LOVE PHANTOM <3>



「・・・・・ね?不思議な話だけど本当のことなの。それ以来、舞台のことは全て怪人に任せているのよ。このオペラ座のどこかに住んでいるといわれる怪人に」
さすがお父様が選んだ人よね、と付け加えると、それまで興味深そうに薫の話に聞き入っていた縁の表情が曇った。
「支配人に聞いたガ、薫の父親ハ半年前に亡くなったそうダナ。別れたのは大分昔の話だというのにオマエの日本語は淀みナイ・・・俺ハ忘れかけているというのニ」
「お父様の墓前では日本語でお話しているから・・・・・生きている頃も二人だけの時は日本語使っていたし」

懐かしそうに目を細める薫を、じっと見つめる縁。

彼の視線に気付き、どうしたの?というように首を傾げた。
幼馴染と再会できた喜びが薫の表情に表れている。
だがそれは縁から発せられた言葉で消え失せた。










「薫・・・俺と一緒に来ないカ?」
「え      ?」










何を言われたのかすぐに理解できなかった。
「オマエと別れた日に俺は誓ったんダ。必ず立派になって薫ヲ迎えに行くト」
そう言ってその場に立ち尽くす薫を抱きしめた。










「好きだ、薫。初めて会った時カラずっとオマエだけを想ってキタ」










薫は縁の腕の中で自分の心臓の音を聞いていた。
異常なほど鼓動が早くなっているそれは大きく鳴り響き、呼吸をするのが苦しいくらいだった。



私は夢を見ているのだろうか?



薫とて、幼い頃からずっと縁を想ってきた。
が、所詮は貴族と庶民。
幼いながらも決して結ばれることはないと無理矢理彼への恋慕を断ち切ったのだ。
それでも縁を愛する気持ちだけは昔も今も変わらずに薫の心に残っていた。

そして今、一日たりと忘れたことのない縁の腕の中にいる。
しかも彼も自分と同じ想いを抱いていたとは。

「縁、私・・・」
何か言わなくては、と口を開くが感情が押し寄せるだけで言葉にならない。
それでも言葉の代わりに彼の背中に自分の腕を回した。
「薫      
縁がそっと薫の頬に手を添えると、彼の温もりを逃さぬように、自分からその手にすり寄ってきた。
そんな彼女を心の底から愛おしいと思った。
額に口付けを落とし、彼女の耳元で囁く。



「愛していル。昔も今も、コレカラもずっと・・・」



とろけるような幸福感を味わいながら、薫は瞳を閉じた。
二人の距離が自然と縮まっていく。
時計の針がちょうど12時を刻み、柱時計が重厚な音を奏でた。










      ここで二人の態度の違いが明確に現れた。










時計の音など聞こえなかったように薫に口付けようとする縁は、腕の中にいる彼女の体が強張ったことに気付いて動きを止めた。
「薫?」
先ほどまで己に向けられた熱っぽい瞳はすでになく、薫の視線が忙(せわ)しなく彷徨っている。



「どうしタ、薫」



もう一度問いかけると、はっとしたように縁を見た。
まるで、彼の存在など忘れていたような瞳だ。
突然の薫の変化に縁は困惑する。
が、当の薫はそんな彼に気付かず、慌てた様子でこう言った。
「ごめんなさい。私、もう行かなくちゃ。これからレッスンがあるの」
「レッスン?こんな時間にカ?」
「レッスンって言っても、個人的なものなんだけど・・・」
焦ったように青年の腕の中から逃れようとするが、縁は薫の答えに納得できない。
「今日くらい、イイダロウ。数年ぶりに会えたんダ、俺はもっとオマエと一緒にいたい」
「それは私だって同じよ。でも・・・本当に時間がないの!」

いよいよ切羽詰った薫は、縁の腕を振りほどいた。

「薫・・・?」
その強引とも取れる行動に、縁はしばし呆然とした。
薫もまた、今自分がやったことが信じられないような顔をしている。
が、何のために強行したのか思い出し、



「ああ縁、分かってちょうだい。私は、このオペラ座の団員なの!レッスンを怠ることは許されないわ・・・例え、あなたと一緒にいても」



そう言って身を翻した。
「薫!!」
縁の声が追いかけてきた。
が、彼の声は薫によって閉じられたドアに当たり、砕け散った。




















縁の誘いを振り切り、誰もいなくなった主舞台を突っ切った。
舞台から左に折れ、袖に入るとそこには収納庫に通じる下り階段がある。
薫はわき目も振らずに階段を駆け下りた。
収納庫に入り、真正面にある壁鏡の前に立つと、鏡の周りに薔薇の蔦が絡まったような縁取りが施されているのが分かる。
その中で一際大きく咲いた薔薇の花に手をかけると、何と鏡がドアのように開いたではないか。
もう慣れているのか、薫は物怖じする様子を見せず鏡の裏に滑りこみ、静かに扉を閉めた。
閉めてしまえばそこはもう、闇が支配している。
だが、はるか下方にほんのり灯る蝋燭の火を見つけ、ここから先は更に下り階段があることを示していた。
彼女は壁に手を添え、注意深く階段を下りていく。
自分の足元が明るく照らし出されると、薫はドレスの裾をたくし上げ、一目散に走り出した。
この先に薫が会うべき人物がいる。



早く、早く。



約束の時間はとうに過ぎていた。
彼は時間に厳しい。
以前も時計が壊れていたことに気付かず遅れた時間に行ったのだが、こっぴどく怒られた。
いくら時計が壊れていたからと弁明しても、
「これが本番だったらどうする?舞台を見に来ている客にそんな言い訳は通用しない」
と言って聞く耳を持たなかった。

前回は自分でも気付かぬ失態だったが、今回はどう考えても自分が悪い。

シャニュイ子爵の      いや、縁との再会に浮かれ、時計が鳴らなければそのまま彼と甘い一時を過ごすと信じて疑わなかった。
レッスンのことなどすっかり忘れていたのだ。



ピアノの音が遠くから聞こえてきた。
やがてその音は息を切らせて走る薫に合わせるように段々明瞭になってくる。
今奏でているピアノの曲目がはっきり分かったと同時に、薫はその場所に辿り着いた。










「遅れてすみません、先生!」










ピアノに向かっている人物に一息で告げると、薫は苦しそうに呼吸を繰り返した。
今までピアノを弾いていた指が止まった。

「遅い」

短く発した言葉は紛れもなく日本語だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、その拍子に赤い髪がさざめいた。
所々蝋燭の火が灯されていても、オペラ座にある薫の居室に比べるとかなり暗い。
そんな中でも彼の赤い髪はその存在を主張するかのように際立っていた。
「も・・・申し訳ありません・・・」
赤毛の男が振り返り、いまだ呼吸を整えている最中の薫を見た。










蝋燭に照らされた容姿はぼんやりとした輪郭だが、先に述べた赤い髪とは対照的な真っ白な仮面が異様な雰囲気を醸し出していた。
彼の両目と左頬をすっぽり隠すように作られたその仮面は、彼だけのものであることを証明している。










この仮面のせいで彼の表情がひどく冷たいものに感じ、薫は思わず姿勢を正した。
が、すぐに仮面の奥にある瞳が笑いを含んでいることに変わったことに気付く。
「・・・だが、前回と違って急いできたらしい。その格好を見れば分かるよ」
仮面の男の言葉にはたと自分の姿を見下ろしてみれば、走りやすくするためにからげたドレスの裾はそのままだし、全速力で駆けて来たせいで汗で髪が張り付いている。
この分だと、後ろにまとめてある髪もひどい状態になっていることだろう。
「やだ、私ったら・・・」



遅れてきた上にこんな醜態まで晒して・・・・・



慌てて身支度を整えようとしたが、こういうときに限って櫛も何も持ってきていない。
自分の不運に思わず舌打ちしたくなった。
それでも何とかドレスの裾を直して手で髪を撫で付けていると、目の前に飲み物の入ったグラスが差し出された。
「これ以上遅れぬように走ってきたのは結構なことだが、あまり息を切らすとのどに良くない」
すみません、と小さく言って薫はグラスを受け取り、一口飲んだ。

甘い。
乾燥したのどに潤いが戻ってくるようだ。

普通の水に蜂蜜を入れてあるようだった。
「今度からは時間に遅れないように。遅れた分だけ、レッスン時間がなくなってしまうからね」
「はい、先生」
薫の返事に満足気に頷き、きれいに飲み干されたグラスを受け取った。
そして空いた手を薫に差し出すと、彼女は自然な動作で自分の手を預けた。










目を凝らせば今薫がいる場所はごつごつとした岩に囲まれ、近くに泉でもあるのか、空気がひんやりと湿っている。
一見ただの洞窟のようだが、そこには天蓋つきの瀟洒なベッドもあり、テーブルの上にはペンと紙がある。
更に周りを見渡せば人間が生活するのに必要な物が全て揃っているのが分かる。
だがそれらは洞窟の中に無理矢理置いたという印象はなく、自然の形を活かすようにセンスよく配置されている。










男は薫をピアノのそばに立たせ、自分は再び鍵盤に手を置いた。
「それじゃ、軽く発声練習から」
男の指が鍵盤を弾くと、薫は大きく息を吸い込んで      歌い始めたのだ。
オペラ座の人間は薫が歌えないと思っているし、事実、薫は人前では歌えないはずであった。
その彼女が今、開放されたかのように伸び伸びと歌っているではないか。




薫は歌える。
だが、特定の人間でなければ薫の歌声を聴くことは出来ない。



いや、一人の時も歌うことが出来るが、誰かが自分の近くにいると分かると歌えなくなってしまう。
理由は薫自身もよく分からない。
分からないが、特定の人物以外の前で歌おうとすると、のどに声がはりついたように出ないのだ。

今歌っている彼女の声は天使が歌えばこんな声なのだろうと思わせるほど透明感に溢れている。

その声を聴く幸運に預かったのは、今は亡き薫の父と、目の前でピアノを弾く仮面の男。
この男と薫が出会ったのは数ヶ月前に遡(さかのぼ)る。






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やっとヤツが出てきました。
もうこうして書くと誰がくっつくか予想がつくと思います(苦笑)
そういう方は、今後は物語の展開だけ楽しみにしていただければ←開き直り

劇場内部については(特に舞台部分)さすがに分からないので、図書館のお世話になりました。
本当は奈落部分も何らかで使いたかったんですけどね、そこまで書く余裕がなく。
あ、奈落ってのは舞台と花道の床下です。
よくコンサートとかだと前奏が流れて舞台の中から歌手がスーッと現れるじゃないですか。
アレです(間違っていたらごめんなさい)

こういう話だと感嘆詞もよく入るし「愛してる」なんて堂々と言ってますが、書いている本人は全身サブイボです。
そして同じことがまだまだ続きます・・・