夏のある日、箸が折れた <3>






岡部の父親の元に剣心は既になく、屋敷中探し回った結果、彼は風呂場にいた。
老父から「風呂に入りたい」と注文を受け、言われるままに風呂を沸かしていたというのだから、その話を聞いたとき薫は体を二つに折って笑い転げた。



「拙者とてすぐ使用人ではないことを説明しようとしたのでござるよ?しかし、他の者は忙しそうだったし、風呂焚きなら慣れているし・・・」



憮然として言い訳する剣心に、
「だからって真っ正直に風呂焚きなんてしたら他の人だって絶対剣心のこと、同じ使用人だと思うわよ〜!第一、普通の剣客は剣心みたいに風呂焚きなんてしないだろうし」
おかしそうに肩を震わせている薫にこれ以上何を言っても無駄と判断し、剣心は仏頂面で茶をすすった。

「父と母には事情を説明しましたし、他の使用人もこれ以上お二方に対して無礼を働くことはないでしょう。どうぞ安心してお寛ぎくださいませ」
「まーせぇー」

不意に舌っ足らずな声が聞こえ、その場にいた全員がきょとんとした表情になった。
何事かと思って縁側のほうを見やると、小さな手を泥だらけにして慶介の小さなおつむが覗いている。



「慶介?お前、水浴びしていたはずじゃ・・・」
「これ、慶坊・・・慶介!」



部屋を出た岡部が我が子を抱き上げると同時にかづが飛び込んできた。
そしてすぐに客の前だと言う事実に気付き、ぺこりと頭を下げる。
「大変失礼致しました」
「かづ、慶坊に水浴びをさせたんじゃなかったのか?」
「ええ、一度は水浴びさせたんです。それが着替えが終わると止める間もなく外に飛び出してしまいまして・・・・」
「なるほど、またいつもの遊びか」



めっ、と慶介を軽く睨むが、その目は笑っている。



「あの、いつもの遊びって?」
薫の問いかけにかづが手拭いで息子の手を拭いてやりながら答える。
「どういうわけか、穴掘りが好きでして。細い小枝を見つけてしょっちゅう穴を掘っていますの」
「穴・・・ですか?」
不思議そうな顔をする薫に、苦笑した岡部が後を続けた。
「このくらいの年の子供が何をして何を好むか、親の私どもでも分かりません。でも本人はそれが一番楽しいらしいのでしばらく好きにさせておこうかと」
庭が穴だらけになるのがたまに傷ですが、と言ってかづと顔を見合わせて笑った。
薫はそんな岡部一家を見てそう遠くない未来に思いを馳せた。










今はまだだけど、そのうち剣心と岡部さん達みたいな温かな家庭を      










ちら、と剣心を見れば、彼もまた目の前の家族に見入っていた。
薫の視線に気付くと、ぱっと顔をそむけ照れ臭そうに鼻の頭をかいていたが、すぐに笑顔を返した。
薫もまた笑顔で応える。
どうやら考えていることは一緒だったらしい。

かちり、と時計の針が動いた。

その音に誘われるようにして壁にかけられている時計に目をやり、剣心は傍らに置いた逆刃刀を手にして立ち上がった。
「では岡部殿、拙者達はこれにて」
薫も同じように立ち上がり、
「長々とお邪魔して・・・・」
と岡部とかづに頭を下げる。



「いえいえ、こちらこそ助けていただいたのに却ってご迷惑をおかけし」
不自然に言葉が途切れたのはその視線の先に何かを認めたからか。



失礼、と一声発して岡部は障子を閉めた。
剣心と薫が顔を見合わせると同時に、鋭い声が響く。
「かづ!ああ、恭介でもいいわ、これを見てちょうだい!」
見なくても分かる。
この声は岡部の母親だ。
小走りに近づく足音にもう一つ比較的ゆっくりとした足音が聞こえる。
どうやら父親の方もついてきたらしい。

「慶介は今まで外にいたのね?」
「奥・・・いえ、お義母様、一体どうなさったのです?」

遠慮がちに尋ねるかづの声が神経に障ったようだ。
もともと甲高い声を更に高くして言い放った。
「慶介が、私の箸で遊んで折ってしまったんですよ!!外でひと騒動あったのは知ってますけど、それから中庭には誰も行っていないのでしょう?」
「まさか、慶介がお義母様の箸を外で見つけてそれで遊んで折ってしまったと?」
さすがにかづの声が硬くなった。
「他に考えられないでしょう?こんな小さな子供に中庭に行くなと言って聞き分けろと言うほうが無理なんです!」
一方的な物言いに岡部も反論する。
「馬鹿なことを言わないでください。確かに慶介は大人の言葉が分からない子供です。だからこそ、こんな小さな子が小枝より硬い箸を折ることなどできるわけないじゃないですかッ」










障子を挟んで聞こえる声に、これは少し詳しく話を聞いたほうがいいのかもしれん、と考え始めていた。
他人の家庭のことに口を出すつもりは毛頭ない。
だが、この諍(いさか)い事をどうにかしないことには剣心も心にしこりが残って帰るに帰れないだろう。

帰りはもう少し遅くなるか、とも思ったが薫も同じ気持ちであろう。
何といっても、彼女は自分より遥かにお節介焼きなのだから。

ふ、と苦笑つつ薫の顔を見て、すぐ笑いを引っ込めた。
剣心とは対照的に彼女の顔が見る見る青ざめていったからだ。



「薫殿、如何(いかが)した?」
だが薫は答えない。
唇を真一文字に結び、無意識の内に握り締めた両手が小刻みに震えていた。



「薫殿!?」
どこか具合でも悪くなったのかと思い、その肩を掴んで彼女の顔を覗き込むと、そこでやっと剣心に気付いたようだ。
「だ、大丈夫・・・大丈夫よ、剣心・・・・」
安心させるように笑おうとするがうまくいかない。

「緋村様、どうなさいましたか?」

中の異変に気付いたのだろう。
障子が開けられ、外の空気が流れ込んできた。
酸素を求めるように薫の胸が何度か上下する。
それを数回繰り返すと少し落ち着いたらしく、まだ青い顔のままではあったが薫はしっかりとした口調でこう言った。



「すみません、その折れてしまった箸・・・・・見せていただいてよろしいでしょうか?」



岡部は何かに思い当たったようだったが何も言わなかった。
そんな息子と思いつめたような客の表情を見比べ、やがて折れた箸を差し出した。
「これですが・・・あなた、何か心当たりでも?」
老母の問いには答えず、薫は折れた箸を凝視した。











箸は真ん中から真っ二つに折れていた。
折れた箸は鼈甲(べっこう)で作られたもので、小ぶりでもう何年も使い古した感じがある。
全体的に泥で薄汚れているが、特に箸の先端部分に汚れが集中しているようだ。
先端だけ著(いちじる)しく泥が付着していることを不思議に思わないでもなかったが、庭に落ちていたなら泥が付くのは当たり前と考え、それきり汚れのことは頭から消えた。



薫はその箸の形を確かめながら中庭で自分が踏んだ時の感触を思い出した。



自分で確認したわけではないから確かではない。
だが       










「私、散らばった小物を拾うとき、一緒に手伝ったんです。その時、何か踏んだと思ったんですけど、もしかしたらこれのことかも       

全員言葉を失った。
いや、幼い慶介は何も分かっておらず、ただ父親に抱かれて嬉しそうに「あー、うー」と声を上げていた。
その無邪気な声が余計にこの場の空気の重さを知らしめていた。

「・・・・・つまり、あなたがこの箸を踏んだせいで折れた、と?」
老母が呻くように声を絞り出した。
息子夫婦の命の恩人に対する礼儀として言葉を選んでいたが、それでも薫を見つめる瞳に非難の色が見え隠れしている。
すかさず剣心が薫に問う。



「『何か』と言うことは、その時踏んだものを薫殿は見ていないのでござろう?」
「う、うん。確かめようとしたんだけど他にもまだ拾い残したものがあって、私が動いてそういうものを踏んじゃうかもしれなかったから、怖くて自分じゃ見られなかったの」
「ならば、薫殿の踏んだのは別のものかもしれぬ。自分で確かめなかったものに対して自分がやったかもしれない、と思うのは早計でござるよ」



不安に揺れる薫に剣心はやさしい声で包み込む。
「でも、実際箸は折れているし、私は踏んだものを確かめていないし、それを考えたらやっぱり私が踏んでしまったことも充分考えられるし」










自分で確かめていないが故に生まれる二つの可能性。

人間というのは良心がある分、実際はどうであれ、自分に責任があることを考えてしまうのだろうか。
しかも他に疑いをかけられているのが年端もゆかぬ幼子であれば、自分の方に非があると考えてしまうのは無理もないことかもしれない。










「やっぱりどう考えても私かもしれないわ。さっき岡部さんも言っていたけど、力のない慶介君に箸を折るのは無理よ」
「確かに慶介に箸を折るのは無理ですけど・・・・・気づかずに踏んでしまったという可能性で考えれば私だって       
「やめなさい、かづ!!!」



薫を気遣って他の可能性を挙げるかづに岡部の厳しい声が飛んだ。
玄関先で両親を諌(いさ)めたときも強い口調だったが、ここまで声を大きくしたのは初めてだ。



抱かれている慶介が驚き、次いで顔が泣きそうに歪んだ。
そんな慶介を安心させるように軽く頭を撫で、声を落とした。
「奥様が包み隠さず話してくださったことに対して口を挟むのは失礼だろう。お前はこれほどまでに聡明な奥様の顔に泥を塗りたいのか」
間髪いれずに剣心の声が岡部の言葉に被(かぶ)さった。
「岡部殿、まだ箸を折ったのが薫殿と決まったわけではござらん。薫殿はあの時の状況を説明しているだけでござる」
「剣心、でも」
何か言い募ろうとする薫を片手を上げて制した。



「落ち着いて、もう一度最初から思い出してみてほしい」



やさしい声はそのままに、剣心の穏やかな笑みで薫の心が落ち着いていく。
『自分がやったのかもしれない』と不安と恐怖に駆られ、思考が正常に働かなくなっていた。
でも今は、道場で竹刀を構えているときと同じように静かな精神状態に戻っていた。

そんな中、薫と同じようにはできない人間がここに一人。










「ああもう!慶介かと思えばお客様、お客様かと思えば今度はまた別の人・・・・もう誰でもいいわよ、正直に名乗り出てくれれば・・・ッ」










心底疲れたように頭を押さえているのは岡部の母親だ。
見た目同様、今回の件に関してかなり神経が参っているのだろう。
それでも犯人を探し出そうという母親を見て苛立たしくなったのか。
「母さん、いい加減にしてください。たかが箸一本で何ですか。同じようなものなら他にも何本も持っているじゃないですか」
呆れたような息子の口ぶりに老母が目を剥いた。
「あれはただの箸じゃないわ!お前のおばあ様・・・つまり私の母からもらったこの世でたった一つのものなのよ!」
       え?」
老母の言葉に、落ち着いたはずの胸が再びさざめいた。
取り返しの付かないことをしてしまったという思いが薫を支配する。



大切な箸を私が折ってしまった       



沈痛な面持ちの薫に剣心の心もちくりと痛んだ。
箸を折った張本人を探すことは情報さえ手に入れば容易(たやす)く片付く問題だ。
が、その結果誰か一人でも傷つくことになれば薫は自分の無実が証明されても手放しで喜べないだろう。



いや。
仮にそうなっても彼女に気付かれなければいいだけのこと。



深とした光が剣心の瞳に宿った。










そのためなら嘘もつこう。
誰かを傷つけたって構わない。



薫が悲しまずに済むなら、ずっと笑顔でいてくれるのなら



俺は何だってやる。
やってみせる。










剣心の密かな、そして危険な決意を薫は知らない。
薫の中にあるのは自分が折ってしまったかもしれない箸の弁償と、母親の形見を失くした老母への贖罪だけだ。
「この家に嫁してからしばらく肌身離さず持っていたけど、ある日姑に『職人の妻なら夫の作ったものを身に付けなさい』と言われてねぇ・・・これだけ別の箱にしまうとまた何か言われそうだったから他のものと一緒にしまっておいたんだよ。それがいけなかったのかしらね」

すっかり意気消沈してしまった老母がのろのろとその場にへたりこんだ。










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ひとまず事件編。
今の時点で「謎は全てとけたッ」という方はいらっしゃるかと思いますが、他のお客様もいらっしゃいますので推理結果は最後まで胸の中にしまっておいてくださいませ。

どうしても叫びたくてうずうずしている方は宿の手紙処から女将宛にメールいただければ答え合わせ(?)いたします←いないと思うけど;

あ、でも「真相教えて!」という問い合わせにはお答えできません。念のため。
・・・読み返してみると推理っていうより嫁姑関係について書いているような気がする・・・
尚、前回ミニクイズの正解はBでした(だから何だ)



そして皆様、お気づきでしょうか?
今回の挿絵!!
こちらは「FEEL-BLOOM」の西綴様に描いていただきました!!
「ほんのちょこっとしたイラストが欲しいんだけど・・・」
ぽろりと零したこの一言に、
「描くよ〜」
と西綴様からありがたい申し出がッ
神速で食いついたのは言うまでもない( ̄▽ ̄;)ははは
ちなみに折れる前の箸はコチラ↓



見せてもらった瞬間、
「おおっ、すごい!!」
と思わず声に出してしまい、あわてて口を押さえました・・・隣に聞こえたかもしれない(^^A;アセアセ
西綴様、ありがとーーーーーう!!!!