LOVE PHANTOM <9>



そして年が明け、休暇が終わるとオペラ座は本来の活気を取り戻す。
仮面舞踏会で袂(たもと)を分かったあの日から、怪人から何の音沙汰もない。

だが、代わりに手腕を振るったのは縁だ。

どこから見つけてきたのか、若い演出家を招き、彼を中心として新しい舞台を作ろうというのだ。
その演出家の名を聞いても誰もが首を捻るが、だが手渡された台本を読む限りでは荒削りではあるが惹き込まれる何かを持っていた。
若いがそれだけ将来が有望だということだろう。



この舞台を最後にオペラ座を去ることが決まっている薫に充てられた役割はいつもと変わらぬその他大勢の踊り子の役。



当の薫が、
「どうか特別扱いしないでください。私はいつもと同じように過ごしてオペラ座を去りたいのです」
その一言で踊り子の役に決まった。
辞めるとは言っても、その後は子爵婦人として違う世界に入る彼女をぞんざいな扱いは出来ず、支配人は薫の申し出に胸を撫で下ろした。










些細なトラブルはあったが、それでも大事には至らず順調に準備が進んでいく。
いつもなら怪人から逐一チェックが入るが、今回はそういった手紙が一通も来ない。
それが喜ばしくもあり、また不気味でもあった。

薫も気にかけていないわけではなかったが、普段は舞台のための稽古に没頭し、時間があれば縁と結婚式の準備と、多忙さを極めていた。
だから、より一層妬みや敵意が強くなった女性団員の眼差しにも気付かない。










「いよいよ明日ダナ」
夜遅く、ようやく二人だけの時間が取れ、縁と薫は揃って庭を歩いていた。
「今回の舞台ガ終わったらやっと薫ト一緒になれる      なんて、少し不謹慎カ」
これでは舞台が終わるのを待ち望んでいるみたいだ、と頭をかく縁だが、薫はただぼんやりと前を見ているだけだった。
「薫?」

縁に覗き込まれ、やっと気付いてこちらを見た。

「え?何?」
「今の話ヲ聞いていなかったノカ?」
「あ・・・」
自分がどういう状態だったか悟り、決まり悪そうに舌を出した。
「ごめんなさい、ちょっとぼーっとしちゃって」
「大丈夫カ?ここノところ、舞台稽古がハードだったヨウだし」
「稽古がハードなのはいつものことよ。私が考えていたのは、ここにいられるのももう少しだなと思って」
縁から視線を外し、目の前に広がる風景を見渡した。
「ここにはたくさんの思い出が詰まっているから」



この庭園で怪人と出会い、薫は歌う歓びを取り戻した。
そして己の能力を高めることも出来た。
もし歌えないままずっと一人でいたら、支配人や団員達の心無い言葉に挫けてオペラ座を出て行ったかもしれない。
怪人が手を差し伸べてくれたからこそ、薫の心は救われ、今までオペラ座に留まることもできたのだ。



「そうダナ、亡くなっタお前の父親モここにいたし」
これから先の人生を共に歩む愛しい人だが、彼には理解できないだろう。
理解してもらえないことに少し寂しさを感じたが、それは所詮無理なことと軽く頭を振って考えを追い出した。










私にしか分からないこと。
これから先、縁と共有できることがたくさん生まれるわ。

だから、歌えなくても平気。










胸に開いた穴を埋めるかのように、縁の腕に己のそれを絡めた。
縁も満足そうな笑みを唇に乗せて彼女を見つめていた。
そんな恋人達の姿が建物の陰に隠れて様子を窺っていた女性団員の憎悪を燃え上がらせたことに、縁と薫が気付くはずもなかった。




















オペラ座の幕が上がる。
その都度、観客達を夢の世界に誘(いざな)うために。



だが観客に知られぬよう、その裏側では団員達が忙しく動き回っているのもいつものことだ。
前の舞台に出ていた踊り子がすれ違い様、薫とぶつかる。

「ごめんなさい」
自分が悪いわけではないが、反射的に謝罪を口にしてしまう。

ぶつかってきた褐色の肌を持つ踊り子は、小動物のように身をすくませる薫ににっこりと微笑みかけた。
「あなたが謝ることじゃないわ、ぶつかったのは私だもの」
口早に言って彼女は風のように去っていく。
信じられないような薫の表情を彼女が見ることはなかった。



いつもだったら睨まれているのに。



そういえば、今日は誰かに意地悪された覚えが無い。
衣装に着替えるときだって、楽屋の隅で支度をしていた薫に同じ組で踊っている女性が、
「そんな狭いところじゃやりにくいでしょ。ほら、ちょうど鏡台が空いたから使ってちょうだい」
と、鏡台まで薫を誘った上、メイクまで手伝ってくれたのだ。
それは他の団員も例外ではなく、皆薫に対して親切に接してくれる。
今までとは逆転した接し方に薫は戸惑った。










もしかして、私が子爵夫人になるから気を遣っているの?

縁の妻になるということはつまりそういうことだ。
だが、平民の薫にとっては自分がいきなり貴族になれるとは思っていないし、あくまで「縁の妻になる」という認識しか持っていない。










配役を決めるときにも特別扱いされそうになって、
「私は確かにここを去る人間ですが、その日までは今までと同じオペラ座の団員です」
と、支配人に普段どおりの待遇を求めた経緯がある。
この件については縁からも、
「最後の舞台なンだから少しくらい自分ノ好きにしていいんダゾ」
と言われたが、いつもと同じようにしてもらうことが薫の望みなのだ。
もしかしたら他の団員も薫を「自分より身分の高い者」と見ているのかもしれない。



だから女性団員も親切なのか      

自分が何を言っても特別視されることに変わりはなかったらしい。
それでも、と薫は思い直す。



それでも、彼女達の態度が変わったのは、それだけ皆の心が一つになったからだと信じたい。
今まで怪人の指示に従うだけだったのが、彼に頼らず自分達の手で舞台を作り上げていくことにより、団員達の団結はより強いものになった。
ならば薫のことも同じ団員と認めたからこそ、彼女達は自分にやさしくしてくれるのだ。
そう信じたかった。










最後の舞台だもの、嫌な気持ちなんて持ちたくないわ。

自分に言い聞かせながら、薫はオペラ座にいる人達を目に焼き付けた。
一致団結した団員たちの姿を見て怪人は何を思うだろう。



もしかしたらどこかから今日の舞台を見ているのかもしれない。
いや、絶望してもうオペラ座から去ってしまったのかも?



今しがた嫌な気持ちになりたくないと考えたばかりなのに、怪人の行く末を思うと心が暗く沈む。
今は舞台に集中しなくては、と頭では分かっていても最後に見た怪人の微笑が消えない。










「元気ないわね」
近くで声をかけられ、驚いて肩がびくっと震えた。
「さっきからため息ばかりついて・・・最後の舞台だから緊張しているの?」
「私、ため息なんてついていたの?」

言われて初めて気付いた。
いつもと同じようにやれば大丈夫よ、といつの間にか集まってきた踊り子達に慰められる。

「それとも愛しの彼が見ているから緊張していたり?」
「あー、大いにありえるわねー」
「そ、そんなことは・・・!」
慌てて否定しても、
「照れない照れない」
からからと笑われ、薫は口をつぐむしかなかった。
笑われてはいるが、その笑みは今までとは違い、女友達をからかうような明るい笑いだ。
彼女達の笑顔を見て、薫の心が軽くなる。



「あの・・・今まで足を引っ張ってばかりでごめんなさい。お荷物だった私と踊ってくれてありがとう」
今まで言えなかったことがすんなりと口から出た。



踊り子達は一瞬目を丸くしたが、やがて特上の微笑を薫に贈った。
「こっちこそ、今まで意地悪してごめんね」
「シャニュイ子爵とお幸せに!」
金髪の少女から抱きしめられ、切れ長の瞳の女性から祝いの言葉を述べられ、不覚にも涙腺が緩む。
「私、あなた達と一緒に舞台に立てて、本当によかった・・・!」










お父様、先生、見ていますか?
これが、あなた達の愛したオペラ座です。










亡き父と姿を消した怪人が目の前にいたら、きっと誇りを持って言える自信があった。
「はいはい、泣くのは後よ。これから舞台なんだから」
零れ落ちそうになった涙を拭ってくれた少女が台本を薫に差し出した。
台本を受け取ってから瞳で問いかけると、


「あなたがいない間に一部変更になったの。最後の晴れ舞台なんだから頑張って!」
「晴れ舞台?」


いまいち要領を得ない薫に、彼女は台本を開いて指差した。
「ほら、ここ。最初は曲が終わったら二手に分かれて舞台袖にさがることになっているけど、最終小節だけあなたがソロで踊るのよ」
「私が・・・ソロ!?」
自分で言ってから改めて台本を凝視した。
      確かに最初の設定は線で消されており、新たな文章が書き加えられている。
「む、無理です!私よりもうまく踊れる人はたくさんいるのに・・・ッ」
縋るような薫を勇気付けるように、誰かの手が彼女の肩に置かれた。



「私たちからの餞(はなむけ)なの」
「え・・・?」



肩に置かれた手がより一層力強くなる。
「あなたはこの舞台が終わったら私達とは違う世界の人になってしまう・・・それでも今はまだオペラ座の団員だわ」
「それにあなたは前演出家の忘れ形見。オペラ座に貢献してくれた人の娘の最後の舞台が、ただの踊り子じゃお粗末でしょ?」
でも、と口を開いた薫を制するように踊り子達が続ける。
「あなたが信用できないのは無理ないわね」
「今まで私達、あなたに意地悪ばっかりしてきたからせめてもの罪滅ぼしをさせて?」

「そんな・・・そんなことありませんッ」
薫は鋭く遮った。

そして今が開演中だということを思い出し、幾分声を落として言葉を紡いだ。
「確かに色々あったけど、私達は仲間だわ。その仲間を私が疑うわけないじゃない」
彼女達をまっすぐに見つめて、薫は台本を胸に抱いた。
「ありがとう。あなた達のためにも、一生懸命踊るから」
最後の舞台に恥じぬよう      薫の決意のこもった瞳に、踊り子達は頷くことで応えた。
舞台に立っていた語り部の声が細くなる。
「行きましょう。準備はいいわね?」
一瞬照明が落とされる。
「薫、行って!!」
誰かの声を合図に、薫は舞台に飛び出した。
いつも自分が最後に出ることなど頭から消し飛んだ。










そして次の瞬間には思考そのものが真っ白になった。










再び舞台が明るくなり、流れる曲に乗ってステップを踏もうとして      自分がだまされたことを知った。










前項    次項



いやあぁぁ、どうしたらいいの!?←お前が慌ててどうする

最後の舞台で薫の危機ですッ
こんなときは落ち着いて机の引き出しを開けてこう叫ぶんだ!



「助けてドラ●も〜ん!!」



・・・すみません真面目にやります;
つーてもここであまり語ることはなかったり(をい)
強いて言うなら支配人のモデルは川路警視総監で副支配人は浦村署長、若い演出家は由太郎をイメージしてました。
出番もないのであまりイメージできませんがσ(^^)の中ではそうなのッ

サブイボはまた次回(゚∀゚)