その日も薫は支配人に呼び出され、既に聞き飽きた嫌味を言われ続けた。
「歌を歌えない」という部分を特に強調されて。



歌えるのに。
本当は歌えるのに。



だが、彼らの前で歌うことは出来ない。
どんなに薫が聴かせたいと願っても。










悔しい、と思った。
己の力を発揮できないことが。










苛立つ気持ちを抱えたまま自室に戻ることが出来ず、薫の足はオペラ座の敷地内に設けられた庭園に向かった。




















LOVE PHANTOM <4>



昼間であれば太陽の光が満ち溢れ、それを受けた草花が鮮やかに色づき人々の目を楽しませるのだが、夜になるとしんとした寂しさを醸し出し、誰も近づくことはない。
薫にとって誰もいないのはむしろありがたかった。
一人ならば誰にも邪魔されることなく歌えるからだ。
周りを見渡し、自分以外誰もいないことを確認してから薫は何を歌おうかと思案した。
やがて曲目が決まると、軽く音程をとった後、アレグレットでやや速く歌い始める。










モーツァルトの歌曲「すみれ」。
草原に咲く一輪のすみれが羊飼いの娘に自分を摘んで欲しいと願う。
だが娘はすみれに気付かず、すみれは彼女に踏みつけられてしまった。
それでもすみれは嬉しかった。
羊飼いの娘の下で死ねることを幸せと感じる哀れなすみれを歌った曲だ。










私がこの世で一番きれいな花だったらよかったのに      そこまで歌って口を閉じた。
羊飼いの娘はすみれに気付かないと歌っている部分だ。



誰にも気付いてもらえないのは私も同じだわ。



人前で歌えないのは分かっていても、それでも他の人間に指摘されるとどうしようもなく悔しいのだ。

      私は歌えるのに・・・

だがそれは一人でいる時と父の前だけだ。
一度、父に勧められて他人の前で歌うことになったのだが、その時も歌おうとしても歌えなかった。
ひどく落ち込んだ薫に父親はこう言った。
「薫の歌は本当に薫の声を望む人間にしか聴こえないんだろうね」
自分だって恥をかいただろうに、それでもやさしい言葉をかけてくれた父に感謝した。
その父も、もうこの世にいない。










この世で薫の歌を聴いてくれる人間はもう誰もいないのだ。










歌を歌えば少しは気が晴れるかと思ったが今回は功を奏さなかったらしい。
薫は一つため息をつくと、歌うのをやめて体の向きを変えた。



今夜はもう休もう。



そう思って一歩踏み出した時。










「まだこの歌には続きがあるはずだが」










どこからともなく声が聞こえ、びっくりして振り向いた。
が、そこには誰もいない。

      空耳?
それにしては随分はっきりと聞こえたのだけど。

不可思議な現象に首をかしげたが、部屋に戻るために体の向きを変えた時、ぎくりとした。
いつの間にか薫の前に黒い影がそびえたっていたからだ。



これほどまで近くにいたのに、全然気が付かなかったなんて      



そこまで考えてはっとした。
薫の近くにいたということは、この人物は彼女の歌を聴いている。
そんなはずはない、私の歌を聴けるのはお父様だけ、と頭の中で否定しても、でももしかして、という期待も捨てきれないでいる。
目の前の人物はそんな薫の心を知ってか知らずか、
「君が今歌っていたのは『すみれ』だろう?まさか歌詞を忘れてしまったわけではあるまい」
そう言って一歩踏み出した。
月光を背にしているため顔は見えないが、声だけ聞くとどうやら男性であることが分かる。
それでも正体不明であることには変わりない。
薫との距離が徐々に縮まっていく。



逃げなければ、と頭では分かっているのだが、足が動かない。
足が動かない、というより彼から視線が外せないのだ。



彼が近づくにつれ、薫の目にもその姿がはっきりと映し出された。
身長は自分とさして変わらないように見えるが、凛としたその姿は己より大きいものに感じて、薫は声を出せずにいた。
小柄な体のどこからこんな圧(お)されるような迫力を感じるのか。










風が吹けば漆黒のマントと共になびく緋色の髪のせいか。
それとも月光より尚鮮やかに闇に浮かび上がる仮面のせいか。










彼の全てが畏怖すべき対象なのだ。
それと同時に、なぜか惹きつけられる。
何も言えずにいる薫に、彼は口調を変えずに話しかけた。
「先ほどの続き、歌っていただこうか」
頼む、というより命令に近い物言いにかちんときて、薫はややつっけんどんに言い返した。
「・・・・・歌いたくても、歌えないのよ」
ふい、と顔を背けた薫を少し驚いたように見つめていたが、彼の口元が皮肉るように歪んだ。
「おかしなことを言う。私は確かに君の歌を聴いた。それとも先ほど私が聴いたのは幻聴だったとでも言いたいのかい?」
「あなたは本当に私の歌を聴いたの?」
男の言葉に思わず薫は再び正面を見た。
彼もまた、薫の瞳をまっすぐ捉えて彼女に告げた。



「私は嘘を言わない」



はっきりとした声が響いた。
最初に見たときより、彼の瞳がやさしいものに変わっているような気がする。
まるで、半信半疑の薫を安心させるかのように。
「だから、今一度君の歌を聴かせてくれないか」
「でも・・・・・」
彼が薫をからかっているわけではないということは分かっている。
薫の歌を聴いたというのも本当だろう。

だが、彼を目の前にして果たして歌えるのかという不安が完全に消えたわけではない。

躊躇(ちゅうちょ)するように視線を彷徨わせる薫をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐き出した。
「・・・そうやっていれば私が諦めておとなしく去るとでも?」
冷たく言い放った男に薫の瞳が向けられた。










そして彼女の瞳が大きく見開かれる。
彼の手にはいつの間にか長剣が握られていたからだ。










「何の真似・・・?」
震えそうになる声をどうにか抑えて問いかける。
薫の問いに、ふ、と男が嘲るような笑みを浮かべた。
「何の真似、とは愚問だね。君が歌うのを促しているだけだというのに」
「これが人にものを頼む態度?」
「君は私が頼んでいるように見えるのか?」
剣を向けられても何とか強気に睨み返すが、その視線はさらりと受け流された。
目の前に向けられた剣が月の光を浴びてその存在を主張していた。



「歌わねば殺す」



ごくり、と薫ののどが鳴った。
一瞬やさしい目をしている、と感じたのはただの錯覚だったのだろうか。
今の男の瞳には感情などひとかけらも見えはしない。

だからと言うわけではないが、薫も覚悟を決めた。

極度の緊張で速くなっている鼓動を鎮めるために二、三度深呼吸を繰り返し、躊躇(ためら)いがちに歌いだした。
小さな声ではあったが、薫の唇から紡ぎだされるのは紛れもなく『歌声』であった。



私、人の前で歌っている!



自分の声を聴きながら男を見ると、彼は目を閉じて薫の歌に聴き入っているようだった。
仮面の下でどんな顔しているのかは分からないが、茶化すような気配はなく、真剣に聴く姿勢を見せている。
そんな彼の態度に少し照れ臭くなり、最初に歌ったときより声が伸びない。
それに父親ではなく、どこの誰とも分からない男の前では歌声が固くなってしまう。
いつもの調子が出ないまま、歌が終盤に差し掛かる。










ああ けれど近づいてきた娘はすみれに気付かず かわいそうなすみれを踏んでしまった

折れ潰れながら それでもすみれは嬉しかった



私は潰れて死ぬけれど



あのひとの あのひとの

あのひとの足の下で死ねるのだから











歌が終わっても、しばらく男は動かなかった。
薫もまた、声を掛けることなく彼を見守った。
やがて男が口を開いた。



「緊張しているせいで歌い方がぎこちないが、いい声だ」



男がゆっくりと目を開ける。
「どうやら君は今まで自己流でやってきたらしいね。歌う声にムラがある。まぁ、普通の人間には分からない程度のものだが      
言いながら手に持った剣の切っ先を指で押した。
すると剣の長さが指で押した分だけするすると短くなっていくではないか。

どうやら男が持っていたのは、刃が引っ込む仕掛けがしてある舞台用の剣らしかった。

呆気にとられている薫の前で刃を完全に柄の中に納めると、それでやっと彼女は状況を把握したようだった。
騙したのね、と言いかけてやめた。
おもちゃの剣をさも本物のように構え、殺意すら感じさせる彼の演技はまるでオペラ座の看板役者のようだった。
それに薫の歌を一度聴いただけで正確に分析できている。



よほど音楽に精通している人間なのだろう。
音楽だけではない。
役者としても並外れた才能を持ち合わせている。



只者ではない、と薫の本能が告げていた。










「・・・・あなたは一体誰なの?」










ざぁっ、と突風が吹き荒れたが、薫は瞬きもせずに男の唇を凝視した。
男もまた、薫から目を逸らさなかった。
ふ、と男の口角が上がった。
「私の正体は君もよく知っているはずだよ」
言われたことが理解できず、薫は片眉を上げた。










「『オペラ座の怪人』      そう言えば分かってもらえるかな?」
      !!」










その名を聞いた瞬間、体中に戦慄が走った。



知らない者などいない。
オペラ座の全てをまかされており、以前舞台資料を奪った張本人なのだから。



「私が怖い?」
薫が顔を強張らせたのは恐怖のためと解釈した怪人は少し肩をすくめた。
彼の言葉を聞くまで声を発することが出来ずにいたが、はっと我に返り慌てて答えた。
「怖くなんてないわ」
その言葉に嘘はなかった。










何の前触れもなく目の前に現れ、剣を突きつけられたときにはさすがに背筋が凍ったが、今では怪人の類稀なる才能の前にただただ感嘆するだけだった。
仮面で顔を隠す不気味な男に対する恐怖心よりも、芸術を愛する心のほうが勝ったのだ。










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怪人と薫出会うの巻・・・なんですが、おかしいな?
回想シーンなのに一話で終わらなかったorz



文中にある「すみれ」は確かにモーツァルトが作曲したものですが、もとはゲーテの詩です。
どうもモーツァルトはゲーテの詩だと知らずに作曲したらしい。

この「すみれ」を知ったのは別の小説からなので、執筆するまで実際に聴いたことはありません。
でも駄文を執筆するにあたり、このシーンはもう少し厚みを持たせたかったんですね。
ただ薫が「歌っていた」だけで済ませるんじゃなくて、どんな歌を歌ったのかを。

自分で作るってことも考えなくは無かったんですが、ぶっちゃけそんなもん書けるか、と(爆)

でも結局部分的にとはいえ、自分で創作した歌詞もありますが・・・これはまた後のお楽しみということで。
そして話の内容が内容なので音楽用語・舞台用語なども出てきますが、σ(^◇^;)にそういった知識は一切ございません。
女の子の習い事にありがちなピアノも習ったことないし、おたまじゃくしすら満足に読めませんよ( ̄▽ ̄;)ははは