恵が帰ってから薫自身なるべく平素通り剣心と接しようと努めてはいるものの、当の本人と顔を合わせれば動揺しまくりで弥彦から不審げな視線を受ける始末。
剣心は剣心で特に変わった様子を見せない。
まるであの夜のことはなかったことのように。

      結局、剣心からは何も言ってくれなかったな。

何故接吻したのか、その理由を聞かなければ薫の気が治まらない。
が、ややぎこちないとはいえ既に剣心は日常を過ごしている。
いつもと同じ剣心を見ていると聞く気力が失せた。
(剣心にとっては何でもないことなんだわ)
童顔ではあるものの、剣心は28歳というれっきとした大人の男だ。
男女のことを知らぬわけではあるまい。
接吻という行為も誰とでもよかったのだ、と大人びてみても所詮薫は色事に初心な子供。



(私は剣心のようにはできない!)



薫の中でむくむくと猜疑心や不信感が膨らんでくる。
剣心と日々を過ごすうちにいつか爆発して言ってはいけないことまで口にしてしまうかもしれない。
だからこそ、出稽古で家を空けるときには心から安堵した。










守りたいもの



「出かけるでござるか?」
庭から剣心に声をかけられ、ぎくりと体が強張った。
出稽古の日だから、と小さく返すと、左様か、と短く答えられる。
僅かな沈黙でもいたたまれず、早々にその場から去ろうとすると、
「なぁ、剣心も暇なら一緒に来ないか?」
ぐるぐる巻きにされてまるで蓑虫のようにぶらさがっている弥彦が声を上げ、薫の足が止まった。
「前川先生にずっと言われ続けてんだよ。一度、剣心と会ってみたいって」
確かに言われてはいるが、一緒についてこられでもしたら気になって稽古どころの話ではなくなる。

「だからさ、暇なら一緒に      
「絶対ダメ!!!!」

叫ぶように遮った薫に、剣心も弥彦も驚き見やる。
当の本人も自身の声の大きさに驚いたのだろう。
少々決まり悪そうに、だが二人を見ずに言った。
「い、いくら前川先生から毎回言われているっていっても今日いきなり連れて行くのは先生に失礼でしょ?それに、剣心には洗濯と薪割りと風呂焚きもやってもらわないといけないし」
「別にいいだろ。前川先生だってそのくらいで怒る人でもないしよ」
「弥彦」
唇を尖らせる弥彦を宥めるように剣心が穏やかに呼びかけた。
「親しき仲にも礼儀あり、でござるよ」



不意に剣心の視線を背中に感じた。
薫を責めるようなものではなく、むしろ労わりや慈しみを感じる。



薫の動揺や混乱など、とっくにお見通しなのだ。
安心するどころか、却って胸が痛んだ。
      そろそろ行かないと」
努めて無機質に告げると、行ってらっしゃいといつもと同じように送り出される。
それを合図に逃げ出すように家を出た。
「痛ッ!おいっ、いきなり走り出すな!!」
時々ごん、がつっという音が聞こえるのはぶら下がったままの弥彦がどこかにぶつかったのだろう。
荒々しく玄関が閉められる音が耳に届くと、剣心はふぅ、とため息をついた。
「自業自得とはいえ、あそこまで拒まれるとちときついでござるな・・・」
相当怒らせてしまったか、とぼやきつつ洗濯桶を手に井戸に向かった。

剣心とてあの夜のことが気にならないわけがない。
しかし、己に対する薫の異常なまでの警戒心に、普段以上に踏み込めずにいたのだ。

(これ以上はまた薫殿を傷つけてしまう)
これまでの緋村剣心の人生の中で、他人の本心に触れることは数少なかった。
人の心の動きには聡くても本心まで察することが出来ないのは、彼にとって致命的な欠点でもあった。










そして別の場所で、剣心とは違う理由でため息をつく弥彦がいた。










「何でこんなことになっちまったんだよ・・・」
長いため息と共にぼやくと、隣にいる猫目の塚山由太郎という少年から、
「自分の師匠を心配してんのか?悪いけど先生は女だろうが容赦しないぜ」
「タコ。誰が心配してるっつったよ」
「あ?」
ぎろりと睨むと由太郎も負けじと睨み返してくる。

「心配じゃねえ。呆れているんだよ、あのお人好しの考えなし女にッ」

弥彦が指差した先にいるのは六尺(約180cm)以上ありそうな巨漢と対峙している薫。
その巨漢   石動雷十太と名乗っていた   が前川道場に突如現れたのは稽古が始まって半刻ほど経った頃だった。
彼の要求は道場主・前川宮内との手合わせ。
圧倒的な強さを持つ雷十太にあっという間に二本取られ、前川の敗北が決定した。
しかし「人の命は一人に一つ。勝負は常に一本」と己の流儀を貫こうとする雷十太が戦意を失った前川に止めをさそうとした瞬間、薫が飛び出したのだ。



「これ以上やると言うなら、私が相手になるわ」
「馬鹿!何言ってんだよッ」



無論弥彦は止めた。
しかし既に薫は竹刀を手にし、雷十太と対峙していた。
「他流者とはいえ世話になっている道場の危機を放っておけないわ」
そして近くにいた門下生に審判に頼もうとしたが、
「審判など不要。さっきも言っただろう。勝負は常に一本とな」
有無を言わせぬほどの重圧感。
だが薫はそれをものともせず、凛として言い返した。
「あなたがどう言おうとこれは道場の手合わせ。得物は竹刀を使ってもらいます」



薫が正眼に構えると、雷十太もそれ以上何も言わなかった。
ここからは竹刀のみで語り合うのだ。



「勝負!!」
先手は雷十太から。
前川のときと同様、片手だけで豪快な一撃を浴びせてくる。
それを薫は受けることはせず、ただ少し足をずらして避けた。
ズドンと床に竹刀が叩きつけられ、薫の足にも振動が伝わってくる。
これをまともに食らったら前川同様、骨にひびが入るほどの重症になりそうだ。
男より骨が細い薫であれば下手をしたら折れるかもしれない。

だがそれもまともに受けたら、の話だ。

(やっぱり遅い)
二撃目も紙一重でかわしながら、薫は己の考えが間違っていないことを知った。
前川の試合から思っていたことだが、雷十太の剣撃が遅く感じる。
剣速は確かに早いが、かわせなくはない。
威力は絶大だが当たらねば意味を成さぬ。
(何で前川先生はかわせなかったんだろう)
その気になれば打ち下ろした隙に攻め込むことは可能だ。
周囲を一瞥すると気を失った前川以外、目を瞠っている。
(前川先生以上にこの男が強くて・・・ううん、私が強くなっているの?)
これだけの注目を浴びている中、前川より実力が下であるはずの薫がまぐれであろうと一本取ってしまうのは立場的によくない。

できれば引き分けという形で終わらせたい。

真剣に立ち向かっているつもりだが、対等に剣を交えられるということが気を緩ませてしまったのか。
薫の思惑は雷十太にも伝わったようだ。
「勝負、と言ったはずだ。勝負に引き分けなどないッ!!」
今まで右手一本で構えていた竹刀に左手が添えられる。
そのまま大きく振りかぶり      
「ぬん!!!」
両手で構えたことにより速さが倍増した。
「!?」
今までの攻撃とは違うものを感じ、避けるより受けるほうを選んだ。
無論受けきれぬことは分かりきっている。
受けて流す。









そうしようとしていた。
受ける一瞬前までは。










ゆらり。

信じられない光景を見て我が目を疑った。
(竹刀の先端がぶれた・・・いえ、歪んだ!?)
剣撃を受けるための体が無意識のうちに横に飛んだ。
しかし、竹刀だけは間に合わず      



カラン・・・・・



雷十太以外、何が起きたのか理解できなかっただろう。
薫の竹刀が柄部分を残して切断され、それが床に落ちても誰一人として状況を把握できなかった。
全員が呆然としている中、不意に雷十太が己の得物を放り投げた。
「帰るぞ」
「え・・・?あっ、はい!」
同じように呆気に取られていた由太郎だったが、師の一言で我に戻ったようだ。
「何かよく分からないけど、終始攻めた先生のほうがやっぱ上だな」
誰に言うともなく勝ち誇ったように呟くと、
「俺の師匠を見くびるんじゃねえよ。それに、お前らの知らない凄腕の男だっているんだからな」
挑戦的な弥彦に少年特有の闘争心に火が点いたのか。

「お前とはいずれ決着をつけねーとだな・・・首を洗って待ってろよ!」
「フン」

騒動を起こしていった師弟が去っていくと、弥彦は待ちかねていたように薫に噛み付いた。
「オイ薫!何であんな無茶したんだよ!?今回は向こうが退いたからいいものの、あのまま続けていたら・・・って聞いてんのかよッ」
弥彦の怒号に耳を貸さず、薫は竹刀の切断面を食い入るように見つめていた。
他の門下生も落ち着きを取り戻してきたようで、ばっくり裂かれた床の周辺に集まってきた。
「凄え・・・何だこりゃあ」
「まるで真剣を叩きつけたみたいだ」
門下生達の会話が薫の耳にも流れ込んでくる。
しかし真剣ではここまで鋭利な切断面は出来ないだろう。
(そもそも得物は真剣ですらなかった。あの男、一体どんな技を使ったの?)



さっきから体中がざわざわして落ち着かない。
まるで噛みあわない歯車を無理やり合わせたような感覚だ。



一人考えにふけっていると、
「聞けよコラ!」
後頭部を叩かれて悲鳴を上げた。

「人が考え事しているってのに何するのよッ」
「人が話しかけてんのに無視決め込むとはどういう了見だ、ゴルァッ」

今にも噴火しそうな弥彦の真っ赤な顔を見て、どれだけ放っておいたのか知った。
「悪かったわよ!それより、前川先生は?」
見ればいつの間にか姿がない。
「ここの門下生が医者に運んで行ったよ。呼ぶより早いからな」
それより、と眉を逆立てた。
「お前なー、向こう見ずにもほどがあるだろ!?やっぱり剣心に来てもらえばよかったんだ。剣心ならあんな奴、あっという間に」
「そのことだけど弥彦。今日のことは剣心には言わないで」
「はぁ!?お前、あれだけのこと仕出かしといて仕舞いにはそれかよ」

不満たっぷりな様子に思わず苦笑う。
それを見て更に怒りだした弥彦から何笑ってんだ、と突っ込まれた。

ごめん、と一言謝って続けた。
「だってあの雷十太って人とはこれっきりよ?私達とは何も関係ない人だわ」
「じゃあいいじゃねえか。普通に道場破りが出たって普通に話すれば」
「私が試合したって話したら余計な心配させるでしょ。あんたに心配かけたのは悪いと思っているけど」
にこりと笑いかけると、照れたのか明後日の方向を向いてぼそりと吐き出した。
「べ、別に心配なんかしてねえよ・・・」
先程とは違う理由で赤くなっている一番弟子の頭をぽんと軽く叩くと案の定、苦情が出た。



(あまり剣心に『戦い』に関することは聞かせたくない)
弥彦にはこれっきりと言ったが、万が一ということもある。
自分のところで食い止められるなら、なるべく剣心は巻き込みたくなかった。
もし自分が強くなっているのが事実であれば、不可能なことではない。
それは接吻されたこととは関係なく、薫が常日頃抱いている願いだ。



「それじゃ剣心には話さない方向でよろしくね。さ、そろそろ引き上げましょうか」
門下生に前川への見舞いの言葉を託して、薫と弥彦は道場を後にした。










そして雷十太もまた、秘剣「飯縄」をかわされたことに動揺していた。
(あれが避けられたのは初めてだ・・・是非とも我輩の「真古流」に加えたい逸材だ)
今頃由太郎が調べていることだろう。
己が手合わせした神谷薫という少女の素性を。










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誰かをずっと信じて 喜びが聞こえるなら
傷つくことを今は怖がらず あなただけは守りたい

Song:青山 テルマ