LOVE PHANTOM <8>



忘れかけていた恐怖が蘇り、全身が凍りつく。
薫は中途半端に差し出した手をそれ以上伸ばすことも、引くことも出来ずにいた。
そんな彼女の様子に気付いているのかいないのか。

怪人の唇が歪み、薫の小さな手を捕らえようとする。

が、あと少しで触れるというとき、二人の間に体を滑り込ませた者がいる。
縁だ。
ほ、と安堵すると同時に、縁の大きな手が彼女の手を包み込んだ。
まるで、目の前にいる怪人から守るかのように。
彼はそのまま前に出て怪人と向き合った。



      あなたが噂に名高い『オペラ座の怪人』ですか」
「そういう君はシャニュイ子爵だね」
何事もなかったかのように怪人は差し出した手を戻す。



「私を知っているのですか?」
「このオペラ座のことで私が知らないことなど何一つない」
「さすがですね。恐れ入りました」
恭しく一礼する縁だが、怪人が見つめるのは彼ではなく、その背後にいる薫。










「だが、薫の恋人が君だと知ったのはつい最近のことだ」

縁と会話しながらも、怪人は薫から目を離そうとしない。
薫もまた、一度は縁に向けたそれを怪人に戻す。

恐れを抱きながらも怪人から目を逸らすことが出来なかった。
ぶつかり合った怪人の瞳に、一瞬だけやさしい光が宿った気がした。










しかし、その光はすぐ変化した。
      この場合、結婚おめでとう、と言えばいいのかな?」
「あなたに祝福していただければこれほど嬉しいことはありません。私も、薫も」
皮肉るような怪人の口調に縁も負けてはいない。



「ちょうどいい機会だから申し上げておきましょう      今まで彼女を指導していただいたことは感謝する。だが薫は私の妻になる。だから、あなたから卒業させたい」



薫は驚愕して口を開きかけた。
約束が違う、と。
そう言いたかったが、薫の反論を封じるかのように握られた手に力がこめられた。
痛みを感じて僅かに眉をしかめた薫を認め、
「卒業させるかどうするかは師である私の判断だと思うがね」
それでも怪人の口調は変わらない。

「違う。夫となる私の判断が絶対なのです」
「それでも私が首を縦に振らなければ?」
「力ずくでも」

彼らのやり取りは淡々としており、だからこそ話している内容にぎょっとする。
そしてこれ以上何事もなく終わってくれるよう願う薫を裏切るかのように、怪人はすらりと長剣を抜き出した。



      温室育ちの子爵様に出来るかな?」



ごくり、と縁ののどが鳴った音を聞いた。
「縁・・・」
それ以上何も言えなかった。
薫自身、何を言えばいいのか分からなかった。
縁は不安げな薫をちらりと見て、
「下がっていろ、薫」
怪人の長剣を見てさすがに表情が強張ったが、有無を言わせず彼女を下がらせた。
ただ見つめるだけしか出来なくなった薫に、怪人の瞳が向けられることはなかった。
怪人は上着を脱いだ縁が壁にかけてある長剣を手にするのをただ待っていた。
縁が剣を掲げると怪人も腕を上げる。










キィ      ・・・ン・・・
剣の切っ先が合わされ、澄んだ音が広がった。



それが合図だった。










すぐさま突きを入れる縁の剣を己の剣で薙ぎ払い、逆に突く。
縁はそれを上体を反らしてかわし、怪人を踏み込ませないように剣で薙ぐ。
お互いの体が離れ、じりじりとつま先だけで間合いを詰める。

と、縁が大きく一歩踏み出し、それと同時に剣を切り上げた!
怪人も縁の動きを察し、すぐさま体を退いた。

驚くべき反射能力だが、怪人のマントは縁の剣撃によって切り裂かれていた。
怪人が体勢を整える暇を与えず、ここぞとばかり切り込む縁。
だが、怪人はその場に膝をつくと敷いてあったペルシャ製の絨毯を思い切り引っ張った!
「うお!?」
形勢逆転。
体勢を崩した縁に今度は怪人が襲い掛かる。
剣を構え、縁を捉えるそのとき。



「やめてください!!」



目の前に飛び出した少女を認めた瞬間、怪人の動きがぴたりと止まった。
しかし構えを解くことはなく、冷ややかな口調でこう言った。
「そこをどきなさい。君の歌の価値を知らない愚か者には力で思い知らせてやるのが一番手っ取り早い」
それに、と続ける怪人の声は酷くやさしかった。
「私から離れたら君はまたひとりぼっちで歌うことになる。そのとき聴いてくれる者は誰もいない」
怪人が剣を下ろし、薫の顔に手を伸ばした。
「君の歌を聴けるのはこの世で私ただ一人・・・・・分かるね?薫」










ダカラドコニモヤラナイ。










ぞくりと背筋に悪寒が走った。
震え出しそうな体を叱咤しながら、薫は声を絞り出した。
「・・・・・初めて先生にお会いしたとき、私の歌は芸術というものを本当に理解している人間しか聴こえないのかもしれないとおっしゃいました」
訥々(とつとつ)と語りだした薫を怪人は怪訝そうに見ている。
薫は続けた。
「だから、私の歌は限られた人間にしか聴こえないのだと。でも思うんです。それってまがい物ではないのかって」
「何を言っている?君の声は天性のものだ。それこそ本物と呼ぶにふさわしい」
怪人の瞳に穏やかな色が見え隠れする。
見慣れた姿を見て、薫は小さく微笑んだ。
だがすぐに険しい表情となり、



「先生は本物とおっしゃってくださいますが・・・本当の芸術というのは全ての人に平等ではないのですか?全ての人の心に安らぎを与えるものではないのですか?」



己の中にある純粋な疑問をぶつけると怪人が困惑したのが見て取れた。
そのまま薫は本心を吐露した。
「もし本当に限られた人にしか聴けないのなら、それは私の歌が偽物だということ・・・なら私、もう歌いたくないです」
「馬鹿な!!君が歌うのをやめられるわけがない。昔のように、誰にも聴かれることのない場所で一人寂しく歌うつもりかい?」
怪人が動揺しているのは誰の目から見ても明らかだった。
そんな彼を静かに見つめ、薫は決定的な言葉を口にする。



「いいえ、私には縁がいます。彼もまた、私の歌を聴くことのできる人なんです」



怪人の瞳が揺れた。
いつかと同じように縋り付くような彼の瞳を認め、薫は慰めるように語りかける。
「ですが私はもう歌うことはないでしょう。自分の歌が偽物だと気付いてしまったから」
自分の歌はまがい物だといつも感じていた。










万民に聴かせることが出来ずに何が天性の声か。
むしろ己の声は人を狂気に陥れる魔性のものかもしれぬ。

薫からすればこれ以上狂気に満ちた怪人を見るに耐えなかったのだ。

だが少女の唇から滑り出た言葉は、怪人にとって死刑宣告にも等しいものだった。
歌うことはない      同時にそれは、怪人との決別。










このまま力ずくで彼女を攫ってしまおうか。

出来ないことはない。
ほんの少し手を伸ばせば、薫の身は怪人の手中に入るだろう。
それが出来ないのは、少女の瞳がとてつもなく神々しい光を放っていたから。

手を触れること自体畏れ多いほどに。










やはり彼女は光の住民なのだ。










恋人や仲間に囲まれる薫を見て、怪人は愕然とした。
「・・・君の中に私はもう存在しないのか」
目を伏せる怪人に、薫の胸が痛んだ。
彼が薫の中から消えうせることなどありえない。
何も言えずにいる薫に代わり、縁が立ち上がり口を開いた。
「あなたの偉大さはこのオペラ座にいる者全てが分かっているし、今まで貢献してくれたことは誰もが感謝している。しかし、これからは私達でオペラ座を盛り立てていきたい」
恐れられていた怪人に対して今までの功績を称えた上で自分の考えをまっすぐに伝えた若き子爵にその場にいた全員が注目する。



ある者は瞠目し。
ある者は陶酔し。
ある者は敬意をこめて縁を見つめる。



そんな彼を薫もまた、誇らしく思う。
視線を感じて顔を向けるが、そこで見たものは仮面の下に表情を隠した怪人の姿だった。

「言葉は立派だが、要は私をオペラ座から廃したいだけなのだろう?」

ゆっくり立ち上がり仮面を直すように軽く手で触れ、それが離れたときには冷ややかな瞳が仮面の下から覗いていた。
ぐるりと会場を見渡せば、一瞬でも視線が合ったものは怯えたように首をすくめる。
      まあいい」
嘲(あざけ)るように鼻を鳴らして怪人は縁に視線を戻した。
無造作に剣を放ると、それは床を滑っていく。
何気なく剣を見ていたが、足元に止まったところであることに気付き、それが声に出た。
「刃がない?」
独り言のような薫の声に一斉に視線が集まる。



確かに、怪人が構えていた剣には刃がない。
薫は問いかけるような眼差しを投げた。



「ダンスに刃物はそぐわない」
誰に言うとも無く怪人は答える。
そして、
「君達のお手並み拝見といこうか」
彼の瞳が射抜くのは銀髪の若者。
縁はまっすぐ怪人と向き合った。
「きっと二度とあなたの手を煩(わずら)わせることもないでしょう」
強い視線がぶつかり合い、怪人は無言で身を翻した。

視界の端に何か言いたげな薫の姿が映る。
一瞬、怪人に寂しい微笑がかすめたのは気のせいだろうか?

その正体を確かめようとしても、彼が振り返ることはなかった。
そう、二度と。




















怪人が去った後、それが合図だったかのように皆フロアを去っていく。
二人が退出する頃には、後片付けを任された数人の団員だけが残っている状態だった。

「恨み言を言ってもいいんダゾ」

縁と共に廊下を歩いていると、不意に声をかけられた。
足を止めると、縁もまた立ち止まり、言葉を次いだ。
「俺はオマエとの約束を違えタ。結婚してもオペラ座にいてもいい、レッスンを受けてもいいと言っておきながら結局俺はオマエを独占することしか考えていなかっタ」



だから怒りをぶつけてもいいのだと。



それに対して薫は微笑を返した。
「いいのよ。どちらにせよ私の歌は偽物なんだから、歌うだけで芸術への冒涜になるだけだもの。芸術を穢すような真似をするくらいならいっそのこと、歌うのをやめたほうがせいせいするわ」
「しかし、フロアを出てカラずっと黙り込んだままじゃナイカ。本当ニそれでいいノカ?」
気遣わしげな縁と向き合い、薫は胸の内を吐露した。

「歌がなくても貴方がそばにいてくれれば私は生きていける。でも先生はこのオペラ座が全てなの。命そのものと言ってもいいくらい。それを私達が取り上げてしまった・・・先生はこれからどうなるの?どう生きていくの?」

今頃になって後悔の念が押し寄せ、知らぬ間に縁に詰め寄っていた。
「薫?」
困惑した声を聞き、ぱっと視線を外した。
「ごめんなさい、縁は何も悪くないのに」










縁は悪くない。
責められるとしたら、あの時何も言えなかった自分自身だ。










己の意気地の無さを悔い、奥歯を噛み締めた。
「先生も何も悪くないのに・・・!」
自分を責める薫の肩を温かな手が包み込んだ。
見上げればそこには想い人の笑顔。
「安心シロ、薫。打ち解けるのは難しいガ、今までの功績や彼の才能は心カラ認めているンダ。それニ」
包み込むような優しい笑顔がやんちゃなそれに変わった。
「妻の恩人ニ対して敬意を表するのは夫トして当たり前のことダロ?これから先、生活ニ困らぬよう援助を続けるつもりダ」
「妻だなんて・・・まだ早いわよ」
嬉しい言葉に頬を染めて恥じらい、薫は未来の夫の胸に顔を埋めた。
「ありがとう、縁」
声が小さくてもしっかり抱き合う二人には関係なかった。










前項    次項



映画でも怪人と子爵のアクションシーンがあったのでこちらも同じように。
というより、ベタ甘でサブイボな文章ばっかり書いていたので自分自身をスッキリさせるために書いたといったほうがいいでしょう←要は自己満足

ここでちょっくらエニーの独占欲が出ていますが、これはまぁ無理もない部分かなと思います。
怪人が未来の妻(!)を狙っていることが明らかなのに、にこにこ笑いながら「薫から話は聞いてます!これからもレッスンを続けてやってください」なんつーことは言えないでしょう。
薫が怪人を敬っているのは理解している、でも男として薫を渡すわけにはいかないというのを書きたかったのです。

だからエニーファンの皆さーん、この回で「エニーって最低」なんて思わないでくださいねー
※ここはケンカオサイトです

次回よりクライマックスに向けて物語は大きく動いていきます。
怪人なしで自分達で舞台を作る縁と団員達。
果たして怪人はこのまま黙って去っていくのか?
薫と縁の恋の行方は?
恋人達は怪人の魔手から逃れられ、幸せを掴み取れるのか!?

・・・・エニカオ風に書くとケンカオラーの皆様から石投げられそうなのでこの辺で止めときますか;