APPROACH



初めての口付けで呼吸困難に陥り昏倒した薫が目覚めたのは夜が明けてからだった。
目を開けて一番最初に飛び込んできたのは剣心の姿。
「剣心・・・?」
彼は薫の声を聞き、ほっと表情を緩ませた。
「具合はどうでござる?」
「うん、もう全然平気よ。本当にごめんね、面倒かけて」

睡眠時間が長かったせいで少し体がだるいが、それ以外は特におかしいところはない。
そんな薫を少し意外そうな目で見ている剣心に気付き、首を傾げた。

「剣心?」
不思議に思って呼びかけると視線を外され、また向き合う。
それを何度も繰り返した後、剣心は言いにくそうに口を開いた。
「・・・薫殿、覚えていないのでござるか?」
「え?お風呂場のことじゃないの?それなら覚えているわよ」
気を失った自分をここまで運んできてくれてそれから、と続けようとした薫の言葉が途切れた。
剣心の言った意味と、自分が今まで意識をなくしていた原因を思い出したのだ。
「!!!」
途端に顔が熱くなり、布団に包まったままで剣心に背を向ける。
それは口で言うより分かりやすい反応だった。



(そうよ、りぼんをもらってそしたら剣心が近付いてきて、でも私は動けなくて・・・え、ちょっと待って!それって剣心と、せせせ接吻しちゃったってこと!?)



「薫殿・・・」
呼びかけたものの、次の言葉が出てこないようだ。
部屋の中に気まずい空気が充満しているのがいやでも感じられる。
剣心もまた、布団を頭から被ってしまった薫を見て対応に苦慮していた。
薫が眠っている傍らで夜通し原因となった行為について自問していたが答えは出なかった。










(何故あんなことを)

目の前で苦しむ薫を救いたかったのか。
いや違う。
りぼんを受け取った薫の笑顔が己に向けられた瞬間、たまらなくなって手を伸ばしたのだ。










(情けない)
これでは婦女子を狙う暴漢と何ら変わりはない。

「すまなかった」
自己嫌悪に陥り、深いため息が吐き出される。

ぴくりと目の前の塊が震えたかと思うと、薫が勢いよく上半身を起こした。
そのまま剣心を見ずにぽつりと一言。
「・・・何で謝るの」
小さな声に顔を上げると、薫も目だけをこちらに寄こした。
険と露を含んだ黒瞳を剣心は無言で受け止めるが、瞠目して酷くうろたえた様子を見せた。
「それは、で、ござるな、つまり」
反射的に目を逸らし、しどろもどろに言葉を紡ぐがそんなことは薫にとって問題ではなかった。



      剣心はどうして口付けたの?
何も答えてくれないのは、後悔しているから?



剣心が自分を見てくれないことにつきりと胸が痛み、再度同じ質問を投げかける。
「何で謝るの?何でこっちを見ないの?」
「それはその・・・今拙者が顔をあげると色々と問題が」
「問題って何よ!いいからちゃんと私の目を見て話して!」
苛立つほどに歯切れの悪い剣心に薫が詰め寄ると、彼は大げさなほど何度も首を振り、仕舞いには体ごとあさっての方向を向いた。
「そ、それは駄目でござるッ」
はっきりしない態度のくせにあくまで拒絶の姿勢を崩さない。
それが余計に薫を激昂させる。
「何が駄目なの!?はっきり言いなさいよ、男なんだから!!」
布団を剥ぎ取り、更に距離を詰める薫に耐えられなくなった剣心が叫んだ。

「か、薫殿、頼むから前を隠して欲しいでござる〜ッ」
「前?」










条件反射で視線を下に落とすと、薫の目に見事なほど肌蹴た寝巻きが目に入った      当然、その下にある二つの膨らみも。










今までの昂ぶりは嘘のように消え、代わりに沸騰しそうなほど熱い血が顔全体に広がるのを感じた。
「い・・・!!!!」
両手で隠し、半身を伏せる。
おそるおそる剣心はと窺えば、彼もまたこれ以上ないほど顔を真っ赤にさせて困りきった声で漏らした。
「これで理由が分かったでござろう?なのに薫殿は拙者の言うことなど全く聞いてくれぬし」
「そういうことは早く言えーーーーー!!!!!」



居間で眠っていた弥彦を起こしたのは軍隊から総攻撃を食らったのではないかと思うほどの大騒音と家屋全体を揺るがすほどの振動だった。



その中に「おろ〜ッ」というどこか場違いな、されど息も絶え絶えな悲鳴を聞き慌てて駆けつけると、そこにはぼろぼろになった剣心が廊下に転がってきたところだった。
スパンと閉めきられた障子の音がこの騒動に終わりを告げたが、部屋の主は一向に出てこない。
しんとした静寂が却って不気味だ。
何度か深呼吸を繰り返して気を落ち着かせると、弥彦は普段と同じように呼びかけた。
「お、おう薫!またいつもの痴話喧嘩で剣心をのしちまったのかぁ?」
だが少年の健気な努力は硝子細工のように粉々に砕け散った。

「弥彦」

部屋の中から響いてくる声は薫であって薫ではないような気がした。
それほど、彼女の怒りが凄まじいということか。
「私がいいと言うまで誰も入れるな・・・分かったか?」
絶対零度の声で命じられ、弥彦に選択の余地はなかった。










幸いなことに剣心の意識はすぐ戻った。
それを待ちかねたように弥彦が事の経緯を尋ねてきたが、剣心は口元をひくつかせただけで逃げるように家事に没頭してしまった。
薫は薫で天岩戸よろしくどれほど声をかけようが部屋から出てこない。
そして剣心に聞こうとしていたことを薫に聞く勇気は今の弥彦には、ない。



片や使い物にならない男、片や天照大神のように閉じこもった女。
救いの手を差し伸べたのは小国診療所で働く美しき女医であった。



「何なの、この家は。昨日の夜にあれだけ大騒ぎしたと思えば今度はお葬式みたいに静まり返ってるし」
昨夜の薫の様子からして今日の稽古が中止になったことは分かる。
掃除をしている赤毛の優男と顔を合わせれば「ああ恵殿、いらっしゃいでござる」と一応普段どおりの笑顔で迎えてくれたが、恵や弥彦から何か聞かれるのを恐れているのか箒を手にしてさりげなく外へ出て行った。
「ま、いいわ。ちょっと上がらせてもらうわよ」
長い黒髪をかきあげ無遠慮に言い放つ恵だったが、弥彦には彼女が天鈿女命に見えた。
が、まっすぐ薫の部屋に向かおうとしているのを見て先回りして前に立ちふさがる。

「い、いや、今はやめといたほうがいいんじゃねえの?薫のヤツ、今朝からすげえ機嫌が悪くて、さっきだって剣心が吹っ飛ばされていたんだぜ」
「そんなの、ここじゃ日常茶飯事でしょ。ある意味、薫ちゃんも普段通りに戻っているってことじゃない?」

弥彦の心配を他所に、さっさと歩く恵の足が薫の部屋の前で止まった。
「薫ちゃんいるんでしょ?入るわよ」
息を呑む気配がしたが構わず障子を開けて中に入る。
「ちょ・・・っ、勝手に人の部屋に入らないでください!!」
「あら、一言断ってから入ったわよ?何も返さないほうが悪いのよ」
いけしゃあしゃあと言ってのけ、恵は背中を向けたまま横になっている薫の傍らに膝をついた。
「何があったかは知らないけどね、今の私は医者としてここに来ているの。そしてあんたは患者。分かるわね?」
      昨日のことでしたら、覚えてます・・・ごめんなさい」
蚊の鳴くような声に、ふぅ、とため息が出た。
「そう思うんなら私の質問にちゃんと答えてちょうだい。今の体調は?どこか痛むところはない?」
「特になんともありません」
「昨日のこと、何でああなったのか自分で分かる?」
恵の質問に背中を向けたままの薫が答えていく。
「大丈夫だと思うけど念のため診ておきましょうか」
返事はなかったが、薫は素直に従った。
ざっと診察してみたが、特に問題はないようだ。
ほっと表情を和ませると、小さな問いかけが聞こえてきた。

「恵さん、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何?稽古なら今日はやめときなさいな」
「いえ、そうじゃなくて・・・寝巻きに着替えさせてくれたのって恵さんですか?」
「そうよ。他に誰がいるの」

恵はさらりと答えた。
おそらく聞かれるだろうと思っていた質問だったからだ。
そして次に来る質問も容易に予測できた。



「でも、皆見たんでしょう?背中の傷」
「まぁね」
これもいつもどおりの口調で返した。



「見たところ傷は塞がっていたようだけど、痛むの?」
「季節の変わり目とかに少し・・・」
「それは仕方ないわね。深い傷だと時々疼くだろうし」
淡々と答える恵に、少女の瞳が丸くなる。
「恵さんは気にならないんですか?どうしてこの傷があるのか、とか」
「聞いたら答えてくれるの?記憶を失くしているのに?」
即座に切り返され、言葉に詰まる。
「それに一番気にしているのはあなたじゃないの?」
「別に気にしてなんかいません!・・・でも普通の女の人はこんな傷ないじゃないですか・・・」
最初は勢いがあった声も段々小さくなっていく。










(全く何て分かりやすい子)
普通の女の人      要は自分と他の女性とを比較しているのだ。
普段は気にしないことが気になる事態というのはつまり。










「お馬鹿」
うつむいてしまった薫の額をぴんとはねると、ふぎゃんっ、という色気のない悲鳴が聞こえた。
「痛いじゃないですかッ」
「あんたがくだらないこと言い出すからお仕置きしてやったのよ」
「く、くだらないって!!」
今にも掴みかかりそうな勢いの薫に対して恵は鼻で笑った。

「だってそうじゃない。あんた、分かってる?仮に背中の傷がなかったとしても女として致命的な欠点がありまくりなんだから。料理が下手くそなのはホント、どうにかならない?剣さんも可哀想よね〜、どこかの誰かさんが家事が全くできないもんだから自分がおさんどんやる羽目になって」
ずばずばと痛いところを突かれ、薫は胸を押さえて呻いた。

「そうそう、人助けもいいけど天下の往来で竹刀振り回すのもどうかと思うわよ。泥だらけの姿なんてまるで男の子みたいだし。しかも汚れた道着は剣さんに洗わせて・・・あんた、女としての自覚ないんじゃないの?」
更に畳み掛けると薫の目は既に潤み始めている。
「ひ、ひどい!そこまで言わなくてもいいじゃないですかッ」
「何よ、本当のことを言ったまでじゃない。悔しかったら少しはまともなもの作ってみなさいよ・・・あらごめんなさい言い間違えたわ。『まともに食べられるもの』を作ってみなさいな」
「うううう・・・・っ、何も言い返せない〜」
布団に突っ伏すとくぐもった泣き声が聞こえた。
完全に撃沈させたことを認めると恵は涼やかな笑みを口元に乗せ、診療道具を手に立ち上がった。



「確かに剣さんもあんたの傷のことは気にしているでしょうね。でもそれは別の意味で、ってことよ」
「別の意味・・・?」



薫の涙目がこちらに向けられたが、恵はそれを見ることなく障子を開けた。
「それは自分で考えることね」
静かに障子が閉められ、足音が去っていったが、薫は今の言葉の意味を考えていた。
「別の意味って何?分かんないわよ、そんなの」
恵の捨て台詞に頬を膨らませ、再び布団にもぐりこんだ。

「・・・・剣心と顔合わせ辛いな・・・」

これから剣心とどう接すべきか      今の薫にはそれしか考えられなかった。







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こんな気持ち 私に教えたのはあなただけ

Song:Dreams Come True