ガラナ



井戸で傷を洗っていると小国医院から使いの者が来た。
急患の数が多く玄斎だけでは手が回らないと報(しら)せを受けた恵は薫のことを気にしつつも、左之助に送られる形で小国医院に向かった。
見送ってから居間に入ると弥彦がこくりこくりと舟を漕いでいるのが目に入った。
すっかり寝入っている姿に目を細める。
近くにあった丹前を少年にかけ、剣心は薫の部屋に向かった。



様々な傷を見慣れているはずの剣心ですら、少女の柔肌に浮かび上がる傷には息を呑んだ。
今は暗がりでこれしか分からないが明るい所で見れば更に多くの傷があるかもしれない。



しかしあんな傷を負わせるほどの腕や技を持つ者がいれば、剣客の間で話題になってもいいはずだ。
あの状態だと実際負傷したのは五・六年前      おそらくそのくらいだろう。

その頃剣心は流浪していたから詳しいことまで分からないが、少なくともそんな噂は耳にしたことはない。

玄斎の話では最初、薫は日本語を理解しなかったということだから、そのことを考えると以前は日本国外にいたことも考えられる。
ならばその方向で調べることも不可能ではない。










しかし、と剣心は思う。










記憶を取り戻すことが本当に正しいことなのかと自問する。
今までの薫を見る限りでは何か複雑なものを抱えているのは想像に難(かた)くない。
それならこのまま何も思い出さず、一人の平凡な娘として平凡な幸せを掴むのもいいのではないかと。

だがそれを決めるのは剣心ではなく、薫だ。
薫が失われた記憶のことで悩み苦しんでいるのは知っているのに、何も出来ない自分が何と歯痒いことよ。

音を立てずに彼女の傍らに腰を下ろし、寝顔を見る。
嫌な夢でも見ているのか、眉間に皺が寄り寝苦しそうにしているのを見て、自然と剣心の手が伸びた。
そのまま額にかかった前髪に触れようとしたとき、閉めきってあるはずの部屋の中で『風』を感じた。



反射的に目を開けた薫が素早く身を起こして後ずさる。



どん、と薫の体が壁に当たり、彼女の黒瞳には困惑した剣心の姿が映し出された。
「かお    
「・・・・・ッ」
腰を浮かしかけたところで、少女の瞳にある怯えた光がより一層強くなる     先ほど風呂場で見たときと同じだった。

指一本でも触れようとすれば、薫はまた恐怖に囚われよう。

これ以上逃れることなどできないのに、それでも壁に背中を押し付けて全身で己の意思を伝えている薫に手を伸ばすこともなく、両者膠着状態で時を過ごす。
すとん、と腰を落とすとそれだけで薫の肩が跳ね上がった。
だが剣心は声をかけるわけでもなく、無造作にごろりと横になる。



それは天気のいい日に野原で寝転がるのと似ていた。



すっかり寛いだ様子で大の字になっている姿に震えはおさまったが、それでも警戒は解いていない。
目だけでそれを認めると、くすりと小さく笑みが零れた。
ただ笑っただけなのにその都度過敏に反応する薫に、剣心はゆっくりと語りかけた。










「もう気を張らずともよいのではござらんか?ここに薫殿を脅(おびや)かすものなど何一つござらん」










大丈夫     声に出さずに目で語りかける。
その身同様表情をも強張らせた薫を安心させるように。



急(せ)かさずただじっと待っていたのが効いたのか。
す、と息を吸い込むのが聞こえたかと思うと、胸元に手を当てた薫が己の気持ちを鎮めようと何度も呼吸を繰り返している。
最初は震えていたそれが正常な呼吸に戻ると、まだ若干瞳は揺らいでいるがはっきりとした声が発せられた。



「ごめんなさい・・・私、またやっちゃったのね」



まるで自分のしたことを分かっているような口ぶりだ。
「覚えているのでござるか」
驚いていないわけではないが、態度には出さず身を起こして少女と向き合った。
こくりと頷く薫はまっすぐ剣心を捉えている。
「もう大丈夫なのでござるか?」
遅いくらいの気遣いだったが、薫は微笑を返した。

「うん。何ともない」
「恵殿も心配することはないと言っていたが、今日はこのまま休んだほうが良さそうでござるな」

ばつが悪そうに薫が小さく頷く。
「ただ暗い所に一人でいるだけなら平気なんだけど、そこにいきなり誰かが入ってくるとあんな感じになって、周りが見えなくなっちゃうの」










過去にも一度あった。
鍵が壊れてしまったせいで蔵の中に閉じ込められて      でもそこから出されることの方が恐ろしかった。

見えるのは、薫を捕まえようとする手だけ。










「私を捕まえようとするのは一人だけなんだけど、その人が来たと思うだけで体が動かなくなって。でも捕まったらもっと怖いことになる予感がして。そうしたら余計にその人に捕まるのが嫌で。すごく怖くて。何が何でも逃げなきゃって」
「もういい。薫殿、もう分かったから」
遮ったのは震え出した薫を見かねてのことだが、彼女はふるふると首を振った。
少女の動きに合わせてまだ水分を含む髪が重そうに揺れる。
「今度同じことがあったら誰が私を捕まえようとしているのか確かめようとしたんだけど     



迫り来る『存在』そのものが恐怖でしかない。



結局正体を見極めるどころか、自分を見失ってこの有様だ。
「ごめん、私、どうしても知りたかったの。誰か分かればそれから他のことも思い出すような気がして・・・迷惑かけてごめんなさい」
うつむくと黒髪が彼女の表情を隠す。

「薫殿のせいではござらんよ」

だがそれ以上の言葉が出てこない。
記憶を取り戻さずとも幸せになれるなど、それはやはり記憶をなくしたことがないから言えることであって。
当の本人とてそれは分かっているが、それでも己を知らねば不安と虚無感を抱えたまま生きてゆかねばならぬ。










最悪、己の命が尽きるまで。










(俺は何て無責任なことを      )
奥歯をきつく噛み締める。
自己嫌悪に陥ると同時に、罪悪感に支配される。

「すまぬ、薫殿」
知らずに思いが口から発せられた。

「え・・・?何で剣心が謝るの?」
「あ・・・」
きょとんとした黒瞳が向けられるが、剣心も無意識だったため、二の句が告げられずにいる。
何かないかと頭の中でぐるぐる悩んでいると、話題になることが一つあった。



「りぼん!そう、りぼんでござるよ。考えてみたら拙者、先日だけでなく以前も一枚薫殿のりぼんを台無しにしてしまったことを思い出して」



さすがに無理矢理すぎたかと思っていると、同様に感じたのだろう。
「はぁ?一体いつのことを言っているのよ!それに、そのことはもういいって言ったでしょ」
片眉を上げて怪訝そうに切り返してくる薫の反応はもっともである。
だがここで引き下がってはまた気まずい空気になるし、懐に忍ばせてあるものも今を逃しては次の機会は当分先になってしまうように思えて、剣心は一気にまくし立てた。
「いつとかそんなことは問題ではござらん!いくら薫殿がよくてもそれでは拙者の気がおさまらぬゆえ、どうか受け取ってもらいたいッ」
勢い込んだまま懐から薄い包みを取り出し、薫の手に握らせた。
目を瞬(しばた)かせる薫だったが、唇を引き結んでそれ以上のことは言わない剣心に諦めた様子で包みを開けた。










「剣心、これって・・・」

包みの中から藍色が目に飛びこんできた。
りぼんであることはひと目で分かったが、いつも使っているそれとは少し手触りが違う。










薫は知らなかったが、それは今日恵が異人から受け取ったというドレスの胸元を彩っていたりぼんである。
恵に頼み込んでこのりぼんだけ貰い受けたのだ。
最初、ドレスそのものが欲しいのかと勘違いされ、左之助には「お前が着るのか」と半目で問われる始末。
半ば本気で女装すると思い込んでいる二人の誤解を何とか解き、無事りぼんは剣心の手に渡ったのだ。



「本当なら色も布地も同じもののほうがよかったのだが・・・・しかし、いくら同じものでもそれはやはり越路郎殿が贈られたものとは違う」


剣心の言葉に薫の瞳が見開かれた。
「・・・だが結局拙者も似たようなものしか選べなかった。この色を見た瞬間、どうしても薫殿にと思ったのでござるよ」
薫の視線が落ち、りぼんに注がれる。
指はりぼんの上を滑り、何度も感触を確かめているようだ。
ただそうしているだけで何も答えない薫に、剣心も段々不安になってくる。



「あ、気に入らぬようなら他の色のものを買って・・・」
「剣心」



途中で遮って、薫が体ごと剣心に向ける。
そしてまっすぐ剣心の顔を見て一言。










「もしかして、誰かにたかった?」










これには剣心も仰け反った。
仰け反りすぎて倒れるところだったが何とかこらえる。
「何でそんなことになるのでござる?」
「だ、だってこのりぼん、すごく高そうなんだもん!剣心、お金持っていないでしょ?なら恵さんとか署長さんとか玄斎先生にたかったってことも」
おろおろと慌てだす薫とは逆に、忘れかけていた疲れがどっと押し寄せ、剣心は眉間を押さえた。
「左之じゃあるまいし・・・」
「でも、でもっ」
「薫殿」
少し低めの声を出すと、薫の追撃がぴたりと止まった。
それを認めてから剣心は長いため息を吐き出し、いつもの笑顔でこう言った。



「こういうときは素直に受け取ってほしいでござるよ」



やわらかく見つめられ、薫の頬がほんのり色づいたのが分かった。
まともに向き合えないようで、りぼんに視線を落とすふりをして剣心から目を逸らした。
「・・・あ、ありがとう・・・すごく嬉しい」
いつもの男顔負けの勇ましさはどこへやら、はにかみながら礼を言う薫に心臓が跳ねた。



よく『女は二つの顔を持つ』というが、まさかこんな年端もゆかぬ少女にも同じことが言えようとは。



(そりゃ薫殿は可愛らしいとは思うが、それはなんというか男としてではなく人間として平等に見た結果というか)
心のどこかで否定する声が聞こえるが、そちらに耳を傾けたら余計鼓動が早くなりそうで、剣心は必死に他の事を考えた。
だが、涙ぐましいほどの剣心の努力は可憐な少女の笑顔によって脆(もろ)くも崩れ去った。










「剣心からの贈り物だもの。大切にするね」










笑顔はそのままに、浮き浮きとした様子でりぼんを前にかざしている。

『好きな人から贈られたらそれが何であれ、薫ちゃんかて喜んで身に付けるはずや』

いつかの妙の言葉が蘇った。



そんなに喜ぶのは贈ったのが俺だから?



嘘偽りなく己の感情をさらけ出してくれる薫に、駄目だと自制しつつも体が動いた。
「どうし   
迫り来る剣心の瞳に密やかな熱が宿っているのを感じ取り、薫は硬直したまま動けなかった。

それは先ほどのように恐怖からではなく、もっと別の      

剣心の手が薫の肩に触れた。
痛くはないが掴まれる男の力に思わず目を閉じる。
りぼんをどけずにいるのは少女のささやかな抵抗か。
己のものではない髪の毛が薫の頬をくすぐり、唇にはりぼんのさらりとした感触と、布とは違う熱くてやわらかい何かが押し付けられた。



布越しからでも唇のみずみずしさが感じられ、剣心はしばしその感触に酔うた。
薫は驚きすぎて身動きさえ取れないのか、ただじっとしているだけで反応がない。

全くない。



さすがにおかしいと感じ始めて薄く目を開けたが、すぐぎょっとして体を離した。










少女の吐息も何も感じないはずだ。
彼女は息を止めたままで顔を真っ赤にしていたのだから。










「か、薫殿!息して、息!!」
二人を隔てていたりぼんをも取り去ると、
「ぶっっは!!」
大きく息を吐き出した薫には色気も何もないが、その原因を作った剣心としてはそんなことには構っていられない。
「かかかか薫殿ーーーーッ!!??!」



酸素を取り込もうとしてそのまま後方に倒れこんだ少女を間一髪で支えたが、ゆでダコのように染まったまま、薫は再び意識を失った。
そのまま朝まで起きることはなかったが、今度は違う悪夢にうなされていたらしい。



「息が・・・息が出来ない〜・・・」

苦しげに呻く声が剣心の胸にぐさぐさと突き刺さり、金輪際不埒な考えを持つのはやめようと固く心に誓った。



その誓いをいつまで彼が守っていられるかはまた別の話。






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最近体調は悪かないが
心臓が高鳴って参っている

Song:スキマスイッチ