受け取ったのは、喜色満面の薫が帰ってくる少し前のこと。
「ただいまっ」と弾んだ声を上げた薫は、剣心の手の中にある手紙を認めるときらきらする瞳を更に輝かせ、
「ねぇねぇ剣心、その手紙って!?」
「あ、ああ・・・塚山殿からでござるよ。おそらく由太郎のことも書かれているはずでござろう」
狂喜乱舞する薫に度肝を抜かれながら答えると、一人でうんうん頷いた。
どうも手紙が来たことを知っていたかのような態度に眉をひそめたが、当の本人が喜んでいるならいいかと剣心も相好を崩す。
「ね、ね、すぐ弥彦も戻ってくるから読み聞かせてあげて。由太郎君のこと、なんだかんだ言いながら弥彦が一番気にしているから」
言い終わらないうちに玄関先から、
「何なんだよ一体・・・金輪際てめぇの心配なんてしてやらねぇからなッ」
続けられる声が段々消えていく。
どうやら全速力で走ってきたせいでかなり疲れているようだ。
くすりと薫が笑う。
そして、
「剣心、迎えにいってあげて。私も荷物置いたら行くから」

頼まれて断る理由はない。
快諾して玄関先に向かう剣心を見送って、薫も荷物を部屋に置いた。

着替えは後回しにして部屋を出ると、ふと庭に干された敷布が目に入った。
(天気がいいから剣心が洗濯してくれたんだわ)
三十路近い男がのほほんと洗濯している様が容易に浮かぶ。
薫は庭に降り立つと、竿にかかっている敷布を引っ張った。
簡単にかかっているだけなので簡単に取り込める。
そのまま勢いよく引っ張ると、ばさり、とはためく音と共に目の前が真っ白になった。



玄関でへばっている弥彦を助け起こし、荷物ごと居間に運んでやった。
最初は薫への文句ばかり垂れていたが、手紙のことを告げると「本当か!?」とすぐさま開封しようとする。
「まぁしばし待て。薫殿も中身を知りたいだろうし」
「ったく、人より先に帰ってきたくせに何してんだあのブス」
唇を尖らせ手紙から目を離さないが、おとなしく待つことにしたようだ。
ばさり、というかすかな音を聞いたのはそんなときだ。
「おろ、洗濯物でも取り込んでいるのでござろうか」
「だーーーーー!っとによぉ!!」
苛立ちが最高潮に達したようで、弥彦は立ち上がると足音荒く庭へ向かった。

「薫!!お前いい加減に・・・」
怒鳴り声が不自然に途切れた。

不審に思った剣心が後を追うと、弥彦が呆然としている。
「どうしたやひ      
剣心もまた同じように言葉を失った。










地面に干してあったはずの敷布が落ちている。
その敷布が風で飛ばされていないのは、薫がその上で倒れているからだ。
先ほどまで輝いていた黒瞳は固く閉ざされ、色を失った唇から一筋の血が流れていた。
そして、真っ白いはずの敷布は真っ赤に染められ      

「薫殿!!!!!」

裸足のまま庭に降り立った。
薫を抱え起こし、声をかけても反応がない。
唇に耳をそばだてると、苦しそうではあるが呼吸音が確かに聞こえた。
ほっとする間もなく、剣心は声を張り上げた。
「弥彦、医者だ!小国先生か恵殿を・・・急げッ」
剣心の声ではっと顔を上げた弥彦は、すぐさま行動に移した。
その間にも薫への呼びかけは続けられる。
「薫殿、薫殿ッ」
生きてはいる。
が、何度呼びかけても血の気のない頬に触れても薫から返答はなかった。

視界に入った純白と深紅の対比が、剣心の目と心に沁みた。











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墜ちていくとわかっていた
それでも光を追い続けていくよ

Song:いきものがかり