LOVE PHANTOM <5>









視線を逸らさない薫に、怪人の表情が和らいだ。
そして薫は、またしても驚くべき事実を知る。
「・・・・・いい目をしている。さすがは越路郎の忘れ形見だ」
「お父様のことを知っているの!?」

怪人の口から発せられる流暢(りゅうちょう)な日本語よりも、父親のことを彼が知っていたことの方が驚いた。

そんな薫に何を今更、と言いたげな視線を投げ、
「越路郎の遺言にあっただろう?私は彼から全てを学んだんだ。彼が亡くなるまでずっとね」
そこまで言って、もう一言付け加えた。



「君のことも越路郎から聞いていたよ。その美しい声は聴く者を選ぶと」



だが薫は首を振った。
「お父様はそう言って慰めてくれたけど、他の人の前で歌えないのはやはり私に意気地がないせいよ。それに、聴く者を選べるほど私の歌はご大層なものではないわ」
自嘲気味に言ってから薫はうつむいた。
長い睫毛に隠されて彼女の表情を窺うことは出来ない。
さく、と大地を踏みしめる音が聞こえて顔を上げると、怪人が薫のすぐ前に歩み寄っていた。
「ちょっと失礼」
彼の両手がゆっくり上がり、薫の細い首に触れる。
断りの言葉がなかったら反射的に身を引いていたかもしれない。
「何を      
「この歌の第一節を歌ってごらん」
「え?」
訝しげに眉を寄せるが、そんな彼女に気付かなかったかのように、
「いいから言うとおりにして」
薫を見ずに再度伝える。
これ以上の質問は意味を成さないと悟り、薫は諦めて歌い始めた。
その間、怪人は薫の細首を所々押さえたりなぞったりしている。
それがくすぐったくて、薫は吹き出すのを堪えるのに一苦労だった。



「すみれ」の第一節が終わると同時に怪人の手も離れた。



「のどに異常はないようだね」
「だから言ったでしょう。人前で歌えないのは私に意気地がないからだって」
自分で言うと余計に惨めになってぶっきら棒な口調になってしまったが、怪人は薫の声など聞こえなかったかのように何か考え込んでいる。
「声帯に特に問題はない。しかし、歌を聴くことが出来るのは限られた人間のみ。ならば      
ぶつぶつと口の中でつぶやく彼を訝しげに見守っていたが、次に発せられた言葉で薫の目が丸くなった。










      君の歌はきっと誰かのためにあるんだ」










唖然とした薫をよそに、怪人は納得したように微笑む。
「君の父君や私のような・・・・・芸術というものを本当に理解している人間しか聴こえないのかもしれないな。そもそもリアリストの越路郎が慰めのためにそんな言葉を告げるとは考えにくい」
だが、と言って怪人は薫にこう告げた。

「君の声をこのままにしておくのは何とも惜しい。どうだい、私のもとでレッスンを受けてみないか?私が指導すれば君は今以上に歌がうまくなる」

突然の申し出に薫はどう答えていいのか分からない。
普通に考えれば断るのが妥当だろう。
その言葉が出てこないのは怪人が恐ろしいからではない。
父親以外に自分の歌を聴いてくれる人がいる      その事実は薫の胸に『希望』の光を灯した。
「それに、レッスンしていくうちに他の人間にも君の歌を聴かせる方法が分かるかもしれない」



そうなったらどんなに素晴らしいだろう!

薫が大衆の面前で歌えるようになれば女性団員から蔑みの眼差しを浴びせられることもないし、支配人から嫌味を言われることもない。
      つまり、薫は誰にも文句を言わせずにこのオペラ座にいられるのだ。



すでに心は決まっていた。
「お願いします、先生」
薫はドレスの裾をつまんで膝を軽く折った。
満足げに目を細めた怪人は、恭(うやうや)しく彼女の手をとり、
「歓迎しよう、未来の歌姫(ディーバ)よ」
そう言うと軽く口付けた。










こうして二人の関係が始まったのだ。










レッスン時間中の薫は水を得た魚のようだった。
歌いたくても人前では歌えず、一人で歌ってもその声を聴く者も評価してくれる者もいない。
怪人はどんな小さなミスでも聞き逃さず、指摘し、指導する。
それだけ真剣に向き合う怪人に対し、薫もまた彼の期待を裏切らなかった。
熱心にレッスンを受け、ミスを指摘されればどこがどう悪いのか真面目に受け止め、次のレッスンでは完璧に克服してみせた。
「そう、その調子。今のはとてもよかったよ」
レッスンに熱が入ると怪人の声も弾んでくる。
仮面のせいで感情が読み取れないが、それでも彼の喜々とした声を聞くと薫もまた嬉しくなるのだ。



だが、相変わらず怪人以外の人間の前で歌うことは出来ず、その原因も依然分からぬままだった。



それでも薫は満足だった。
父親が亡くなり、もう自分の歌を聴いてくれる人間はいないと絶望していたところに現れた怪人は、薫の歌を聴きその価値を認めてくれる。

素性など関係なかった。

薫は怪人の持つ音楽の才能とオペラ座の指導員など足元にも及ばぬほどの指導力に惹かれたのだ。




















やがてレッスンの時間が終わりに近づいてきた。
      今日はここまでにしよう。次回は来週の今日、同じ時間に」
そして「舞台続きで忙しいと思うが、発声トレーニングは怠らないように」と一言添えるのも忘れない。

薫の・・・・いや、オペラ座のスケジュールを完全に把握しているところはまさしく『オペラ座の怪人』を名乗るのに相応しい。

怪人のレッスンを受けるようになり久しいが、彼のことはほとんど知らない。
たまにレッスンの合間に薫の父・越次郎の話題や今手がけている舞台のことなど話すことはあるが、自分自身のことは語らないのだ。
仮面で素顔を隠し、オペラ座の地下深くに身を潜めていることから複雑な過去を持っていることは容易に推測できる。
が、薫もそれ以上のことは聞かなかったし聞く気もなかった。



いや、彼の本当の名前だけは聞いた。
その名で呼んでも構わないという怪人に「いいえ、先生に対してお名前で呼ぶなんてことはできません」ときっぱり断ったのだ。
そのとき、彼の瞳が翳ったように見えたのは気のせいか。










誰にだって語りたくない過去の一つや二つはあるのだ










大切なのは『現在』。
今、怪人に教えを請うているからこそ、得られるものがある。
そしてそれは薫の『未来』にとってなくてはならないものだ。
「ありがとうございました」
いつものように礼をして辞そうとする薫に、そういえば、と怪人が思い出したような声を漏らした。
「今日の君の声はどことなく楽しげだったな。何かいいことでもあったのかい?」
この言葉に薫は目を瞬かせた。



平素「歌う曲に合わせて感情が変わるから、レッスン中はあまり自分の感情を表に出さないように」と教えられてきたため、歌っている間は自分の感情を抑えていたつもりだった。



だが、思いがけぬ縁との再会で高ぶった感情が溢れてしまったのだろう。
「申し訳ありません!」
恐縮しきっている薫に怒っていないことを示すためか、怪人の片手が優雅に上がった。
「いや、最初の頃に比べれば君は本当に上達した。曲に合わせて歌えるようになった君が感情を殺しきれなかった理由が気になってね」
不興を買ったわけではないことに安堵し、薫は顔を綻ばせた。
「実はレッスンの前に懐かしい人と会ったんです。幼い頃に別れたきりでもう会えないかと思っていたので・・・・・」
「なるほど、それは感情を抑えられなくなっても無理はない。だが君はこれから先、歴史に名を残すほどの素晴らしい歌姫になるのだからね、大勢の客の前で自分の感情を丸出しにして歌ってはいけないよ」
まるで幼子を嗜めるように告げる。
いつもなら「はい、先生」と返事をするところだが、彼の言葉に今まで高揚していた感情が急激に冷えていくのを感じた。










「・・・・・先生は今でも私が他の人の前でも歌えるようになるとお考えですか?」










不安げに紡がれた言葉に怪人の眉がひそめられた。
何も答えない怪人に更に心細くなったのか、薫は一息に吐き出した。



「先生のことは信じています。でも、私がレッスンを受けるようになってからだいぶ経ちますけどやっぱり先生以外で私の歌を聴いてくれる人はいません。折角先生のおかげで上達したのにこれじゃあ・・・・」
「君はオペラ座の舞台に立って大勢の人に歌を聴いてもらいたいの?」
「もちろんです!」
はっきりと言い切った薫を、怪人はただ見ているだけであった。

「そうか・・・・」

やっと返ってきた声は虚ろで、何の感情もこめられてはいない。
ただ単に声を押し出しただけのようだ。
「先生・・・私、何か悪いことでも?」
怪人の様子にどことなく哀切を感じ取り、恐る恐る問いかけると、彼は口元に笑みを作り、
「いや、君の言うことは正しい。練習の成果を誰かに見せたいと思うのは人間の本能だ。ましてや、君のような素晴らしい歌声なら尚更、ね」
立ち上がってやさしく語りかけると、薫も微笑んだ。
「いいえ、全ては先生のおかげです。私をここまで導いてくださったのは先生ですもの」



そして薫はおもむろに怪人の手を握り締めた。
「どうぞこれからも私をお導きください。私、もっともっと歌がうまくなりたいんです!」



いきなり手を握り締められて、珍しく怪人が驚いたように言葉を失った。
だがすぐ穏やかな口調で、
「こちらこそ、百年に一人の美声の持ち主を見つけ、更には私の手で指導する幸せを与えてくれて感謝する。誰にも聴かせることが出来ないからといってその声を卑下してはいけないよ?君の歌声は天使ですら聴き惚れるだろう」
力強くそう言うと、薫の表情が心底嬉しそうなものに変わった。
「・・・・はい!」
「さあ、今日はもうお休み」
薫が去り、隠し扉の閉ざされる音を認めると、怪人は今しがた彼女に握られた己の手を見つめた。
普通の人間が見たら恐れるであろう異形の姿。
だが薫は全く怯えず、怪人を崇拝しきっている。



彼女こそ、俺の天使      



彼は薫が去っていた方角をただじっと見つめていた。
「君の歌は俺のためだけにある。そして、君自身も」
目の前にいた彼女を追い求めるかのように怪人の手が伸び、そのまま堅く握り締められた。




















しかしこの時、奇跡にも近い偶然があったことに薫も怪人も気付かなかった。
「今の歌は・・・薫?」
誰もいない庭園に、銀色の髪だけが輝いていた。




















薫が縁と顔を合わせたのはそれから三日後のことだった。
連日の公演に、団員達の稽古に余念がない。
出演者と共に舞台稽古をしていると、わっと黄色い歓声が上がった。
その声につられるようにして薫が見ると、女性団員が数人固まっているのが見えた。
普段であれば自分は黙々と稽古を続けているのだが、今は違う。
彼女達の熱い視線を一身に受けているのが誰だか分かっているからだ。
少し離れた所から様子を窺うと、最近また眉間のしわが深くなった支配人と彼よりはるかに背の高い縁が見えた。

「縁・・・・!」

我知らず彼の名を唇に乗せていた。
三日前に再会し、感動に浸る間もなく薫はレッスンに向かったのだ。
縁と連絡を取ろうにも彼の連絡先など知らないし、仮に連絡できても庶民の自分を子爵に取り次いでくれるとは思えない。
一方的に彼を突き放し、逃げるようにして部屋から出て行った自分を責めた。










いくらレッスンのためとはいえ・・・・・あんな別れ方じゃ、縁も気を悪くしてしまったかもしれない・・・・・










自己嫌悪に陥りながら縁が視察に来る日を心待ちにしていた。

今度会ったときにはちゃんと謝ろう。

が、今の縁は踊り子達に囲まれている。
いくら支配人が注意しても当の縁がにこやかに挨拶するものだから、彼女達も調子に乗ってそこから離れようとしないのだ。

やっぱり無理かも・・・

肩を落としてその場から去ろうとした時。



「薫!!」



縁の声が舞台に響く。
声をかけられたこともそうだが、あまりによく通る声なので薫はびっくりして振り向いた。
薫だけではない。
今まで縁を囲んでいた踊り子達、それに作業に没頭していた大道具係や果ては楽譜とにらめっこしていた楽団員も目を丸くして注視したほどだ。
つまり、ほとんどの団員が縁と薫に注目していたのだ。
そんなことはお構いなく、縁は満面の笑みで薫に近づいた。
薫もまた、引き寄せられるようにして縁に向かっていった。
「薫、ああ会いたかっタ!」
「この間はごめんなさい。あなたがいるのに私ったら・・・・・」
「イヤ、俺の方こそ薫の努力に水をさすような真似をシテ悪かっタ」
寄り添うようにしている二人に、オペラ座の団員の視線が集まる。










当然だろう。
その多大な財力を持ってオペラ座を支援し、女性団員憧れのシャニュイ子爵がお荷物同然の薫と親しげに話している。
無論、日本語で会話しているので話の内容までは分からないが、それでも二人のお互いを見つめる眼差しを見ればどのような仲なのか想像に難くない。










前項    次項



怪人の過去についてですが、実は何も考えてません・・・
だって考えた所で使うシーンがないし。
書かなくても特に問題ないし。

ただ文中にあるように、一般常識や芸術に関する知識は越路郎から伝授されています。
オペラ座の地下深くに潜んでいた怪人をひょんなことから越路郎が見つけ、彼が持つ類稀なる才能に気付き、様々なことを教え込む。
最初は誰にも心を開かなかった怪人だけど、商品や異質なものとしてではなく自分自身を見てくれる越路郎に次第に心を開いていき、やがて「オペラ座の怪人」に相応しい知識や教養を身に付けていく・・・というような流れをうすぼんやりとは考えていました。

巴も回想シーンで登場しましたが、怪人と過去にどうこうあった、という話は全くございません。
チョイ役ですみません、巴さん(笑)



謎は謎のままで・・・・あとはお客様の想像にお任せします←と言って逃げる