LOVE PHANTOM <2>









父が遺した遺産で生きていくことは出来るが、それよりも父が過ごしたオペラ座に加わることで少しでも父と同じ時間を共有したかった。

どんなに辛いことがあってもオペラ座を出て行かないのはこういった理由があるからだ。
それでも毎日同じ事で責め立てられるのはいい気分じゃない。










支配人室の前に立つと、舞台に上がるかのように深呼吸をしてドアをノックした。
「薫です」
「入りなさい」
「失礼します」



短い問答の後、ドアを開けると目の前にはいつものように支配人が椅子に腰かけ       ていなかった。



今日の彼は支配人席の机の傍らに立ち、彼が座るべきその席には別の人間が腰かけている。
もっとも、その人物は背中を向けているためここからでは椅子の背もたれしか見えないが。
「副支配人からここに来るよう言われました。何か御用でしょうか?」

いつもと状況が違うが、ひとまず薫は口を開いた。
状況は違うが、どうせ言われるのは同じことだろう。

「今日の舞台のことでしたら      
「いや、舞台は実によかった。これからもこの調子で頼む」
切り出した薫を、半ば慌てた様子で支配人が遮った。
眉をひそめて支配人を見ると、彼はだだっ広い額に浮いた汗を何度もハンカチで拭いている。
「君を呼び出したのは他でもない。実はこの方が今日の舞台で踊っていた君に是非会いたいとおっしゃってね」
支配人席にいる人物をちらちらと横目で様子を窺っているのを見ると、どうやらこの人物は彼にとってかなり気を使うべき相手らしい。
次に発せられた支配人の言葉でその理由を知った。



「シャニュイ子爵だ。君も知っているだろう?」



オペラ座に関わるものなら誰でも知っている。
シャニュイ子爵はこのオペラ座のパトロンである。
だが、名前は知っていても実際にその姿を見るのは初めてだった。

「視察に回ることもあったから顔は知っていると思うが」

確かにオペラ座に来たことはあるらしいが、本人が来ると他の踊り子達が我先にその姿を見ようと身を乗り出すので、薫も見ようとしてもいつも彼女達に阻まれてまうのだ。
見目麗しい青年だと踊り子達はのぼせていた。
そんな話を聞いたことがあるが、所詮は貴族。
薫とは縁のない人物のはずだ。



そんな人が私に何の用が?



自慢じゃないが、踊りの方は飛びぬけて上手いというほどじゃない。
ふと、舞台の前に言われた言葉を思い出した。










         お客さんから買われるのを支配人は期待しているんじゃないかしら?










ごく稀(まれ)に貴族の観客から名指しで指名される踊り子がいる。
そうするとその踊り子は貴族の寵愛を受け、金銭的に援助を受けられる。
そして踊り子はベッドの中でパトロンと熱い夜を過ごす。

寵愛を受ける、と言えば聞こえはいいが実際はココット(娼婦)と同じだ。










東洋人の女も悪くないと貴族の気まぐれで自分は買われるのだろうか。
まさか、と薫は頭に浮かんだ考えを振り払ったが、それでも背中に冷たい汗が流れた。
色んな考えが浮かんでは消え、いつの間にか支配人が部屋を出て行ったことにも気付かなかった。










ぎし、と椅子が鳴った音ではっと我に返ると、今まで座っていた子爵が立ち上がったところであった。



月の光のようなシルバーブロンド。
その髪の色は黒のタキシードによく映えた。
すらりとした長身からは長い手足がしなやかに伸びていた。



皆が熱を上げるのも無理はない、と思いながら彼を見ていた。
が、これから己の身に降りかかるやもしれぬ奇禍(きか)を思うと緊張が走る。
ごくん、と唾を飲み込んで思い切って問うてみた。
「私に何か御用でしょうか、シャニュイ子爵」










この後紡がれた言葉で私の運命が決まる         
そう思って身構えていると。










      ふっ。

ともすれば聞き取れぬほどであったが、それでも紛れもない笑い声だと悟り、薫の目が丸くなる。
一度吹き出すと、子爵はおかしそうに肩を震わせた。
そして何とか笑いを引っ込めると、体ごと薫に向き合ってこう言った。



「負けん気ガ強いところは相変わらずダナ、薫」



発音が少し怪しいが、子爵の口から紡がれたのは間違いなく日本語。
更に彼の顔を見て、固かった薫の表情が驚きに変わる。
「縁・・・あなた、縁なの!?」
思わず薫も日本語で答えた。
薫の問いを肯定するように縁は口角を上げる。
「覚えていてくれたノカ」
嬉しそうに近づいてきた縁に、薫も微笑を返した。















縁とは昔、まだ父が演出の勉強をしていた頃に出会った。
彼の両親は既になく、唯一の肉親である姉・巴とともに彼女の嫁ぎ先であるこの国に渡ってきたのだ。
巴の夫は貴族で、いくつかの企業を興した事業家でもある。
貴族の妻となった巴同様、縁も貴族の一族に迎えられた。
身分こそ違えど、年も大して違わず、同じ日本人ということも手伝って縁と薫はたちまち仲の良い遊び友達となった。



当時は薫も緑溢れる田園地帯で暮らしており、果てしない青空とどこまでも走っていける草原は子供にとって絶好の遊び場であった。



澄んだ空気は、療養にも最適と言える。
縁の姉・巴も体が弱く、療養のためかの地で過ごしていた。
巴は新鮮な空気と穏やかな時間の中で体力を取り戻していった。

だが、同じように療養していた薫の母が亡くなり、薫は父と共にこの地を離れることになった。
泣きながら別れを惜しんだが、それっきり縁と出会うことはなかった。















目を閉じれば幼い自分と縁が手を取り合って遊んでいる情景が目に浮かぶ。
「ああ、本当に縁なのね?髪の色が違うから一瞬分からなかったわ。そうだ、お姉様はお元気なの?」
薫も数回会ったことがある。

美しい人だったが、あまりにも儚くて今にも消えてしまいそうな雰囲気を身に纏っていた。

だが、療養の甲斐あってか、青白かった顔は生気を取り戻し、肌色もつやつやして回復するのも時間の問題と思われた。
きっとやさしい旦那様との間に可愛い子供を儲けたことだろう、と想像していたのだが。










「姉サンは死んだヨ。薫ガ去ってから間もナク、眠るようニ逝ってしまっタ・・・・・俺を残シテ」










愕然とする薫に、困ったように笑いかけて縁は続けた。
「髪は姉サンが死んで、あまりのショックで色が抜け落ちたラシイ。そんな顔するナ、コノ髪の色のお陰で誰も俺が日本人だと思わナイ」
縁の手が伸び、薫の頭を優しく撫でた。



昔、薫が泣くたびに縁が今と同じように頭を撫でてくれた。



それを思い出し、薫も小さく笑い返す。
「・・・・・それにしても驚いたわ。まさかこの劇場のパトロンであるシャニュイ子爵があなただったなんて」
幼かった頃は相手の家柄は分かっていても家の名前まで知らなかったのだ。
「俺もここニ薫がいるとは思わなかっタ。義兄に命じられて先月こちらニ来たばかりだからナ・・・・・シカシ、このオペラ座ハどうなっていルンダ?正体不明の男にオペラ座の全てヲ任せるとは・・・」
「不思議でしょ?でも、彼は確かにいるのよ。お父様の遺言も最初は誰も気に留めなかったの。でも、そのうち『オペラ座の怪人』と名乗る人物から小包が届いて      




















そこには遺言書にあった通り台本や舞台音楽で使われる楽譜、そして舞台に使う大道具や出演者が纏う衣装、小道具まで細かく指示してあった。
支配人が目を通した台本は素晴らしく出来のよいもので、指示された音楽や舞台装置も文句のつけようがなかった。
舞台は怪人の指示通りに進むはずであった。
が、ここで一つ問題が起きた。



配役である。



この時、とある歌姫が人気を博しており、支配人としては彼女を主役にするつもりだった。
ところが怪人からの指示は、踊り子の中にいる一人の地味な娘であった。
彼曰く、この娘なら主役のイメージにぴったりの声を持っており、歌のセンスもあるとのこと。
遺言書には怪人の指示通りに、と書かれていたが名も知られていない娘を使うより確実に稼いでくれる歌姫に主役をやらせた方がいいと、支配人は怪人の指示を無視しようとした。



「災いが起こるであろう」などと遺言書に書いてあったのは前演出家が自分の後継者を熱心に推すあまりそう記しただけに違いない。



そう自分で結論付け、主役はその歌姫に決まった。
支配人が自分の行為をひどく後悔したのはそれからすぐのこと。










数日後、怪人から送られてきた舞台資料が消失したのだ。
しかもオペラ座にある全てが。










台本がなければ舞台の進行が分からないし、製作途中の大道具は資料がなければ作業が進まない状態であった。



これでは公演出来ない       



支配人が頭を抱えていると怪人から彼宛に手紙が届いた。
中身を読んで驚いた。
何と、資料を奪ったのは怪人本人だと言うのだ。
更に文面を読み進めるとこう書いてあった。











『どうやら私の希望が伝わらなかったようで非常に残念だ。

しかしながら今回の件は、私の存在を君達に知らしめるいい機会となった。

今後は同じ過ちを犯さぬよう願う。

もしまた同じことが起きた場合、私は今回ほど寛容でないことを胸に刻み込んで欲しい』










怪人からの手紙に支配人は震え上がり、急遽配役を変更した。
すると翌日には全ての資料が無くなる前と同じ位置に戻っており、それが余計に不気味さを醸し出した。

こうしてオペラ座で公開された舞台は大成功を収めた。

当時の新聞では舞台もさることながら主役の娘の歌が絶品と評していた。
怪人が指名した娘は誰も気付かなかった才能を秘めており、それを怪人が開花させた結果となる。






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エニーです。
誰が何と言おうが、シャニュイ子爵=エニーなんです。
少なくともσ(^^)の脳内ではもう確定でした。

るろの原作ではあんなんでしたが(笑)、見栄えはいいんだからっ
あれでタキシードなんかもびしっと着て、爽やかに笑顔を振りまきながら愛想よくしていればもう女の子はイチコロでしょうッ(断言)
ここでのエニーは正真正銘の紳士、というイメージで書きました。
ちなみに薫は可憐なイメージで・・・だから木刀は振り回しません(笑)