夏のある日、箸が折れた <4>



「形あるものはいつかは壊れる。そんなことは分かっていますよ。でもやっぱりこれは私にとっては特別な箸だったんですよ・・・」
玄関先で見た時とは違い、一気に十は老け込んで見える老母に対し、何かせずにはいられなかったのだろう。
薫の唇が動いた。
「分かります、私も母を亡くしていますから」
ぽつんと紡がれた言葉に老母は顔を上げた。
薫は同じようにその場にしゃがみこみ、髪に飾ってある櫛を取った。



「これ、母の形見なんです。普段はつけないんですけど、今日は両親のお墓に行ってきたので・・・・」



鮮やかな色を塗ってあるわけではないし、金箔や螺鈿を貼り付けているわけでもない。
それでも本来木が持っている木目を活かし、野に咲く草花を浮き彫りにしてある。
丁寧に、繊細に彫られた草花は、風が吹けばそれにあわせてそよぐよう。
それほど見事な彫り細工であった。



「ほお、凝った造りの櫛ですな」
それまで黙っていた老父が薫の手にある櫛をまじまじと見つめた。
職人として興味を引かれたのだろう。
だが夫としてではなく一人の職人として薫に接する姿を見た瞬間、老母は逆上した。

「あなたって人は・・・・こんな時によくのんきに人の櫛なんて見ていられますねッ」

感情のままに櫛を叩き落とした。
「あ・・・ッ」
薫が手を伸ばしたが虚しく空を掴んだだけであった。
櫛は勢い余って縁側から地面へと落ちていった。
剣心が素早く地面に降り立つ。
薫もまた身を乗り出して櫛の行方を捜した。
叩き落してしまった岡部の母親も少々やりすぎたと感じたのだろう。
この場にいる全員の視線が地面へと集中した。










彼らが見たものは、歯が欠けてしまった櫛の姿だった。










落ちただけで歯が欠けてしまったのは運が悪かったとしか言いようがない。
が、そんな言葉だけでは済まされないことは全員が分かっていた。
分かっているが、何を言っていいのか言葉が見つからない。

真っ先に動きを見せたのは薫だった。
彼女は剣心と同じように庭に降り立ち、櫛と欠けてしまった歯を残さず拾い集め、それらを手拭いにくるんで大事そうに懐に仕舞った。

「あ、あの、私、そんなつもりでは」
老母が掠れた声を出す。
先ほどとは立場が逆転してしまっていることに彼女は気付いているだろうか。



「申し訳ございませんッ」



慶介を下ろした岡部が土下座して頭を床にこすり付けている。
「いくら気持ちが荒ぶっていたとはいえ、同じように奥様の大切な櫛を壊してしまうとは・・・!母に代わりまして、私がお詫びを!!」
同じようにしてかづも平伏している。
「重ね重ねお詫び申し上げます・・・ッ」
若い夫婦が揃って薫に頭を下げている。
「恭介、かづ・・・・・」
呆然としていたのは岡部の母親だけではない。
薫もまた突然土下座され、驚いて声が出ない状態だった。
それでもすぐ我に返り、慌ててとりなした。



「や、やだ!顔をあげてください。私は大丈夫ですから!」
「いや、しかし・・・・・」
「確かに大事なものですけど、もういつこうなってもおかしくない櫛だったので。だから、岡部さん達が気になさることはないんですよ」



早口で言い切って、安心させるようにふわりと笑った。
それでもまだ言いたそうにしている岡部とかづの視線を避けるようにして薫は老母と向き合った。
折れた箸を目にすると、薫の表情が曇る。
「箸・・・本当にすみませんでした。何か出来ることがあればおっしゃってください」
ぼんやりとしていた岡部の母親だったが、薫が頭を下げるとはっとして、
「ああ・・・・いえ、こちらも申し訳ないことを致しました。息子の言うとおり、たかが箸一本でこうまで騒ぎ立て、挙句お母様の形見の櫛を」
「それを言ったらお互い様です。でも、そちらの箸は継ぎ目をすればまだ使えそうですし・・・・あ、すみません、軽々しいことを言って」
しまった、と言うように口に手を当てると、その仕草がおかしかったのか老母の口元が綻んだ。
「そうですね、継ぎ目のことは気付きませんでした。うちの人も息子も職人の端くれですから何とかしてもらいますよ」
そう言って目を向けた先には彼女の夫がいた。
まかせておけ、と言いたげに力強く頷く。

「ご主人の腕はかなりのものとお見受けする。きっと見事な箸に生まれ変わることでござろうな」
「出来上がったら真っ先にお見せしましょう」
「楽しみでござるな」

そうね、と薫も頷いた。
今までの刺々しい空気が嘘のように消えていた。










剣心と薫が岡部の屋敷を辞す時、家族全員が門で見送ってくれた。
辺りは既に暗く、岡部も今夜は泊まっていかれませんかと勧めてくれたが二人は丁重に断ったのだ。




















ずっと見送ってくれている岡部一家に時折振り向いて笑顔で手を振っていたが、屋敷が完全に見えなくなると、ふう、と一息ついて、
「すっかり遅くなっちゃったわね・・・」
と言って歩調を遅くする。
剣心も薫に合わせて隣を歩く。



「何だか今日一日、色々あったわね」
「そうでござるな」
「お墓参りが終わって歩いていたら悲鳴が聞こえて」
「ああ」
「そしたら岡部さんが男達に襲われていて」
「危ういところで助かってよかったでござるな」
「岡部さんをお屋敷まで送ったら今度はご両親に使用人に間違えられて」
「まさかここまできて風呂焚きをすることになるとは思わなかったでござるよ」
「私が岡部さんのお母さんの箸を折っちゃって」
「・・・・薫殿が折ったという証拠は何もない」
「この櫛も、もう使えないわね」
「・・・・・・・」



会話がかみ合っているようでかみ合っていない。
まるで、薫の独り言に剣心が相槌を打っているようだ。
不意に薫が立ち止まった。
「本当に色々あって、何だか疲れちゃった」
うつむいた顔からは表情が読み取れない。










「・・・・・・疲れちゃったよ・・・・」










消え入りそうな声を最後に、薫はその場から動こうとしない。
何か言いたげに剣心の口が開いたが、それは声にならず、彼もまた目の前の少女と同じように立ち尽くしていた。
ざわざわと夜風が涼を運ぶ。
だが昼のそれとは違い、人の心を凍てつかせるような冷気を伴っていた。
口を閉ざした二人を包むのはこの時期には似つかわしくない冷たい空気。



「・・・疲れたでござるか?」



薫は答えない。
答えがないことは既に予測できていたようだ。
しばし彼女を見つめていたが、くるりと背中を向けるとそのまましゃがみこんだ。
「さあ、薫殿」
「・・・・・何しているの?」

呆気に取られている声が背後から聞こえた。
顔だけ向けると目を丸くしている薫と出会った。

「疲れたのでござろう?家までまだあるゆえ、拙者が背負っていこうかと」
からりとした口調で言うと薫は今言われた言葉の意味を必死に考えているようだった。



「あの・・・誰が、誰を、背負っていくって?」
「もちろん、拙者が、薫殿を、背負っていくのでござるよ」



同じように単語を区切って答えるとようやく理解出来たらしい。
暗闇でも分かるくらい薫の頬が染まっていく。










「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いいわよ!そんな子供じゃないんだからッ」
「そんな遠慮せずとも・・・夫婦ではござらんか〜」
「遠慮なんてしてません!ていうか夫婦は関係ないでしょ!?」
わざとらしくしょぼくれる剣心に薫がいつもの調子で突っ込みを入れる。
「やれやれ、背負って帰るくらいどうということはないのに・・・・」
よっこいしょ、と腰を上げる剣心に、
「結構よッ」
と真っ赤になって声を張り上げた。



「それでは」
振り向きざま手を差し出す剣心をきょとんとして見つめる。



「せめて手でも繋いでゆかぬか?こう暗いと隣に薫殿がいても何やら心もとない」
心もとないのは薫も同じだ。
月はあるが、今夜は三日月が細く出ているだけであって辺りを明るくするにはやや光が足りない。
だがそう感じるのは薫だけであって、剣心にとっては散歩するのと同じように軽い足取りで進んでいくことだろう。
その彼が「手を繋いでいこう」と言うのはそれなりの意味がある。










一つは夜道で薫が転ばぬように。
そしてもう一つは       










しばしの間、薫は剣心の顔と彼の手を交互に見比べていたが。

「こんなに暗いんじゃ仕方ないわね」
困ったように笑ってみせてから差し出された手に自分の手を乗せると、
「では、行こうか」
剣心が手を引いて歩き始めた。



彼の手には何度も触れているし、馴染みのある温もりだ。
それが今夜は無性に心に染みて、胸が詰まる。



少し大きな剣心の手が、静かな彼の思いやりが薫の心を癒していく。
「・・・・・ありがとう・・・・・」
ひっそりと口の中でつぶやいたつもりだったが、
「ん?」
聞こえるはずがないのに首だけ回してこちらを見た。
驚いたことを悟られないように勢いよく首を振って、
「何でもない!」

そして顔を見られないように今度は薫が剣心の手を引っ張った。

「ほら、早く帰りましょ!」
「おろろ、薫殿、そんなに引っ張ったら転ぶでござるよ〜」
「私が転んだら剣心も一緒に転ぶからいいもーん」
「・・・・それって拙者も道連れってことでござるか?」
情けない声を出す剣心を見て薫は笑い声を上げた。
それは岡部一家との別れ際に見せた偽りの笑顔ではない、本当の笑顔だった。





















岡部がかづと慶介を伴って神谷道場に現れたのはそれから十日後のことであった。










家のことは何も話していなかったので、岡部が訪ねてきたときは二人とも驚いた。
ひとまず居間に通し、話を聞くと、
「こう言っては緋村様は気分を害されるかもしれませんが・・・・やはりそのお姿は人目を引きます。家の者を使って近隣の町を調べさせましたところ、こちらに緋村様によく似た容貌の方がいらっしゃると聞きまして」
「なるほど。岡部殿の読みは見事的中でござるな」
確かに剣心の容姿ならば一度見たものなら記憶に残る。
「申し訳ございません。拙宅においでいただいたとき、こちらからは何もお聞きしていなかったのでこんな探るような真似を・・・・」
恐縮しきっている岡部に剣心は穏やかな笑みで気にしていないことを伝え、今日の用向きを尋ねた。



まずは先日、剣心と薫に不愉快な思いをさせてしまったことを改めて詫びた。
そしてもう一つの用件は、
「近々郷里(くに)に戻ることになりました。いつもならもうしばらく滞在しているのですが、得意先から急な仕事が入ってしまい、そのために予定を早めることになりました」
ということだった。



「そうだったんですか・・・発(た)たれるのはいつ頃?」
「はい、来月の初めには発つ予定です」
「来月といったらもうすぐじゃないですか。じゃあ今頃お屋敷は出発の準備で大変でしょう?」
薫は屋敷で見た膨大な量の着物を思い出した。






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「自分のことより人のこと」

剣心もそうですが、薫もそうやって他人のことを思いやっています。
今回、母親の形見である櫛を失いましたがそれでも明るく笑ってみせる。
それは櫛を壊す原因となった岡部の母親やあまりのことに言葉を失った周囲の人間を慮(おもんばか)った結果です。
帰り道にはかなり落ち込んだ薫がいますが、自分自身書いているときに「これは落ち込ませすぎかな?」なんて思い書き直そうとしました。
薫だったら剣心に心配をかけまいとして朗らかにしているんじゃないかな、と。

でもよくよく考えてみると薫はまだ17歳。
現代で言えば高校生です。

師範代として道場の看板を背負い、σ(^◇^;)が同じ年齢であったときよりもしっかりとしたお嬢さんですが、だからと言って何にでも耐えられるほど強くはないと思います。
思い出は自分の中にあるのは分かっているけど、それでも大切な人の面影を残す形見を失ってしまったとき、人は果たして平静でいられるのか。
こればかりは実体験をした人でないと分かりませんし、人それぞれの感じ方があります。

言い訳が長くなりましたが、そんなわけで今回のようになったわけです。
岡部一家の前ではなんでもないように振舞っていても剣心の前では弱い自分を見せている・・・・要はそれだけ剣心に心を許しているということで(笑)